第5話 蜘蛛の巣
コチは知らない声によって起こされた。コチが、目を覚ますとコチの体は動かなかった。小さな羽もぎゅっと何かに縛られているのか、体を横に引っ張っても、縦に動かそうとしても動かない。それどころか、動こうとすればするほど何かがコチの体をより強く締め付けた。コチの体にはネバネバと白い糸がまとわり付いている。
コチが目を覚ました場所は蜘蛛の巣の中だった。
その蜘蛛の巣は走る車が止めどなく流れる国道の中央分離帯に植えられたツツジにあった。蜘蛛の巣は、ツツジの上を這って緑の上に白い雲のように広がっていた。この場所の空気は最低。これでもかと息の臭い車が多く通れば無理もない。廃棄ガスが漂うこんな場所に植えられたツツジも住めば都と開き直り、春の身支度で蕾を付けている。ただ白い糸は車の通り風によって不機嫌に揺れていた。
「おーい。誰かいない?助けてくれよ。」
コチの声は虚しく車のエンジン音でかき消された。何度声をあげても声は空には届かず、無情に走り去る車は何度も現れてはコチの声を消し去った。車はコチのなげやりな予想よりも絶望なほどに多かった。
突然、コチを捕らえる糸がビンビンと波打つように揺れた。そして、糸を伝ってきた声がコチに届く。
「助ける?ここはわしが作った完璧な世界。わしは君をすでに助けている。」
声は糸を伝ってやって来るが相手の姿は見えなかった。声が全身を縛る糸に伝わりコチの体は逃げられないと訴える。
「あなたは救われたのよ。」
別の声が糸を伝ってやってきた。明るい声だがどこか空虚な音がした。
「救われた?」コチは辺りを見回すが誰の姿も見えなかった。気づいた事は白い糸が緑の葉の上をどこまでも広がり終わりが見えないという事だ。
コチは見えない相手にどう返事を送れば良いのか分からなかった。すると、再び白い糸が揺れコチに言葉を届けた。また違う声だった。
「ソトはキケンがいっぱい。」
「ここにいればダイジョウブ。」
違う二つの能天気な声は、合わしたかのようにリズム良く空虚な音を刻む。
「君は選ばれたのじゃ。君は導かれてここにきた。何も恐れる事はないのじゃよ。」
聞こえてきた声は、最初に届いた声だった。
コチは見えない相手を探すことを諦め、空に向かって口を開いた。
「どこの誰だか知らないけど、なんでもいいからここから出してくれよ。僕は帰りたいんだ。」
コチの声は、糸を伝わり、相手に届いたようだ。
「帰るだって?一体どこに?君の場所はここじゃ。君は、導かれてきたのじゃ?」
「帰るなんて言わないで。ここは安心よ。私たちと同じ、あなたは選ばれたのよ。」
「ソトはキケンがいっぱい。」
「ここにいればダイジョウブ」
コチの発信に一斉に返信が来た。コチは誰に向かって返信するべきか、すべてに返信すべきなのか。もうなんだかとても鬱陶しいシステムだ。コチはとりあえず最初に届いた声に応答することにした。
「導かれてきたってどういう事だよ?」
「それはな。おま・・」
「ソトはキケンがいっぱい。」
「ここにいればダイジョウブ。」
何?コチには最初の声が遮られて良く聞こえなかった。すると白い糸からプツンプツンと音がする。
「回線を変えてやった。これで邪魔も入るまい。どこまで話したかな?ああ。そうじゃ。そうじゃ。お前がここにきたって事は、お前にはきっと素晴らしい羽があるはずじゃ。そうだろ?」
「へー。あんたには、僕が見えるのか?」
「わしには、お前のすべてが見える。なぜだかわかるかね?わしはここの創造主だからじゃ。」
「よく分からないな。」
「わしはすべてを知っている。お前の運命もじゃ。」
「運命?」
「お前は導かれてここにきたのじゃ。何が導いたと思う?その羽じゃよ。選ばれた羽を持つ者じゃなければここにはたどり着けない。お前は幸運の羽の持ち主じゃ。」
声は高らかなにそう言った。コチは冷静に言葉を返す。
「いや。違うよ。僕をここに運んだのは、幸運の羽じゃない。君は何も見えちゃいない。僕は目の前を何度も通るアレに運ばれ、飛ばされ、ここにきたんだ。僕は幸運の羽など持ち合わせちゃいない。どうやら間違ってここに落ちたらしい。」
しばしの沈黙の後、糸からさっきよりもボソッと小さな声が聞こえて来る。
「お前は、幸運の車によってここに来たのじゃ。」
「もういいよ。ここから早く出してくれ。」
コチに絡まる糸からプツン、プツンと音が聞こえる。回線がまた変わった。
突然、コチの背後からサササッと物音がした。白い糸で固められたコチは、振り向く事は出来ない。何かはコチをじっと観察して「はああ。やっぱりか。」とため息をつき、ぴょんと再び奥へと消えていった。背後に現れ、そして消えたその気配はコチの不安を大きく揺さぶった。身動きが取れない恐怖。相手の姿が見えない恐怖。この二つの恐怖だけで、恐怖は繁殖するかのように、次々と新たな架空の恐怖を造りあげる。コチは何かにすがるように声をあげる。
「おーい。声よ。どこ行った?」
返答はない。
「おーい。」
沈黙が秒針を数えるようにコチを見つめる。応答のない時間は、コチの心に不安が大雪のように降り積もっていく。それがだんだんコチの心を真白く埋め尽くす。
「おーい…」
さらさらと降り積もる沈黙がコチを覆う。
「おーい。」
呼吸が苦しくなる。
「誰か…」
その時声が届く。
「わしを。呼んだかね?」
コチは必死に声を追いかけた。
「なんだ。突然いなくなってしまったから心配したよ。」
コチの声は安堵に満ち溢れていた。声の主はその声を聞いて、ほくそ笑む。
「何も心配する事はない。君は、白い糸で結ばれている。その白い糸は、君を幸せに導く幸運の糸。その糸を決して離さなければ君は報われる。」
「この白い糸のせいで動く事が出来ないのに?」
「わしの声に従いなさい。今にその白い糸が君を包んで、太陽さえ君を見つける事が出来なくなる。そうすれば、チュンチュンとうるさい小鳥だって君を探せない。君は恐怖から解放されるのだ。君は、私の作る完璧な世界の居住者だ。」
コチの耳から頭にすんなり向かって、声が鳴り響く。もがけばもがくほどコチの体を強く縛る白い糸は、コチの思考力も奪っていく。何が正しくて何が間違っているのか。考えるのも億劫になる。気持ちが上がってこない。重い塊のような沈んだ気持ちがコチを地底深くに引っ張るようだ。やたらと太陽が遠くに見える。
「ここにいれば。忌々しい太陽の視線から逃げる事はないもんな。」
コチは、暗く沈んだ景色の中で、手っ取り早い希望を見つけようとしていた。
「そうじゃ。ここは、不安も恐怖も悲しみもない世界。ここにいれば大丈夫じゃ。」
「そっか。ここが僕の居場所だったのか。どおりでどこに行っても見つからないわけだ。」
コチの空が霞んでいく。
「ここなら悲鳴も聞こえない。」
コチの体から力がすっと抜けた。
そして、小さな蜘蛛はニヤリと笑い、お尻から白い糸を伸ばした。
霞んだ青空がもうすぐ灰色に変わろうとしていたその時、コチは懐かしい春の日差しみたいな、そんな笑い声を聞いた。
コチが見上げた空には太陽の光を背に黒い影が羽を翻し宙を舞っている。
それは一匹の蝶。ホリデイだった。
「どこに行ったかと思えば、お前、こんな所にいたのかよ。」
さっきコチを追い出した白い蝶が腹を抱えて笑っている。
「お前・・。なんで笑ってる?」
コチはこの状況で笑っているホリデイに腹が立った。
「おい、お前。笑うな!」
コチは叫んだ。でも、ホリデイは笑い続けた。
コチが少し恥ずかしくなって見上げた空は、いつの間にかいつもの青に戻っていた。
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