第二部

1.《不動》ホバリング

何世紀も前、メキシコに聖母が現れた。褐色の肌を持つ彼女はカトリック教会にも認められたれっきとした聖母だ。




 科学が発展した現代。もし聖母が再び現れるとしたら必要になるのは狂信的な信者達だろう。どんなに超常的なことを起こしてもただのトリックだと思われて終わる。




 神話をつくろう、圧倒的な数で、狂ったほどの熱量で。




 ◆




「あ、からあげ頂戴」


「は、はい。どーぞ」


「あーん」




 ソファーでダラけたまま霧崎から唐揚げを口に運ばせる。




「うぅんまぁ!美味すぎる。弁当なのになんでこんなサクサクなの?」


「ええっと、それは普通に…」




 あれ以来、桐崎との距離は近くなった。昼休みはいつも、この空き部屋で過ごしている。以前のような緊張感は無いが少しだけぎこちない。




「あ、そうだ。今度うち来てよ。大したものはないけど本だけはやたらあるから」


「え、えといいんですか?」


「いいもなにもそんなことは霧崎が決めることだろ」


「で、でも私…」


「だから、何回も言ってるだろ。俺もお前と一緒で特異体質だって」




 この数日、何度か繰り返したこの問答。ある程度信じているようだが、今までの経験の所為か、霧崎は人と距離を置こうとする。




「それともまたハグされたいの?」


「あ、そ、それは、その」




 まんざらでもない表情の霧崎。




「まあ、また今度ね。またシャツ買わなくちゃいけなくなるから」


「それは、その、すいませんでした」




 あの日着ていたシャツは霧崎のよだれでびしょびしょになっていた。どうしても、というので霧崎に渡したが、翌日新品のシャツを手渡された。




「シンプルな疑問なんだけどさ、シャツとかハンカチっていまどうなってんの?」


「え、えと、お家にあります」




 煮え切らない態度でもじもじし始めた霧崎。心なしか顔が紅潮しているように見える。




「いや、そうじゃなくて…」


「思い出として保管させてもらってます」


「思い出?」


「はい、私にとって、人のぬくもりを感じられる唯一のものなんです」




 この答えはなんとなく想像できていた。人とのかかわりが持てない彼女にとって、数少ない思い出として保管したかったのだろう。




「ふーん、てっきり使ってくれてんのかと思ってたわ」


「つ、使うなんて、そんないやらしいこと!し、してないですよ…」


「あ…」


「え…え?」




 何を勘違いしたのか急に墓穴を掘る霧崎。こちらの意図と全く違う使い方を想像したようだ。




「いや、俺としては折角あげたんだからどう使ってもらっても構わないんだけど、まさか一言目にそんなことを言いだすとは思わなかった」


「あ、あの、いやそんなつもりじゃなくて…」




 みるみる赤くなっていく霧崎。この子は何なんだろう。思い返せば自分で墓穴を掘ってばかりな気がする。




「むっつりすけべ」




 本来、女性が男性に対してよく言う言葉だと思うがこの場合は言わざるを得ない。




「ち、ちがいます。ちょ、ちょっと羽織ったり深呼吸したりしただけです!」




 それはもう罪の告白だ。言い訳にすらなっていない。




「有罪です、処します」


「そ、そんなぁ。私そんな悪いことしましたかぁ⁉」




 このやり取り、普通の人ならただのじゃれあいだとわかるが霧崎の場合、これを本気でとらえる。詰めれば詰めるほどボロが出る。




「こういったことはよくやられるんですか?」


「は、はじめてです!これだけは本当です!」




 また墓穴を掘った。いい加減そのスコップをどこかに捨ててほしい。




「これだけは?」


「あ…」




 フリーズする霧崎。先ほどまでよりももっと顔が紅潮し、耳は触っただけでやけどしそうなほど真っ赤だ。




「……」




 諦めたように俯く霧崎。


 おそらくここが限界だろう、これ以上行くと壊れたロボットのように同じことしか言わなくなる。




「ごめんごめん、霧崎。冗談だから。なにも気にしてない。大丈夫だから」


「で、でも私」


「ほら、こっちおいで」




 霧崎の足を膝のうえに置き、かかえるように抱きしめる。お互いの心臓の鼓動が伝わるほど密着する。




 女性的な柔らかさと人間のぬくもり。




 ここ数日一緒に過ごしてみて気がついたが、人との関わりの少なさからか、彼女は精神年齢が少し幼い気がする。一人で生きていかなければならなかった分、甘えられる人間にはこうして全てをさらけ出すのだろうか。




「お、おい。首をなめるな」




 少し度が過ぎる気もするが。




「吸うな、跡が残るから」




 霧崎には俺の“支配”が通用しないが、偶然にもお互いが相性の良い『パルファム器官』を持っていたようで匂いを嗅ぐだけでおかしなスイッチが入る。




「ん、ぅん」




 最近はどうにか、霧崎の匂いに包まれても自分の意識を保てるようになったが、霧崎の場合、何の抵抗もせず身を投げるように飛び込んでいく。




 深い沼、一度はまったら抜け出せない。足先、ひざ、腰、胸、肩、首、最後に頭。全身の感覚が外の世界から離れていき最後は意識までもが溶けていく。




「おい、耳を舐めるな」


「はぁー、はぁー」




 熱い吐息が耳から首に吐きかけられる。


 密着した所為でお互いの体が汗ばんでくる。




 これ以上はさすがにまずい。


 意識が飛ぶ前に霧崎を引きはがす。




 ◆




 高校の頃の恩師である牛田のおかげというか牛田の影響で、俺は牛田が通っていた大学の英文科に入った。そのおかげもあり会話に不自由しない程度までの英語が喋られる。


 大きな音がして、巨大なテレビジョンを見上げる。


 『緊急速報です。S谷区の商業施設にて、アメリカ国籍の男が“日本は地震が多いのに、日本人が‘揺れ’を愛さないのはおかしい”などと叫びながら糸状の何かをバラまいているところを取り押えられました。警視庁の調べによると、テロとは関係なく迷惑行為であることが明らかになっています』




 アメリカには行かないでおこう。




『SNSで事件の映像が拡散された影響で一時、パニックになっていましたが現在、けが人もなく電車も通常通り運行しております』




 季節の変わり目は節々の神経が不調になる。特に秋は精神も不安定になる。




「おい、そこのお前。揺れを愛せ」




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