第144話 銀盤曼荼羅

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 またページをめくり、全米選手権の特集をとばして欧州選手権の記事を開いた。

 男子シングルはイリヤ・バシキロフが八連覇を達成。女子シングルは、ファイナルで十代選手二人の後塵を拝したブリジット・クレソンが優勝した。

 この欧州選手権ではレムは四回転を封印した。その選択について、また憶測が乱れ飛んだ。

 回転不足をとられて、クリーンなトリプルより低い点にされるのを恐れたのではないか。

 いや、今回の開催地はデンマークであり、アウェイを懸念する必要はないはずだ。

 いやいや、ブリジット・クレソンはジャンパーでもあるがそれ以上に芸術性に秀でた、まさにヨーロッパが理想とするスケーターである。その彼女を押すため、まだ新人で荒削りでもある自分は抑えられてしまうと思ったのではないか。

 また、勝負そのものについても議論は百出した。

 クレソンと四回転を封じたレムの点数は僅差だ。十七歳の伸びしろと二十一歳の伸びしろを一緒にはできない、レムが世界選手権までの一ヶ月、再び詰めたらまた勝負の帰趨は分からなくなる。

 いや、僅差だろうと勝敗は勝敗だ。グランプリファイナルでは、クレソンはインフルエンザが完治せず不調だった。結局、四回転がなければレムはクレソンには勝てないのではないか。そしてどれほど高度なジャンプだろうと、クリーンに決められないのなら武器としては使えない、云々。

 ざっとインターネットで見ただけでこの狂騒である。しかも一般社会を巻きこまない、あくまでスケートファンや関係者に限った話なのだ。来季オリンピックシーズンになればどれほどの過熱報道が展開されるのか。「十七歳の少女」「四回転ジャンプ」という語は、人々に理性をなくさせる究極の組み合わせだ。

 その中で、シーズン前半とはいえ四回転娘(クワド・ガール)も自国のエースもさしおいて鷺沢伶里の演技に注目してくれた、エリック・マクダネル氏には感謝するべきなのかもしれない。いや、もしかしたら、それだけの悪い意味でのインパクトがあのレゲエにあったということなのかもしれない……

 ノックの音が響いた。「はい」と伶里は、ベッドに座ったまま顔だけ動かして声を出した。

「あの、小春川のコーチの橋田ですけど……ちょっと、時間、いいですか」

 という、女の若々しい声が聴こえてきた。

 ドアを開けると、三十がらみの目鼻立ちのすっきりした女性が立っている。別のホテルに宿泊している男子シングル日本代表、小春川環のコーチ、橋田あゆみだった。

 伶里は橋田を部屋に入れて、

「どうかしましたか」

 と尋ねた。橋田は眉をひそめ、

「実はねえ……環が予選で八位になったもんだから、ナーバスになっちゃって。苛々するとかじゃないんだけど、逃げ出したそうな顔でため息ばかりついてるの。恥ずかしい話だけど、私自身コーチの経験も浅いし、選手としても世界選手権に出たことなんてなかったもんだから。こういう場合、なんてアドバイスするべきかわからないの。

 それで鷺沢さんなら、同じ選手でもあるし、下手な大人よりはるかにこういうことについて良いことが言えて、環にも受け入れられるんじゃないかと思って。鷺沢さんも試合前で大変でしょうから心苦しいんだけど、少し、時間をもらえない?」

「はあ……」

 伶里はやや間をおいて、

「いいですよ、私で良ければ。ちょっと待ってて下さい」

 クローゼットからコートを取り出してはおった。学生の頃から使ってもう何年にもなる、カーキ色のダウンジャケットだ。

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