4.蛹花《YOUKA》

 ロングヘアー、ショート、ボブ、ロング、坊主、セミロング。注意してみてみると、この世界の女性も色々なヘアスタイルを楽しんでいるのがわかる。しかし、彼女らは外見に個性を出す必要があるのだろうか。




「変な世界だな、ほんとに」




 フェロモンの違いなんて正直よく分からない。俺にとっては何となく良い匂いがする様な気がする程度で、あまり区別ができない。


 この世界の人々は個人のアイデンティティーよりももっと本能的な何かで惹かれあっている様に見える。財産や知識、性格、そんなものは度外視で『パルファム器官』のみが重要視され、生まれた瞬間に人としての優劣が決定してしまっている。




「あ、おはよう、霧崎さん」


「…お、おはようございます」




  明らかに体調の悪そうな様子で霧崎が登校してきた。乱れた髪、少し腫れて虚な目。普通なら不潔に見えてもおかしくないが、彼女の場合、退廃的な美しさが醸し出されていた。




「大丈夫?」


「…」


「霧崎さん?」


「あ、あの、すいません」




 明らかにこちらの話が入ってこない様子だった。鞄をおくとすぐにどこかへ行ってしまった。




 ◆




 午前中、霧崎はずっと上の空だった。しかしそのおかげか、意外にもスムーズに会話ができた。


 一人暮らしをしていること、自炊をしていること、趣味は読書で運動も得意だということ、いろんなことを教えてくれた。明らかに心ここに在らずの様子で寝言と会話をしているような気分だったが、新鮮な経験でなかなか楽しめた。




 昼休みが始まるとすぐにどこかへ向かう霧崎。今日は後をつけてみることにした。




 弁当と水筒、スマホを持って廊下を進んでいく霧崎。こちらに気付く様子もなくフラフラと廊下を歩いていく。


 人気のない部屋へ鍵を開けて入っていくのを確認してから一度その場を離れて自販機へ向かう。偶然を装って部屋へと向かおう。




 炭酸飲料を買って霧崎の元へ向かう。何の表示もない今は使われていない様子の部屋。鍵がかけられているかもしれないが、ドアのぶをひねる。




「あ、開いた」




 部屋の中には2人掛けのソファーと三つ足の少し低めの机があった。


 机に弁当を広げソファーに座った霧崎がスマホを片手にこちらを驚いた様子で見つめている。




「ああ、ごめん。まさか人いるとは思わなくて」


「えっと、あの、すいません」




 急いで弁当を片付けを始めて部屋を出て行こうとする霧崎。




「入ってもいい?」


「は、はい。すぐ出て行きます」


「いや、そのままでいいよ。ちょうど話したいことがあったんだ」


「あ、えっとじゃあ」




  席を立とうとする彼女を手で制止する。部屋へ入ると彼女の匂いが全身を包んだ。部屋中を充満した魅惑的な香りに水中へと潜っていくような感覚になる。


  普段からこの部屋を使っているのだろう。部屋のすべてに彼女の匂いが染み付いていた。




「隣、座ってもいい?」


「え、と、隣ですか?」


「うん、他に座る場所ないし」


「じゃ、じゃあ、私は立ってます」


「いやそれだと話しづらいから」




  返事を待たず、強引に隣に腰掛けた。ソファーの構造上、互いに腕が触れるくらいの近さになる。




「でも、確かにこれは良くないかもしれない」


「……」




  自分の中の何かが彼女を欲している感覚がした。このまま腕を回し、思い切り抱きしめたくなる衝動をどうにか抑える。




「霧崎」


「……」




  隣の霧崎の様子は明らかにおかしい。潤んだ瞳、上気して赤くなった頬、半開きの唇。小刻みになった息遣いが聞こえてくる。




「実は、ハンカチのことなんだけど」




 はっとした様子でこちらを見た。先ほどまでとは打って変わって青ざめた様子になる。




「言い忘れてたんだけど、あれ市販のやつじゃないんだよね」


「そ、そうですよね!ず、ずっと探してたんですけど全然見つからなくて。あ、あの教えていただければ同じものを探しにいくんで」




 早口でまくし立てる霧崎。おそらく昨日から先ほどまでずっと、探していたのだろう。




「母さんの形見」


「え…」




  目に見えて血の気のひいていく霧崎。




「だから『無理です!!』」




 返して欲しいと言い終える前に大きな声で断られた。もうすでに涙目でになっていた。




「なんで?」




  彼女が返さないこともその理由も何となく察しがついているがあえてきく。




「だって、私が触っちゃったから。汚いから。ゴミになっちゃったから」


「でも、大事なものなんだ。返してよ」


「ごめんなさい。でも無理です。もうだめなんです」




  そのまま両手で顔を覆って俯いてしまった。


  壊れたロボットのようにごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す霧崎。啜り泣きで霧崎の全身が震えているのを触れ合っている左半身で感じる。




「霧崎、弁当ちょうだい」


「ううぇ?」


「お昼まだ食べてないから」


「お、お昼?お、お弁当?」


「そう、お弁当。霧崎の。さっき食べてたでしょ?」




  また涙で顔がグチャグチャになっている。頭も混乱しているのか瞳には光がない。




「お、お弁当、食べかけですよ、私の」


「うん、別にいいよ。腹減ってるし」


「え、えと、じゃあ。え?あれ?」


「そ、じゃあいただきます」




  明確な返事を待たずに弁当を広げる。アスパラガスのベーコン巻き、きんぴらごぼう、雑穀ご飯と彩り野菜。きれいに盛られたかわいらしい弁当だった。




「うわ、うっま!!ごめん、ほとんど手つけてないみたいだけど全部食べちゃうかも」


「え、あの、それ、わたしの…」




  いろんなことが起きすぎて頭の整理が追い付いていない霧崎を無視して食べ進めていく。おかずを一つもらってハンカチのことをチャラにしてかっこつけるつもりだったが、何かにとり憑かれたように箸が止められなくなっていた。本能が欲するほど絶品の料理に思わず我を失っていく。




「あ、やべ。マジで全部食べちゃった。ごめん霧崎、パン買ってくるからそこで待って」


「あ、あの、ちょっ」




  弁当を片付け、席を立ちドアへと向かう。




「あ、ハンカチはあげるからもう気にしないで。今日の弁当でチャラ。ただ、さすがに食べ過ぎたからパンを買ってくる。これでプラマイゼロ、いい?」


「……」




  空になった弁当箱を抱えうつろな表情の霧崎。意外にもどこか穏やかな表情で会ったことのないはずの母親の面影を感じた。




  購買部で奇跡的に売れ残っていたツナサンドを買い霧崎の元へ戻る。




  階段をのぼりながら霧崎のことを考えてみる。彼女はどんな人生を送ってきたのだろうか。誰からも話しかけられず、触れることも許されない。もしかしたら両親ともまともな会話をしたことがないかもしれない。


  近寄っただけで動揺して、話しかけると必ず言葉に詰まる。陰で化け物と呼ばれ、触れたものはゴミになると自ら言ってしまうほど低い自己肯定感。




 もしかすると彼女はもうすでに——。




 ◆




  小さい頃、母親や父親、先生でもいい、自分の事を愛してくれている人に対して裏切りに近いことをしたことがあるだろうか。約束を破ったり、言いつけを守らなかったり、そんなことでいい。


  そのことがバレて叱られる寸前、そんな顔をしていた。




「なんで、箸なんて舐めてんの?」


「あ、あの、あ、まちがぇ…」


「いや、間違えて箸舐めることなんてないだろ」


「い、いや、あ、あの、そう、掃除です」




  無茶苦茶な言い訳だ。霧崎自身もそれがわかっているのかもうすでに涙目になっている。




「掃除?」


「は、はい」


「舐めて?」


「う、うぅ。あ、あの、違うんです。これは、あの…」




  違う言い訳を探す霧崎。しかし、すぐにそれも諦めてうつむいてしまった。




「ごめんなさい。ごめんなさい。気持ち悪いですよね。最低です。ごめんなさい」




  たいていの人間は謝罪をするとき、もしかしたら許してもらえるかもしれないという考えが頭の片隅に浮かぶものだと思う。彼女の表情にはそれがなかった。


  もう涙すら流さず、すべてを諦めた真っ白な顔をしていた。




「霧崎、隣座るよ」


「……」




  返事はなく、ただ小さくうなずく。




  彼女の隣へ座りそのまま抱き寄せる。




  彼女の頭を右肩で支え、右腕で頭を抱える。そうすると彼女の首元が鼻許に来る。うなじの髪と首の皮膚、少し汗ばんでいてしっとりとした感触がした。




  霧崎は少し驚いたように肩を震わしたがすぐに、同じようにこちらへ腕を回した。




  呼吸をする。脳が燃え上がっていく。一呼吸ごとに全身が死に、そして生まれ変わる。それはもう呼吸ではなく捕食に近かった。新しいからだが出来上がるたびに彼女のうなじを貪る。




  何度も破壊と再生を繰り返し、新しい体に幸福感がたまっていく。離れていかないように強く抱きしめる。




 ◆




  心地良いぬるま湯のただ一か所、少しだけ温度の違う場所へと向かう。今より不快な方へ、ふらつく理性とともに歩いていく。




「霧崎」




  彼女はまだ幸福な世界にいるようだった。首元に彼女の呼吸を感じる。時折気持ちのいい湿り気の唇で甘噛みされる。


  このままではまた同じことの繰り返しになってしまう。どうにか覚醒してきた意識を奮い立たせる。




「霧崎、きこえるか?」


「ん、ぅうん」




  喉を鳴らすだけの返事がきこえる。どうやらこちらの声も聞こえてはいるようだった。




「そのままでいいから聞け」


「ぅうん」




  猫が時折見せるような甘えた表情でぼんやりとこちらを見る霧崎。




「俺はお前を拒絶しない。だから醜いままでいてくれ」

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