監督は作った擬似精子を保存するよう西さんに命じると、早速履歴書を封筒から取り出して読み始めた。


「なんだ、まだ二十代前半だと思ってたが、今年で三十か。一応訊いておくが、一体なぜ前の職場を辞めたんだ?」


「えっとですね、少々体調を崩してしまいまして」


「病気か?」


「いえ、その……」


 上司からのパワハラが原因で胃に穴が空いてしまったのです、と正直に言えないぼくだった。その上司よりもずっと怖そうな人の前で、そんなこと言えやしない。


「まあ、それはいいだろう」監督は履歴書を戻した封筒をデスクに置いた。「それより、一度確認しておきたい。うちはテレビ番組ではなく、アダルトビデオの制作会社だ。それでかまわないんだな?」


 このタイミングだ、とそう思ったぼくは、思いきって切り出した。


「あの、そのことなのですが、」


 ——が、しかし、なんとも間の悪いことに、そこでまた電話がけたたましく鳴り始め、監督が受話器を取った。またエアコン業者かと思ったけれど、今度は違うようだった。


 でも、怒鳴るのはさっきと同じと言うかそれ以上で、その口調はもはや、ヤクザそのままのものだった。


「おいコラ! 貴様が飛んだおかげでこっちの予定はめちゃくちゃだ! しかも機材まで盗んでくれやがって、一体どう責任取るつもりなんだ?! 履歴書があるから逃げようとしても無駄だからな?! 覚悟しとけ!」


 やり取りから察するに、以前いたスタッフが、無断退職と同時に窃盗を働いたようだ。


 それならばここまで怒ってもわかるような気がするけれど、でも、ぼくがその元スタッフと同じ扱いを受けないとは限らない。何しろ、相手はヤクザなのだ。


 それはそうと、やっぱり履歴書が大きなキーポイントのようだ。


 監督の迫力に怯えながらも、ぼくはデスク上の履歴書を見た。


 不幸中の幸いとはまさにこのことだろう。それは手を伸ばせば届く場所に置かれていたし、さっきまでドア付近にいた西さんも今は部屋の奥側にいる。よって今ならぼくを捜し出す唯一の手がかりとなるあの履歴書を奪還して逃げることは、十分に可能だった。


 唯一の問題は、妹尾さんの会社に残っているぼくのスマホの着信履歴だけど、幸い履歴書には実家の固定電話の番号は書いていないから、最悪スマホさえ替えれば逃げ切れるに違いない。


 むろん本気でぼくを捜そうと思えば探偵でも何でも雇うなりしてできるだろうけれど、でもぼくは何もそのスタッフのように悪事を働いて逃げるわけではないのだから、そこまでの労力はかけないはずだ。そうしてしかるべくのちに忘れてくれるに違いない。


 ——よし。そうして早々にこの場所を後にして、大好きなディーヴァーズの曲を聴いてとにもかくにもリラックスしよう。


 とそう思って逃走を実行するべく、ありったけの勇気をもって腰を浮かせ始めたぼくだったけれど、それを阻止するかのような新事実が監督の怒号により発覚する。


「ああ? なんだと?! 履歴書の住所はデタラメだ?! 顔写真もないのに捜せるはずがあるのかだ?! 証拠もないのに泥棒扱いなんかして、逆に訴えてやろうじゃないかだと?! おまけにこの会話を録音してるだって?! はっはっはっ、残念だったな! 気付かなかったようだが、ここには防犯カメラを設置してるんだ! つまり貴様が機材を盗んだ瞬間も撮れてあるということだ! わかったか?! わかったなら今月末までに返しに来い! そうすれば情状酌量の道も考えてやらんでもない! でなければ証拠映像を持って警察に行くだけだ!」


 防犯カメ、ラ……?

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