05 ウルツ・サハリ、妻と共に「春夜」を吟じること

「……それで、どうなったのだ?」


わたしの知るところでは、その後、高俅こうきゅうは――いろいろとありましたが、滅びゆく国と命運を共にし、そして開封にて死ぬことを選んだそうです」


 北宋はその後、金によって滅んだ。

 徽宗きそうを始めとする皇族は北へ連れ去られ、蔡京さいけい童貫どうかんも死し――高俅も家財を没収される運びとなったが、彼はそれでも開封から動かず、祖国と共に死んだ。


「……そうか」


 長いひげの男は、妻女とおぼしき女性から供された盆の上、東坡肉トンポーロウ蔬菜湯野菜スープを見た。

 まず、東坡肉に箸が向かう。


「……旨い」


「恐縮に存じます」


「そなたの先祖――蘇軾そしょくが考案しただけのことはある。旨いし、体が喜ぶ」


 男は肉の咀嚼を終えると、蔬菜湯の碗に手を伸ばし、それを匙で掬って、飲んだ。


「……ふう。たしかに値千金。飢えて死にそうな時なら、なおのことそう思えるであろう」


 それこそ、命を賭して意地を張りたくなるぐらいな、と男は言った。

 すると男の妻は微笑んだ。


「高俅は言ったそうです。食い意地が張っていただけだ、と」


「ほ」


 男は破顔した。


「面白い! その一言だけで、ぜひこの話を伝えるべきだな」


「……そう思ってくれますか」


「うむ」


 男は早速出仕して、国史編纂の部署に、そういう話を伝えること、内諾を得ておこうと立ち上がった。

 妻女もまた立ち上がり、言った。


「旦那さま、ご出仕。御者は用意を」


 室外に控えていた召使いが走る。


「それではいってらっしゃいませ、ウルツ・サハリさま」


 男――耶律楚材やりつそざいは笑う。

 ウルツ・サハリ(ひげの長い人)とは、彼のモンゴル帝国の宮中においての呼び名である。


「そちらの名で呼ぶのはやめてくれぬか」


「いえ。ご出仕とあらば、今から呼んでおいた方が、良うございます」


 妻女――蘇軾の玄孫、蘇公弼そこうひつの娘はそう言って、拝礼した。

 妻だ。

 耶律楚材は苦笑しながらも「大儀」と述べる。

 そして、これはなおさら、出仕して暇が出来たらすぐに、国史編纂の担当官に頼まねば、と思う。


「今さら、おおやけとしての宋の歴史の史書――『宋史』には載せられぬ。載せられぬが、かような話があったことを稗史(非公式の史書)にて残すことは、黙認してもらうとしよう」


 耶律楚材はモンゴル帝国の中書省の官僚であり、幹部でもある。

 その耶律楚材が頼めば、この高俅の逸話も、稗史にて伝わることになろう。

 耶律楚材の妻女は、これで多少は高俅に恩を返せたと、安堵のため息をついた。

 それを聞いて夫は微笑む。


「……今宵はまた、帰ったら月見でもするか」


「ええ」


 時は春。

 月見の季節である。

 いつしか耶律楚材とその妻は、とある詩を共に口ずさんだ。


「春宵一刻値千金

 花有清香月有陰

 歌管楼台声細細

 鞦韆院落夜沈沈


春宵一刻しゅんしょういっこく 値千金あたいせんきん

 花に清香せいこう有り 月にかげ有り

 歌管かかん 楼台ろうだい こえ 細細さいさい

 鞦韆しゅうせん 院落いんらく 夜 沈沈ちんちん)」


 それは「春夜」という、蘇軾の七言絶句であった。

 

「……良い詩だ」


 耶律楚材もまた、詩を愛し、良く吟じたとして知られる。

 そんな彼にとって、詩人の家系の娘を妻にしたことは、良縁と言えた。

 その妻が言う。


「では改めて、いってらっしゃいませ。今宵には、鯉の揚げ物など用意しておきましょう」


「それは楽しみだ」


 鯉の揚げ物も、蘇軾の考案によるものとされる。

 こういう料理が、宋代から今へ伝えられたこと――それは高俅が蘇軾の遺族を支えてくれたおかげである。


「ならば、私も伝えよう――高俅という男がいて、彼が意地を張ってくれたおかげで、こうして蘇東坡そとうばの『作品』の数々が伝えられたということを」


 耶律楚材は中書省へ向かう。


 ――こうして、高俅はのちに『水滸伝』で奸臣にして大悪党という扱いを受けるものの、史実においては、ひとり蘇軾の遺族を支えた男として、名を残すことになった。


【了】

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高俅(こうきゅう)の意地 ~値千金の東坡肉(トンポーロウ)~ 四谷軒 @gyro

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