第149話 小春川環
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小春川環とは全日本で今までにも何度か顔を合わせているたが、印象的だったのはやはり今季だ。
練習用リンクにわざわざ尋ねてきて、昨季マドリードの「アランフェス協奏曲」に対する感激を思わず伶里が赤面してしまうほど率直に語った。
身長百七十センチと日本の男子シングル選手としては決して小さくはないが、細くすらりとしてスポーツ選手という印象を抱けない。キューピー人形を連想させる黒目がちの大きな目といい、フィギュアスケートという美を競う種目でさえ武骨でそぐわないと思えてしまう。
その一方で興奮した口調で語る様が明朗で素直な気質を表していて、伶里の方こそ軽い感動を覚えてしまった。
その小春川環は今、深いため息をついて沈んだ空気を発散している。全日本王者の肩書きはいかめしいが、まだ高校二年生なのだ。
ホテル併設の喫茶店に、伶里は丸テーブルを挟んで環と橋田とともに座った。
「小春川くん。『情けは人のためならず』って諺の意味、知ってる?」
環は怪訝な表情で顔を上げた。
「人にいいことをすると巡って自分に返ってくるって意味ですか」
予想に反して正答され、やや拍子抜けしながら伶里は言葉をついだ。
「うん。私、今回全日本で二位だったけど、それでも世選代表になれたのは、二枠あったから。つまり、私が去年二枠獲ってたから」
伶里は声に力をこめた。
「小春川くんも、オリンピックには行きたいでしょう?」
「そりゃあ……行けるものなら」
「だったら、今から頑張っとかなきゃ。小春川くんはもちろん日本一の実力者だけど、試合なんて何が起こるか分からないし。多く枠をとっとくことは、将来の自分を救うというか、保険をかけることにもなるんだよ」
環はまじまじと伶里を見つめ、困ったような複雑な笑みを浮かべた。
「鷺沢さん、正直ですね。説得力がめちゃくちゃあります」
苦いとも寂しいともつかない微笑だった。相手の意見に説得力を感じはしても、それだけでは動けないというようだった。
「私は思うんだけど」
橋田が口を挟んできた。
「鷺沢さんとは、状況としては四年前のサンフランシスコより去年のマドリードの方が似てるかもしれないね」
伶里の方を見て、
「ショートで十三位になって、あの時なんて思って頑張ったの」
「あの時は、コーチが」
伶里は言いかけて黙った。
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