第145話 神がサイコロを振る世界
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小春川環は、一年余り前伶里がスケート連盟本部で言われた「有望なジュニア」の一人だ。
昨季、高一にしてシニアデビューし全日本では三位に入賞した。今季見事に全日本で優勝してチャンピオンとなり、二〇〇五年度世界選手権男子シングル、たった一人の日本代表となった。
元はバレエ出身で、日本人選手としても男子選手としても稀有な柔らかい表現力を持っている。中背だが手足が長く、顔が小さく、柔軟性に富んだ肢体はそれだけで一つの個性となっている。
一方で、新採点の申し子のような存在だと批判的に語る向きもある。
六点満点の採点下では、たとえ回転不足でも四回転を跳んで成功すれば、四回転無しのプログラムの選手より下回ることはまずなかった。
今は違う。ジャンプや一つ一つの技は基礎点に基づいて採点され、総計される。なまじ大技の四回転に挑戦し、転倒や回転不足になれば大減点が待っている。
それならばジャンプは四回転を捨て、小刻みに点を稼いでいく方が利口であり、得でもある。
トリプルでは最高難度のトリプルアクセルの名手で、さらに身体が柔軟なためにスピンでも複雑なポジションをとれる環はその思想に合う存在だった。ただし国内ではそれで良くても、世界では絶対に通用しない。
世界選手権で上位に行けるのは、四回転を跳ぶ能力があるのは当然として、失敗したら減点されるのなら失敗しないようにしようと考える精神の強者だ。
日本の連盟もそのことは理解している。彼らが環に望むのは、十位以上に入って来季の二枠を獲得することだ。
しかし五輪の前季で選手みなが必死になる今大会において、環の実力ではそれも高いハードルだった。
足切りである予選を、環はB組八位で通過した。単純計算すれば全体で十五、六番手ということになる。もちろんショートとフリーで巻き返すことも充分可能だが、これは大変に微妙な問題である。
冒険をしてジャンプの難度を上げ、リスクを承知で挑戦するべきか。しかしそれで失敗したら目も当てられない。
一方で無難にまとめた場合、周囲が攻めの演技を展開したらその時にも順位は下がる。だがライバルが冒険して失敗したら、その場合には上回るのはこちら側になる。しかしそれは完全に運頼みで、ある意味最もリスキーかもしれない。
選手として、コーチとしてそれぞれ経験の浅い環と橋田が思考の迷路に陥ってしまうのも無理はなかった。
一人の若い選手の未来を左右しかねないのだから、安易なことは言えない。しかし、今の環と同じ立場に過去二度も立たされたことのある身としてはとても放っておくことはできなかった。
廊下の向こうから、廉士が歩いてきた。白いシャツの袖をまくった格好で、女二人の姿を認めて「おっ」と言った。
「橋田さんとどこ行くんだ」
「ええ、ちょっと環が本選を控えて不安になってるもので、鷺沢さんに良いアドバイスがもらえればと思って……少しだけお借りしますね」
「へえ……それは」
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