第86話 プロポーズは突然に

 マイラはコレットに手伝ってもらい、湯あみを済ませて化粧をほどこしてもらっている。


「マイラ様、まぶたれは化粧でも隠せません。目も充血していますし、どれだけ泣いたんですか? もう……心配しましたよ」


 コレットの声がかすかに震えた。心配そうな表情でマイラの顔にフェイスブラシを走らせていく。


 目の充血はすぐには引かないのでアイシャドウとチークを控えめな色を選び、乗せている。


 ピンクベージュの口紅を引いたら化粧が終わる。最後にお気に入りの香水をまとい、サロンへ行く勇気を振り絞る。


「サロンに行くわ」

「はい」


 マイラは三日ぶりに部屋を出てサロンへ向かう。階段を一歩ずつゆっくりと降りていく。


 家族に心配と迷惑をかけてしまい、どんな顔で会えばいいのかと考えると、階段を降りる度に心臓が強く鼓動を刻む。サロンの前まで来て、足が止まる。




 緊張がピークに達し、身体がこわばる。マイラは緊張をほぐすために深呼吸をしてから扉を開けて中に入った。




 身体の後ろから衝撃が広がる。突然のことで、マイラの思考は追いつけない。


 衝撃の後はぎゅっと身体を抱きしめられながら、後ろに引き寄せられて、背中が何かに当たる。


 嗅いだことがある香りがマイラの鼻腔びくうとろかす。


「マイラ……ごめん、ごめんね。あなたを守ると誓ったのに、辛い思いをさせてしまった」


 申し訳なさそうに、震える声が頭上から降りてくる。マイラは肩の辺りに回された腕を両手で包み込むように握った。


 マイラの行動に驚いた腕の主はマイラの身体から腕を離し、戸惑う気配が感じられて。 


 マイラは振り向き顔を上げると、目と目が合い、はにかんでみせる。




 カレンベルク家の人々は察したようで、サロンから退室し、マイラとフレーデリックだけが残された。




 サロンは庭園の景色が楽しめる大窓が連なる造りになっており、柔らかい陽の光が大窓から差し込む。





 二人は美しい庭園が観賞できる窓際のテーブルに対面で座り、お互いを見つめ合う。





 二ヶ月ぶりにマイラと会うが、以前より痩せて、まぶたが腫れぼったく目が充血している。



 王太子妃候補の噂を聞き、部屋に閉じこもり憔悴しょうすいしていたと、侯爵から聞かされ、胸が痛んだ。




 フレーデリックは居住まいを正し、口を開く。


「王太子妃候補のうわさはデマなんだ。噂の出どころはわかっていないが、僕も聞いたときはものすごく腹が立った。それも、知らない令嬢の名ばかりで」


 フレーデリックはきまりが悪そうに、うなじに手を当て前かがみになり、視線を落とす。


「怒りが収まると、マイラのことがとても気掛かりになった。噂を知って、僕から離れていくんじゃないかって……」


 前かがみのまま上目遣いでマイラを見つめる。七色の瞳は色を変えながら不安そうに揺れている。


(フレーデリック様は私を心配して、お父様と転移魔法急いで来てくださったのね)


 マイラはフレーデリックを信じていたはずなのに、王太子妃候補の噂を信じてしまい、申し訳ない思いでいっぱいだ。





 前世で全てを諦めて生きてきた思考に支配されて、大切なものを見失い、諦めてしまうところだった。


「ごめんなさい。フレーデリック様を信じていたのに、噂を鵜呑うのみにしてしまい、フレーデリック様の信頼を裏切ってしまいました」


 マイラは立ち上がり、横に二歩動くと頭を深く下げて謝罪する。フレーデリックは目をみはり、立ち上がってマイラの肩に両手を置く。


「マイラ、やめてくれ! あなたは悪くない。噂を放置した王室の責任だ。あなたも被害者なんだ」


 被害者と言われ、顔を上げたマイラは、今にも泣き出しそうな顔をしているフレーデリックに驚く。


「フォルクハルト等の判決を知らせる紙が掲示板に張り出され、僕の経歴も公表された。国民が僕を王太子にと望んでくれた時点で、マイラを迎えに行っていたら、こんなことにはならなかったはずだ」


 フレーデリックが王太子に決まり、儀式の準備等で多忙を極めてマイラに手紙を書くことも思い浮かばずにいた事を後悔し、唇を噛み締め、マイラを見つめた。


 



 マイラの肩から手を離し、フレーデリックは片膝をつく。気持ちを落ち着けるように深呼吸をした後、マイラの手を取り、真剣な面持ちで言葉を紡ぐ。


「マイラ、僕と結婚してほしい。この命が尽きるまで、あなたを守りたい。あなたと寄り添って生きていきたい。二人でたくさんの幸せを作っていこう」


 言い終えるとフレーデリックはマイラの手に口づける。唇が手から離れ、マイラを見上げた。


(……え……これって、もしかして……プロポーズ!?)


 マイラの顔は赤く色づき手で口元を隠し、フレーデリックと目が合わせられずに斜め下に視線を落とす。


(顔が赤くなっている。すごく可愛い。可愛い顔は僕だけに見せて)


 マイラの目が動き、フレーデリックと目が合う。赤く染まった顔のまま、再び視線を外す。


(えっ、えっ、なんて言えばいいのかしら? はい。でいいの? 何か言ったほうがいいよね?)


 マイラは頭をフル回転させて、プロポーズの返事に相応しい言葉を探すが、心臓の鼓動が頭に響き、周りの音を消す。


 気持ちが舞い上がり、なかなか言葉が紡げなくて……


「……手の甲だけで、いいの?」


(……うぁ!? 私、今なんて言った!? なにを口走ったの?)

 

 自分で発した言葉を理解出来ず、ますます混乱していくマイラをよそに、フレーデリックは目を大きく見開いてマイラを凝視している。


(フレーデリック様が目を丸くしているわ。私ったら、なんて言ったのかしら……)


 フレーデリックは弾かれるように立ち上がり、もう一度手の甲に口づけ、マイラを熱い眼差しで見つめる。


「手の甲だけでは、足りない」


 手を握ったまま、フレーデリックの顔がゆっくりとマイラの顔に近づいてくる。


(えっ?……えぇぇ)


 マイラの鼓動が更に早くなり、緊張で足が震える。思わず瞼をギュッと閉じると唇が触れた瞬間。


 カチッ


 微かな音と共に、二人の前歯に痛みが走る。


「〜〜〜〜っ」

「いっ……」


 マイラとフレーデリックは同時に口を押さえ、目を丸くした。


「いっ、今、何が!?」


 口を押さえたまま呆然とするマイラ。


 フレーデリックもキスを失敗して狼狽うろたえるが、顔や態度に出ないように、一生懸命取りつくろっていた。


「や……すまない。前歯が当たってしまったな……知識として知っていても、経験がなくて……まだ痛むか?」


 心配そうにマイラの顔を覗き込むと、マイラは首を振る。この出来事で、舞い上がった気持ちが落ち着いたらしい。


「いえ、大丈夫です」

「そうか、よかった」


 フレーデリックの心配そうだった表情がゆるむ。


「キスとは、なかなか難しいものだな」


 呟きながら髪を触り、目をそらす。マイラにはフレーデリックの呟きが聞こえなかったらしく、小首を傾げている。


 マイラと同じ高さで視線を合わせ、恥じらいを見せて言い淀み、しばし沈黙した後、意を決したフレーデリックは口を開く。


「やり直してもいい?」


 やり直しとは何のことだろうと、マイラはきょとんとするが、言葉の意味を理解した途端、頬を染めて頷いた。


(ストレートに言われると、すごく恥ずかしい……)


 フレーデリックは髪に口づけし、鼻先でマイラの鼻先に触れる。マイラは驚いたように、体を揺らす。


 ゆっくりとおでこに口づけて、瞼、頬へと場所を変えて口づけを落とす。



 サロンに伸びる二人の影が動き、頭部の影が一つに重なった。



 影が離れると、色変わりする瞳をマイラの瞳が捕らえている。


「私を選んでくれて、愛してくれてありがとうございます。私もフレーデリック様を愛しています」


 想いを告げることができて、フレーデリックへの愛が胸いっぱいにあふれて止まらない。


 マイラは両手を伸ばし、フレーデリックの頬に手を添える。


「!?」


 マイラは背伸びしてフレーデリックへ口づける。フレーデリックは驚いたように目を瞠り、そのまま嬉しそうにゆっくりと目を閉じた。


 唇が離れると、マイラの瞳から雫が落ちていく。


「あなたの隣にいさせて。もう、離れたくないの」


 マイラがささやくと、フレーデリックは衝動に駆られ、マイラを掻き抱く。


「絶対に離さない! マイラが逃げ出したくなっても、逃がしてあげない!!」


 二人は何度も口づけを交わした後、寄り添い合い、互いの温もりに触れている。


(初めてのキスは失敗したけど、共白髪になる頃に、初めてのキスは……って、笑いながら話せるようになりたいな。今日の出来事は、絶対に忘れない)


 想いが通じ合い、フレーデリックの温もりを感じながら、マイラは初めて知る幸せに心が満たされていた。

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無感情な悪役令嬢がスパダリ王子の溺愛に気づくまで〜前世は飼い主であった令嬢と、愛犬だった王子の愛情物語〜  堀内 清瑞 @croweawaxflower1164

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