10
仕切り布の向こうに気配が立って、もう交替の時間かと、浅い眠りの底で思った。途端、勢いよく布は引き開けられ、ぐいと肩を揺すられた。
「起きろ! 早く!」
寝起きが悪くては務まらぬ職業だ。お互い声の一つで飛び起きるのに、何をそんなに焦っているのだろう。胸倉を掴まんばかりの手を押しのけて、半身を起こす。
「・・・殺しか? 押し込みか?」
「ティズが今戻った。」
旧玄邸へ遣わした小者の名は唐突に響いた。
「そうか、かかったな。わざわざどうも――、」
「お前、いったい何を連れ込んだんだ!?」
目が血走っているのは、真夜中のせいだけではないらしい。
――真夜中?
勿論そうだ。今夜の仮眠は自分が先で、そろそろ交代だから眠りは自然と浅くなっていたのだ。
「ティズが今、戻った・・・?」
晩鐘が鳴れば、王都を縦につなぐ各門、その各壁内を四方位で区切る街戸は閉ざされ、通行は縦よこともに制限されるというのに。
繰り返して、異様さに眉を顰めて同僚を仰ぎ見れば、ようやく気づいたかと舌打ちせんばかりの形相だ。
王都は城を囲む三つの壁から成る。無論はじめからこの形だったのではなく、人口の増加とともに拡張されていったものだ。
最も古い第一壁は王族、名門貴族(綺族)、高級軍人、・・・の住居で構成される街だ。都護府の管轄でもなく、近衛軍が治安権を持つ。門は四つ、東西南北にあり、一壁には街戸はない。
一壁の門と一体化しているのが、二壁内の四大公家の邸宅だった。二壁がまだ築かれぬ時代、四大公家が王城を守る役割を担っていた証だ。いまはたんに門が敷地の一部にあるだけで、警護しているのは近衛軍である。
二壁から第三壁への門は、北東・南東・南西・北西に開く。騎士団の本部や各役所の本庁が置かれ、中層の貴族、裕福な商人の邸宅が主だ。第二壁には四方位で街壁が築かれており、各大公家の名にちなんで、例えば南側を朱地区と称する。
現在の最も外側は第三壁だ。門はまた四方位で開いて、都大門と称す。庶民の町であり、市場も置かれる活気のあるエリアだったが、『凪原』の侵略がもたらした荒廃が色濃く残っている。
ティズは第三壁朱地区から、第二壁内玄地区へと向かった。一つの壁と二つの街戸を越える。思った以上に手間取った為に、晩鐘に間に合わず、どこかの詰め所で夜を明かすのだろうと思っていたのだが。
「長官がおいでになっている。」
喚き散らしたいのを抑えているのだろう。歯を食いしばるように同僚は言ったのだ。
「----長官?」
「シュレザーン都護府長官をお連れして、いや、長官に連れられてティズは戻ってきたんだ!!」
こんなに目を瞠ったことはない。口はただ開閉する。
紛れもない異常事態だった。
ざわついた空気に、セトムは目を覚ました。
「事件かな・・」
半身を起こして呟くと、どうだろう、と牢の中から応えが返ってきた。自分が気づくくらいだから、とうに起きていたようだった。
「----嫌な予感がする。」
腹筋を使って勢いよく起き上がり、足を床に下ろした。
髪を撫で付けながら睨むように見た扉が、大きく開いた。大きな燭台を手に手に掲げて、男たちが次々に部屋に入ってきた。小さな燭台一つだけから、いきなり明度が増した小さな部屋の壁際をびっしりと男たちが埋め尽くす。異様な雰囲気に、セトムは慌てて入り口付近に移動したが、そこへ「真打」が登場した。
セトムには誰だか分からない。周囲の恭しい様子から「お偉いさん」なことは伝わる。白髪で畳まれた皺は深い初老の男。だが、ぴんと伸びた背筋も、引き締まった体躯にも老いの影は遠い。歴戦の軍人、を絵に描いた姿だ。
上官かな、と表情を消した「坊ちゃん」と見比べた。
「閣下、」
呼びかけたのは軍人だった。
「ただちに、こちらにおでまし願えますかな?」
ばちり、と視線がぶつかって、彼はゆっくり「苦笑い」の仮面を選んだ。
「そのようなことを申されるために、長官自ら、このような刻限にお越しになられるとは、」
「緊急事態ですから、」
彼の笑みは深くなる。
「非常、と言い換えてもよろしいが。」
苦虫を万の単位で噛み潰したような幼馴染が、セトムの肘を引いた。
「・・・だれ?」
「シュレザーン都護府長官でいらっしゃる。」
「へぇ、」
先ほどまでの、「物語」の登場人物だ。やにわに興味が湧いて、つい身を乗り出そうとして、馬鹿、と制された。騎士で、大戦の功労者で、高級官僚だ。無礼を働けば、「お供」に手酷い扱いをされても文句は言えぬ身分の隔たりがある。
「こんな夜中に、こんな詰め所に、なんで長官様がいるんだよ?」
「見ての通りだろうがっ」
苛立たしげに顎をしゃくられた先には、坊ちゃんと長官。
「部下のお詫びに?」
「はあ!? 」
逆だ逆と、吐き捨てられたが、セトムの頭は?ばかりだ。
長官の上は、大長官?とはさすがに口に出さなかったが、本当に
綺族の妾腹の出の「坊ちゃん」は傭兵になっていて、朱玄公爵と共に大戦を戦って、だから出世していまは暁の兵団にいる・・・のだろう?
「今回の目的は、お前の顔見せなのは分かってるんだから、黙って独りで行って、俺は体調を崩して・・と言うのが部下の思いやりだろう?」
と、坊ちゃんが睨んだのは長官のやや後ろに立つ士官だ。別に恐れ入るわけでもなく、軽く会釈して寄越した。
「何分、内気な性質なものですから。」
しらっと士官は言ってのけた。
「お約束をキャンセルさせていただくと長官殿に連絡を差し上げたところ、体調が悪いのかとお見舞いのお問い合わせをいただきました。長官の管轄下のことでもあり、伏せる必要はないと判断し、都護府の牢に一夜を明かしたいからだと返答をさしあげました。」
告げ口上等ということらしい。
「わしは寧ろ彼が今回の随行で助かりましたな。リトラッドや愚息はあなたの都合に合わせすぎる。若いものばかり故、案じておったが、そなたのような者が加わったのは心強い。」
士官は丁寧に礼を返し、長官は再た「坊ちゃん」に視線を向けた。
「わし主催の晩餐会ゆえ不自然ではなく抜けるのに手間取り、このような時刻になりました。お迎えが遅くなり申し訳ありませんな。」
「いや、元帥のお体を優先して、そこはぜひ、ゆっくりお休みいだきたかったです。」
「お優しいお言葉、感激でありますな。しかし、国の一大事とあれば、老骨に鞭打って駆けつけるのが正しき臣下でございますからな。」
交わされる言葉は柔らかいが、互いの目は笑っていない。
庶民的に翻訳要約すると
「真夜中に年寄りを働かせるような面倒を起こすな。」
「頼んでない。」
であろうか。
「では閣下、こちらにお出まし願いましょう。」
長官は、先の要請を繰り返した。
「帯剣許可書不所持の上、抜剣した不届きものなんだが、俺は。その上、調書への記名を拒否した公務の執行妨害を加えると、数日の入牢と罰金、半年の
なあ?と話を振られた幼馴染は、何故か真っ青になって、言葉を探している。
「もともと不当拘留なんだから、出てくりゃいいじゃん。」
まだ様子が見えないセトムの呟きは、言葉の隙間に入り込み牢部屋に響いた。
「いや、大隊長、あんたの幼馴染は職務に忠実な立派な都護府役人だと思う。」
「そうお思いなら、困らせるのはやめなさい。」
「然様、あなたが為されていることは、身分を傘にきたわがままですぞ。」
「ひどいな。」
傷ついたような顔をしてみせるが、怯むようなら「迎え」になど来はしない。
「そうでしょう。あなたに、帯剣許可書を出せる者などいないと分かっていて、罪にもならぬことを罪と言いたてて、真面目に仕事をしている者の邪魔をしている。」
「俺が不真面目者のような言い方だ。」
「とんでもない。あなたは真面目ですとも。どんなに偶然のように見えても、あなたが起こす行動には必ず意味がある、と我らはあの戦の時から、さんざん味わせていただきましたから。----無茶をされては困ります。」
だから駆けつけてきたのだ、と経験者たちは強く頷きあい、彼は深く溜息をついた。
「戦の折のことは、いま思い出すと胃の腑が痛みますぞ。あなたが、あなたと判っていれば、決して
拳をかためての力説である。
「いや、俺の人生設計ではバラす予定はなかったんで。今更,そこを取り上げるのはどうかと思いますが。」
「真実は必ず明らかになるものです。」
押し出しのよい風貌で、重々しく言われると、まるで神託のようだ。
「いま、あなたが望んでかなわぬことは、この国ではございませぬ。」
「さあ、どうぞご命令を。」
詐欺の一つでよくあるような畳みかけだ。
「・・・俺がここにいたい、帰れ!と申し付けたら、引き上げると?」
恐ろしく懐疑的な眼差しに、士官が重々しく頷いた。で、続けた言葉は、
「それはそれです。」
である。
「命じる自由はあなたにありますから。ただし、主が道を違えそうな時、諌め申上げるのは臣の義務でございましょう。私を含め我らはそれが出来なかった故に、地が荒れるのから目を背け、天の理を歪めたことにも気づけず、国を喪った。守るべきだった民に、苦しみを強いた。花陸中に撒いた悲しみはいまだに濃い。同じ轍を踏んではならぬと、私を召抱えて下さった時に誓っております。」
「立派な覚悟だが、」
膝に左肘をついて頬杖状態になった声は、何だか疲れている。
「蟻の一穴天下の破れと申します。」
「いやいや・・・そんな壮大な決意で対応されることか、これ。」
「だから、ご自覚が足りないと言うのです。あなたに何かあれば、破れどころではない。まさしく天が落ちるに等しい。」
びしりとした物言いに、長官は大きく頷いた。
「どうやら無用の心配だったようだ。貴公はまことに得がたい人物とみた。」
「恐れ入ります。」
長官が差し出した手を恭しく握り返す士官。同盟的な雰囲気で、改めて振り返られた「坊ちゃん」は白旗を上げた。
「戻る。で、明日はちゃんと登城して、ライにお前を目通りさせて、盛装の上、夜会で引き回してやる。」
「ありがとうございます。」
後半の八つ当たりもどきな台詞は流して、士官は格子戸に手をかけた。もともと鍵はかけられていない。
マントを左手にかけて牢から出てきた彼へ、預けられていた長剣が恭しく差し出された。剣帯に収めつつ視線を幼馴染と都護府の役人に向け、口を開いた。名乗ろうとしたのだろうと思う。
だが、息が音を孕む前に、勢いよく彼は西側の壁を振り向き----正確には床に目を落とし、一同がなんだと首を傾げたのに続いて、突き上げるような揺れが詰め所を揺らしたのだ。
地震、と誰かが口走った。シャイデ花陸で地震が観測されるのは火矢川の東側で、『遠海』においては記録にない。
「界罅・・・」
呻くように言ったのは士官だ。
小刻みな震動は、上からも感じられる。
「馬鹿な、ここは王都だぞ。」
国の中でもっとも「安定」が約束された、いや「安定」しているからこその王都なのだ。
「私は凪原王都の最期を見届けました。壊滅に至るまで、大小の界罅、界落を見ました。」
『凪原』の王都は消失し,
「----融界する。」
耳慣れぬ言葉。けれど不吉な響きがそこにある。
それは何処から出したのだろう。腰の剣は鞘に入ったまま。彼は抜き身の剣を手にしていた。朱金に発光しているようなその剣を確認した瞬間、役人とセトムを除いた全員は雷に打たれたように背筋を伸ばし、そして膝を折った。さきまでは、敬意は確かでも、若い者を見守るようだった長官も、いまは絶対者に対するように彼の前に深く頭を垂れる。
髪の色が変わっていた。目立たない栗色が落ちて、はっきりとした金の髪に、鮮やかな朱の房が絶妙な配置で散っている。
仮牢が、蒼く澄んだような----まるで神殿のような----空気に満ちていくように思われた。
「持ち出さねばならぬものを至急まとめて、この建物から全員退避しろ。四半時だ。」
「御意。」
長官がさっと立ち、役人を振り返った。視線に押されるように役人が駆け出し、長官の随従が後を追う。セトムも士官に肩を押されるように室外に連れ出された。肩越しに振り返ったとき、もう一方の手に黒金の剣が、その腕の中から滑り出して収まるのを見た。
----ああ、と、その姿を目に焼き付けようと、セトムは目を見開く。
朱、玄、両公爵。東宮配。それによって蒼公後見。白公位預り。ゆえに四方公爵とも囁かれる。遠海軍筆頭元帥、旧『凪原』領総督、〈暁〉大公。身分、地位ともに『遠海』国王に次ぐ。
軍師ヴォルゼ・ハークを名乗った〈東ラジェ〉の傭兵エヴィ。生まれ与えられた名はエアルヴィーン。
生ける伝説であり、救世の英雄である。
この世界において、界罅、界落という言葉はごく普通の事象である。
界罅とは文字通り、空に罅が入ること。小さな罅は自然治癒することも多いが、進行するとそこから裂けて、界落が引き起こされる。
界落は、別の界が降って来る現象だ。
人々は
空に雲が流れるように、世界の外側には別の世界が無数に流れている。そこにはこの界とまったく違う生き物がそれぞれいる。そして、こちらの空とあちらの大地が擦れてしまった時、衝撃に耐え切れない場合に界罅や界落が引き起こされるのだと。
界罅の多くは気づかれぬまま自己修復するのだが、罅が進んで界落となった時は、惨劇が引き起こされる。シャイデ花陸で代表的な大規模界落は、〈蒼き鏡の街〉-----天鏡湖と現ダユウのあの独特な景観を作り出し、湖の底に旧ダユウの街を多くの命とともに沈めた。
落ちてこられた方もだが、落ちてきた方も、悲劇だろう。落界「物」は珍品と見なされ「収集」される一方、「異物」として「処理」される。落ちてきたモノは、界樹、界獣、界人、・・・この花陸世界のものの分類によって、近いものに寄せて名づけられるソレらは、突然、見も知らぬ世界にただ独り放り出され、狩られる立場になるのだ。
運命の悪戯によって強制的に握らされる片道切符。神代にはシンラの民は自在に界と界を巡っていたというが、復路の便など出るはずもなく、落界したモノが、もとの界に戻ったという話は、東の花陸『仙桜』の竜王のように、伝説の域だ。
----そのはず、なのだ。
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