*8* 竜頭の面

 その刀がいつの時代に打たれ、どのように伝わったのか、事の仔細を知る者はいない。


 しかし、ある武士が敵にかこまれたときのこと。

 晴れ渡った夏空をたちまちに黒雲が埋めつくし、雷鳴がとどろいた。

 これは竜の怒りだと、だれかがいった。

 男たちは恐れおののき、半狂乱になって逃げ出す。

 ただひとり、武士──蘭雪らんせつをのぞいて。


 雷を呼ぶ刀。しかれども、落雷が刀の持ち主である蘭雪を撃つことは、ついぞなかった。


『蘭雪在るところ、竜の怒り在り』


 蘭雪はこの刀を『鼓御前つづみごぜん』と呼び、重用した。

「かの刀があるならば妻は要らぬ」と、まるで夫婦のように寄り添い、愛したのだ。


 これが『鳴神なるかみ将軍』──蘭雪公と愛刀『鼓御前』をめぐる、逸話である。



  *  *  *



「漆黒の地鉄じがねに、屈折した細い金筋きんすじの紋様……稲妻の、刃文はもん……」


 あざみ朦朧もうろうとした意識のなか、突如あらわれた漆黒の刀を目に焼きつける。


「まさか、まさか……御刀おかたなさまと、鼓御前さまと契りを結んだというのですか、青葉時雨あおばしぐれさま!」


「うるさい。外野はおとなしくくたばってろ」


「……うっ!」


 頭から血を流しすぎた。ろくに脳へ血流の行き届いていない莇は、叫んだ反動による強烈な頭痛で、意識を飛ばした。


『莇さんの手当てをしなければ。あまり時間はかけられません』


「わかってるって」


 鋼の身による人ならざる声を、葵葉は難なく聞き届けてみせる。

 常磐ときわ色の瞳孔をひらき、口もとを愉悦で歪ませながら。


「心臓を、ぶった斬ればいいんだよな?」


 ゆらりと影が揺らぎ、少年のすがたが残像となった。


「行くぞ、そらっ!」


 一瞬のうちに踏み込んだ葵葉が、一閃。

 振り下ろされた刃が、〝ヤスミ〟の左の翼を斬り落とす。

 すかさず、下段からの振り上げ。残る片翼も斬り落とす。

 ふき上がるは、緑色の鮮血。


きたならしいな……さっさと死ね」


 低く吐き捨てた刹那、葵葉は漆黒のきっさきで〝慰〟の胸を貫く。

 肉でも骨でもない、糸のような繊維を断つ感触が、刃を介して伝わった。


「ギャアアァアアアッ!!」


 響きわたる断末魔の叫び。

 アスファルトをのたうち回る雀の異形だが、真白い光につつまれたそれは、煙のごとく、跡形もなく消え失せた。

 静寂がおとずれ、しばしの沈黙ののち、葵葉が嘆息する。そして。


「っはは……あはははっ! やっぱりすごい切れ味だな、さすが俺のあねさまだ!」


『こら! 抜き身の刀にほおずりをするおばかさんがいますか!』


 なんと血払いをするなり、満面の笑みを浮かべた葵葉が鼓御前の刀身へほほを寄せてきたのだ。

 とっさに切れ味を落とした鼓御前の心境など、ご満悦な葵葉は知るよしもないだろう。


「刀の姉さまも堪能したかったんだけどなぁ。まぁいいや。俺もし」


 葵葉が名残惜しげに峰をひとなでするうちに漆黒の刀が光につつまれ、ほほをふくらませた少女のすがたがあらわれる。


「なんだ、怒ってるの? かわいいなぁ」


「〝慰〟を祓ったんですから、はやく莇さんを連れて帰りますよ! 怪我の処置をしないと!」


 デレデレとほほをゆるませきっている弟が、言うことを聞くとは思えなかった。

 わたしがやったほうがはやいわ、と、鼓御前は鼻息も荒く莇へ近寄ると、はりきって担ぎ上げようとする。


「よいしょ……あらっ?」


 が、意識のない莇の腕を肩に回そうとしたとき、なぜだか視界が回る。

 天地が、わからなくなった。


「姉さま──」


 すぐに姉の異変を察知した葵葉ながら、伸ばした右手は虚空を掻くだけ。


「──鼓御前」


 名を呼ばれた。懐かしい声音だ。

 ふわりとからだが浮いた感覚がして、反射的にまぶたをつむる鼓御前。


「こわがらないで。目をあけてごらん」


「……え」


 葵葉のものではない、若い男の声がする。

 やわらかく、おだやかなひびきで、ひどく心地よい声音。


 こわごわとまぶたを持ち上げた鼓御前は、紫水晶の双眸を極限まで見ひらく。

 アスファルトを踏みしめていたはずの足が、宙に浮いていたからだ。

 けれど、なによりも鼓御前に衝撃を与えたのは、自分をのぞき込んでいた人物のすがた。


 身にまとうは漆黒の狩衣。

 そして物々しい竜頭の面で顔を隠した男が、たたずんでいた。

 そのおそろしい出で立ちからは想像もつかぬ、繊細な手つきで、少女の白いほほをなでながら。

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