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 クロムダート王は,兄だったその前王が戦死した後,まだ嬰児であった皇太子が成人するまでの十八年と自ら在位を決めて王位に就いた人物だ。軍人上がりの国王は,『白舞』との戦役を収め,国交を立てなおし,国政を安定させて名君と讃えられ惜しまれつつ,宣言通りの年に甥に譲位した。中継ぎと公言して憚らなかったクロムダードは在位中,王統を分散させるのは火種を作ることだとして,妃を娶らず,サクレ大公に引退いてから,ようやく遅い結婚をして一女を設けた。これがカノンシェル公女の母である。父の後を継ぐ大公女が年頃になると自薦他薦の婿候補が溢れ出たが,彼女が選んだ伴侶はサクレの守備隊の若者だった。

「彼がクロムダード閣下と共に登城した時,私は子どもだったし,直接の面識はない。だが噂は覚えている。サクレ大公が伴ってきた若者の剣技は凄まじい,鬼神もかくやと。」

 とは,ライヴァートの証言。

 一領民が,数年に一度行われる御前剣闘試合にサクレ大公の後ろ盾で参加し, 数多の有名騎士を退けて優勝したのである。その頃現役だったレイドリックも同じ大会に参加したが,彼の真価は弓にあり,早々に敗退している。決勝は元帥の後ろから,警護として観覧したという彼は,

「・・・存在感が半端ないな,と。対戦相手の方がずっと体格も良かったしそれなりに有名な騎士でしたが,彼が出てきた瞬間に場が一気に彼のものになるというか・・・,これで,ただの領民,といわれると・・・。」

 優勝する以前から身内のように大公が連れ歩いていたが,王城内でも綺族を前にしても堂々たる様子だったらしい。王城騎士団への登用を謝絶して大公とともにサクレに彼が帰って間もなく,大公女との婚約が発表されて,王城の人々は驚きもしたが,納得もしたのだ。

 一領民が,王家に最も近い大公家に入ることに反対の声がなかったわけではないが,彼を見知った人々は,あれほどの偉丈夫が,ただの平民であるわけがないと,やれどこかの王族の落としだねとか,没落したどこぞの名家の,幼い頃に行方知れずになった子息の面影があるとか,姦しかった。

 国王から婚儀の許可は出,じきに娘が生まれたと微かな風の便りもあったが,御前試合の後は一度も彼が都に上がることはなかった。

 そして,あの運命の日から彼の行方は途絶えている。時ならぬ嵐の気配をついて対岸に目撃された不審な灯りを守備隊の5名を連れて偵察に赴き,戻らなかった。侵攻後,死者を纏めて荼毘に伏した時の記録の中に,守備隊員のうち一名の名があり,だれもが「凪原」に拘束され処刑されたものだと考えていた。

 生きていたことは喜ばしい。だが,なぜ「橋」の「中」に。そして何故なにゆえ生きているのか。白氷姫の呪いの一片だとすればそれもあり得るのかもしれないが,それならいったい何のために?

 答えの出ない問いが各々の脳裡に渦を巻いてはいたが,渦中の人物の部屋はとても静かだった。

 血縁たる娘は枕辺に置かれた椅子に,薬師の姫は長椅子にあり、警護も兼ねて女海賊も同室している。

 外傷はなく呼吸も穏やか,顔色も戻ってきている。だが,何らかの呪いの下にあるかは分からない。だから,いつ目覚めるか予想がつかない,と薬師の姫は言った。

 「凪原」は貴金属のほとんどを持ち去ったが,美術品としての価値のない大公一家の肖像画は撤去された後,うち捨てられた。その幾枚かを町びとがこっそり倉庫の奥に隠し,昨日再び館に飾られた。一時期,少年に見せるために短く刈った髪はようやく肩につくほどに伸びた。絵の中の少女の腰まである髪に柔らかく手を添えて傍らに立つひと――ようやく十一になった少女の数年は大きい。父だと傍らに座らされ思い出を手繰ってみるが,サクレを落ちてからの日々が鮮烈だから,ふわふわきらきらという気持ちと幾つかの風景は浮かんでくるが,

 眠り続ける顔を眺めても,肖像画と似ているところを探すばかりだ。

「・・・早く起きてくだされば良いのに,」

 ポツンともれた言葉に,薬師の姫は剣の手入れの手を,海賊姫は刺繍の針を止めた。娘二人は顔を見合わせ,立ち上がったのは海賊姫だ。

 椅子の傍らに立ち,そっと頭を抱き寄せる。

「起きて,私を見て下さったら,」

「・・・そうね,」

 枕辺で父の顔を見つめる姿から,けなげさだけを取り上げるのは違うと,「眠れる海賊王」を父に持つ海賊の姫は自らを重ねて考える。地続きの昨日があって,今日病や大怪我に倒れて,枕辺に詰めるのとは違う。

「わたくしもよくおもったの。は私を分かって下さるのか,自己紹介をしなきゃいけないのかしら,私が娘だと分かったら,なんておっしゃるのかしら。驚かれるのかしら。喜ばれるのかしら。・・・わたくしも,気になって仕方ないの。・・・でも,が言うんだから,わたくしに真っ直ぐに笑ってくださると信じてる。」

 父君譲りなのね,とさらりとした髪を梳きながら,言葉を継ぐ。

「あなたのばあやさんも,あなたが頼りにする人たちはみな,とても優しくご両親とおじい様のお話を繰り返すわ。あなたがいま大事だと思う人が信じている人・・・ね?」

 少女は少し安心したらしい笑みを刻んだが,この部屋にいない〈正確にはいられない〉男二人は眉間に皺を深くしている。

 捕虜の処遇や接収されていた建物の解放・確認、本陣の設置に有力者との面会・・・戦の後には膨大な処理案件が待ち構えていて,通常の軍ならば専門の文官が同行しているが、まだ人材の揃わぬ天旋軍では王子,軍師がどうしても頼られる。その「本務」の合間に情報を上げさせているのだが,衝撃度が半端ではない。彼らが公女と合流した時,亡い者と疑いを挟むものもなかった平民の男を顧みる必要性はなかった。彼女が大公から王家の血を継いでいることは明らかだったからだ。しかし,こんな異常な状況となれば聞かないわけにもいかない。

 そして上がってくる〈現地〉情報――-。

 領民が大公家に婿入りしたのですら驚愕だというのに,領民ですらなかった。彼の最初の記録は剣闘大会の一年前,今日打ち上げられたのとほぼ同付近で,雪解けで増水した流れの中から救出された。見つけたのは散策中の大公本人だったらしい。数日の酷い発熱の後,目覚めた彼には記憶がなかった。「デューン」は大公が便宜的に与えた名前という。界落も疑われたが,傷は普通に治癒し,自分に関する以外の知識に欠けはない,というか,博識でもあったらしい。雪解けの山道でうっかり足を滑らせて谷底に落ち,打ち所が悪かったに違いない・・・。サクレの人々は結論付けて気の毒がった・・な。

 周辺の町々に広告(ふれ)もだして身元を捜したそうだが,だれも名乗りでることはなく,彼は大公の庇護下で傷を癒すことになった。聡明さ,剣技,何より人柄に大公は惚れ込み,大公女も身近に接するうちに,すっかり懐いた。母を亡くした後,寂しげだった大公女が,兄のように慕うさまを,館をはじめとするサクレの人々は微笑ましく見守った。

 傷が癒えても記憶は戻らず,志願して守備隊に加わると,すぐに頭角を現す。付近の街道を荒らしていた盗賊団を殲滅し,サクレ・テュレ・ダユウをつなぐ街道に,それぞれの街ごとではなく共通の組織として警備隊を新設した(この警備隊が北方占領後の天旋軍の基礎となった)。

 際立った美男というわけではないが,人目を惹きつける華があり,人を従える存在感があった。

「・・・あやしすぎるんだが、」

 サクレの人々は懐かしそうに,好意的な口ぶりでその「魅力」を語ったが,王子は頭を抱えている。

「間諜が潜入する,もっとも有名な手段だ。」

「古典的すぎる。」

「じゃあ,若い娘が好む浪漫小説で,ベタすぎる出会いの展開。」

「独創性がない。」

 書類を裁きながらの会話だ。

「とにかく,いま俺たちの頭に浮かんでいる程度の危惧を,大公閣下が思い浮かべないはずはない。」

 なにせ海千山千の元国王だ。

「だから,そのへんはいいんじゃないか?」

 『凪原』が彼をなぜ「氷の橋」の中に収めたのか。しかも生き続けるよう「処理」までしたのかは気になるが,やじうま的なそれより,軍師の心をざわつかせるものがある。

「目覚めたご本人から説明してもらうまで,そこの山を何とかしろ。」

 机仕事から逃げたそうな軍主をじろりと睨んだ。

「お前はホントに勤勉だよな・・・,って,・・・おい?」

 軽口で返した王子は,軍師が息を詰め,胸元を握るのを見た。

「お前,・・・,!?」

 瞳から一気に焦点と光が失せ,ぐらりと傾いた体が椅子から落ちるのを,寸前で抱きとめた。色の失せた顔と冷たい体に愕然としながら,王子は隣室に向かって大声を上げたのだ。

 マシェリカを,と叫んだ声が消えぬ間に,ノックもなく扉が開け放たれた。飛び込んできたのは,その名の主で,切羽詰った様子で部屋を見渡した。

「ライヴァート! エ・・ヴィ?」

 膝を床に付いた王子の胸に,抱きかかえられた軍師の姿にしばし固まる。

「・・・えー,お邪魔な・・・,」

 何かが一瞬過ったようだが,さすがに本職である。意識を無くした状態なのをすぐに見取ると,表情を厳しくして駆け寄ってきた。

 顔を横向け,吐き戻しがなく呼吸があるのを確かめ,次は脈を取りつつ心音を聴く。

「脈が少し弱い。それと体温がかなり下がってるな。倒れた時の状況を話せ。」

「突然,糸が切れたみたいに,ばったりだ。」

 意識は完全にない。薬師の姫の後からは警護の者たちが駆け込んできた

「とにかく寝台に運んで,医師だ!」

 警護の一人が踵を返し,あとの者は軍師を寝台に運ぶべく傍に寄ろうとしたが,王子に制された。そのまま自分で抱き上げる。堂々たる体躯の王子は,決して小柄ではない軍師を抱えても特に顔色を変えることはない。むしろ,大事ですと顔に書いてあるような眼差しを注ぐのに,

「・・・なかなか,倒錯的だな。」

 後を追いながら,薬師の姫はにやりと笑った。とりあえず命に別状はないと踏んで,落ち着きを取り戻したらしい。

「そちらほどじゃないと思うぞ。」

 と返してから,彼の部屋へ,と言いかけ,

「・・・おれの部屋にする。」

「おや?」

 さらに眉を上げて見せたのに,

「昨日の今日で,こいつがまともな自分のを確保しているとは思えん。」

 という断言は,警護の一人から裏打ちされた。

「最前線で死闘を繰り広げた夜に,」

「宴が収束するまで城内を巡回して,」

「夜もすっかり更けてから,カノンシェルの部屋の前でマントにくるまって宿直して,」

「久しぶりすぎで見られるのは恥ずかしいから,朝もやに紛れてこっそり弓を引いてみたいと,武器庫から借り出して,明け方に川べりに向かい,」

「で,あの騒ぎで,・・・まさか朝食昼食,食べてないなんてことは・・・」

 橋の件もだが,その合間にも彼の判断を問う処理が持ち込まれていた。王子とこの部屋で合流したのは昼をすっかり過ぎてから。机の上には,半分ほどに減った紅茶が冷たくなって載っているが,固形物は口にしていない。

「十分考えられる,というか,・・・下手すると,昨夜も軽くつまんだだけなんじゃあ・・・,」

 衰弱しているというのが医師の見立てだ。原因は,肉体疲労に加えて,寝不足に空腹。そして精神的重圧も〈たぶんに〉あるだろうが,極端な・・・と首を捻ってはいたが。

「寝食取らせず倒れるまで扱き使うとか,天旋うち悪徳商店ブラックか!?いや,確かに頼り切っているのは確かだけど・・・だから,仕官はしたくないのか・・・・?」

 王子はどんよりと呟き,娘ふたりは唇を尖らせる。

「おばかさんですわ。」

「ばかやろうだな。」

南の花陸サーディの,鞭で追い立てられる奴隷だって,うまく休みますわ。」

「海には止まる時は死ぬ時という魚がいると聞くが・・・」

「おさかなは泳ぎながら眠るの。」

「こいつは欲しいスキルかもなあ。」

 いつものように,与太っていく話を,

「・・・静かにして。」

 少女が遮ったのだ。

「エヴィがたくさん働いて疲れているのは確かでしょ!? ゆっくり休ませてあげて!」

 枕辺の椅子から立ち上がり,少女は,【わきまえない大人たち】への怒りを湛えた眼差しで,一同を見渡した。

「――私が見てますから,お仕事に向かわれてください。エヴィが起きて,ぜんぜん仕事が進んでなかったら,じっとしてないでしょ!?」

 き,と眦を上げての,もっともな指摘である。は顔を寄せ合った。

 彼らは【凪原】から【遠海】を取り戻すというライヴァートの意志に賛同して共にきた「仲間」である。王子と傭兵は【遠海】人だが,薬師の姫は【白舞】人で,海賊姫は北の花陸にアジトがあるのだそうだ。そのため,正式に軍を立ち上げてからは,分を考えて,あえて表には出ないようにしていたのだが,それが彼への過重負担を引き起こした一因たるのは否めない。言い訳だが,想定以上に,「軍師」としても「軍官僚じむかた」としても,彼がしまったから,手を出しにくくもなった。

 王子は執務の続き,薬師の姫はシュレザーン元帥に同行を依頼して,サクレの町を巡回しつつ主だった有力者と面談して要望を取りまとめる。海賊姫は,天旋軍の部隊長たちとの打合せや糧食の確認,,消えて公女の父の捜索だ。

 そうだったのだ。

 薬師の姫が告げにきた危急は,デューンの姿が消えたからだ。目を開けた,と証言したのは,その娘と薬師の姫。彼女らが声をかける間もなく,寝台から彼は掻き消えた。海賊姫は扉の前にあり,彼女が正面に臨む窓も閉じたままだった。空気に溶けるように,敷布にぬくもりを残して,文字通り消えうせたのだ。

 登場も退場も非現実過ぎて,狐につままれたような感覚が強い。いっそ最初から白昼夢だったと思いたいくらいだが,数百人単位が幻覚にかかったというのも恐ろしい。

 かれはいったいなにものなのか。いや,あのかれは本当にかれだったのか。『凪原』がなにか悪夢を仕掛けてきたのではないか。『凪原』が用いる“魔術”への恐怖と嫌悪感は深い。混乱パニックにならなかったのは,軍師が倒れたという目の前の「凶報」のおかけだ。

「ここを任せても良いか?」

 かつて「冒険」に出かけていく彼らを,宿から送り出した時の様に,いってらっしゃい,と少女は微笑んだ。そして扉の向こうに遠ざかる気配を追う,懐かしい,けれどもう戻らない過去だ。いつものように静まり返る部屋に,いつもならポンと軽く頭を叩くようにして最初に出て行く彼と今日は残される。

「――わたしは一緒に行きたいのであって,こういう風に残ってほしいわけじゃないんだからね。」

 まだ青白い頬に乱れかかった臙脂の髪を細い指がそっと退けた。

「あーあ,むちゃくちゃに染めるから髪すっかり傷んでるし。」

 おおよそ洒落っ気を感じない青年なのに,虹色に挑戦とばかりの染髪だけは欠かさない。そのうち禿げるぞ,とよく仲間たちが揶揄するのを真似て呟いて,少女は枕辺に座った。だれも比べるものはいなかったが,「父」の枕辺での寄る辺ない顔ではなく,留守を預かるものの横顔がそこにある。


 軍師の過労との「失踪」をだれもつなげることはなく,かれが語ることもない。


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