05 ウルツ・サハリ、妻と共に「春夜」を吟じること
「……それで、どうなったのだ?」
「
北宋はその後、金によって滅んだ。
「……そうか」
長い
まず、東坡肉に箸が向かう。
「……旨い」
「恐縮に存じます」
「そなたの先祖――
男は肉の咀嚼を終えると、蔬菜湯の碗に手を伸ばし、それを匙で掬って、飲んだ。
「……ふう。たしかに値千金。飢えて死にそうな時なら、なおのことそう思えるであろう」
それこそ、命を賭して意地を張りたくなるぐらいな、と男は言った。
すると男の妻は微笑んだ。
「高俅は言ったそうです。食い意地が張っていただけだ、と」
「ほ」
男は破顔した。
「面白い! その一言だけで、ぜひこの話を伝えるべきだな」
「……そう思ってくれますか」
「うむ」
男は早速出仕して、国史編纂の部署に、そういう話を伝えること、内諾を得ておこうと立ち上がった。
妻女もまた立ち上がり、言った。
「旦那さま、ご出仕。御者は用意を」
室外に控えていた召使いが走る。
「それではいってらっしゃいませ、ウルツ・サハリさま」
男――
ウルツ・サハリ(
「そちらの名で呼ぶのはやめてくれぬか」
「いえ。ご出仕とあらば、今からこう呼んでおいた方が、良うございます」
妻女――蘇軾の玄孫、
できた妻だ。
耶律楚材は苦笑しながらも「大儀」と述べる。
そして、これはなおさら、出仕して暇が出来たらすぐに、国史編纂の担当官に頼まねば、と思う。
「今さら、
耶律楚材はモンゴル帝国の中書省の官僚であり、幹部でもある。
その耶律楚材が頼めば、この高俅の逸話も、稗史にて伝わることになろう。
耶律楚材の妻女は、これで多少は高俅に恩を返せたと、安堵のため息をついた。
それを聞いて夫は微笑む。
「……今宵はまた、帰ったら月見でもするか」
「ええ」
時は春。
月見の季節である。
いつしか耶律楚材とその妻は、とある詩を共に口ずさんだ。
「春宵一刻値千金
花有清香月有陰
歌管楼台声細細
鞦韆院落夜沈沈
(
花に
それは「春夜」という、蘇軾の七言絶句であった。
「……良い詩だ」
耶律楚材もまた、詩を愛し、良く吟じたとして知られる。
そんな彼にとって、詩人の家系の娘を妻にしたことは、良縁と言えた。
その妻が言う。
「では改めて、いってらっしゃいませ。今宵には、鯉の揚げ物など用意しておきましょう」
「それは楽しみだ」
鯉の揚げ物も、蘇軾の考案によるものとされる。
こういう料理が、宋代から今へ伝えられたこと――それは高俅が蘇軾の遺族を支えてくれたおかげである。
「ならば、私も伝えよう――高俅という男がいて、彼が意地を張ってくれたおかげで、こうして
耶律楚材は中書省へ向かう。
――こうして、高俅はのちに『水滸伝』で奸臣にして大悪党という扱いを受けるものの、史実においては、ひとり蘇軾の遺族を支えた男として、名を残すことになった。
【了】
高俅(こうきゅう)の意地 ~値千金の東坡肉(トンポーロウ)~ 四谷軒 @gyro
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