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やわらかな橙色の光が、少しずつ影を長く伸ばしていく。風もなく、雲も僅かに散るだけの穏やかな夕暮れだ。

 割れて、ところどころしか残っていない石畳に足を取られぬようにか、うつむき加減に人々は行きかう。

 その中で、一つの歩みが止まって流れを遮った。ふいの動きに後ろを歩いていた職人風の男は蹈鞴を踏み、舌打ちを響かせた。

「気をつけ――ッ」

と睨み上げたが、言葉の最後はひきつれて飲み込まれた。

裾の擦り切れた重いマントの下で、がちゃりと重い鋼の音がした、使いこんだ長靴に鋼を仕込んだ革の手甲を身につけた兵士は、肩越しに振り返った。

「悪かった。」

 穏やかな声だ。

「――あ、ああ、・・・、」

 【凪原なぎはら】に占領された一年余りの、兵士や傭兵の理不尽で過剰な暴力は身に染みて、なかなか消えていかない。一瞬の後は分からない血と悲鳴の記憶だ。怯えを纏って男は後ずさる。十歩ほど遠ざかって、じんわりと額に浮いた汗を手の甲で拭い、ほっと息をついた。

 困ったように首を傾け、自らを大きく迂回するように流れて始めた人波に会釈を送りながら道の端へと身を移していくのを、怖いものをみる横目で確認する。

 まだ若い。崩れた石垣に手を置いて、ふっと頬を緩めた横顔は二十半ばくらいか。刹那、遠い記憶が目の底で揺れた。自分たちの遊びの輪に入りたそうに門の陰に立っていた子ども・・・。

「――あんた、坊ちゃん!?」

 思わず上げた声に、目を瞠って振り向いた表情には幼い頃の面影が浮かび上がった。誘いの声をかけた時、真ん丸にした瞳。名前は出てこないが、間違いない。驚きが恐怖を吹き散らす。

「そこの家にお袋さんと住んでいたろ?」

慌てて駆け寄って、もう一度間近で見上げた。日に焼けた肌と、少年期よりシャープな頬や顎のライン。ひょろりと薄かった少年は、背筋の伸びた、機能的な体つきになって、能く体を使っていることが窺われた。

ぱちぱちと瞬きながら記憶を手繰って、

「――建具師の・・・?」

「そうっ、親父がっ、そうっ!! ・・あ、いまはおれもそうだけどっ」

「大隊長。」

にこ、と笑みが開いた。これも懐かしい呼びかけだ。子どもの頃といえば騎士団「ごっこ」とか都護府とごふ「ごっこ」は人気だった。男はこの界隈では餓鬼大将格だったから、そんな「役職」を務めていた。対して、当時、五つか六つ年下だった彼は、いわゆる「ままっ子」扱いで、また家庭のことも絡んでの「坊ちゃん」だ。

 男の家は路地裏の集合住宅だが、彼の家は表通りの『邸宅』だった(いまは見る影もなく荒れ果ててしまったが、当時の表通りには煉瓦色で統一された瀟洒な町並みが続いていた)。

「懐かしいなあ! 元気そうで、まあ無事で、」

 「ままっ子」のうちに男は徒弟に入る年齢になったから、一緒に遊んだ時間は長くない。また階級クラスが違った。ほんのまれに遠くから見かけるくらいで、彼の母親が亡くなったと風の噂に聞いた時には、家は無人になり、消息は途絶えた。

「大隊長も息災そうだ。」

「まあ、生きていられただけでも有り難いというか、」

 差し出された手をぶんぶんと握り合う。

「このへんも見る影ないだろ。随分やられちまったよ。建物も・・・人も。でも王様も即位して、都内の修復で仕事もあるし、治安も落ち着いてきたから、まず何とかやってるよ。おまえこそよく無事で。」

 噂どおりなら彼は『狩り』の標的だったろうし、このいでたちならば軍属であったに違いない。

「運に随分と助けられてね、」

 片方の肩をすくめて、軽く笑った。何気ない仕草だが、妙な迫力を感じて男は相手をもう一度見直した。暗色の実用一辺倒の形で使い込まれたものだが、上質の品でよく手入れされている。

「・・・おまえ、偉くなってそうだなあ、」

「いいもんじゃないぞ。殺人者だと言って回っているようなものだ。」

 苦笑を孕んで、疲れたように響いた。どきりとする。もしかして、精神を病んでの帰都なのだろうか。

 惨い、戦だったのだ。占領・封鎖された王都の日々も過酷だったが、当初わずか数人で抵抗(解放)戦を始めた天旋軍の行軍の可烈さは想像に余る。

 終戦後の高揚の時期を過ぎて、「帰還兵」が引き起こすトラブルは珍しい話ではなくなっていた。

「いや! 今の王様や四方よも公爵が戦ってくれなかったら、おれたちは【凪原】の忌々しい界魔に食い尽くされちまってた。奴らを十人殺してくれたのなら、【遠海とおみ】の民は百人救われたんだ。」

 敵国への憎悪と英雄たちへの賛辞の込められた極論だが、意図は伝わったようで大丈夫というように口元が緩む。

「戦ったことは誇りを持って受け止めている。ただ、・・・ま、愚痴だ。」

 穏やかに言った彼は、ところで、というように首を傾けた。

「久方ぶりの王都なんだが、」

「夕飯か!? 二本向こうの裏通りなんだが、鶏と茄子の煮込みがちょい辛でうまいぞ。サクレ産に手が出せるような客層じゃないが、葡萄酒も手ごろなのがあるし、麦酒はいいのがある。」

「それは心惹かれる話だが、夕食は友人から招かれているんだ。でも、・・・そうだな、麦酒の一杯くらい飲んでいっても問題はないだろう。大隊長、せっかくの再会だ。ご家族の問題がなければ、お付き合い願えないか?」

 早とちりに赤面したが、さらりとそう続けてきた彼に救われた心地になって、勢いよく頷いていた。

「今日は仕事が早く上がったんでね。・・もう、陽も落ちてしまうし、寄り道しても問題はないさ。案内するよ。」

 人波に戻り、歩き出した。その通りの誰はどうしているとか、あの店はこうなったとか、男には世界の殆どを占める情報でも、十数年離れたきりの下町まちだ。彼にはどうでもいい内容だろうに、記憶力の良さを示す適切な相槌を打ってくれる。それに気をよくした男は五ガクほどの道のりずっと喋り続けた。

「賑わってるな。」

 カウンターから木杯ジョッキを受け取って、立ち飲み用の高いテーブルに陣取った。

「ささやかな命の洗濯ってヤツだ。」

 入ってくる客が、とにかく多いが,店の奥にはテーブルには人影は見えない。この時間に来店するのは、仕事帰りの一杯を味わって帰宅する習慣の者たちなのだ。馴染みらしい挨拶がそこここで聞かれる。男も同様で、あちこちから声がかかるが、連れが見慣れない、そして帯剣した兵士だと気づいて、ぎょっとしたように目を瞠る。「幼なじみ、幼なじみ」と指差して笑えば、いきなり気を弛めて,ずけずけと顔を覗き込んでくる。下町らしい垣根の低さだが、偉くなったらしい彼が、不機嫌になるのではないかと初めはひやっとしたが、平然と、むしろ会話が続くように振り返している姿に、じき忘れてしまった。

「・・・来る前に妙な噂も耳にしていたが、穏やかなもんだ。」

 すっかり囲まれた喧騒の合間に、ぼそりと漏れた呟きを拾った。

「噂?」

「ああ、まあ、この雰囲気では根も葉もないことなんだろうなと。」

 途端に、ふっと静まった周囲を驚いたように見渡した。

「それって、あれ、だろ?」

「あれ?」

「ああ、・・・なあ?」

「まあ・・・だよなあ。」

 何か悪いものが引き寄せられるとばかりに言いよどむ様に、彼は困ったように首を傾けた。

「実は深刻なのか?」

「いや、何てーか薄気味悪くてさあ。」

「家まで間に合わなかったら、とにかく屋根のあるところに入りたいよなあ。」

「だな。」

「――影が齧られる、と聞いたが、」

 人差し指を歯に見立てて、ガリガリというジェスチャーに、男たちは顔を見合わせる。 

「そう、聞いてる。」

「夕日の中に影が伸びるだろ。で、闇が深くなって形が崩れていって、消えるな、ってあたりで、おやっと思って目を凝らすと、不自然にへこんでいて、」

「うん、慌てて灯りの中に飛び込むと戻っていくらしいんだが、」

「後から、そこが怪我を負ったり、病気になったりするらしいつー。」

「最初は転んだとか、頭痛が続くとかたわいのないハナシだったんだが、」

「折ったとか、枕も上がらない熱が続くとか、どんどん重い話が伝わってきてさ。」

「今日はあっちの辻だったとか、昨日は三本先の通り沿いとか、場所もばらばら、そもそも、ほんとなのかどうかも分からないけどさ」

「ウワサが一人歩きしているのかもしれないとも思うけれど、」

薄気味悪ぃ、とおのおの唇を歪めた。

行き交う人が足早なのも、俯いて歩を進めるのも、黄昏時に店が混むのも、この「風聞」によるものだ。

「都護府は動いているのか?」

「はじめは流言飛語に惑わされるなってカンジだったけど、ウワサ長引いてるし、それで怪我したとか具合悪くしてるとか少なからず訴えがあるんじゃねぇ? 最近はこの時間に見回りしてる都廻りも見るから、ちょっとは気にしてんじゃねぇの?」

「占領前より良くなったものの一つは、都廻りの態度だよな。さすが、シュレザ-ン将軍の統制だぜ。」

 時を見計らったようタイムリーにというべきなのか、彼が都護府の現長官の話題に軽く目を細めた瞬間、入り口の扉を破る勢いで駆け込んできた者がいた。

 ギシ、とひどく重いものが乗ったように床が――建物がきしんだ。

 この話の流れだ。若い男の真っ青な顔色を通り越し、室内の灯火を受けて壁に長く伸びた影に視線が集まる。そして。

「齧られてるぞ・・・!!」

 複数の口から、悲鳴のような声が迸った。

 血臭もしなければ、当然傷も見えない。なのに、その影は―――。

左の肩先から下が、。まるで刃物でそぎ落としたような輪郭は、灯火を吸うようにして、ゆっくり質量を増し、右側と同じまろみを帯びていく・・・。 

 立ち竦む一同の中で、彼だけが呼吸一つの間に、開け放したままの戸から飛び出していった。その背中に我に返り、崩れるように床に座り込んだ「被害者」に駆け寄る者、意味のない大声で誰にともなく喚き立てる者、戸口から表の様子を窺おうという者・・・と、凍りついた店内は沸騰するような興奮の坩堝となる。

 しかし、

「・・・なん、なんだ?」

 戸口に鈴なりになった一同は、上がりかけた血液が逆に一気に下降する心地を味わった。縋るものを求めた手は、柱に壁に、あるいは互いの手へ伸びる。

 寄せてくる藍色の波に洗われて、長く伸びた影がひそやかに輪郭を崩していく。そんな時間。

 路地裏の小路には奇妙な立像が林立していた。

 次の一歩を踏み出そうとした足を浮かせたまま、半身振り返ったところで、重い荷物を持ち直そうと腰をかがめて、物思いにふけっていたのか俯いて――時、道を歩いていた人々はまるで時を止められたように動かない。

 そして・・・果たして影が、。欠けているというより、少ない。半分、あるいはほとんど――これでは齧られてというより、

「喰われて、る・・・、」

 誰かが、喘ぐ様に言った。

 険しい顔で彼は一瞬店を振り向いた。彼らの後ろ、店内から洩れてくる灯が彼の影を前方へ濃く伸ばしている。

「そこから出るな。」

 よく通る、否を許さない声だ。

彼は夕闇の中にゆっくり踏み込んだ。影はぶれて、伸ばす方向を変える。

「お、いッ、」

 彼の影に、何かがまとわりついた、のは目の錯覚ではない。左肩のあたり、輪郭が奇妙に歪む。驚愕と警告の入り混じった悲鳴に似た声の中、立ち止まった彼は己が影を凝視し、――抜剣した。逆手に持ち替え、石畳に・・・自分の影の中へ剣を突き刺す。

 ・・・劇的な変化は何も起こらなかった。両手を柄に副え、呼吸ひとつ、ふたつ、みっつ。ゆっくり、引き抜いた。同時に、糸の切れた操り人形のように、人々が崩れ落ちた。

「! なにをしている!」

 またもや時を見計らったようタイムリーに都護府都廻り役が現れたのは、この瞬間である。

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