第10話 月の夜
それから、コチは青空の下を飛ぶことはなかった。通行手形はなくなった。もう自分を騙す事は出来なさそうだ。いつもの朝にホリデイがやってきてジイさんの木の上でふざける事はあってもしつこいホリデイの誘いに乗る事はなく、ホリデイは結局ひとりで、しぶしぶ青空の下を飛んだ。太陽が昇り、降りるまで、コチは、ジイさんの木の上で、なるべく太陽の移動に合わせて、日の当たらない影に移動した。
小鳥の歌に耳を澄ませた。
とても遠い世界になった。
コチと太陽の世界をつなぐのはホリデイとジイさんの優しい声だけ。
ただ、ひたすら太陽が消える時間を待った。でも、なぜだろう。沈む真っ赤な太陽を見ても、世界の始まりはやってこなかった。
ただ、暗い夜が来るだけだ。
暗い夜。いつもの夜だった。いつの間にか、月が夜空に浮かんでいた。いつも気づかないうちに、空に月がいる。夜には、月以外の光が溢れ返っているから、昼も夜も結局、月は、目立たない。そんな月を、冷やかすように見上げると、見上げた夜空に一匹の蝶が飛んでいた。 「はあん。いたいた。」 全く暗い夜に似つかわしくない奴だ。だって、月明かりがやたら眩しく見えるから。 「なあ、コチの言う月の世界を案内しろよ。まぁ期待してないけどな。」 ホリデイは、太陽の光のような笑顔を、夜に浮かべた。 ホリデイが初めて、夜に現れた。月明かりに浮かぶホリデイの羽はやっぱり綺麗だった。本当に月がさっきよりも輝いて見える。 「いきなりやって来るなよ。普段見ない間抜け面が、急に現れたら、臆病な月がびっくりするだろ。」 コチはいつものように、心の中に生まれた感情をひっくり返して、ホリデイに言葉をぶつける。 「お前な。いつなったら俺を誘ってくれるんだ?日が暮れちまっただろ。あーやだやだ。こっちから来ちまった。」 ホリデイは笑って言った。 コチは再び感情をひょいっとひっくり返して悪態をつく。 「勝手に来るなよ!夜は寝るんだろ?」 「寝ようと思ったんだけどな。寝る前に、コチの顔を思い出したら笑いが止まらなくて寝れないんだ。最近、お前の顔を見る時間が少ないから免疫が足りないんだよ。だから、来ちゃったよ」 笑う2匹の間に風が通る。心地よい風だ。コチはこんな優しい風を感じた事はない。それは、月の世界の仕業?いや違う。それは、結局、後になって気づく。大事な事はいつも後になってやってくる。 「コチの大好きな所に連れて行ってくれよ」 ホリデイは言った。でも、コチは、困ってしまった。いつも太陽の世界の悪口をホリデイに言う癖に、月の世界で、ホリデイに自慢できるような場所が全く浮かんでこなかった。不味い事になった。これじゃ恥をかく。青白い顔をしたコチは、仕方なくホリデイを背に、当てもない夜空に飛び出した。
「まだ着かないのかよ。」 ホリデイの言葉でますますコチは焦る。 「もうすぐさ。慌てるなって。」 自慢できる場所、恥をかかない場所、考えれば考えるほど、渦のようにくるくる回って落ちていく。そして、次第に頭が真っ白になる。 「なあ。コチ。あれなんだ?」 えっ?とコチは辺りを見回した。闇にぼんやり光る自動販売機があった。不味い。いつの間にか、ここに来ていた。 「なぁ、コチ」 古い自動販売機には、あまり見た事のないパッケージの飲み物が光に浮かび、その光に無数の小さな影が集まっている。 ダメだ。ここにホリデイを連れて行ってはいけない。こんな所をホリデイに見られては、恥ずかしい。コチは、何も聞いていないとばかりに、羽を動かす。気付かれない程度に飛ぶ速度を上げた。ただ、早く通り過ぎたいと思う反面、この場所を避けている事をホリデイに気付かれてはいけないのだ。 「なぁ、コチ。あんなに集まって一体何やってるんだ?」 コチはまだホリデイの声が聞こえないふりをしている。 無言で飛ぶコチに対して、ホリデイが話しかける。 「おい。コチ。あそこに行ってみようぜ」 すると、突然にホリデイが自動販売機の方に向かって飛んでいく。 「嘘でしょ」 コチは歪んだ顔で離れていくホリデイの背中を見つめた。 「おーい。何やってるのー?」 意気揚々と飛んでいくホリデイ。 コチは、しぶしぶホリデイの後を追いかけた。 自動販売機の上、眩しい光の中、無数の小さな影が浮かぶ。激しい光に包まれたものは視界を失い、月の存在も消し去った。 ホリデイは、キョロキョロと見回し、どこを向いていいかを眩しい光の中で探していた。誰が誰だかわからない。 ここでは、真実かどうか知らないが、たくさんの話題が上がる。面白い話題や、危険な話題。それぞれが持ち集めた話題で、素性を明かさないものたちが、あーだの。こーだの。つぶやくのだ。今、話題を集めているのは、蜘蛛の巣に捕まった蛾を蝶が助けた話だった。 「勇気ある行動だ。」 「嘘くさい。気取り屋の蝶がそんな事するわけがない。」 「そもそも鳥が、突っ込んでうまい事蜘蛛の巣を破壊して、逃げる事ができるなんて、そんな話はきっと作り話さ。」 「子供が真似をしたらどうするの?」 ホリデイは、隣のコチの耳元で囁いた。 「なあ、これ。俺たちの話じゃないか?」 コチは、聞こえてないふりをした。きっとホリデイはこの場所が嫌いだろう。しかも自分たちの話を、見てもいないものたちがあれやこれや評価する。なんのために?自分の大事にしていた記憶を次々に汚い色で勝手に上からなぞられているそんな気分だ。 「僕、ここによく来ています。」なんてホリデイに言えるわけがない。 こんな所で時間を潰しているなんて知られたくはない事だった。このまま、不愉快に時間が過ぎる様子をホリデイはどう思っているのだろう。「さあ、もう行こうぜ」というべきか?いやどこに行く?「もっと楽しい所があるんだよ。」どこにある?異様な時間はゆっくりと過ぎていく。この不毛な時間を壊したのは、一匹のカエルの出現だった。
「いやー。どうも、どうも。また、こんなに集まってるね。」 カエルは、軽快なジャンプで自動販売機をよじ登る。カエルの出現により、自動販売機の上は、もの凄い騒ぎ。さっきまで、あれやこれや、正義を論じていた者が我先にと、そこにいる者をはね退け真っ先に逃げていく。騒々しい現場で、カエルは呑気に月を見上げて喉を膨らます。 「いい調子だ。」 カエルは、ペロっと舌を出し、目の前で逃げ惑う横切った小さな虫を反射的に舌で捕まえ口に運ぶ。そして、口に入った小さな虫を自分の目の前にぺっと吐き出した。 「ほら、聴けよ」 吐き出された虫は、唾液でベトベトになった体で、放心状態のまま、目の前のカエルを見上げていた。 「おい、早く逃げようぜ。」 そんな光景を見て、慌てるホリデイをよそにコチは、落ち着いていた。 「大丈夫。あのカエルは襲ってきたりしないよ。」 ホリデイは、ベトベトの羽虫とコチを交互に見つめ困惑した様子だ。 「襲わないって?、じゃあ、あのカエルは何しに来たんだよ。」 コチは、いつも飄々としているホリデイの少し不安な顔を見て、ちょっと嬉しくなった。 「歌うのさ。」 ホリデイの困惑は続く。 「はあ?」 コチは嬉しそうにホリデイに言った。 「まあ、聴いてみろって。でも、あんまり近づいちゃダメだぞ。あいつみたいにずぶ濡れにされちまうからな。」 なんだか嬉しそうなコチを横目に、ホリデイは、ずぶ濡れの羽虫とカエルを交互に見つめた。 コチの言う通り、カエルは歌い出した。逃げ惑う虫の混乱した自動販売機のステージでカエルは気持ちよく歌っていた。この歌は歌ではないという奴は多いが、コチは、カエルの歌が好きだった。 カエルの歌が終わる頃、あれだけ多く群がっていた虫たちだったが残ったのは数匹だった。カエルの目の前でベトベトだったあいつの羽は乾いただろうが、怖くて、抜け出せなかったに違いない。他の奴らは、なんで残っていたのだろう? 「いい歌だったな?」 ホリデイが静かに口を開いた。 「なかなかだろ?」 コチは、嬉しくなった。自分が好きなものを褒められるというのは悪くない気分だ。それが、ホリデイならなおさらだった。 満足気なカエルが去った後、これ以上自動販売機の上にいる理由はなくなった。コチは、カエルの歌を聴いていて思った。ホリデイをあそこに連れて行きたいって。カエルが来てくれて、歌ってくれてよかった。僕の好きな夜。月が喋るあの広場。揺れる葉っぱ。草むらで聞こえる下手くそな虫たちの奏でるダンス。それと、あの蕾。
「なあ、一体どれが月なんだよ?」 ホリデイは、四方八方に点々と輝く街灯を見ながらコチに聞いた。 「ほら、あそこだよ。寂しそうに空にぽつんと浮かんでいるだろ?」 「夜には、月よりも輝いているものがいっぱいあるんだな?」 コチの後を付いていくホリデイは、いたずらにコチに言った。コチは、チラっと月を見上げて、「チェッ」と舌打ちをする。 「いいから、黙ってついてこいよ。」 コチは、ようやくうるさいホリデイと目的地に辿り着いた。そこは、人間がいない空き地。ポツンとそびえる静かな建物には止まった時計がその下を覗いている。下には一面鬱蒼した草が生える草むらでどこにいるのか、たくさんの虫が賑やかに騒ぐ声が聞こえる。 「ここさ。どうだ。ここなら月が一番、輝いて見えるだろ?」 ホリデイは、わざとらしく空を見上げて、初めて月を見たという表情をした。 「へー。あれが月か。どうも初めまして。」 ホリデイが深々とお辞儀している所をコチは、静かに微笑んでいた。ここに、ホリデイがいるなんてとても不思議な気分だった。 「いつも寂しそうな月もここならそんなふうに笑うのか?これからは、いつだってあんたの笑顔を感じる事が出来そうだ。」 コチは月に話しかけるホリデイを見ていた。照れ臭くもあり嬉しくもあった。 「なんだよ。それ?」 コチは笑った。夜にはやたらと優しい風が吹く。 ホリデイはここを「笑う月」と呼んだ。「名前なんか付けてここに愛着が生まれたらどうするんだ。」って、この場所がまるで捨てられているかのようにコチがホリデイに言ったら、「会いたくなったら、また、この場所に来ればいい。俺達には自由な羽があるだろ?」ってホリデイは言った。ホリデイは、月の世界を気に入ってくれたのかな?なんてコチは考えていた。 「それにしても、下手くそな歌だな。」 ホリデイは、夜風に揺れる葉っぱの上で隣に座るコチに笑いながら言った。 「そうだろ。下手くそなんだよ。」 笑いながらコチは答える。 「まあ。賑やかでいいな。」 月を見上げるホリデイの羽が揺れる。同じ風がコチの小さな羽を揺らす。穏やかなホリデイの横顔が見える。コチは思った。ホリデイだ… 「なあ。ホリデイ。聞こえるだろ?とびっきり下手くそな歌を歌う虫がいる。そいつの顔見てみたくないか?」 「おっ。いいね。」 いたずらなホリデイの顔が、月明かりで輝く。2匹は、月明かりの下をふらりと移動する。ホリデイが、下手くそな歌に耳を澄ませ、声のする方に向かって飛んでいる中、コチはまっすぐ、違うどこかに向かった。ホリデイは自分の耳を疑いながらコチを目で追う。 「おーい。見つけたぞ。」 コチがホリデイを呼ぶ。 「ん?そっち?」 ホリデイは、近くで聞こえる一番下手くそな歌を歌う虫に「お前だよな?」と首をかしげ、コチの方に向かう。 「どこだよ?」 「あっちだ。あっち。」 「どこ?下手くそな奴いたぞ?」 「ほら、あそこだよ。」 コチが首を振って指し示す方向に、ホリデイはゆっくり進んで行く。 ふわふわと月の明かりの下を飛ぶホリデイが何かを見つけた。そして、ホリデイは、それに近づくと優しく声をかけた。それは、音痴な虫ではなく鬱蒼とした草むらの中で見つけた小さな蕾だった。ホリデイは見つけた蕾に優しく声をかけた。 「やあ。どうも。月がやけに明るいと思ったら君を照らしていたんだね。」 コチは、蕾に話しかけるホリデイを見てどこかホッとした。ホリデイをここに連れて来て良かったと。ホリデイの優しい声が聞こえる。コチはそっとホリデイの声が聞こえない所まで、羽を動かした。やっぱりあのホリデイの優しい声が好きだ。この前、聞いたあの悲鳴でかき消されてしまったホリデイの声が戻ってきた。「良かったよ。」コチは月にだけ聞こえる声でそっと呟いた。
「おーい。そこに居たのか?」 しばらくするとホリデイが戻ってきた。月の明かりでもホリデイの羽は十分に輝いて見えた。そばにやってきたホリデイは何やらニヤニヤと笑っていた。 「コチ。どこに虫がいたんだよ。」 「あれ?見なかった?どっかに飛んでいっちまったかな?」 「それよりもさ。あの草むらの奥に、蕾が顔を覗かせていたよ。知っているか?あの蕾、もうすぐ花を咲かせるよ。」 「僕は花なんか、興味ないよ。」 コチは白々しく言った。 「知ってるさ」 ホリデイも白々しく言った。 「もうすぐ、あの蕾にも春が来る。」 「まあ。僕の知った事じゃない。まあ、良かったじゃないか。あの子の春にホリデイが会いに行ってやれば、その子もきっと喜ぶよ。」 ホリデイは、月を見上げたまま、コチの言葉を聞いていた。 「それがさ。あの蕾が言うんだよ。「また来てくれたのね。」ってさ。俺は、あの蕾を見たのは今日が初めてなのにさ。一体誰と勘違いしているんだか、失礼しちゃうぜ。」 ホリデイは、コチを横目でチラリと見た。少し俯いたコチの顔が、少しゆがんで見えた。 「へー。そうか。じゃあ、ホリデイ以外に誰かがその蕾を見つけたって事か。まあ。仕方ない。こんな朧月だし、あそこじゃ、草が覆っているから相手がよく見えないのさ。」 ゆがんだ顔のコチは平然とした声で言葉を並べた。 「ふーん。よく知っているじゃないか。」 ホリデイは、相槌を打つようにボソッと呟いた。コチは黙ったまま、俯いていた。静まる空気は、ホリデイの言葉を一つ一つ響かせた。 「俺を誰かと勘違いしている蕾に、俺はガツンと言ってやったよ。「なんて失礼な奴だ。2度とこんな場所に来るか」ってね。」 コチは、顔を上げてホリデイを見つめた。そして、すぐにわかった。嘘の下手くそなホリデイに呆れたように「嘘だろ。」と言った。 「まあな。俺は再会のふりをしたよ。なんで俺がそんな事をしないといけない?俺ってやっぱり優しいヤツだよな。なのに、蕾が俺に謝るんだよ。俺には何の事かわからないのに、俺がなんで誰かの振りして、蕾を慰めなければいけないんだ。だから、俺は蕾に言ってやったよ。「いいかげんにしろ!無礼者。俺様を誰と心得る!」ってね。」 「嘘だろ。」 「ああ。嘘さ。謝る蕾を慰めながら、俺は蕾が謝る理由を知ったよ。どうやら、前に来たやつが蕾と約束をしたらしい。「花が咲いたら、春を知らせにやって来る。」ってね。まだ、花を咲かない事をあの蕾は謝っていたよ。」 コチは、黙って月を見上げながら話すホリデイを見つめていた。 「でも、残念ながらさ。それを聞いたら、俺は春を知らせにあの子に会いに行けなくなった。」 「なんでだよ!」 コチは声を荒げた。 「だって、その約束は俺のものじゃないからね。約束は、約束した奴のものさ。俺が行ったらその蝶が約束を破る事になる。おいコチ、知っているか?蝶は約束を守るんだぞ。」 月は黙って2匹の声に耳を傾ける。 「勝手な事言いやがって。蝶が約束を守る?そんな迷信を今更信じるかよ。お前は、どれだけ僕に嘘をついてきた?そいつがもし会いに行かなかったらどうするんだ?あの蕾に誰が春を知らせるんだよ。」 コチは、投げつけるような強い口調でホリデイに言った。ホリデイは、2匹の間に風が通り抜けるのを待ってから口を開いた。 「そうだよ。蝶が約束を守るなんて迷信さ。一体誰が言い始めたんだか。でも、なぜだが、俺は、その蕾と誰かが交わした約束を信じちまうんだ。俺は、バカだけどな。なんでも信じるようなヤツじゃない。俺は信じるものは自分で決める。いいか?この前の悲鳴だって俺は、何も信じちゃいない。俺にとってはどうでもいい事だ。きっとあの場所にも、蜘蛛の巣があるはずさ。蜘蛛の巣に捕らえられたヤツは、なかなか空の青さに気づかないもんだ。そんなヤツの言葉を信じてしまったら、俺たちが手に入れた自由の羽を再び失ってしまうだろ?俺は空の美しさを知っているから、カエルの歌声を知っているから、朧月の光の美しさを知っているから、きっとそいつを信じる事が出来るんだよ。」 風が再び、2匹の羽を揺らす。 「なあ。コチ。あの蕾もきっと、月の光の美しさを知っているよ。」 黙っているコチにホリデイが振り向いた。 「安心しろ。何が起きても、俺が腹を抱えて笑ってやるさ。」 コチは、ホリデイを見た。いつもと同じ顔?暗がりは、ホリデイの顔を少し隠した。 「いつも、いつも僕を笑いものにしやがって。」 コチは笑った。月の世界の良い所は、暗いおかげで、普段言えない事が言える事かもしれない。今日のホリデイは、よく話す。 「なあ。ホリデイ。僕の太陽の世界でのあだ名を知っているか?」 ホリデイは、笑って言った。 「知っているだろ?お前に興味ないよ。」 コチも一緒になって笑った。 「木枯らしって、言うらしい。」 「ふっ。なんだよそれ?お前にはジイさんがつけてくれた名があるだろ?誰がなんと言おうとお前はコチさ。忘れるなよ。それよりもさあ、コチ。虹の居場所を知っているか?」 「虹?なんだよ、急に。」 「俺さ、悔しかったのかな?あの蕾と約束したんだよ。花が咲いたら、お祝いに晴れた空に虹を連れてきてあげるってさ。」 水たまりに閉じ込められた虹。その虹ではない。ホリデイが言っているのは、空をかける大きな虹だ。そんなものコチは見た事ない。 「なんで、そんな約束しちゃったんだよ。」 コチは呆れた様子でホリデイに言った。 「仕方ないだろ。コチもあの蕾も大きな虹が空に駆けるのを見た事ないだろ?木枯らしなんか信じるくらいなら、空に虹が架かる世界を信じる方がよっぽど趣味がいい。」 ホリデイが笑って言うものだから、それが簡単なように聞こえてしまう。 だから言っただろ・・ 信じなければ良かった・・ 勝手な事言いやがって・・ なあ。ホリデイ。世界が灰色だって言う方が、みんな君を責めたりしないよ。世界が灰色だって言う方が簡単でいいに決まっている。 「どうするんだよ。僕は、虹の居場所なんて知らないぞ。」 「じゃあ、願うしかないな。」 「また、勝手な事を言いやがって。願いなんてこんなちっぽけな僕たちに届くはずないだろ。」 ホリデイは笑って答えた。 「そんなの俺は信じないよ。」 ホリデイが月の世界に来たのは、これが最初で最期だった。 次の日の朝、ホリデイは慌てて、コチの元にやってきた。 「コチ。大変だ。笑う月のあの場所に、人間がやってきた。早く起きろ。」 コチは、ホリデイのあんな必死な顔を初めて見た。 コチは、世界があまりにも簡単に壊れてしまうなんて知らなかったから、いつものように、言ってしまった。 「僕は、今から、寝るところだ。太陽の世界なんて知らないよ。嫌いだって言っているだろ。」 ホリデイは黙ったまま何も言い返さなかった。もうホリデイは無理やりコチを太陽の下に連れ出してはくれなかった。あの通行手形を出してはくれなかった。そして、コチは、初めてホリデイの悲しげな顔を見た。 「知っているんだろ?太陽の世界も月の世界なんてものはないって事。世界は一つしかないんだ。俺の世界にコチがいて。コチの世界に俺がいる。1つしかないこの世界であの蕾は、今この時も、春が来るのを待っているんだよ。」 コチは、ホリデイの悲しげな顔を見て、胸がキリキリと切られるようだった。 「仕方ないだろ。俺は、木枯らしだ。」 「お前が信じた世界は結局それかよ。」 ホリデイは出て行った。そして、二度とコチの前に姿を現さなかった。
✳︎
ジイさんの葉の隙間からチラチラと光が覗く。 「なあ。ホリデイ。お前はどこに行ってしまったんだよ。あの蕾は花を咲かせたよ。とてもよく笑う花だった。春を待っているんだよ。あの花を笑顔にさせてよ。僕じゃ、ダメだ。僕じゃダメなんだよ。」
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