3.視絹《SHIKEN》
人間関係において第一印象が重要なことはよく知られているが、良い意味でも悪い意味でも相手の記憶に残ることも大切だと思う。
「初めまして、神です」
完璧な自己紹介だ。
「え、あ、あの、初めまして。人間です。霧崎です」
戸惑いながらも真面目に答える霧崎。目が泳いでいて動揺しているのが見て取れる。
ゆっくりと席に座りながら深く呼吸する。相変わらず彼女からは魅惑的な香りがした。
「ああ、そうだ霧崎さん。これ、落とし物」
ポケットから学生証を出して渡す。
「あ、これ、私の。でも…」
なかなか受け取らないので彼女の机に置く。
「桃源郷っていう中華屋に行っただろ。俺も偶然そこに行った時に店主から預かったんだよ」
「と、桃源郷?」
「A下通りの裏にある店だよ。俺も詳しくは覚えてないんだけど」
「そ、そうなんですか。でも、あ、ありがとうございます」
彼女は机を俺から少し離しながら、少し身をかがめて学生証を受け取った。
どうやら第一印象は最悪のようだ。彼女は俯きながら自分の学生証を見つめている。時々不思議なものを見る目でこちらをチラチラと見るが、視線を合わせると慌てて目を逸らしてすぐに俯いてしまう。
「霧崎さん、今日からよろしくね」
第一印象は最悪の様だが、そうならそうで好感度はこれから上げていけばいい。
「‥……」
返事は返ってこなかった。どうやら前途は多難のようだ。何度かこちらを向くが、目が合うたびに首が飛ぶほどの勢いで俯いてしまう。そのまま、何かを呟いている様だったが聞き取れなかった。
◆
嗚咽が聞こえてきた。隣の席で霧崎が泣いていた。これがいつものことなのか俺が原因なのかはわからない。
すでに3限目が始まりクラスメイト達は真面目に授業を受けている。
廊下側最後尾、普通の間隔より広くスペースを空けられている席。おそらく彼女の特性の影響で誰も近寄れないのだろう。
それにしてもなかなか異常な世界だ。このクラスにおいて、霧崎は存在しないことになっているかのようだ。プリントも指名も彼女へは回ってこないし、彼女に話しかけるものは今のところ一人も見かけていない。
「ほら、これ使いなよ」
ハンカチを彼女の机の上に置く。美人の泣き顔は中々そそられるがこのまま放置できるほど人間性を失っていない。
「うぇ、あ゛ぁ、すい゛ません、いらないです。もらえ゛まぜん」
「いや、顔がグジュグジュだから、使いなよ」
ハンカチはなんとか受け取ってくれたが‘結局、霧崎はハンカチを使わずにポケットティッシュで済ませていた。
「あの、ごめんなさい、ご迷惑をおかけしました。も、もう大丈夫です」
「いや別に迷惑じゃない。あと、全然大丈夫に見えないから」
ハンカチを顔に近づけ目を閉じ何かに集中する、そして何秒かあと深い息と共に恍惚とした表情になりながらハンカチを顔から遠ざける。こんなことを繰り返してる人間が大丈夫なはずがない。
「ほ、本当に大丈夫です。あ、あの、ハンカチは同じものを買って返します。すみません、ありがとうございました」
「いやいや、洗って返してくれるだけでいいから。別に今返してもらっても構わないし」
「嫌です!!」
急に大きな声で拒否してきた。
「あ、いや、あのすいません。ちゃんと同じものを探して買います」
「あぁそう。まぁ、別にそれでも良いけど」
言っていることがいまいち理解できなかったが、新品を買うことが彼女なりの礼儀なのだろうと納得することにした。
◆
あっという間に時間は過ぎ、昼休みになった。教室で机をつなげて仲良く食べている生徒や、食堂に駆け込んでいく生徒がチラホラいる。
霧崎はいつの間にかいなくなっていた。できれば一緒に食事をしながら色々話をしたかったが今日は我慢しよう。
弁当を持ってくるのを忘れたし、食堂はいつも混んでいるので今から行きたいとは思えない。
「あ、君。購買部でパン買ってきて」
「はい、行ってきます」
もう“命令”の仕方は大体把握できた。授業中にも何人かの生徒に仕掛けてみたところ、なんの問題もなく機能した。
ただ、霧崎は絶対にハンカチを返してくれなかった。『蟲の思考』に書かれていた通り、彼女には効かないのかもしれない。
パンを買ってきてくれた生徒に百円だけ渡し炭酸ジュースを買いに行かせ、自分はゆっくりとパンを頬張る。
「あ、ウマ」
思えばこの世界に来て初めての食事だ。
「おぉ、これもウマい」
ただのカツサンドと焼きそばパンだが、元の世界のものとは根本的に違う気がする。そういえば、あの店での食事もこんな感じだった気がする。
この世界の人間は『パルファム器官』の影響で嗅覚が優れている様に思える。何でもないただのパンがこんなに美味しいのはそういうことなのだろう。
「お、ありがとう。何買ってきたの?」
「お茶とサイダーです」
「気が効くなぁ。お茶だけでいいや、ありがとね」
百円しか渡していないのに二つも飲み物を買ってきた。どういう作用か分からないが“命令”された人間は必要以上にこちらのために動いてくれる。
高校時代のクラスメイトのことをあまり覚えていないので、前の世界との相違点は分からないが俺の目から見てスクールカーストの様なものが少し変わっているように感じた。
目鼻立ちのはっきりした、いわゆる美形の生徒がクラスの中心になっているという事ではなく、普通のもしくは少しパッとしない見た目の生徒が幅を利かせていた。
朝の通学時にも化粧をしている生徒や女性を見かけていない。ルッキズムやそういった美しさや醜さへの考え方が前の世界とは根本的に違っているのかもしれない。
◆
霧崎は午後の授業が始まる直前に帰ってきた。真っ赤な顔で目を血走らせ少し汗ばんだ様子だった。おかしな雰囲気だったがそれでも魅力的に見えた。
「おかえり」
「えっと、あの、はい」
シンプルなデザインの弁当箱と小さな水筒を抱えたまま、相変わらずおどおどした様子で応える。
「霧崎さんって弁当派なんだ」
「あ、はい」
「自分でつくってるの?」
「そ、そうです」
食べてみたい。いつか頼んでみよう。
「すごいね。俺全然料理できないから尊敬するわ」
「い、いや、あの、全然そんなことないです」
「そうなのかなぁ、俺がダメ人間なだけかぁ」
「あ、いや、違います!そういうことじゃないです!ごめんなさい。すいません」
「謝りすぎ、冗談だから」
「す、すいません」
「あはははは!ベタすぎ」
教科書通りの展開に思わず笑ってしまった。
「ごめんごめん、気にしないで」
いきなり笑ったことに少し驚いた様子だった霧崎だが今はキョトンとした顔でこちらをうかがっていた。
「そういえば、さっき顔真っ赤だったけどどうしたの?」
「あ、いや、あの、あ、ううぅ」
そのまま悶えた様子で俯いてしまった。
どこか遠くの人の少ない場所で食事をしていたのだろう。不憫に思う。おそらく生まれてからずっとこんな感じの生活を続けてきたのかもしれない。もしかしたら両親ともあまり良い関係ではないのかもしれない。
◆
各自身支度をして下校や部活の準備を始めている。結局、あの後霧崎との会話はなかった。時々妙な視線を感じたが目が合う寸前に視線を外された。
「また明日、霧崎さん」
「は、はい」
斜め下を見ながらだが返事を返してくれた。
「あ、あの」
「ん?」
初めて彼女から話しかけてくれたことに内心歓喜しつつも平静を装って返事をした。
「ハ、ハンカチ」
「うん」
つっかえながらも一生懸命話そうとする彼女に庇護欲をそそられながら次の言葉を待つ。
「ハンカチ、買って返します。出来るだけすぐに渡します」
「わかった。わざわざありがとう。」
言い終えて満足したのか、小さくお辞儀をして教室を出ていく霧崎。
ただ霧崎には悪いが、ハンカチは見つからないだろう。あれは母さんの手作りだ。親父から聞いた話だが、裁縫好きの母さんが一から作ったものらしい。俺が生まれてすぐ死んでしまったから同じものはどこを探しても見つからないだろう。
思いがけないきっかけだがこの機会を利用させてもらおう。
「ねぇ、あんた」
自分も帰りの支度をしていたら不意に横から話しかけられた。
「ん、なにか用?」
普通の女生徒。瞬きをしたら記憶から無くなるほど印象に残らない見た目。
「あんた、あの化け物が好きなの?」
一瞬何のことを言っているのか分からなかったが、化け物とは霧崎のことだろう。
思春期の男女特有の何でもすぐに恋愛へと繋げる単細胞のような考え方。せっかく気分が良かったのに一気に台無しだ。
「お前、明日から坊主」
この世界で髪型に対して執着があるのか分からないが、面白そうだったから“命令”した。心地良い風が教室を吹き抜ける。
「はい、わかりました」
「うん、さっさと帰りな」
後ろに控えていた取り巻きの生徒の元にふらふらと戻っていった。その光景を見て少し懐かしい気分になった。自分のコミュニティで上に立とうとするのはどの世界でも変わらない様だ。
帰ったら本を読みきってしまおう。そして霧崎を——。
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