第8話 シワ帽子
「 コチ?」
自転車を漕ぐ年老いた人間の帽子の上で、二匹はヘトヘトに疲れきった重い羽を休ませていた。
あれからホリデイたちは、蜘蛛の巣を壊滅させたあの鳥に結局見つかったのだった。コチ以上にホリデイは疲れていただろう。鳥は執拗にホリデイばかりを追いかけた。目立つ羽は大変らしい。コチは木の上の木陰に上手に隠れたが、木陰でホリデイはすぐに見つかった。でも、ほっとした表情で木陰に隠れるコチの元にホリデイが必死の形相で隠れにくるので結局2匹でその鳥に追われた。
自転車を漕ぐ人間の頭に飛び込もうと言ったのはホリデイだった。ホリデイは、鳥が滅多な事がなければ人間に近づいてこないという事を知っていた。そして、「いた。シワ帽子だ。」と言ってホリデイはその帽子に飛び込んだ。コチも必死にその帽子に飛びこんだ。
ようやく羽を休める事が出来たコチは、そこでずっと気になっていた事をホリデイに聞いた。
ホリデイは何度も羽を開いたり閉じたり動かして、かじられた痕がないか確かめながら、それに答えた。
「コチって言うんだろ?お前の名前。」
「僕の名前?」
「あの木が、あー、じーさんか。じーさんが言ってたんだよ。お前の名前はコチだって。」
「コチ・・」
「なんだ。驚いた顔をして。お前だって、じーさんって呼んでいるんだ。じーさんだってお前の名前を呼びたいだろ?あ、そうそう。俺の名前。ホリデイね。ちゃんと呼べよ。」
カタカタと揺れる。自転車の走るスピードは、心地良い風を作った。
「あーあ。まだ。あんなところで太陽がご機嫌に笑っているよ。こっちはもうヘトヘトだ。今日は何て長い日なんだ。これもコチに会っちまったせいだな?」
ホリデイは笑いながらそう言った。コチには太陽が笑っている顔が分からない。だから、ホリデイの笑う顔を太陽に重ねてみた。これなら、忌々しい太陽もどこか悪い気はしなかった。コチはホリデイの笑う顔を見ながら、ふと思った。
「あー。本当に今日は疲れたよ。僕は独りでずっと隠れていたのにホリデイが見つけたからいけないんだ。」
気づかないうちにコチも笑っていた。太陽の下でこんなに笑うのは、初めてかもしれない。
「この世界で独りでいるなんてなかなか出来やしない。ほら。見ろよ。」
そう言うと、ホリデイは地面で二匹を追いかける二つの影を顔で指した。
「文句言うなら、笑っているあの太陽に言ってくれ。やけにしつこく付いてくるだろ。」
ホリデイは、コチの笑う横顔をチラっと見た。
「ご機嫌だな。」
「ん?なんか言った?」
「疲れたなー。」
「ホントに。なあ。ホリデイ。この帽子は一体どこに僕たちを運ぶ気だい?」
「そんな事、気にする事ない。俺たちがどこに行くかは、この羽次第さ。俺たちはあの蜘蛛から自由の羽を手に入れたんだから。」
本気で言っているのか。ホリデイは笑って言うからいつもわからない。コチはホリデイの美しさを少しだけ知ったような気がした。蜘蛛のおじさんは知らない美しさを。
「そういう事でそろそろ戻るか?」
「えっ?どこに?」
「決まっているだろ。じーさんの所さ。」
それから、毎朝、ホリデイは、ジイさんの所にやってきた。眠ろうとしているコチはいつもホリデイの笑い声で起こされた。ホリデイは朝の光とともにやってきて、コチを太陽のいる世界に誘う。
「俺たちは、自由の羽を持っているんだぞ。」
と、そう言って、ホリデイは嫌がるコチを無理やり連れ出した。
「僕の自由はどこにあるんだよ?」
と、そう言って、コチは、しぶしぶ太陽の下をホリデイと一緒に飛んでいく。
ホリデイは陽だまりを飛び。コチはなるべく日陰を飛んだ。
ある日の公園には、ずいぶんと人間がうじゃうじゃといた。大きい人間と小さい人間。今日はどこかの休日らしい。コチとホリデイが、2匹で公園を飛んでいると、突如、網を持った小さな人間がホリデイを捕まえようとホリデイを追いかけ回した。
「人気者は大変だな。」
それを見てコチが笑っていると、ホリデイに逃げられた小さな人間が向きを変え、次にコチを追いかけ回す。
「チョウチョ。チョウチョ。」
無邪気に追いかける小さな人間は、虫取り網を投げつけるように何度も振りかざした。必死に逃げるコチを見て今度は、ホリデイが笑っていた。
「おい。バカ。やめろ。僕は、蝶なんかじゃない。」
そして、振りかざした網がようやくコチを捕らえた。
「えっ。まずいじゃん。」
ホリデイは絶句した。
嬉しそうに、網をそーっと覗き込む小さな人間の背後に、慌てて舞い降りたホリデイはそれを固唾を飲んで一緒に覗き込んだがよく見えない。小さい人間は、誇らしげに近くで談笑している大きい人間の一人を呼ぶ。大きな人間は話に夢中でなかなか来なかった。なかなか来ない大きな人間にしびれを切らした小さな人間は網から離れ、走って大きな人間を呼びに行く。
ホリデイが地面に置かれた虫取り網の中を覗くと網の中で必死にもがくコチがいた。どうやらまだ動いている。
「お前。よく捕まるな。」
コチと目があったホリデイは戯けた顔で言った。
「そんな事言ってないで早く助けろよ。」
コチは懇願するようにホリデイに言った。
「待ってろよ。今、考えてる。」
すると、小さな人間が大きな人間を連れて戻ってきた。小さな人間は大きな人間に網の中を見るようにと急かした。それを見ると大きな人間は言葉を失っていた。反応の悪い大きな人間を見返そうと、小さな人間が網の中に手を突っ込みコチに触れようとする。その瞬間、大きい人間は、悲鳴をあげてそれを阻止した。そして、大きい人間は、虫取り網を小さな人間から取り上げ、それを振り回し、コチを自由の空に解放したのだった。
外に放り出されたコチ。生きているかとうっすら開けた目の前には、驚いた顔のホリデイがいた。
「お前。どうやったんだよ。」
「何が何だか。」
下から泣き声が聞こえた。
小さな人間が泣いていた。
「チョウチョ・・・。」
小さな人間を嗜めるように、膝を曲げた大きな人間は何かを伝えた。小さな人間は泣き止まない。コチには、人間の言葉がわからないが、泣いている理由は分かる気がした。コチにだって小さな幼虫の時代があったから。きっと、あの子は、まだ子供なんだ。区別のつかない小さな幼虫なんだ。
「なあ、コチ。お前。もの凄い力を持っているんじゃないか?」
ホリデイが、真面目な顔をしてコチに聞いた。
「なんだよ。それ?」
「だって、あんなに大きな人間がお前にビビっていたぞ。俺に隠している力があるんじゃないか?魔法とかさ?」
コチは、ホリデイの真面目な顔がなんだか可笑しかった。
「そうさ。黙っていたけどな。」
「ハァ!ハ!ハ!ハ、ハ、ハ!」とコチは、大魔王が降臨したかのような笑い声で演技してみせた。
「お前。演技下手だな。」
「ハ!ハ!ハ!ハ!」コチは続けた。
「しつこいな。」
ホリデイは、冷めきった顔でコチを見て、それからいつものように笑い出した。
あの小さな人間もホリデイもバカな奴だ。
きっとホリデイは、小さい頃から、何も変わっていないのかもしれない。いや。それはいくら何でも失礼だ。
「あれ、なんだ?」
太陽の下、公園には、不思議なモノが飛んでいた。まんまるで透明で、キラリキラリと風に流され、ふわふわと飛んでいる。
「見ろよ。コチ。虹が閉じ込められているよ。」
ホリデイは、小さな人間の作ったシャボン玉を見て興奮しながらコチに言った。
「どこに虹があるんだよ。」
「虹を捕まえよう。」
ホリデイは、無数に空をのぼっていくシャボン玉を追いかけた。そして、ホリデイがシャボン玉に触れた瞬間、シャボン玉はパシャンと泡となって弾けた。気づけばホリデイとコチは一面のシャボン玉に囲まれた。キラキラと浮かぶシャボン玉、空の青も漂う白も公園の緑もはしゃぐ子供たちもキラキラと映し煌めいている。コチの知らない不思議な光景。楽しげに笑うホリデイの声。美しい太陽の世界だ。
ホリデイは、まだ、懲りずにシャボン玉を笑いながら追いかける。追いかけているのか、遊んでいるのか、シャボン玉を割る度、水しぶきを浴びながら「ひょー」っと奇声をあげた。
「コチもやってみろよ。」
「虹はどこだよ?」とコチは、そっとシャボン玉に触れる。パシャン。
結局、2匹は笑いながらシャボン玉を夢中で追いかけた。
シャボン臭い2匹は、公園のベンチに座る年老いた人間の帽子の上で、濡れた体を乾かしながら、空に浮かんでいくシャボン玉を眺めていた。
「コチ。虹を捕まえられなかったな。」
「捕まえる気があったのかよ?」
「なあ。コチは虹を見たことがある?」
「この前。水たまりに閉じ込められていたよ。あいつはいつも閉じ込められているみたいだな。」
「閉じ込められていない虹だよ。」
ホリデイは得意げにそう言った。
「そんな虹があるのかよ。」
コチが見る虹は、いつも閉じ込められている。今日だってそうだ。閉じ込められているくせに、触れればすぐに壊れてしまった。
「俺は、見たことがあるんだよ。俺が、まだ、子供の頃だ。」
ホリデイは、今も子供だろ。コチは、聞き返そうかと思ったがやめた。きっと、葉っぱを食べていた頃の話だろう。
ホリデイは興奮して身振り手振りで一所懸命にその虹の大きさを表わそうとした。ホリデイの興奮した様子とは反対に帽子の下のお年寄りが大きなあくびをして、立ち上がり歩き出す。揺れる帽子の上でもホリデイは変わらず話を続けた。
「世界は美しいんだ。」
コチは、揺れる帽子の上でバランスをとりながらホリデイの話を聞いた。
「虹なんて、ただの光の反射だろ?」
コチはホリデイのふざけた話をふざけた様子で答えた。
「バカだな。虹を見た事ない奴が、虹を語るなよ。」
ホリデイは、コチのふざけた話をふざけた様子で答えた。ホリデイはきっとまだ、その虹のある世界を探しているんだろう。
二人の子供が、老人の帽子を指差している。老人は、上を見上げ、帽子に手を差し伸べた。2匹は慌てて、シワ帽子から飛び立った。
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