第8話 父と義母に捧ぐ息子のブルース
カフェを後にすると俺達は解散し、それぞれ家路に着くことになった。本心ではこれから街に繰り出してカラオケでも行きたいところだったが、それは霧名ちゃんが難色を示した。制服姿で人の多いところをうろつきたくないとのことである。
不完全燃焼感があるものの、姉と長話が出来たことが嬉しく無自覚のうちに足取り軽やかに自宅へ歩を進めた。
「ただいま」
自宅のURマンションの戸を潜るとそう帰宅を告げ、玄関を上がってダイニングキッチンに入るタイミングでもう一度同じことを言う。
「おかえりなさい。遅かったわね」
そこでは義母と義妹がダイニングテーブルに掛け、おやつを食べさせているところだった。平皿に装ったプッチンプリンを義妹・
「うん、外で友達とランチしてきたから」
「あら、良いわね。仲の良い人と同じクラスになれた?」
「あ〜……大樹とはまた一緒だったよ」
「それは良かったじゃない! 一年間退屈せずに済みそうね」
お義母さんは心底嬉しそうに共感を示すと、また珊瑚に視線を戻し、スプーンを運ぶ手つきを見守り始めた。茶髪のショートボブがサラサラと揺れる。
「ねぇ、今日って父さんの帰り遅い?」
「? 七時には帰るそうよ。どうして?」
「いや、なんとなく聞いただけ」
なんとなく、と言いながらも俺はどこか浮ついた気分で冷蔵庫から自分の分のプリンを失敬すると自室に引っ込んだ。今日はなんとなく父さんと話をしたい気分だった。霧名ちゃんからは自分のことは父に言うなと釘を刺されているため、話題に出すつもりはないが、それでも言葉を交わしたい気分だったのだ。
俺は自室にてプリンをあっという間に平らげるとベッドに寝転がり、読書がてら世界史の参考書を読み始めた。ところがそこに珍客が現れた。ノックもなしに扉が開く気配がし、視線を向けると珊瑚が絵本を持って入ってきたのだ。
「にいちゃん、ご本」
珊瑚はベッドの傍に立つと持っていた絵本を差し出した。読み聞かせをご所望らしい。俺は起き上がって珊瑚を抱き抱え、隣に座らせると本を開いて文字を読み始めた。幼い珊瑚が聞き取れるよう、お義母さんを真似て出来るだけゆっくりとだ。
読み終えるとまだ何か話せとせがむのでベッドに横になり、桃太郎を聞かせた。
「――しばらく行くと鳥が飛んできて言いました。『桃太郎さん、袋の中に何が入っているんだい』」
「違うよ」
「え?」
「鳥じゃなくて
「あぁ、そうだった」
俺は言い直し、改めて語りを再開する。無事に雉が家来になったところでまたしても珊瑚が口を開いた。
「ねぇ、お猿はゴリラなの?」
「え?」
「お猿は何猿?」
「ニホンザルだよ」
「どうして?」
「どうしてって……日本にはニホンザルしかいないからだよ」
「でも動物園にはゴリラいたよ」
「あれは外国から連れてきたの」
「なんだ……」
ゴリラかと尋ねた時、珊瑚は目をキラキラさせていたが、ニホンザルと知るとしょぼんと落ち込んだ。いつか父から聞いたが、珊瑚はなぜか動物園でゴリラをいたく気に入ったらしい。ニホンザルも面白がっていたそうだが、ゴリラへの興奮ぶりは異様だったとのことだ。
「じゃあ犬は? セントバーナード?」
なんでそんな長い名前のデカい犬が良いんだよ。
「多分柴犬」
「どうして?」
「日本には柴犬しか(以下略)」
俺は苦笑しながら珊瑚の質問にああだこうだと答えてやった。このところ珊瑚は好奇心の発達が著しく、父や義母だけでなく俺にまでこうして「なぜ?」とか「どうして?」と質問をしては答えをせがんでくる。父曰くそうした好奇心が心の成長に欠かせないものとのことなので、俺は戸惑いながらも出来るだけ真正面から受け止めることにしていた。
そうして珊瑚は桃太郎そっちのけで俺に質問を浴びせ、かと思えば電池が切れたように眠りこけた。一人で寝かせておこうかと思ったが珊瑚が俺の服を掴んで離さないため、仕方なくしばらく一緒に横になることにした。だがそうしているうちにこちらも睡魔に誘われ、微睡の中に落ちていった。
その間際、脳裏に姉の姿が見えた気がした。春の
「……霧名ちゃん」
無意識にそう名前を呼ぶのを最後に俺の意識はドロリと溶けて消えてしまった。
*
目を覚ましたのは日没後、夕食の支度を終えた義母に起こされてのことだった。珊瑚の姿は既になく、俺より早く目覚めて出て行ったらしい。
背筋を伸ばしながら部屋を出てダイニングへ行くと、帰宅した父が既に缶ビールを開けて晩酌を楽しんでいた。
「おかえり、父さん」
「おぉ、ただいま」
顔に刻まれた皺と鋭い双眸の父が微笑みながら帰宅を告げる。シャワーを浴びた後らしく、短く刈り込んだ黒髪は水気を帯びており、服も部屋着のスウェットであった。そんないつも通りの父の姿に俺はなぜか深い安堵感を抱いたのだった。
俺は父の右隣に座る。真正面には子供用の椅子に座る珊瑚がいて、父の向かいには義母が。両手を合わせて「いただきます」と挨拶をし、家庭的な焼き魚定食を味わった。
父も俺も食事中はおしゃべりを嗜まない。一方で義母は今日あった出来事を流れるように父に話していた。
――公園で会った奥さんがうんぬん。
――ベビーカーを押していたらかんぬん。
――役所の窓口のおばさんがどうたらこうたら。
などなど愚痴のオンパレード。父はそれに対して相槌を打ったり、苦笑いを返したりして一応相手をしていた。そしてなぜか俺にも飛び火するので俺も父に
新しい和泉家の食卓はいつもこんな具合だ。
「ママ」
と、ここで珊瑚が母を呼ぶ。これもよくあることだ。
「どうしたの? ジュース?」
義母が問うも義妹はふるふるとかぶりを振る。
「きりなってなぁに?」
問われ、首を傾げる義母。義母には馴染みのない単語なためすぐには理解出来なかったのであろう。だが当然父は瞬時にその名が意味するものを悟ったはずだ。横目でチラリと様子を窺うと難しい顔をして手元を見つめていた。俺は我関せずを決め込んで焼き魚の解体を再開しながら、なぜ珊瑚がその名を知っているのか思案した。
義母がわざわざ霧名ちゃんの話をするとは思えない。父もなるべく以前の家庭の話は避けている節があるので考えづらい。タイミング的には僕の口から漏れたと考えられぬでもないが、記憶に無い。そもそも珊瑚にするような話ではない。
「さぁ、なんだろうな」
父は少し困った風な口ぶりで幼き娘の問いをはぐらかした。腹違いの姉がいるという話はまだこの子には早いと踏んでのことだろう。一方の珊瑚もすぐに興味が失せたらしく、義母が解体し箸で運ぶ魚の身を美味しそうに食べ始めた。
「ごちそうさま。お皿、後で洗うよ」
食べ終えると俺は自分の食器を重ねて流しに運び、洗い桶に漬け込みながら申し出た。
「あら、そのままにしておいて。私がやっておくわ」
「いいよ。お義母さんは珊瑚の相手してあげて」
「そう、ありがとうね」
義母はにっこり笑い、珊瑚にまたご飯を食べさせ始めた。それを横目に父の食器も空になっていることを認めたため片付ける。母は珊瑚の世話で自分の食事が遅れがちなためまだ膳の中身がたっぷり残っていた。女二人の食器は追って俺が洗うことになるだろう。俺はそそくさとシンクの食器を洗い、そして予想通り後になって義母と義妹の食器を片付けた。それだけに留まらずシンクの三角コーナーや排水溝のネットを取り替えてゴミを捨て、また今日はゴミ出しの日なので家中のゴミ箱をビニール袋に移し替え、パンパンに膨れ上がったそれを表のごみ収集所まで運び出す。福岡市のごみ収集は真夜中に行われるのだ。
「お義母さん、終わったよ」
和室で珊瑚を寝かしつける義母にそう報告し、日課の点数稼ぎはつつがなく完了する。義母から穏やかに「ありがとう」と礼を告げられ、今日も自分は良い息子でいられたと安堵した。珊瑚を挟んで反対側の布団では疲れ切った父が死んだように眠っていた。
珊瑚が眠ってしまえばあとは義母の自由時間で、彼女は大抵はリビングで酒を飲みながらテレビや雑誌で娯楽に耽る。そうなったら俺はリビングに立ち入れない。命じられているわけではないが、義母と二人きりだなんて息苦しいったらありゃしない。なので俺は自室に篭り、息を潜めるように勉強や読書に耽り、二三時くらいに就寝するよう習慣づけている。
自室のベッドに倒れ込むと俺は憔悴しきった気分になり、それきり起きられなくなった。
今日は一段と疲れた気がする。帰宅してからはいつも通りであったが、夕食に珊瑚が霧名ちゃんの名前を口にするものだから驚いてしまった。それがこの家に災いをもたらす火種になるとは思わないが、微かな不安のようなものが俺の中にはあった。
新しい和泉家はうまく回っている。義母は共働きだった実母と違い専業主婦として刑事の父を支え、娘と連れ子の俺の面倒をよく見てくれている。各々の年齢的には不自然な家族だが、その点に目を瞑ればアットホームな家庭である。そのことに気づいた時、俺は自らの役割がそれを崩さないことであると悟り、以来良き息子になれるよう努めてきた。
それなのに今日、俺はある意味その役割に背く行いをしてしまった。石動霧名は今の和泉家にとっては異物に違いないだろう。父と俺にとっては血を分けた身内であっても、義母にとっては赤の他人だ。そんな人物がずけずけと自分のテリトリーに入ってくることはきっと不快だろう。
そう考えれば、俺は霧名ちゃんが言った『関わるな』という言葉に従うべきであった。あれは姉が自らのために言ったことであったが、皮肉にも俺自身への忠告にもなっていた。
だが今更その忠告を守る気にはなれなかった。今日、霧名ちゃんの顔を見て話したことでそれまで俺の中で抑えられていた何かが解き放たれ、行き場を求めて身体中を駆け回っているような気がした。
「霧名ちゃん……会いたいよ……」
ただの石動さんではなく、姉の霧名として語り合いたい。姉としてそばにいて欲しい。そんな寂しさと虚しさを抱き抱え、息を引き取るように眠りについたのだった。
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