第2章
第9話 席替え
翌日、始業よりも三〇分は早く教室に入り、自分の席について文庫本に目を落としていた。だが心ここに在らずで本の内容は全く頭に入ってこない。代わりに教室に誰かが入ってくる度に視線を上げてはその顔を確認し、目が合ったら反射的に会釈をするというのを繰り返していた。
教室にいれば霧名ちゃんの顔を見られる。
今朝の俺はそう考え、いてもたってもいられず早めに家を飛び出し登校したのだが、今は来るのが早すぎたと反省しているところだった。
そうして過ごすうちに一人、また一人と生徒がやって来てはすでに登校していたクラスメイトに「おはよう」と言って自分の席に着く。そしてある者は席を立って他の人と談笑したり、またある者はそそくさと教室を後にする。始業までは自由時間なので当然ながら各自思い思いに過ごして良い。
そんな中、教室前方の窓辺に男子生徒が
――和泉、今日もこえーな。
――先輩半殺しにするような奴だから当然だろ。
――つーかなんで
――親父が警察なんだろ? 国家権力様様だ。
――上級国民ってやつか。良いご身分だこと。
それに関しては自業自得だから仕方ないところはあるものの、いくら自由時間とは言え人の陰口を叩くのはやめて頂きたい。せめて本人のいないところで頼む。あと父親は博多区を所轄する
教室にいると息が詰まる思いがする。俺は静かに席を立ち、始業まで廊下で日向ぼっこでもすることにした。
しかし教室の戸を潜ろうとした時のことだ。
「あ……」
それはどちらが発した声なのだろうか。丁度登校したばかりの霧名ちゃんと正面から対峙し、お互い茫然とその場に立ち尽くした。
「おはよう、和泉くん」
「お、おはよう……石動」
霧名ちゃんはしばし呆気に取られていたもののすぐに気を持ち直し、朗らかに挨拶をしてくれた。俺は一瞬名前の方で呼びそうになったものの、咄嗟に自戒して苗字の方を口にした。
「もうすぐ始業だけどどこいくの?」
「別にどこも。廊下で日向ぼっこ」
「そう、良いわね」
じゃあね、と言って霧名ちゃんは俺の横をするりと通り抜け、教室に入っていった。
背後では男子が俄かに浮足だったようにざわめいていた。
――い、石動。おはよう。
――えぇ、おはよう。
そして霧名ちゃんが淡白に挨拶を返す声もまた俺の耳に届いていた。
それを聞いて改めて実感が湧く。今日から俺と姉のクラスメイトとしてのスクールライフが本格的に始まるのだ。
*
とはいえ俺と霧名ちゃんの間に何か特別な出来事が起こるわけではない。霧名ちゃんとは学校ではただのクラスメイトとして過ごすと釘を刺されている手前、積極的には話しかけられずにいた。まして今は廊下側男子、窓側女子のデフォルト席のままで座席が離れている。こっちから歩み寄って声をかけるのは不自然極まりないのであった。
そのため俺に出来ることといえば授業中や休み時間に姉の姿を遠目に観察することくらいであった。
霧名ちゃんは真面目に授業を聞いているようであった。顔を上げて先生の話をよく聞き、時折手元に目を落としてはノートにメモを取る。よそ見をしたり居眠りをする様子はなく、真剣そのものである。
休み時間は次の授業の支度を終えると文庫本を開いて一人で読書に耽っていた。周辺では女子がグループを作って談笑しているがそれに混ざろうとする素振りは一切ない。たまに女子から話しかけられると愛想良く返答するが、あまり会話が弾んでいる様子はなく二言三言で離れていってしまう。本人にそれを気に留める色はなく、また読書に戻るという有様であった。昼休みも教室で一人でコンビニのおにぎりを食べ、食べ終わるとどこかへ行ってしまった。
それを見て「友達いないのかな」などと邪推する。
一年出遅れて歳下の俺達と机を並べている現状に不満があるのだろう。その不満のために周囲と無意識に壁を作っているのか。
真意は不明であるが、皮肉にも俺達姉弟はこのクラスで揃って浮いていた。
*
意識が霧名ちゃんに釘付けなまま俺は一日を過ごしてしまい、気づけば最後の授業を終え帰りのホームルームを迎えていた。この日は学級委員の提案で席替えが行われることになった。
クラス替えからまだ二日目であるが、デフォルト席では面白みがないというのが一同の共通見解なため反対意見などない。
新しい席はくじ引きで決められた。番号が書かれた紙片をお菓子の空き箱に入れ、順番に引いていく。黒板にはランダムに番号を割り当てられた座席表が描かれており、皆手元の紙の番号とそれを照らし合わせては一喜一憂していた。
俺の席は窓側から二列目の最後列。もう一つ隣なら絶好のお昼寝席なのにな、と的外れな悔しさを抱くも、背後に人がいないため板書が見えないとの苦情を受けずに済むと自分を納得させた。
全員がくじを引いたところで移動する。ロケーションは良いが、問題は近隣住民にどんな人が来るかだ。正直なところ、今朝屯して俺の話をしていた連中とはお近づきになりたくない。出来れば女の子が近くにいて欲しいが、しかし女だらけというのも居心地が悪い。良い塩梅でお願いしますと神様に祈る。
自分の机を移動させた後、右隣に来た生徒の顔を見てゲンナリした。お隣さんは牛島だった。
牛島は丸々太ったずんぐりむっくりの巨漢だ。肌が不気味なくらいに白いため、バレーボールがブレザーを着て歩いているように見えなくもない。あるいは顔が脂でテカテカ光っているため牛脂が服を着ているようにも思える。彼が俺に何かしたわけではないが、なぜだかハズレを引いた気分である(超失礼!)。
また俺の目の前の席は萩原といういけすかない男子だ。萩原は身長が一六〇センチより低いチビだが口は偉く達者で、一年の頃はクラスが違ったもののそこかしこで馬鹿騒ぎをしていた姿が記憶にある。そして今朝俺の陰口を言い合っていた一団にも加わっていた。
まさかこんな変な奴らに教室の出入り口までの道を固められるとは運がない。
「ごめんなさい、ちょっと通してもらっていいかしら?」
机に項垂れて自分の不運を嘆いていたところ、鈴のような澄んだ声が近くで響く。顔を上げ、声の方向を見るとその先に霧名ちゃんが自分の机を抱えて立っていた。
「和泉くんの隣なの。通してもらえる?」
霧名ちゃんは眉を八の字にして牛島くんに頼んだ。牛島くんは一瞬ポカンとして彼女を見上げたものの、すぐに立ち上がって自らの机と椅子をずらし、通れる余地を作った。
俺もぼんやりしていられない。立ち上がって牛島くんと同じようにスペースを作り、「手伝うよ」と申し出て霧名ちゃんの机を半ば強引に引き取り、窓際最後列の位置に置いた。霧名ちゃんは目も合さず礼を言い、何事もなかったように着席した。
これは夢? それとも幻?
まさか霧名ちゃんと隣同士になるとは。澄まし顔の姉とは打って変わって緊張顔の俺は、戸惑いつつも内心踊り出したいほどの大きな喜びを感じていた。
今日一日、話すきっかけさえ得られなかった霧名ちゃんがすぐそばに来てくれた。そのことが嬉しくて仕方がない。前方と右隣を変人で固められたのは不幸だが、左側に女神様が舞い降りたようなものだ。プラスマイナスゼロどころかもうプラスである。
「和泉、よろしく」
「え、あぁ。よろ」
と牛島に挨拶をされ、俺はフランクに返す。挨拶は嬉しいけど話したいのはお前じゃねえんだよ!!
「えっと……石動。しばらくよろしくな」
気を取り直して俺は霧名ちゃんに他人行儀に挨拶を送った。
「えぇ、よろしくね。和泉くん」
対する霧名ちゃんはこれまた他人行儀に、でも少し、ほんの少しだけ笑みを浮かべてそう返してくれた。
だが俺は見逃さなかった。微笑みの後、一瞬目が光を反射する日本刀のような鋭さを帯びたことを。
――挨拶は良いけど分かってるんでしょうね?
俺は硬直した顔で真正面に向き直り、ホームルームを進行する雪野先生に意識を集中する。それが姉からのアイコンタクトへの返答であった。
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