鉛のカーテン

柊圭介

自由の味

 夫婦は向かい合って夕食のテーブルについていた。食卓には根菜で色づけられた赤いスープ。鮮やかな色が真っ白なボウルに映える。

 ふたりとも五十を少し越えたぐらいだろうか。夫の方はすでに髪が白く染まっているが、妻はまだ金色の髪を残している。年齢なりに落ちくぼんだ小さく青い瞳をときどき窓辺へ向けながら、ふたりは言葉も交わさずにゆっくりとスプーンを動かしている。

 

 ダイニングへと続く居間からはテレビの音が低く聴こえていた。ニュースキャスターのくぐもった声がBGMのようにひっそりと部屋を満たしている。


 いつもと同じ食卓、いつもと同じ静かな夕べ。うわべだけ見れば。



 突然、電話のベルが鳴り出し、静寂を破った。

 ふたりは顔を見合わせた。夫の眉間にきつく皺が刻まれる。数秒のためらいの後、妻は立ち上がって受話器を取った。


「もしもし。……またあなたなの……。……分かったわ。今お父さんに代るから」


 妻は小さくため息をつくと、通話口を押さえながら夫へ受話器を差し出した。


「あなた、オリガです」


 夫は苦々しい顔で受話器を手に取った。


「またお前か。もうかけてくるのはやめなさい」

 ──お父さん、聞いて。

「お前の話ならさんざん聞いた。もうやめろ。電話するなと言ってるんだ」

 ──お父さんは本当のことを分かってないのよ。お願いだから聞いて。

 受話器から娘の切羽詰まった声が響く。



 隣国に対する軍事作戦が始まってからしばらくたつ。昔は兄弟のような国だったのに、今では西側の国々を味方につけ我が国を脅かす存在となっている。このままでは隣国からの独立を求める同胞ばかりか、我々の安全すら危ない。これ以上ファシズムの台頭を許すわけにはいかない。我が国の指導者がとった行動は勇敢にして評価すべき正義の措置だ──と、テレビは毎日のように伝えている。


 しかし、対する側では全く逆のことを報じているらしい。ここから約三千キロ離れた「西側」の国に住んでいる娘がこうやって毎日のように電話をかけてくるのはそのためだ。

 娘は差し迫った口調で「本当の情報」とやらをこんこんと説明してくる。これは我が国の侵攻であり、無差別攻撃であり、戦争なのだと。そんな話がにわかに信じられるか。

 それだけではない。こちらが取り合わないと見るや、ご丁寧に「本物の映像」とやらまで送りつけてきた。それは無残に崩壊された隣国の町の様子や、逃げ惑う市民たちの姿である。

 あたかも我が国が悪人であるかのような言い草に、初めに電話を受けた時は怒りを通り越して笑ってしまった。しかし娘はどれだけあしらってもしつこくかけ続けてくる。なるだけ相手にしないよう努めてきたが、それももう限界を感じていた。



 ──そっちじゃ色んなことが歪められてるの。テレビの言うことを信じちゃ駄目。お父さんは現実に何が起こっているのか分かってないのよ。

「もうやめろ」


 苛々と立ち上がりテーブルを離れる。居間のテレビには三色旗を背にした国家元首が映り、厳粛な面持ちでこちらを見つめている。 


 ──テレビを信じないで。あの男の言うことなんか信じないで。父さんたちはあの男に騙されてるの!

「黙りなさい!」


 思わず声を荒げてから妻を振り返った。

 妻は窓辺へ近づき、外を見回し、それから小さく首を振ってみせた。外は静かに雪が降り続いているほかは何の気配もない。妻は窓からもう一度外の様子を窺い、そっと鉛色の遮光カーテンを閉めた。


「いいか、絶対にそういうことを口にするな。これは父さんの命令だ」


 テレビを睨みつけながら電話の向こう側へ鋭く釘を刺す。


「二度とその言葉を口にするな。二度とだ。俺に対しても、お前の住んでいる国でも、どこでもだ。迂闊なことを言ったら父さんが許さない!」


 父の声に気圧されたのか、受話器の向こうで息を呑む気配がした。

 沈黙が続く。自分の鼓動だけがひときわ強く波打つ。

 呼吸が少し落ち着いたころ、低い声で娘が尋ねた。


 ──じゃ、イヴァンは? イヴァンはどうしてるの。あの子はどうなったの?


 すぐに答えることはできなかった。夫はふと妻を振り返った。不安げな顔で立っている妻の背後には暖炉があり、マントルピースの上には二十歳ぐらいの青年の写真が飾ってある。

 

「……連絡はない」


 それだけ答えるのが精一杯だった。


 ──連絡はないって、そんなのおかしいでしょ。国境付近へ演習に行った? そのあと音信不通? こんな馬鹿な話がある? お父さん、分かってるでしょ。あの子、戦争に駆り出されたのよ。あの子は何も知らないでいきなり前線に放り込まれたのよ! お父さんだって本当は分かってるんでしょ! どうしてなんにも言わないの?! あの子はあの男に騙されたのよ! 生きてるかどうかも分からないなんて、そんなの無茶苦茶だわ!

「いい加減にしないか!」


 また怒鳴りそうになり声を押し殺した。


「お前は自分が言っていることがどういうことか分かっているのか! 恐ろしい目に遭いたくなければもう黙るんだ。二度とうちへは電話をかけて来るな」


 一瞬の沈黙のあと、受話器の向こうからすすり泣く声が聴こえた。


 ──お父さんは、娘の言うこととあの男の言うことと、どっちを信じるの?


 喉が詰まった。

 つばを呑み込んでから努めて冷静な声でこう告げた。


「よく聞きなさい。今度うちに電話をかけてきたら、お前とは親子の縁を切る。これは嘘ではない。父さんは本気で言っている。分かったね。それから、滅多なことは口にしないように。それを破ったらお前はもう私の娘ではない。以上だ」


 娘が何か言おうとしたのを遮るように、ブツリと電話を切った。


 夫婦は目を見合わせた。重たい沈黙が流れる。

 

 

「……今日はずいぶんな言い方じゃありませんか。本当に二度とかけてこないかも知れませんよ」


 暖炉のそばに立って黙って聞いていた妻がぼそりと呟く。


「その方がいい。その方があの子の安全のためだ。ここで話していることだって、どこで聞かれているか分からないんだ」

「そんな心配いりませんよ。あの子がいるのは西側の国なんですよ」

「西側にいるからといって安心はできない。この国籍を持っている限り」


 世の中には至るところに目があり、至るところに耳がある。そしてコソコソと暴く口がある。見てはならない。知ってはならない。ましてや、口にすることなど。それは西の国に住んでいる娘だって同じことだ。こんな電話を毎日かけてくるなど恐ろしくなる。


 黙っていることが賢いことだと、いつから自分は覚えたのだろう。



 妻はマントルピースの上の息子の写真を見つめている。これは徴兵の少し前に撮ったものだった。二十歳か。まだ一丁前にひげも生え揃わない、あどけない表情かおをしている。写真の横には、華奢な花瓶にほっそりとしたカーネーションが生けられている。ささやかだが、これぐらいしか供えてやれるものがない。


 夫の視線に気づいてゆっくりとこちらを向いた妻の目は、すでに赤く潤んでいた。


「……自分の子どもの体すら、返してもらえないなんて」


 聞き取れないほどのかすかなひと言が、胸にぐさりと刺さった。


 イヴァン。

 もう呼びかけても帰ってこない息子。

 頬を赤く染めた若者の顔の上に、テレビに映っていた国家元首の顔が重なる。 

 どん底からこの国を救った指導者。

 偉大な男だと信じていた。

 今の暮らしがあるのはすべてこの男のおかげだと。

 それを否定することは自分の今までの道のりを否定することだ。

 なのに、目の前の息子のあどけない笑顔が心を裂く。身が真っ二つになるような痛みが骨の髄まで走る。雷に打たれたように心臓がふたつに引き裂かれる。


 俺は今まで何を信じてきた?

 息子を失った親は涙を流すことも許されないのか。

 俺は今まで何を信じてきた?


 マントルピースの上にはいくつもの写真が飾ってある。

 夫婦の肖像。幼い姉弟の肖像。

 今よりひと周り若い夫婦を挟んで立つ、まだ十代だった子どもたち。

 その全てが大切な家族の肖像だ。


 この国にも歴史があるように、我が家にもささやかな歴史はある。

 その歴史が決して自分の思い描いていたような足跡を残さないとしても。


「……オリガは、ずいぶんと強くなったもんだな」

 幼い娘の写真を見ながら、夫の口もとが少しだけ緩んだ。

「本当ね。自由の国にいると変わるものかしら」

「自由の国、か」

「せめて……あの子だけでも元気でいてくれたら」


 今日は妻の言葉に上手く返せない。



「そういえば夕飯の途中だったな」

 食卓に残されたままの赤いスープはもうすっかり冷めている。

「どうします? 温めなおしましょうか」

「いや、そのままでいい」


 夫婦は再びテーブルについた。

 ふたりとも黙ったまま、冷たくなった野菜の煮込みを食べた。

 細く切られた根菜をスプーンですくいながら、夫はふと呟く。


「自由とは、どういう味がするんだろうね?」

「なんですか、それ」

 妻は意外な言葉につと目を上げ、困ったような顔で小さく笑った。

「さあ、どんな味でしょうね」


 俺には血の味がするような気がしてならないよ──。


 口からこぼれかけた言葉は、赤い野菜と一緒に呑み込んだ。

 


 テレビはまだ大本営発表を繰り返している。

 窓を覆った鉛色の遮光カーテンは揺れもせず部屋をうす暗く包む。

 昔と同じだ。この国には至るところに重たい鉛のカーテンが降ろされている。


 一人掛けのソファに腰かけ、胸ポケットから端末を取り出した。


 ──お父さん、アプリの使い方教えてあげようか?

 イヴァンのからかうような声が耳によみがえる。


 ──馬鹿にするんじゃないよ。

 もうよく分かっているさ。まさか、こんな風に使うことになるとは思ってもみなかったがね……。


 アプリケーションを起動し、震える手でメッセージを打ち込んだ。



 数日後、娘は祖国の首都で地元民による反戦デモが行われたというニュースを見た。今回はこれまでにない大規模な集会だという。その映像の中で、娘は信じられないものを目にした。


 広場の中央に据え置かれた段上で、拡声器を持った白髪の男が群衆に語りかけている。そばには息子の遺影を胸に掲げた女性が立っている。


 集まった人々に向かい、男はこう呼びかけた。


 ──賢き市民よ、騙されるな。

 目を覚ますのは今だ。

 我々が尊敬し、崇拝し、頑なに信じてきた人間は、鉛の心を持った、ただの独裁者である。

 

 誰が兄弟を殺せと頼んだ?

 誰が息子を殺せと頼んだ?

 誰が侵略を望んだ?

 誰が戦争を望んだ?


 誰も望んでなどいない。

 望んだのはただひとり、我々を愚弄する国家元首だ!


 賢き市民よ、

 我々は目隠しをされ、耳栓をされ、猿ぐつわをされた愚鈍な民ではない。

 我々の命を握るのは、決して国家元首ではない。

 我々の命を握るのは、我々自身だ!


 敵は隣国ではない。

 敵は我々の内側にいる。

 

 我々を愚弄する国家元首は無用だ!

 今こそ目を覚まし、鉛のカーテンをぶち壊せ!



 群衆から大きな歓声が上がった。


 ──鉛のカーテンをぶち壊せ!

 ──鉛のカーテンをぶち壊せ!


 その時。

 催涙弾の煙とともに画面が真っ白く濁った。人々の狂乱と怒声が入り混じる。酔いそうなほどに動くカメラは警察との衝突をまざまざと映し出していた。


 そして、映像の最後に娘が見たのは、警棒で打ちのめされながら壇上をひきずられてゆく──父の姿だった。



 了

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鉛のカーテン 柊圭介 @labelleforet

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