第84話 不測の事態

 笑顔を浮かべているフレーデリックだが、目は笑っていない。それどころか、空気がピリピリして皮膚に痛みが走る。まるで乾燥した日に起こる静電気の痛みと似ている。


「僕の妃候補と言われている令嬢は誰か知っている?」


 フレーデリックの声が普段より低い。クルトはヘビに睨まれたカエルの心境でつばを飲み込む。


「公爵家の令嬢が二人で、バッハシュタイン公爵家のマリガネーテ嬢とベールマー公爵家のヴェラ嬢が最有力候補とうわさされていまして、ボダルト侯爵家のイルゼ嬢とハーゲン侯爵家のエリーネ嬢、キスケ伯爵家のヘレナ嬢……」


 クルトは指を折りながら令嬢の名をあげる度にピリピリした痛みが強くなっていくと気づく。


 フレーデリックの顔色をうかがうと、眉間に深いシワを刻み、クルトを見下みおろす眼差しは氷のように冷たい。


 クルトの口から「ヒィ」と短い悲鳴が漏れた。


 まだ令嬢の名があがっているが、このまま名をあげ続けると、フレーデリックの魔力がますます暴走しそうで、怖くてとても告げられない。


「……ぼっ、僕が知っているのはこの五人かな。うん、あとは知らない。聞いてない」


 クルトは恐怖で勤務時のから素のに戻り、敬語も忘れている。

 フレーデリックから漏れ出る魔力に、気圧けおされて身体が震える。


「マイラは?」

「……はい?」

妃候補その中にマイラの名は?」

「あれっ? そういえば、聞かなかったような?」


 フレーデリックは目をき驚いている。何度もまたたきをした後に視線を落とし、黙り込む。

 静電気のようなピリピリした感覚から解放されたクルトはホッと胸を撫で下ろす。


 残っている料理を流し込み、完食したクルトは改めてフレーデリックの魔力の膨大さを思い知る。






 自分のあずかり知らぬところで、誰が妃になるなどと噂されていると、いい気はしない。


 百歩譲ってマイラが妃候補と噂されているなら、気にならないが、全く知らない令嬢ばかりが妃候補と噂されて、フレーデリックは我慢がならない。


 夜食を食べ終えたクルトは仕事に戻り、フレーデリックも部屋に帰りベッドに横になった。




 両手に頭を乗せ、仰向けで天蓋てんがいを見つめていると、懐かしい姿が浮かんでくる。



 日本に住んでいた頃、自分にとって茉依は甘やかしてくれる存在だった。いたずらをすれば怒られたが、自分を見てくれる茉依が大好きで。


 茉依に寄り添うように隣に座っているだけでも心が満たされて。初めて顔を合わせたとき、この人間のそばが自分の居るべき場所だと強く感じた。






 あの日、自動車というものが自分たちの目前に迫り、咄嗟とっさに茉依の前に出てたてになる。


 小さな体では茉依を守れるはずもなく、消えゆく意識のなかで茉依を守れるように、大きな人間になりたいと、茉依と一緒に生きていきたいと、崇高すうこうなるものに強く強く願う。





 犬だった頃の記憶を思い出したのは、まだ立つこともできない赤子の頃だった。

 人間に生まれ変わったと理解し、今度こそ茉依を守りたい。


 願いを叶えてくれた女神崇高なるものに深く感謝した。


 犬だった頃に茉依を好きだった思いは、家族愛のようなものだっただろう。

 

 それでも茉依は自分のだと思っており、誰にも近づけたくなくて、散歩で茉依に近づく飼い犬を激しく威嚇いかくして、茉依を困らせていたことに気づかなかったが。




 人間の男として飼い主の生まれ変わりマイラを一人の女性として意識したのはいつだっただろうか……


 今では胸ががれるほど、マイラを愛している。マイラと結婚し、子どもをもうけて幸せに暮らす夢を見るほどだ。


 夢の中での幸福感は目覚めとともにはかなく消え去り、現実を突きつけられる。


(妃候補の噂はどこまで広がっているのだろうか?)


 フレーデリックに不安が宿り、じわじわと広がっていく。

 まんじりともせず夜が明けるのを待つ。


 翌日。

 いつもより早い時間に食堂に現れたフレーデリックは、国王が来るのを待っている。しばらくして国王が食堂に現れた。


「父上、おはようございます」

「うむ、おはよう。顔色が良くなったな、疲れは取れたか?」

「おかげさまで、疲れは取れましたが、父上にお話があります」


 朝食が運ばれてきてテーブルに並べられた。


「食べながら話すか? 食後がいいか?」

「食べながらでもいいですか?」

「ふむ、ならば聞こうか」


 国王は朝食に手を伸ばし食事を始める。フレーデリックも食事に手を付け話し始めた。


「父上は王都でまことしやかに噂されている話をご存じでしょうか?」

「噂じゃと? 知らんな。なんだ、そなたは平民の噂が気になるのか?」


 国王はハムを切り分け口にする。


「はい。ものすごく気になります。こんな噂を流した者をらえて、鉱山送りにしたいくらいです」


 噂を流した者を鉱山送りにしたいとは、朝から穏やかではない言葉に、国王は食事の手を止めた。


「一体、どのような噂が流れているのじゃ? 鉱山送りとは、ひどい噂なのか?」


 心配そうに聞く国王に、フレーデリックは大きく頷く。


「国民の間では、僕の妃候補と噂されている令嬢の名前がささやかれています」

「ほぅ。それがなにか問題か?」


 国王はフレーデリックが気にする理由が掴めない。


「由々しき事態です! 噂されている令嬢のなかに、マイラの名前がないのです!!」

「は?」


 国王は何が問題なのか理解不能で、目を大きく見開き、フレーデリックを見つめる。


「妃候補にマイラの名前が無いと、マイラが知ったら大変です! マイラは……茉依は自己肯定感じここうていかんがとんでもなく低く、すぐにあきらめてしまう性格なのです。噂とは言え、公爵令嬢の名があがっていると知れば、マイラは身を引いてしまうでしょう」


 テーブルに置かれた手はにぎめられ、手の甲に血管が浮き出ている。

 マイラに手が届きそうで、泡沫うたかたのごとく消えてしまいそうな、そんな予感が頭をよぎる。


「自己……肯定感? それと妃候補の噂のどこに接点があるん……あるではないか!」


 国王はフレーデリックが心配している真相ことを知り、顔色が変わる。マイラが明るくなったとはいえ、性格は簡単に変わるものではない。


 噂を耳にして、愛を告げたフレーデリックに裏切られたと心を痛めている可能性もある。

 

「カレンベルク侯爵が登城したら、相談するか」

「それがいいと思います」


 国王とフレーデリックの意見が一致し、二人は黙々と朝食をたいらげた。





 国王は執事にカレンベルク侯爵が登城したら執務室に来るように言付ける。


 クルトが休みのため、国王の執務室に書類を持ち込み執務にあたるフレーデリック。カレンベルク侯爵とすぐ話し合えるように準備万端だ。


 



 執事は王宮の入口でカレンベルク侯爵が登城するのを待っていたが、馬車から降りた侯爵の顔色が悪い。


「おはようございます。陛下が執務室に来るようにと仰せでございます」


 執事は礼儀正しく挨拶をし、侯爵を執務室へと案内しようと促しかけると、侯爵が口を開く。


「私も陛下に謁見えっけんを申し込みたかったのだ。陛下がお呼びとあらば急いで執務室に向かいましょう」


 いつもは穏やかな侯爵が、余裕のない表情で足早に執務室へ向かっている。


 執事は侯爵家で何かあったのかと察し、急ぐ侯爵の後を追う。

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