第85話 諦めなきゃいけないの

 ボリスはマイラの部屋の前で立ち止まり、ノックをして話しかける。


「マイラ、朝食の時間だ。皆、そなたが来るのを待っている。一緒に朝食を食べよう」

「…………私はいらないから、気にしないで食べてください」


 一体、マイラになにが起こったのだろうか? コレットの話では広場で飲み物を飲んでいたところ、急に顔色が悪くなり、足に力が入らない状態に陥り、コレットが馬車まで支えて歩いたと言っていた。


 体調を崩すような心当たりはあるかと問うても、コレットも首をひねるばかりで、らちがあかない。


 マイラが部屋に閉じこもって三日になる。扉の前に食事を置いても手を付けた様子はなく、母もボリスも心配し、何もできずに困り果てていた。



 この状況を黙っている訳にもいかないと、母が騒ぎ、父の元へ手紙ツバメを飛ばしたが、離れて暮らす父には心配をかけるだけではないかと、ボリスは思い返す。


 一緒に暮らす自分たちで、なんとかするべきだったと後悔していた。ボリスは食堂へ戻り、食事を始めるが、マイラが閉じこもってからは食事の時間が重苦しく感じている。











 フレーデリックの妃候補に何人かの令嬢がいると知ったマイラは激しく動揺していた。

 しかも公爵令嬢でほぼ決まったかのような口ぶりで話す隣のベンチに座っていた令嬢の言葉が、頭から離れない。


(私では、フレーデリック様の横に並ぶ資格はなかったんだ。公爵令嬢が、フレーデリック様を支えていくのね)


 銀色の瞳からいくつもの雫が落ちていく。



 フォルクハルトの命を受けたクレーメンスにさらわれ、救出してくれたフレーデリックが、思いがけない言葉を口にした。


『マイラ、僕はマイラをあきらめたくない。あなたを愛しているんだ』


 愛犬の記憶を持つフレーデリックが愛していると言ってくれた。

 マイラはその場でフレーデリックを慕っていると告げられなかったことを後悔している。











 馬立うまたて茉依まいだったあの日、ペットショップで対面した黒柴犬は、飼い主候補を拒絶し続けたと聞いた。

 茉依も拒絶されて終わるだろうと考えていたが、予想に反して黒柴犬は尻尾を振ってくれて。


 口を開けて舌を出し、上目遣いで茉依を見上げる犬の顔は、あなたのそばにいさせてと、懇願するような眼差しから、黒柴犬が茉依を選んでくれたと感じた。


 選ばれたことに、どうしようもなく身体が震え、胸が熱くなり、黒柴犬を連れて帰ると決めたのだ。


 散歩中にすれ違う飼い犬を威嚇する福を見て、一生懸命守ってくれているのだろうかと感じていた。


 福のような男性なら、自分を大切にしてくれるのかも知れないと、茉依は考えたことがある。



 一年後。

 事故にった瞬間、茉依の意識が薄れゆくなか、生まれ変わりがあるなら、福が人として生まれてほしいと強く願う。


 人としてお互いに向き合い、一緒に生きていけたら幸せだろうと思ったところで意識は途絶えた。






 目が覚めると日本人茉依から侯爵令嬢マイラになっていて驚き、戸惑うばかりで。


 そんななかで福の生まれ変わりであるフレーデリックと出会いを果たす。


 愛犬が王子に生まれ変わったと知り、驚いたが、人として一緒にいられることに、胸の奥底で歓喜した。当時は感情が乏しく、歓喜していると感じなかったが。


 フレーデリックの思わせぶりな行動に、どのような感情が込められているのか、理解しかねていたが、胸に宿った想いは日に日に大きくなっていく。想いの名は知らぬままで。






 フレーデリックからの『愛している』を信じていた。国民に後継者として認められたなら、迎えに来てくれると信じて待っていた。


 迎えに来てくれたら、ようやく思い出した茉依の想いをフレーデリックに伝えよう。



 その思いが打ち砕かれた。



 ベッドの横に座り込み、枕を抱きしめて嗚咽おえつを漏らす。涙でれた枕は乾く暇もなく、頬を伝う雫が枕に落ちて新たなにじみが増えるばかり。


 フレーデリックは将来、国王になる貴い存在だ。


(欠点ばかりの侯爵令嬢が横に並ぼうなんて、大それた夢を見てしまうなんて。叶わない想いなら忘れなきゃ……でも)


 忘れられなくて、逆にフレーデリックへの想いがあふれて止まらない。


(あの頃にはわからなかった感情も、今ならわかる。茉依は福が誰よりも大切で、愛しい存在だったと)




(生まれ変わりがあるなら、福も人として生まれてほしいと願ったのを覚えている。福の生まれ変わりフレーデリック様に愛されて、前世の分も愛したかった)


 はかない夢だ。


 フレーデリックを諦めなければならないのに。




 辛くて苦しくて、水の中でもがき続けて水底に沈んでいくような感覚に囚われる――――





 扉をノックする音が聞こえたが、マイラは反応しない。


「マイラ、私だ。扉を開けてくれないか?」


 王都にいるはずの父の声に、マイラは顔を上げ、立ち上がる。ふらふらと扉に向かい、ドアノブに手を伸ばした。


 ゆっくりと扉が開き、侯爵は言葉を失う。


 寝間着のままで、顔を見せたくないのかストールを頭からかぶり、うつ向き枕を抱えた娘の姿に、侯爵は痛ましそうに目を細める。


「そなたと話がしたいが、いいか?」

「……ど……ぞ」


 久し振りに聞く娘の声はかすれている。侯爵は部屋の中に入り、マイラと対面でソファーに座る。


 華奢きゃしゃな身体が一回り小さく見えるマイラに、侯爵は胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。


「マイラ、三日も食べていないと聞いた。そなたが悲しむ理由を、私に話してくれないか?」


 父に優しく尋ねられ、マイラの瞳に涙が溢れる。


「……クッ、フレー……フレーデリック様……妃はマリガネーテ様……と、聞きました……マリガネーテ様で、私じゃ……ない……の、諦め……きゃ」


 ポロポロと涙がこぼれ落ちる。我慢していた嗚咽おえつが漏れ、口元を押さえて嗚咽を押し殺し、うつ向いて身体を震わせている。


 マイラの様子を目の当たりにし、この子はこんなにも胸が痛くなる泣き方をするのだろうと、侯爵は悲しそうに顔をゆがめた。




 フレーデリックが心配していたことが、現実になるとは思ってもいなかったと、侯爵は唇を噛みめる。


 フレーデリックはマイラを本当に理解していると感心しつつ、父親として、マイラの気持ちに気づけず、情けなくなった。





 妃候補のうわさは耳にしていた。マイラなら気にしないだろうと勝手に思い込み、噂は気にしないようにと手紙を書くことさえしなかったのだ。


 街で聞いた噂を信じて悲しませてしまった。だから一刻も早く誤解を解かなければと、マイラの両肩に手を置く。


「マイラ、噂話を鵜呑うのみにしてはならない。フレーデリック殿下の妃になるのはそなただ。殿下はマイラを妃にと強く望んでおられる」


 うつ向いていたマイラが顔を上げる。泣き腫らした目を大きく見開き、父の瞳を真っ直ぐ見つめた。


「……う……そ」

「嘘ではない。マイラは殿下が信じられないのかい?」


 父の言葉で正気を取り戻したマイラは首をふるふると振る。


「なら、殿下を信じなさい。皆も心配しているぞ? 身支度を整えて、サロンにおいで。皆で待っているからな」


 侯爵はマイラの頭に手を乗せ、ポンポンと叩いてから部屋を出ていった。




 泣き止んだマイラはフレーデリックの愛を信じてもいいのかと、半信半疑になっている。

 自己肯定感が低すぎるマイラの悪いところだ。










 孤独に生きてきた人間が、愛を求めても無駄だと誰かが笑う。

 求めても得られない辛さをたくさん経験してきた。

 求める気力も涸れ果て、諦めることを覚え、何も感じなくなり、殻に閉じこもった。





 ――――――殻を破ってくれたのは、前世でも現世でも同じ魂を持つフレーデリックだった―――――― 





 マイラは両頬を手で叩き、気持ちを切り替える。


(もう、後ろ向きに考えるのは止めよう。フレーデリック様が妃にと望んでくれるなら、横に並び立つために、フレーデリック様を信じて、信じるだけだわ)


 どんなに自分が否定されても、フレーデリックとの仲を妨害されても、生きている限り、フレーデリックを愛すると、マイラは誓う。

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