第14話 大脱出2

 うるさい音で目がさめた。 

 窓の外が明るい。 

 いつの間にか窓に張り付いたままコチは眠ってしまったらしい。窓の外には人間の住処が広がっていた。こうやってみるとほとんど人間の住処だった。コチが窓から見える景色を眺めているとコチの瞳に知っている何かが映った。音、ドクンと胸が騒ぐ。 

 「…嘘だろ?」 

 コチが愕然とその光景を見ていると窓ガラスにゆっくり近づいてくる人間の顔が映った。気づくと人間は先ほど届いた朝刊を丸めて作った武器を振り上げていた。まだ読んでいない朝刊だと一瞬躊躇したのかその隙をコチは見逃さなかった。ここで、死ぬわけにはいかない。早くここから出ないとあいつがあの場所で暴れている。

 ドン! 

 鈍い音が部屋中に響き渡る。窓ガラスが震えていた。恐る恐る人間が丸めた朝刊の先を覗いた。人間がふり下げた朝刊は、また、空振りだった。 再び、ポンタの檻に逃げてきたコチ。動いたコチを見て、寝起きのポンタは慄いた。 

 「また、お前か、いい加減にしろ。」

 ポンタは昨夜と変わりすぐに落ち着きを取り戻した。ポンタにとってみれば一晩中話をした仲だった。こちらが何もしなければコチは何もしてこないということをようやく理解したのだ。 

 コチは再び窓へ向かうか躊躇する。まだ、人間は窓の近くでコチを探している。もう一度外を見たい。 

 砂けむりの間から止まった時計が見えた。コチは悪いイメージを払拭しようと首を振る。 

 違う違う。

 あそこはあの場所なんかじゃない。 

 ガガガ、と破壊音がガラス窓を貫き部屋に響き渡る。あの眠っていた大きな機械が目覚めあそこで暴れている音。ショベルカーが大きな手を振り下ろす。コチは再び首を振る。窓の下、ソファで朝刊を読む人間。コチは「早くどっかに行け!」と言葉を漏らした。    

 「え?」 

ポンタが怪訝そうに顔を歪めてコチを見た。

  「お前。なんか言ったか?」

 言葉が聞こえるのか?コチは駄目元でポンタに言った。

 「ポンタ、この音はなんだよ!」

 ポンタは口をあんぐり開けて口からビスケットをポトリと落とした。 

「しゃべった。」 

 ポンタはあたりを見回すがそこにはコチしかいなかった。 

 「おい。聞いてるのか?」

 コチの苛立った声にポンタの体がビクリと動く。

 「え、ああ。こちらのテレビの音の事ですか?」 

 ポンタはテレビを指差しながらコチに言った。 

 「違う、違う。外から聞こえる音だよ。」 

 ポンタの体がもう一度ビクリと動く。 「ああ、外ですね。」っとポンタは頷きコチに恐る恐る教えた。 

 「あれは工事の音だと思います。」

 「工事ってなんだよ?」 

 コチはすぐに聞き返した。ポンタは一瞬何かを考えて咳払いした。 

 「ねえ。それよりも君さ。喋れるの?」  

 「いいから答えろよ。工事ってなんだよ。」

  コチ勢いにポンタの耳がピンと逆立つ。  

 「工事って、何かを壊したり、作ったりする事です。そんな事も知らないのかよ。」 

 ポンタは少しだけ刃向かってみた。

 「なんでだよ!」 

 「なんで?そんな事を僕が知るわけがないだろ?ここ数日、朝から夕方までずっとこの音さ。おかげでテレビの音が聞こえないのよ。嫌になっちまうだろ?」 

 ポンタがちらりとコチを覗くとコチのとんでもない落ち込みようにびっくりした。

 「どした?お前もテレビ観たかった?」 コチはポンタの言葉に何も反応しなかった。ポンタはどう慰めて良いのかわからないでいた。

 「なあ、元気出せよ。僕のビスケットほんのちょっとなら分けてあげるぞ。」 

 ポンタはビスケットを削りカスほどに小さく割ってコチに差し出した。コチは反応しなかった。

 今、コチの頭の中でグワングワンと轟音が鳴り響いていた。そして、轟音と砂煙りの中を必死に耐える花の顔が頭をよぎる。 

 花は、「ここには誰もこない」と言った。来るのは人間だけだと笑って言った。 

 「あんな所に誰が来るんだよ。」 

 コチは、何度も自分を責めた。どうして、あの化け物が、もう動かないなんて思ったのか。他の誰かがきっとあの花を見つけてくれるなんて思ったのか。太陽のせいにしてただ逃げていた。自分が傷つかないように。それは、全部、自分の為だった。臆病な自分の為だった。

 「なあ。食べないのかい?僕、全部食べちゃうよ。」 

 ポンタは、すでにビスケットを平らげていた。最初から、自分だけで食べる気だったのだろう。  

 今、コチはポンタを見つめる。

 そして、頼りないポンタに必死に伝えた。 

 「ポンタ。助けてくれ。」 

 

 ポンタは戸惑った表情で首をかしげる。 コチはポンタに工事現場で咲く花の話をした。恥ずかしくたって、自分がカッコ悪く見えようとも、なんとか伝わってほしいと正直に自分の思いを話した。だから、ここから出る方法を教えて欲しいとポンタに必死に頼んだ。冷静に考えればポンタに花の話をした所で「だから?」と聞き返される事などすぐに想像できたはずだろう。

 でも、ポンタは、その花の話を泣きながら聞いていた。 

 ポンタは涙を拭いて、コチに教えてくれた。ここに住む人間の「みっちゃん」と呼ばれる人物がひどい花粉症でこの時期なかなか窓を開けないという。そんな中、この家に侵入してしまったのだからコチはひどく運が悪いらしい。 

 「あの日はもう一人の「ひー君」がとても臭いオナラをしたもんだから仕方なく窓を開けたんだ。そしたら君が入ってきたからめちゃくちゃ「みっちゃん」は怒っていたよ。「みっちゃん」は何よりも虫が嫌いなんだよ。」 

 ポンタはコチに少し気を使ったのか「僕はあそこまで嫌いじゃないよ。」と補足した。 

 「玄関まで行ければいいが、そこに行くまでにまだ扉があって、几帳面な奥さんは、必ずその扉を締めるんだ。「ひー君」がいれば開けっ放しにして「みっちゃん」にいつも怒られているから、チャンスがあったんだけどな。「ヒー君」はもう仕事に出かけたよ。使えない奴だよな。」 

 ポンタは、なんとか、コチを外に出そうと考えてくれた。なかなかいい奴なのかもしれない。とコチが考えているとポンタがコチに言った。 

 「きっとその花はまたコチに会ったら喜ぶだろうな。」  

 コチが黙っていると奥からガチャっと音が聞こえた。外出していたみっちゃんが、帰ってきたらしい。みっちゃんは部屋に入るとバタンと扉を閉めて、買い物袋をテーブルの上に置いた。

 「ほらね。」ポンタは悔しい顔をした。でもすぐに何かを思い出したように表情を変えた。ポンタは、テーブルの上に置かれた袋をまじまじと見る。ポンタはその袋の中にビスケットがあるか確認するのが楽しみな日課だった。ポンタがビスケットではない何かを発見した。 

 「おい。コチやったぞ。あれ見ろよ。やっぱりみっちゃんは本当にお前が嫌いなんだ。」 

 買い物の袋の中出てきたのは、テレビコマーシャルで見たあの殺虫剤だった。

 「おい。嘘だろ。死んじまうじゃねえか。」 

 慌てるコチをポンタが落ち着かせる。   

 「落ち着けよ。」 

 「裏切り者!」

 「だから、落ち着けって。これはチャンスなんだ。」 

  ポンタはコチを落ち着かせ、脱出作戦をコチに聞かせた。 

 人間が買ってきた殺虫剤は、部屋全体を毒の煙で覆い、その部屋にいる全ての虫を殺してしまうものだった。聞いているだけでコチは恐ろしくなったが、その煙は、もちろんポンタの健康にもよろしくないから、その煙が発射される時、ポンタの檻はきっとベランダの外に出される。だから、このまま檻の中で隠れていればコチは外に出られるんだと言った。

 「間違いない?」 

 コチは不安そうにポンタに言った。ポンタは自信に満ちた表情で頷いた。この殺虫剤は以前もこの部屋に撒かれたから間違いないとポンタは言った。以前もその毒ガスがこの部屋で撒かれたと思うとコチは背筋が凍る思いだったがコチはポンタのこの作戦を信じてみようと思った。

 「いつアレは部屋に撒かれるんだ?」

 コチはまだ不安そうにポンタに聞いた。 「すぐさ。それだけコチは嫌われているんだ。」 

 嬉しそうにそう言うポンタに悪気はないのだろうが、コチは複雑な気分だった。 

 「ほら、みろ。始まったぞ。いよいよ作戦開始だ。」 

 ポンタは張り切って言った。テレビの見過ぎだ。 みっちゃんはポンタの言った通り、早々に殺虫剤の準備に取りかかった。嫌われ者も時には役に立つとコチは思った。みっちゃんの準備は着々と進められ、慣れた手つきで外に出すもの封をするものと仕分けられ部屋は完全に締められた。隙間ひとつない。そして、思いがけないことが起こった。みっちゃんは、ポンタを部屋に残したまま、殺虫剤の煙を噴射しそのまま外に出たのだ。 「嘘だろ?」ポンタは、蒸気をあげる殺虫剤の煙を見ながら呆然としていた。 

 「おい!お前の作戦、どうなっているんだよ。おーい!」 

 焦るコチは、煙を見ながら叫んでいる。「こんな所で死ねないんだよ。」 

 呆然と煙を見つめるポンタの耳に叫ぶコチの声が届く。やっと現実を見つめたポンタは必死で何かを考えていた。そしてコチに言った。

 「僕に掴まれ。」 

 コチは急いでポンタの胸の中に飛び込んだ。ポンタは以前、脱走した日の事を思い出したのだ。 

 「すぐ出してやるからな。」 

 檻の天井は空いている。ポンタを狂ったように檻の中を何度も飛び上がった。左右に揺れる檻はバランスを崩し、鈍い音をたてて横に倒れた。ポンタはコチを抱き寄せ、檻の中から飛び出した。そして、隣の部屋に行くための締め切られた引き戸を必死の思いで引っ掻く。

 「チクショー。僕の事を忘れやがって。」 

 ポンタは泣きながら、引き戸を引っ掻いた。

 「コチ。しっかりしろよ。大丈夫だからな。」 

 ポンタに掻き毟られた引き戸の隙間があいた。ポンタはその狭い隙間に顔を無理やりねじ込ませ、隣の部屋に入りこむ。煙はもくもくと隣の部屋まで入ってきた。

 「花粉は大丈夫?」鼻をかむみっちゃんがポンタの頭をよぎる。ベランダのドアが開いていたのだ。

 「おいコチ。見ろ。開いているぞ。ほら、行け。」

 「よし!きた。」 

 コチは、開いた窓の隙間に飛び込んだ。 そして、弾かれた。網戸だ。 コチは何度も窓の外に出ようと試みたが、網戸の網に弾かれた。

 「コチ。任せておけ。僕のビスケットで鍛えた前歯がある。」 

 隣の部屋から、もくもくとターゲットを追って煙が入ってくる。そんな中、ポンタは必死に網戸をかじってくれた。それも脱走を企てたあの日以来だ。脱走を企てたあの日、あの時は、みっちゃんから小便ちびるほど叱られたらしい。「でも、大丈夫だ。」というポンタの目が少し怯えていた。やっと網戸が切れた。 

 「ほら、行けよ。」 

 ポンタとのサヨナラがふらりとやってきた。ガチャンと大きな音がした。人間が急いで戻ってきたようだ。

 「やっぱりね。僕が忘れられるはずがないんだ。」 

 安堵の顔を浮かべるポンタは破れた網戸を見て再び顔が引きつった。きっとまたみっちゃんに怒られるのだろう。みっちゃんが奥からやってくる。コチは言葉を探していた。ポンタは言った。 

 「早く行けよ。みっちゃんに見つかるぞ。」 

 「ありがとう。」 

 コチは、恥じらいもなく感謝を伝えた。  

 「やっとコチがいなくなって、部屋も広く使えるよ。」 

 「僕はそんな場所とっていたつもりはないけどな。」 

 「いいか。飛んで行ったら絶対こっちを振り返るな。そして、また会いに何か戻ってくるなよ。」

 「誰がこんな地獄に戻ってくるか。」 

 どいつもこいつも正直ものだ。虚勢がよく目立つ。コチはもう一度ポンタの胸に飛び込もうと考えたがやめた。人間の観るテレビドラマじゃあるまいし。ダサい。ダサい。 「なあ。コチ。僕らは友達かな?」 飛び立とうとするコチを引き止めるようにポンタが言った。ポンタはコチの真剣な話をしっかり受け止めてくれた。言わなくてもわかるもんだ。 

 「だったら、別れがきっと寂しいはずさ。」   

 みっちゃんが走ってこっちに来る。「ごめんね」と言いながら、ポンタを拾い上げる。拾い上げたうさぎの胸から一匹の蛾が空に飛び立った事を人間は知らない。ポンタは、人間の腕の隙間から空を見上げていた。うさぎの赤い目が今日やけに赤いのは、きっと煙のせいだろう。 

 「ポンタ!」 人間のヒステリックな声がする。きっと引きちぎられた網戸がバレたんだ。コチは振り返る事なく空に向かった。コチだって煙が目に入ったんだ。広い空。大嫌いなあの太陽がやけに懐かしく思えた。   

 パタパタパタと不器用に空をジグザクに進むコチ。不恰好であるがこれがコチの全速力だ。 

 「じゃあ。コチだけがあの場所に花が咲いている事を知っているんだね?」 

 もうポンタの言葉が蘇った。 

 「そうなんだ。それをね、ずっと気付かないふりをしていたんだよ。」

 砂煙はすぐに、飛ぶコチのところにまでやってきた。何かがぶつかり崩れる音が聞こえる。無表情の怪物が周りを気にせず轟音を立ててる。それは容赦なく建物を破壊していく。高い壁に囲まれたそこでは、その下がどうなっているのか分からない。重いコンクリートがその下に崩れ落ちる。もう少しだ。コチが何かに気が付き、空を見上げると太陽がいた。

 「お日様は、そばにいてくれるから。」 花の声が蘇る。 

 「そうだよな。」 

 太陽も知っていた。あそこに小さな花が咲いている事を。太陽の眼差しを砂煙が邪魔をする。あんなに大嫌いだった太陽。コチはボソッと呟いた。 「お前はずっとそばにいたんだな」


 それは急に訪れた。


 「あれ?」とコチの羽が突然、動きが鈍くなった。苦しい。そして、あの恐ろしいコマーシャルがコミカルにコチに笑いかける。ポンタが必死にこじ開けた扉の隙間から、仕事に熱心な殺虫剤がコチの羽を追いかけていたのだ。コチの体はしびれ、枯葉のようにひらひらと地面に落ちていく。

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