汚濁残滓②

「ひぃっ、ひぃっ、二人して電動かよ……!」


 浩紀はクロスバイクに跨り、ローギアに入れて山道を駆け上がっていた。一方、夏目と東雲の女子二人は電動自転車でスイスイと坂を登って行った。


「あんたも電動買えばよかったじゃん」

「いや、俺は、自分の足で、漕ぎたいっていうか」


 息を切らしながら登って、目標地点に辿り着く。勾配は緩やかだったが距離が長かった。路肩に自転車を停め、ガードレールに立てかける。ヘルメットを外してサドルに置く。チェーンロックを掛ける意味はなさそうだったが、落ち着かないので習慣で掛ける。

 街灯も疎らな道で、車通りもほぼない。おまけに新月となれば、かなり暗い。飛び降りの件では家族からめちゃくちゃ心配されたので、また夜の外出がバレれば怒られそうだな、と浩紀は思った。


「ま、万が一のために書き置き、残してます。友達と九曲トンネルを調べに行くって」

「東雲さんナイス。できれば親バレは避けたいけど」

「この先か。うわあ」


 浩紀は自転車からLEDライトを取り外して構えた。樹木と藪に覆われ、見える範囲にトンネルらしき影はない。地面にはかろうじて砂利道のようなものが見える。夏目と東雲が一度はここまで来たうえで引き返したというのにも納得できた。


「ね、ねえ。ホントに行くの?」

「行くだろ。ここまで来たんだ」


 バッチリ準備もしてきている。各自LEDライトはもちろん、服装は長袖のジャージで軍手までしている。三人はガードレールを跨いで越えた。

 生い茂る草木のせいでわかりづらかったが、急な下り坂になっていた。彼らは身を屈めながら慎重に進んだ。屈むと、ただでさえ背の高い雑草の森に身体が埋まり、草の葉がちくちくと顔を撫でた。腐った落ち葉と枯れ枝を踏み締め、蜘蛛の巣を払いながら進む。

 数少ない情報によれば、わずかに見えている砂利道の先にあるはずである。

 本当にあるのか、という疑問が頭をもたげてきた。それほどまでに藪は深かった。ライトを振り回しながら、自転車を停めた位置を見失わないように進む。

 やがて、コンクリートの人工物を発見した。草木を掻き分け、意気揚々と進む。穴がある。トンネルだ。銘板には「九曲トンネル」と記されていた。


「これ、これだよな。なんつーか、迫力あるな……」


 大きなトンネルではない。自動車がすれ違えるかどうか怪しい幅員だ。しかし、道から外れ生い茂る草木に覆われ隠された、忘れられた廃トンネル。好奇心を刺激してやまないロケーションだった。


「照らしても奥の方なんも見えねーな……」


 発見し、近くまで歩み寄るも、躊躇いのために立ち止まった。彼らは互いに互いの顔を見合わせる。外から様子を伺ってもなにも見えない。ただ冷たいコンクリートの建造物であることがわかるだけだ。時間だけが過ぎていく。

 いつまでも立ち尽くしていても仕方ない。俺が先頭をいく――と浩紀は頷く。が、直後、彼らは慌てて踵を返した。

 奥から、なにものかの足音が響いて聞こえてきたからだ。


「やばっ、ちょ、隠れろ」


 トンネルから離れ、LEDライトを消し、それぞれ身を潜める。ただでさえ暗い。茂みに隠れれば、まず見つからないはずだ。

 足音はどんどん近づいてくる。コンクリートを踏み締める硬質な音だ。浩紀は固唾を飲んで見守った。

 出てきたのは、一人の女性だ。背の高い女性だった。暗くてよく見えなかったが、髪は黒で肩にかかるセミロング。脚はスラリと長く、腰も細い、均整の取れたシルエットが伺えた。


「おばけ? トンネルのおばけか……?」

「しっ! あたしが知るわけないでしょ」


 近くに夏目がいたので小声で話しかける。

 咄嗟におばけかと思ったが、おばけが足音を鳴らすのだろうか。服装もよくは見えないが、おばけのイメージとは程遠い現代的でオシャレなものに見えた。

 きっと、ふつうに人間なのだろう。そう思うが、一つだけ大きな違和感があった。

 ライトを手にしていないのである。

 新月の夜。これほどの暗闇の中、より深い闇であろうトンネルを歩くのに、ライトを持たないなどということがありうるだろうか。


「隠れているのは、鮎川浩紀さんですか?」


 女性の声。まさかの名指し。

 浩紀は思わず声が出そうになり、身が凍るようだった。

 なぜバレたのか。茂みに隠れる際に思ったより音が響いていたのか。それでも、なぜ名前まで? さっき話した声が聞こえた? だとしても。

 心臓が激しく高鳴りつつも、手先が冷たくなっていく。女性は雑草を踏みながら一直線にこちらへ向かってきた。逃げられない。隠れた位置までバレていた。


「は、はい。鮎川浩紀です。……あなたは?」


 観念して立ち上がり、すぐ近くまで迫った女性の顔を見る。

 まったく見覚えのない、しかし綺麗な顔立ちの女性だった。いや、綺麗すぎた。この世のものとは思えないほどの美人に見えた。ミロのヴィーナスがその欠損による不完全さから至高の美を体現するように、暗さでよく見えないせいで過剰に想像力を刺激されていた。


「私の顔に見覚えはありますか?」

「え? ……あ、いえ」

「ライトを使ってもいいですよ」


 女性は少し身を屈め、顔を近づけて尋ねてくる。質問の意図がわからなかったし、ライトを使ってもいいというのは顔を照らしてもいいという意味だろうか。好奇心と恐怖の両方があった。


「えっと、では……失礼します」


 言われるがまま、ライトを点灯し、女性の顔に近づけた。彼女は眩しいという素振りを一切見せず、その光を正面から受けた。色白の美しい女性の瞳が、ただ真っ直ぐに少年を見つめていた。

 だが、見覚えはない。これほどの美人を忘れるはずがないからだ。


「いえ、その、初対面だと思うんですけど……」


 怖い、が、おばけではない。それはそれで恐ろしい。綺麗な人でも、不審者には違いなかった。一挙一動が不可解で、ここにいた目的も不明である。


「あ、もしかしてお姉さんも……このトンネルに肝試し、に?」


 自分たちは厳密には違うのだが――と思いつつ、そう言った方がわかりやすいだろうと浩紀は言葉を選んだ。女性は身を屈めるのを止め、姿勢を伸ばした。


「私は調査に来ました」

「は、はあ。調査、ですか」


 公務員かなにかなのだろうか。あるいは学者か。それとも権利者かなにかか。だとしてもなぜこんな夜に? しかし、その疑問は浩紀らにも返ってくる。同じ目的か、あるいは逆に「肝試し」に来るものを注意するためか。彼女の語調からは咎めるようなニュアンスは一向に感じられない。それが逆に不気味だった。


「新月の夜ですが、この九曲トンネルからはもはや怪異は検出できません。いわば、『死んだ』と表現してもよいでしょう」


 奇妙な発言が続く。綺麗な顔立ちはわずかも歪むことなく、淡々と事実のみを告げているように見えた。


「私は、あなた方を待っていました」


 見知らぬ大人が、こちらを一方的に知っている。それがこんなにも怖いものなのかと浩紀は思った。


「鮎川浩紀さん。夏目きゆさん。それから、東雲芽衣子さん」


 彼女はそれぞれの居場所を正確に言い当てるようにして声をかけた。

 今すぐにでも逃げるべきかも知れない。だが、特に害意は感じられない。そのために判断が振れない。脅威であるという明確な証拠さえあれば、叫びながら逃げ出せるのに。際限なく湧き起こる疑念が真綿のように首を絞める。


「私の顔を目にして、なにか感じますか?」


 またしても同じような、意図のわからない質問だった。

 どこかで彼女と会っているのだろうか? ミステリー映画でありそうなのは、なんらかの犯行現場を見られたと思って確認している場面。いずれにせよ心当たりはない。

 あるいは、口裂け女に代表される、怪異からの「問い」である。


「さ、さっきも答えましたけど、特になにも……。むしろ、お姉さんはなんで俺らのこと知ってるんですか?」


 浩紀は代表して答える。夏目も東雲も震えていた。女性はすぐには答えず、じっとこちらを観察しているように見えた。


「頭痛や吐き気といった症状はありませんか?」


 恐怖を感じている。冷や汗が流れている。手先が震え、地面が頼りない感覚がある。だが、頭痛や吐き気というものはない。


「そうですか。でしたら少し話しますが、私があなた方を知っているのは、あなた方と会ったことがあるからです」


 答えてもらったというのに、脳内で疑問符は増すばかりだった。タイムパラドックスSFのような展開を想像した。実際に直面してみると、異常者と遭遇してしまったのだと理解するほかなかった。


「私はアリサです。あなた方を待っていたのは、私がであるかを確かめるためです。それは確かめられました。ですが」


 彼女は、笑みを浮かべていた。


「ありがとうございます」


 ダッシュで駆け抜けて、ガードレールを越えて、自転車に辿り着いて、鍵を外して、LEDライトを装着して、ヘルメットを被って――そんなことを脳内でシミュレーションする。もたつく要素が多い。省略できる工程を探す。自転車を捨てて走って逃げた方が早いか。それより、夏目や東雲が逃げられるように足止めすべきではないのか。女性とはいえ背が高い。力でも負けるかも知れない。凶器の類は持っているように見えない。


「あとはただ、気になっただけです」


 そういい、アリサを名乗った女性は去っていく。一瞥もせず横切り、坂を上って藪の影と闇に溶けるように、姿を消した。浩紀はしばらくの間、硬直したまま動けなかった。


「び、びびったぁ~~……」


 浩紀はへなへなと腰を落とした。地面は湿っていたが、気にせず尻をつけた。


「なに? あの人なに? マジでなに?」

「こわ。なにあれ? なになになに。言ってること一つもわかんない」

「わ、私たちと、同じ目的の人だったんでしょうか?」

「それっぽいよなあ。青木さんみたいな感じかな」

「ていうか、あんたってそんな有名なの? あたしらの名前まで知ってたし……」


 恐怖体験は十分に味わった。トンネルそのものを覗いてみるかどうか、彼らは及び腰で協議することになった。




 アリサはガードレールを飛び越え、停められている三台の自転車を見た。一方、彼女は200m先に停まっているバイクへ向かう。距離を開けているのは彼らに警戒されずトンネルまで誘い込み待ち構えるためである。実際、それは上手く行った。

 車通りのない道を、彼女は一人歩く。彼女は今、リアルタイムモニタリングを受けていない。静かな夜だった。明かりは疎らで、道は暗い。彼女はこれからも、一人で歩き続ける。


 否、反対車線にすれ違う影が一人。

 そこには、全裸ジョギングに励む中年男性の姿があった。




【第二部 完】

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対怪異アンドロイド開発研究室 饗庭淵 @aebafuti

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