第7話 密会の条件

 その後、俺は話題を春休みの出来事に移し、通り一辺倒な会話をして気持ちを落ち着け、ようやく本題を切り出す心構えが整ったのであった。


「霧名ちゃん、母さんは元気?」


 そう問い、セットメニューについていたコーヒーを一口啜る。霧名ちゃんも同じようにコーヒーを口に含み、やや沈黙を置いて、


「普通よ。元気なんじゃない?」


 と淡白に返して黙り込んでしまった。


 なんだそりゃ、と拍子抜けしてしまった。もっと他に母の身に最近起こった出来事を付け加えて話題を広げてもらえるものと期待していた。


 俺達の両親は俺が七歳くらいの頃に離婚した。そして俺は警察官の父に、姉は税理士の母にそれぞれ引き取られた。その当時は福岡県の最南端の大牟田おおむた市に住んでおり、離婚して間もない頃、俺達姉弟は定期的に顔を合わせていたものの、父の異動に伴い福岡市に引っ越してくると明らかに会う頻度が減り、しまいにはパタリと音沙汰がなくなってしまった。父に母と姉の様子を尋ねてもあまりはっきりと答えようとはせず、俺も深掘りすることを躊躇うようになり、なるべく二人のことは考えないよう努めた。


 しかし姉が思いがけず俺の前に現れたことにより、以来二人のその後を知りたいという欲求が膨れ上がり、今は抑えきれなくなっていた。今日このように接近を試みたのはそのためである。


「母さん、再婚したんだよね? いつ頃?」


 霧名ちゃんが自ら切り出す気配がないためこちらから問う。


「うーん、十二歳くらいの時かな」


 返す姉はなぜかつまらなそうに表情を翳らせる。


 十二歳の頃というのは当然俺は十一歳だ。そしてその時期というのは家族四人で会うことがなくなった時期と一致する。交流が途切れたのは母の再婚が理由だったのかもしれない。


 そう考えると俺は無性に悲しくなった。母は霧名ちゃんを連れて新たな家庭に入った。その後、新しい夫との生活を円満なものにするため、和泉家との過去を清算したつもりなのかと勘繰ってしまっていた。あの母にとって、俺という存在は一体なんなのか、とも。


「源次郎、うちの話は今日はやめとこっか? あんまり楽しいネタ無いし」


 スプーンでコーヒーを所在なさげに混ぜながら切なげに言う。自分から聞いておいてなんだが、確かにこれ以上は聞きたくない。


「それじゃあ、霧名ちゃんがどうして俺と同学年なのか訊いてもいい?」


「……よりによってそこ聞く?」


 一際大きなため息をつき、ジト目で視線を送る。咎められ、馬鹿な質問をしたと後悔した。


 姉は俺より一つ年上で、当然一学年上だ。その彼女がなぜ俺と同学年なのか奇妙でならないのだが、よくよく考えれば訊くまでもないことである。年上の彼女が同輩になるのは留年か浪人したかのどちらかしかない。高校生では珍しい気もするが、制度上あり得ないことはない。たまたまこの人がそのレアケースに引っ掛かってしまったというだけの話だろう。


 なんにせよ当の本人にとっては苦い記憶に違いない。僕は短く詫びを入れ、口をつぐんだ。


「そっちの方はどうなのよ? お父さん、元気?」


「うん、元気だよ。相変わらず忙しくて家を開けることが多いけど」


「刑事だもん、しょうがないよ。それに再婚して守るものが増えたんなら、まだまだ頑張んないとね」


 刑事の娘としては模範的な考えだろう。だがその口振りには俺が抱えているものと同じ寂寥感とも諦念ともつかない感情が滲んでいた。母が和泉家に接触していないように、父もまた石動家に連絡は取っていないことだろう。つまり父もまた新たな生活のために母と娘との過去を清算してしまったのか。母だけでなく父までもそんなドライな心構えをしたのかと邪推し、また気持ちがブルーになってしまうのだった。


「ねぇ、お義母かあさんってどんな人? 優しい? 年はいくつ?」


「自分は答えたがらないくせによく訊くな」


「いいから教えなさいよ」


「もう、急かすなって。俺にも優しくしてくれてる。歳は確か三五とかだった気がする」


「嘘、若い!? どこで引っ掛けてきたのよ……」


 口元を抑え、唖然とする姉。むしろ引いている。


 父は今五〇歳なので夫妻の年齢差は一五歳である。年齢的には歳の離れた兄妹と言えなくもないが、父が実年齢より老けて見える上に義母は若造しているため並んで歩くと親子に見えるので不釣り合いもいいところだ。


「はぁ……いいなぁ。義理とはいえ優しいお母さんと妹がいてそっちは毎日が楽しそう。私も和泉の家に引き取られたかった」


 霧名ちゃんは空にしたカップを見つめながら心底羨ましそうにそうひとりごちた。対する俺はどう返せば良いのか分からなかった。


 全ての家族がうまくいくとは限らない。かつての和泉家も同じで、それ故に両親は離婚した。そして親が新たなパートナーを見つけたからといって再出発が良い船出とも限らない。石動家の様子は窺い知れないが、少なくとも霧名ちゃんにとって愉快なものでは無いらしい。


「楽しい……とは少し違うかな……」


 姉の羨望に対し出てきたのは俺の素直な気持ちであった。


 俺も同じだ。父は若くて美人な義母と結婚し、新たに娘を授かった。あの歳の父にしては順風満帆な再出発であろうが、俺にとっては新たな受難であった。


 姉弟とは因果なものだ。別々の家庭に分たれても、それぞれの家で似たような悩みを抱えているのだから。


 それから奇妙な沈黙が漂った。サンドイッチを食べている時はあんなに楽しく話していたのが嘘のような重苦しい空気がこの空間を占めていた。その沈黙を霧名ちゃんが悲しい一言で破る。


「ねぇ、源次郎。私達、こうして会うのはやっぱり良くないのかもね」


「えっ?」


 それは以前にも聞いた冷たい響きを帯びた気持ちであった。だが先日の突っぱねるような強引さはない。むしろそっと背中を押すような優しささえ孕んでいた。


「どうやら私達には話しづらいことが山のようにあるみたい。会って無理して知らんぷりしてもお互い嫌な思いするだけだろうから、ただのクラスメイトとして適度な距離を保つのが良いと思うの」


 霧名ちゃんの考えは、なるほどと思わぬでもない。今、こうして訊きたかったことをあれこれ訊いてみたものの、それで会話に花が咲くということはなかった。霧名ちゃんには話しづらいことが多いようで答えに窮し、不自然に会話が途切れてばかりである。そして逆もまた然りだ。俺にも言いづらいことが多すぎる。


「……こういうのって時間が自然と解決してくれるものなのかな」


 ポツリと俺は他力本願な希望を漏らした。


「多分そうよ。だからお互い大人になって気持ちに折り合いがついてからまた会いましょう」


 そうこともなげに告げると霧名ちゃんはカバンから財布を取り出し、そして抜き取った千円札をテーブルに置いた。「お釣りは貰っといて」と小さく告げ、立ち上がった。


 もう行ってしまうのか。そう訴えたかったが言葉は出なかった。その代わりに座ったままの俺は無意識のうちに霧名ちゃんの手首を掴み、引き留めていた。


「源次郎、ごめんね。離して」


「嫌だよ。行かないで。会わないなんてのも無理だよ。また二人で話がしたい」


 俺を見下ろす霧名ちゃんの顔はまさしく、駄々をこねる弟に手を焼き困っている姉そのものであった。


「源次郎、私の話聞いてた? お互いにギクシャクして嫌な気持ちになるだけなのよ?」


「じゃあこれまでのことは訊かないでおく。ただ楽しいことだけに目を向ければ良いでしょ」


「我が儘言わないの」


「だって……俺、寂しいよ……」


 姉の手首を掴む手が解け、腕はだらりとぶら下がった。


 姉は目をまん丸に見開いて俺を見つめていた。なぜそんな反応をするのかすぐには察せられなかった。そもそも俺自身『寂しい』だなんてなぜ口走ったのか理解しかねた。


「そう……源次郎、あなたも家に帰りたくないのね」


 霧名ちゃんの手が俺の頭に置かれ、優しく撫でた。そのせいで胸がどんどん苦しくなり、目にはいっぱいの涙が溜まり始めていた。


「それじゃあこうしましょうか。私たちの付き合いはあくまでプライベートな所で細心の注意を払い、最低限度に。学校ではちゃんと苗字呼び。私の留年と姉弟であることがバレないようにね」


「本当!?」


「もちろんよ。だから寂しいなんて言わないの」


「ありがとう、霧名ちゃん!!」


「ちょっ、声が大きい! それに制服着てる時は石動って呼びなさい」


「分かったよ、石動」


 霧名ちゃんから交流を許された俺は嬉しさのあまり幼子に戻ったように素直に姉の言うことに従った。対する姉は呆れたようなため息をつき、苦笑いを浮かべてまた俺の頭を撫でる。


 こうして俺と姉は学校では同じ教室で学ぶ同輩の仮面を被り、裏では姉弟として密会を重ねる間柄になるのである。


 そのことがあまりにも嬉しくて、なぜ姉が義妹が生まれたことを知っているのかこの時は気にも留めなかった。

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