アピス ~虐げられた美女を愛でる超王道の純愛系ノベル~
テラステラス
第一部
1.迷蛾《MAYAIGA》
とある生物はフェロモンによって番いを決めるらしい。もしかしたら、人間もそうなのかもしれない。見た目や性格などは些細なもので、絶対と感じるほど強く惹かれるものはそれらとは別のモノであり、もしも生まれた瞬間から全てが決まっていたとしても不思議ではない。
◆
いつものように大学の授業を終え、帰宅中いつも使うA下通りを歩いていた。ふと路地裏から漂う強烈な甘い香りに気が付く。においのもとをさがして夕焼けに照らされる細道へと曲がった。
いつも通る道とは違い知らない道だったが昼飯を抜いていたこともあって、空腹に身を任せどんどん突き進んでいった。
迷路のような道を帰り道の心配をしつつもただ自分の本能に任せて歩みを進めていくと少し開けた場所があり、そこには一軒の建物があった。
“桃源郷”と書かれた看板からして中華屋のようだ。頭の悪い風俗店みたいな名前だ。しかし、油と埃で汚れた店からは様々な香辛料が交じり合った香りが漂い食欲をそそられた。
そして、俺をここまで迷い込ませた強烈に甘い香りは何故かすこし薄れていたが確かにこの店からしているようであった。
「いらっしゃい」
引き戸になっている店のドアを開けて入ると40代くらいの男性(おそらく店主)が出迎えた。
「あれ、今日ってもしかして休業日だったりします?」
言い終わってからあまりに失礼なことを言ってしまったことに気がついた。しかし、ついそう思ってしまうほど店内は閑散としていた。
「ははは! やってるやってる。いつもなんこうだよ」
「す、すいません」
「いやいや、気にしないでいいよ。うちに客が来るなんて本当に年に一回あるかないかなんだから」
店主の明るい性格に助けられてほっとしたが奇妙なことを言われたことに気が付く。
「来客が年に一回あるかないか?」
失礼を重ねてしまうようで嫌だったが、つい好奇心に負けて尋ねてしまった。
「そうだよ、と言っても多く見積もって、だけどね。でも珍しいこともあるもんだね、つい昨日もお客さんが来たんだよ。ま、細かいことは気にしないでその席に座りな、おなか減っているんだろ?」
喋れば喋るほど気になることを言ってくる店主。しかし、このままでは埒が明かない気がして彼に勧められるままにカウンターに座る。
店内は思っていたよりはほんの少しだけ広く、店構えから想像していたより良く手入れされておりとても清潔だったがなんとなく奇妙な違和感がした。
「にしても、よくこの店にたどり着いたね」
何か喋ろうとしたところで先に話しかけられてしまった。
「ええ、かなりふらふらとしましたけどなんとか。自分でも不思議に思います。でも、すごく良い匂いがしたんでそれをたどって…」
犬みたいだな。自分で言っていて馬鹿らしくなったが正直に答えた。
「おお!なるほどなるほど。それは珍しい!」
「笑わないでくださいよ」
「いやいや、違うよ。そういうことじゃないんだよ。ちなみに、どんなにおいがしたんだい?」
店主は少し真面目な顔をして聞いてきた。
「えっと…。はっきりと“これ”だとは言えないんですけど、すごく甘い香りがしました」
「ほー、なるほどね、これはこれは益々珍しい」
店主は神妙な顔でうなずいていた。
「あ、あのう、注文とかってしてもいいですか?」
なんだか恥ずかしくなったので話題を変えた。
「ああ、ごめんね。えっとねー。ウチは中華定食しかないんだけどそれでいい?」
「え、ええ、じゃあそれでお願いします」
まさかの中華定食の一本勝負に少し面を食らったがそれと同時に席に着いた時の違和感の原因はおそらくメニュー表どこにもないためだろうと思った。
「醤油ラーメンと炒飯、あと餃子。結構大盛りだけどたべれるよね?」
「はい、あとビールがあればもらえますか?」
「あーごめんね。ウチ酒類出してないんだ、代わりにサイダーをサービスするから勘弁して!」
「あはは、いえ気にしないでください。じゃあ代わりに烏龍茶お願いします」
なんだかすごく子ども扱いされているようでつい笑ってしまった。
「はいよ! あ、あとお兄さんが気になってる甘いヤツ後で渡すから楽しみにしといて!」
お茶を俺の前に出すとそのまま厨房の奥に消えていってしまった。
何とも言えない不思議な感覚を持て余したまま、厨房の調理音をBGMに自分の他に誰もいない店内をただぼーっと眺めていた。何か言葉にしようにも考えがまとまらずに唇を少し開きかけてやめるのを繰り返していた。
◆
「はい、おまちどうさま!」
「あ、あぁ、ありがとうございます」
どこかへ飛んでいた意識を店主の声で呼び戻された。
どこにでもあるような普通のラーメン、四角く切られた焼豚の入った炒飯、きれいに並べられた五個の餃子。どこか懐かしさを感じてしまう流行ではなく定番の料理。
「うっ美味っ!!なんだこれ」
思わず口角が上がりにやけてしまう。今まで食べた全ての料理の中で一番うまいかもしれない。高級な素材がふんだんに使われているとかではなく、ただすべての食材、調味料が絶妙な割合で調理されていた。
「うまいだろう?」
「は、はい」
にやけた顔を見られたくなかったため、少し間をおいて俯いたままこたえた。
「ははは、うちに来た客はみんなそういう顔をするんだよ。気にせずどんどん食べな」
そういわれ、ますます恥ずかしくなったが箸を止めることができずどんどん食べ進めていった。
◆
「はい、ウーロン茶のおかわり」
ちょうどすべてを食べ終わったころにお茶を出された。
「あとこれ、杏仁豆腐。サービスだよ」
「ああ、ありがとうございます」
出された杏仁豆腐を食べて、少しがっかりしてしまった。
おそらくこれが店主の言う“甘いヤツ”なのだろう。確かにおいしい、しかし店に入る前に香ったものとはかけ離れたそれに、サービスしてもらっておいて失礼だが少し失望した。
アレは一体何だったのだろう。
「ごちそうさまでした。本当においしかったです」
すべてを食べ終え、店主に礼を言う。
「はいよ、ありがとね。中華セット一人前で千円ね」
「はい、本当にごちそうさまでした。サービスまでしてもらっちゃって、ありがとうございました。また来ます」
「いいや、そんなのは気にしないで。あーあと、申し訳ないけどお兄さんはもうここにはこれないよ」
「え、もしかして店閉めちゃうんですか?」
店主の意味深な言い回しに思わず尋ねてしまった。
「まあ、そんなところだよ」
「そうなんですか、残念です。でも今日来れてよかったです」
なんとなくひっかかる返事だったが、言いづらそうなので素直に食い下がった。
「ああ、そうだった。はい、これ」
「え、何ですか、これ」
帰り際、席を立とうとしたとき。店主から“あるもの”を手渡された。
「何って、君がずっと気になってたヤツだよ」
確かにそうなのだ。“それ”からはあの強烈に甘い匂いがしていた。
「でもこれって」
「ああ、昨日来たお客さんが置いていってね。どうしようか困ってたんだよ」
それは昔、通っていた高校の学生証だった。学生証は女生徒のもので、『2年A組 霧山キリエ 拒絶』と書かれていた。
胸から上が写った証明写真もあり、そこには赤毛で白い肌のなかなかのいや、かなりの美女がいた。おそらく両親のどちらか、または両方が海外出身なのだろう、東洋人離れした見た目からそう勝手に判断した。
「これを僕に渡されても困りますよ。もう高校は卒業してるんです。そんなに若く見えますか?」
「いやいや、そんな分かりやすい嘘をつかないでくれよ。だって君、その学生証を置いてった子と同じ制服着てるじゃないか」
「何を言って…、は、なんで!いや、そんな、いつから⁉︎」
確かに店主の言う通りだった。いつの間にか学生服を着ていた。しかし、この店に入る前は大学の講義を受けていたはずでこんなコスプレじみた事はした記憶はいない。
「いつからって面白いこと聞くねー。最初からだよ、この店に入ってからずっとね」
「いや、そんなはずない。そんな記憶全くない!」
「はははは。そんなこと言われてもねぇ。まぁ、そういうこともあるってことさ。もう今日は店を閉めるから早く帰ってくれないか、ほらほら」
店主に急かされるが混乱した頭を整理するのがやっとで動けないでいた。
「ほら君、鞄持って!あ、自分の学生証を落としてるじゃないか。まったく急にどうしたんだ。しっかりしてくれよ」
混乱してふらつく足取りのまま店主に店を追い出された。
外はいつの間にか暗くなり雨が降っていて傘をさす人々が通りを行き交っていた、A下通りだ。大学からの帰りいつものように通っている道だ。
だがそんなハズはない。確かこの店にくるにはこの通りから細い道を何度も曲がらなくてはならなかったはずだ。不安になり店に戻ろうと振り返った。
「どういうこと、ってなんだよこれ」
振り返るとそこはただの壁だった。周りの風景からしてそこには路地裏へと向かう細道があったはずだ。
「訳がわからない、白昼夢かこれは?」
ふと気になりズボンのポケットに手を入れる。右と左、それぞれに同じ大きさのものが入っていた。
学生証だ。右に入っている方を取り出した。そこには俺の名前、学年とクラス、そして『支配』と書かれていた。
何から何まで意味のわからない状況。降り注ぐ雨と滲み出てくる冷や汗に濡れる全身。ぴしゃぴしゃと音を立てながら通りを歩く人々。それらから逃げ出すように、少し短くなった歩幅で走った——。
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