「卵白と練乳とウーロン茶、これが擬似精子の材料だ。どうだ、簡単だろう?」


 一体なぜぼくは、こんなことを教わっているのだ……?

 早々に断って帰るはずじゃなかったのか……?


 とそう思いながらも、ボウルをスプーンでカツカツと混ぜながら尋ねてきた監督の言葉に、「はい」とぼくは頷いた。いかにも真面目に聞いてますという風を装いながら。


 監督いわく、午後からの撮影に使う擬似精子を作るついでに、ぼくにその『レシピ』を教えておこうということだった。


「ちなみにウーロン茶を入れるのは、黄ばみをつけるためだ。精子があまり白すぎると、リアリティーに欠けるからな」


「……な、なるほど」


 とまた真面目顔で応えてしまったぼくだったけれど、単にタイミングを失ってしまっただけで、決してこの場からの撤退をあきらめたわけじゃない。

 なぜならば、やっぱりどれだけ考えてみたって、ヤクザ経営のAV会社で働く自分なんて想像できないし、普通に怖いし、何よりもやっぱりのやっぱり、『あの』母さんが許してくれるはずもないのだから……


 とそういうわけで、引き続き断りの方法を考え続けているぼくだった。


 いっそ走って逃げるというのはどうだろうか?


 幸い履歴書はまだ提出していないから、いよいよとなれば、思いきってそうするのもありかもしれない。ちょっとした修羅場にはなるだろうけど、証拠さえ残さなければ大丈夫に違いない。


 とそう思っていたら、ぼくの心を読んでいるとしか思えない悪魔的なタイミングで監督が切り出してきた。


「ああそうだ、そう言えばまだ、履歴書を預かってなかったな。一応見せてもらっておこうか」


「え!? えっとあの、その……」


「ないのか? 妹尾は返したと言っていたがな?」


「……いえ、あります」


 ぼくはあきらめて、ビジネスバッグから取り出した履歴書入りの封筒を差し出した。


「なんだ? なぜ放さん?」


「しっ、失礼しましたっ」


 渡したくないという想いが無意識に出てしまっていたようだ。ぼくは監督と引き合う形で掴んでいた封筒をパッと放した。これで強引に逃げるという選択肢は潰えてしまったと思いながら。

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