8
穏やかに空が白んでいく。
喜びの宴は夜更けまで続いて,街は新しい日々に目覚めるための,短いまどろみの中にある。
護衛として,アルコールは口を湿らす位だったから,元帥を寝所に送った後,いつもの起床時間までの仮眠に済ませたレイドリックは,川べりへ――例の橋を傍近くから眺めようと思い立ったのだ。
靄が川面を漂う。暑い盛りは過ぎ,刈入れの季節が近い。【凪原】が侵攻してきて2年になろうとしている。【凪原】の徴発や農繁期にもかかわらず強制労働に借り出された農村は疲弊しており,この秋の取り入れは夏の天候に恵まれたとはいえ決して豊かにはならないだろう。この冬と春を【凪原】に差し出せば,【遠海】は更に食い潰される。
士気も高い今,連戦を押しても「天旋軍」は進軍するべきだが,最も不確定で危惧される要素が「橋」である。
冬でも凍らぬ火矢川の早瀬が,【凪原】との国境であり,サクレの後背を守る天然の防壁だった。それがあの初冬,例年になく早い初雪が降った夜に凍りつき,数千の軍兵を渡したのだ。翌朝,川面はもとの流れに戻ったが,一夜にして「橋」が渡されていた。真夏でも解けぬ氷の橋が。
大きな橋ではなく,荷馬車が一台渡れるほどの代物だが,【凪原】と【遠海】をつないでしまっている要地である。
とにかく隣国であっても【凪原】の奇襲など想定の外だったし,サクレも【白舞】国境防備の後衛の役割はあっても,前線になるとはまったく予想されない場所なのだった。
「おはようございます。」
橋の全体が見える川べりには先客がいた。穏やかな声をかけてきた軍師には,果たして休む時間はあったのだろうか。
「・・・寝ましたか?」
「ご心配なく。」
それは休んだということなのか,休まなくても大丈夫ということなのか,刷かれた薄い微笑からは判断できなかった。
「一つ,御教授願えないか?」
そして唐突にそう言い出したのだ。
「あなたほどとは勿論言わないが,使える得物は多いほどいいと感じた。弓術もこの際ちょっと試してみようかと思い立って出てきたところに,ちょうどあなたがおいでになったので。」
よく見れば弓と矢筒を肩にかけている。
「弓を扱ったことはあるのか?」
「子どもの頃に齧らされたくらいかな,・・「ご隠居さん」から。」
馬上で使いやすい短弓の弦をはじきながら,2~3回かな,と彼は答えた。
「では,一応基本は入っているということか?」
「遊びの延長だろう?」
軽く構えてみせたその時に,何かがレイドリックの裡で引っかかった。しかし手繰る暇はなかった。
「お手本を。」
弓を差しだした眼差しは期待に満ちて,いっそきらきらしている。
のちのち聞いたことである。いったいどこまでが作為だったのか,と。
彼は少し目を瞠って,ゆらりと笑った。
弓を引いてみようと思い立った。そこでレイドリックに会った。間近に神手と賞賛される腕前を見る機会を逃す手はないと思った。だったら後から,そっと試してみようと考えていた「
彼の行動原理は今も昔も変わらない。結局,とっさの思い切りが良すぎるのだ。
彼は矢筒から矢を一本抜いて渡してきた。ごく自然な動きであり,渡された矢にも特段の記憶がない。けれど,間違いなく,ここだった。
「ん-,橋の中央あたりの橋脚を狙えますかね?」
強請られたとおりに,レイドリックは的を定めた。風もなく,短弓でも十分な距離だ。すっと息を整えて,放った矢はあやまたず的とした部分に当たった。かちり,という硬質な気配を期待したのに,矢はズブリと内にめりこんだのだ。思いもよらぬ「感触」に唖然として彼を見返ると,彼も眉を顰めて矢が刺さった場所を凝視していた。
言葉を発するより早く,ピキピキと氷が割れる音が聞こえて,その一点から放射状の亀裂が伸びはじめた。
「橋が・・・落ちる?」
レイドリックの呟きと,彼が踵を返して一目散に駆け出すのはどちらが早かったか。
朝ののんびりとした空気は立ち消え,退避という緊迫した声に歩哨たちが慌てて川岸に移っていくが,橋の上を走る彼らの顔には当惑がある。ついさっきまで冷気を発し,かちかちに凍っていたものが,いまは足元でべちゃべちゃと音を立てるのだ。そして,「橋」は,陽だまりの雪だるまのごとくかたちを崩し,千切れて,みるみる川面へ落ちていく。
サクレの占領から解かれたことで,何らかの「呪い」が解けたのだろうか・・・と,事態の推移を見守りながらその時,一同はそう推察した。
実質的にも厄介で,心理的には薄気味の悪い「橋」が消え失せるのはありがたいという思いはあったから,たまたま矢があたった時に,ということをことさら取り上げるものはいなかった。考える余裕もなかった。
何故なら――。
「・・・おい,」
「あれ・・,」
呆然と川面と崩壊する「橋」を眺める中,何かに気づいた兵士たちにざわめきが起きた。騒ぎを聞きつけ集まってきていたから,結構な人数になっている。橋の中央部,最も奥まった礎石部分に他の部分とは色合いの異なる青みがかった不透明な氷があって,順次解け始めたその中に黒い影のようなものが浮かび上がった。はじめは丸い石のように見えていたソレは,一同が目を凝らすうちに一つの像を結んだ。
人だ! と悲鳴のような声が飛ぶ。背を丸め,両腕で膝を抱え込むようにしているその姿勢のまま,氷中から溶け落ちて川面に鈍い音が響いた。拾い上げろ、と誰かが叫んだ。
人柱だろう。痛ましいことだ。・・・と,水に入ったものも,上から見ていたものも,事切れていると疑わなかった。早瀬の岩にひっかかる形になっていた「亡骸」に触れた兵が大きく肩を揺らし,慌しくさらに体に触れたと思うと岸を振り返って大声を上げた。
「息がある!」
さらに数人が川に飛び込み,岸に引き上げられたのはレイドリックと同年代にみえる青年だった。乱れた朱金の髪を拭う。青白い頬はこすると僅かに赤みを戻した。口元に寄せた鋼は呼吸で曇り,首に当てた指が確かな脈を感じ取る。
もとから現実離れをしていた「氷の橋」は,崩落してなお夢のような出来事をもたらし,更なる混乱をつれてきた。
「・・・そんな,」
横たわる青年より真っ青になったのは,知らせを受けて担架を運んできたサクレの者たちだった。
「デューン,さま!?」
ひとりの叫びに,次々に顔を覗き込み,そんな、とかどうして,とか,悲鳴のような声が重なっていく。
「・・・デューンって,・・・カノン---姫君の、」
橋の崩壊も,どうしてというよりどうなるのかというような冷静さを保って軍師に,驚愕の色がある。
「はい! この方は―――カノンシェル様のお父君,お館さま〈故クロムダード大公〉の娘婿で,サクレの守備隊を率いておいでになったデューンさまに間違いございません!!」
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