第148話 潜熱の日々
(3)-2
年齢だけでなく、住んでいる場所も伶里は知らない。リンク事務所に問い合わせたり、また思い切って本人に直接に訪問を願っても良いのに、できない。撥ね付けられた場合が怖かったし、それ以上に勇気がなかった。
また実家の家族構成、コーチになるまでの人生についても知らなかった。怪我で競技を引退したことは知っていてもそれ以上が伶里にとり空白だった。ただ一つ知っているのが、リンクに頭を下げる話だ。
踏みこむのが怖くもあり、恥ずかしくもある。もちろん情報は無いより有るほうがいい。彼に対し何のこだわりも持っていなかった頃にもっと話を聞いておけば良かったと思う。しかしそれは、随分昔の話だ。
そしてある意味最も大事なことだが、交際している女性はいるのだろうか。そのことについては、怖くて深く考えたことがない。だが一つ確実に言えることがある。
あのマドリード世界選手権でのフリー演技の直前に、一瞬だけ彼が見せた激情だ。たとえ生徒だろうと、あれだけの生の剥き出しの感情を、恋人を持つ身で異性相手に向けられるものだろうか。
しかしそれも、すべて思いこみなのかもしれなかった。
物理的には何も変わっていないのに伶里の心だけが熱くなり、悩み、臆し、日々だけが過ぎていく。不自然ながら安定した状態が、心地よくなくもなかった。
痛いかもしれない真実から目を背け、リンクに行けば彼に会えるという生活が永遠に続いて欲しいような、そんな気分になったこともあった。
だが伶里は選手であり、十月のカレンダーがめくられれば競技のシーズンが始まる。自分の試合がまず第一だが、強豪の出場する他の試合の結果の情報も入ってきて焦らされる。
自分の「仕事」のことで頭が一杯になり、それ以外のことは考えられなくなる。しかしそれもやはり、現実から目を背けている状態なのかもしれない。
「わ、ちょっと危ない!」
叫び声とともに肩を強くつかまれた。数十センチ前を、トラックが轟音を立てて過ぎていった。
「もう、赤なのにふらふら歩いていくからびっくりしたじゃないの! 試合の前に、怪我以前に死んでもいいの!?」
真剣に怒った顔で大きな声を出す橋田を伶里は呆然と見つめ、
「すみません……」
呟くように謝った。
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