第147話 照準合致の夜

(3)-1

 環たちのホテルは、伶里のホテルから歩いていける場所にあった。

 街並みの姿は日本の繁華街とあまり変わらない。周囲に飛ぶ会話の言葉と看板のハングル表記だけが違う雑踏の中を、お互い一言もしゃべらずに歩いた。

 自分の思考に没頭してしまっている伶里に、橋田が声をかけないでいる状態だった。

 伶里はもちろん、廉士のことを考えていた。

 マドリードの世界選手権で、重要な一線を精神的に越えた。そう思っていたのは思いこみだったのだろうか。選手が試合に出てそれなりの結果を出し、コーチが食事をおごったというだけのことでしかなかったのか。

 あれからも、廉士の態度と言動は指導者の範囲を超えないでいる。その一方で、伶里の気持ちは完全に決定した。今まで散在していたものが一点に集束し、はっきりと方向性を自ら定めて座りこんだ。

 伶里もまた、態度は生徒としての範囲を越えないでいるが、自分のこの感情が相手に伝わっていないとはどうしても思えないのだ。

 練習中は選手の頭になっているから、フォームを正すために身体に触れられても事務的に受け入れることができる。しかしそれ以外の場所で、ふいに違う態度を取られると過剰に反応するか、何も言えなくなってしまう。

 そしてそういう、廉士が普段とは違った態度をとることがマドリード以前に比べると随分増えたような気もするのだ。また、伶里の反応に気がつかないほど鈍い人だとも思えない。

 だがそれは結局「大人の男性なのだから好意を寄せられたら何を言われないでも感づき、自ら動いて対応してくれるべき」という思考だ。

 大人の男性と言えば、伶里は廉士の正確な年齢を知らない。そのことに気づいた時には愕然としたが、とにかくどれほど若くてももう三十代後半にはなっているはずだ。昔に比べ落ち着きと貫禄を得たが、一方でいつまでも若々しく生活感がない。

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