*10* 既視感

 ──何故なにゆえ

 

 寥々りょうりょうとひろがる漆黒の闇をあおいだ鼓御前つづみごぜんは、とうてい理解できなかった。


「ここはどこ? これは何なのですか!」


 なにも見えない。なにもつかめない。

 ただただ、天地もわからぬどす黒い虚無空間で、鼓御前はもがいていた。


 ズブズブ……


 からだが沈む。まるで、沼に足をとられたかのよう。


「いやぁ……!」


 もがく、もがく。

 伸ばした手は、やはりなにもつかめない。

 もがくほどに、飲み込まれる。


 シュウウ……


 さらに酸性の沼気しょうきが立ちこめ、容赦なく鼻を刺す。そのせいで呼吸もままならない。


(うっ……なんてにおい……)


 ズブリ、ズブリ……


 黒い沼は、鼓御前の足を、腿を、腰を、胸を飲み込み、首もとまで迫っていた。

 いびつに口をあけた沼が、華奢な少女のからだを咀嚼し、飲み込まんとする。 

 その蠢きは、消化液を分泌して蠕動ぜんどうする、巨大な胃のごとく。

 

(もう、だめ……)


 もがく気力も尽き、手足が脱力した刹那。


 ピチョン──


 朝露がしたたり落ちたかのような、ふいの水音。


「え……?」


 おぞましい闇を揺らしたそのひとしずくが、波紋をひろげるように漆黒を吹き飛ばす。

 一瞬にして白い光につつまれた鼓御前は、あまりのまばゆさに、きつくまぶたをつむるほかなかった。



  *  *  *



 覚醒は、突然である。

 淡い陽の光にくすぐられたまぶたを、そっともち上げる。


(……あら、わたし、どうして……ここは?)


 数度まばたきをした鼓御前は、ぼんやりとしたままきょろりとあたりを見わたす。

 たちまちに目を奪ったのは、鮮烈な色彩。

 たとえるなら桃の節句、ひな壇をいろどる緋色を思わせる鮮やかな緋毛氈ひもうせんが、藺草いぐさの香る六畳間いっぱいに敷きつめられており。


(どなたか、いらっしゃる……?)


 たったひとつ、人影をみとめた。

 人の言葉であらわすならば、『少年』だ。


 さらりと清潔感のある、とび色の髪。

 白衣びゃくえの袖は、差袴さしことおなじ今紫の紐でたすき掛けに。

 緋色の絨毯の上で正座をし、しゃんと背筋をただして向き合うは、ひと振りの刃だ。


(あぁ、あれは……あの刀は、


 目釘めくぎをはずされ、柄からも抜かれた黒い刃は、まごうことなく、鼓御前自身であった。


(じぶんをながめるなんて、変な感じね)


 くすりと笑った鼓御前は、緋毛氈の端にちょこんと座り、少年の横顔を見つめる。

 和紙をくわえた口は、かたくなに閉ざされ、一切の言葉を発さない。


 とんとん、とんとん。


 むき出しの刀身を、打粉うちこで軽く叩かれる。串に刺さった巨大な月見団子のように見えるこれは、白い布製の団子の中に、砥石といしの粉が詰まっている。


 とんとん、とんとん。


 はばきもとから切っ先へ。

 まんべんなく打たれた砥石の粉が、古い油を吸うのだ。

 少年は打粉を置くと、手にとったやわらかい布で浮いた油をぬぐう。


(……んっ……)


 ぞわり、と肌が粟立つ感覚に、鼓御前は身をこわばらせる。


(くすぐった……あっ……)


 刀身を滑る布との摩擦が、じんわりとした熱をからだの芯からひろげてゆく。

 この感覚を、鼓御前は知っている。

 人の身を得たいまだからこそ、口にできる。


(きもちいい……)


 風呂場で葵葉あおばにふれられた感覚と、似ている。

 余すところなく素肌をくすぐられ、按摩あんまされるあの感覚と。

 絶えず与えられる快感に、声を押し殺して身悶える。


 粛々と手入れをほどこす少年が、保存のため、丁字油ちょうじあぶらを染み込ませた布を滑らせた。

 最後に、唯一素手でふれることのゆるされるなかごへ、華奢な指をなでつけて。


(はぁ……)


 ため息をもらした鼓御前は、ぶるりと身じろぎ、熱を逃がす。


(わたしったら、きっと顔が赤いわ……)


 鏡を見ずともわかるほどに、からだが熱い。

 じれったい疼き。けれど不快ではない。いや、むしろ。


 手際よく茎を柄にもどし目釘をさして、刀身を白鞘におさめた少年は、鼓御前の御神体を緋毛氈へ置く。

 そして両手をつき、深々と頭を垂れた。


 なにもかもが、夢見心地だった。

 気だるくも、心地のいい熱。


 衣ずれがあって、少年の視線がつと、横たわったひと振りの刀からはずされる。


「──テンコ」


 そして、静寂にひびく声。

 鼓御前は、にわかな驚愕に戦慄した。


 いつの間にか向かい合った少年。

 その双眸にやどっているものが、おのれとおなじ紫水晶であると、ようやく気づいて。


「テンコ──天鼓丸てんこまる


 くり返す少年の色白な指先が、ふいに伸ばされる。


「まったく……どこの馬の骨に、磨上すりあげられたんだ?」


 少年がなにを言っているのか、わからない。

 わからない、はずなのに。

 細い指先がほほにふれたとき、無性に目頭まで熱くなった。


「在るべきところに、もどってこい」


 鼓膜をくすぐる静かな声に。

 そっと引き寄せる腕の感触に。

 ひどく懐かしさをおぼえたのは、何故なにゆえだろうか。


 問いの答えは出ないまま、鼓御前は意識の遠のくからだを、少年へとゆだねるのだった。

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