第6話 幸せランチタイム

 油山観光道路を下方面に進むとすぐに住宅街に差し掛かる。この辺りは昔から住宅だらけでカラオケボックスやゲームセンターなどは影も形もない。そのため半ドンで解放された高校生が自由を謳歌するには不向きな区画であるが、言い換えれば高校生が大挙して押し寄せる心配がない。つまりは俺達姉弟にはうってつけのエリアである。


 俺は霧名ちゃんをエスコートし、大通りを折れた細い路地に面したカフェへ入った。隠れ家風的なこの店はランチタイムだというのに客足はまばらでガランとしている。もちろんその中に六本松高校の生徒はいない。


 カウンターの向こうの中年のマスターから空いている席をどうぞと促されたため、俺は好意に甘えて店の一番奥の席へ足を運ぶ。この店は居抜き物件だったのか、フロアの奥の方はカフェにしては不自然な半個室が二つほど中途半端に設営されている。普段ならそこに入ったりしないが、今日ばかりはこれ幸いと着席したのだった。


「こんなお店あったのね。知らなかったわ」


「穴場ってやつ。ここなら誰かに見られたりしないだろうから思いっきりお話し出来るね!」


 自分でも口元が緩んでいるのを察するも嬉しい気持ちが漏れ出るのを抑えきれなかった。


 この十日ほどの間、俺は霧名ちゃんに言われた言葉の意味を考え、こうして話をする機会が巡ってこないかと切望していた。


 なぜ関わるななどと冷たいことを言うのか。

 なぜ俺と同学年なのか。


 他にも訊きたいことは山ほどある。


 だがその前に腹ごしらえだ。俺達は二人揃ってランチメニューのコーヒー付きクラブハウスサンドイッチセットを注文した。


 待っている間、俺は真正面に座った姉の顔を眺めた。

 先日大濠公園で見た時は髪は解かれ、裸眼であった。だが教室から現在に至るまではポニーテールに髪を結い、赤いセルフレームの眼鏡をしている。素顔では一歳と言わず三、四歳は大人びて見えるが、今の容姿は同学年と言われて遜色ない。髪型と眼鏡の有無で随分印象が変わるものだと感心していた。


「ジロジロ見ちゃってどうしたの? お姉ちゃんが恋しかった?」


「そんなんじゃ……ないし」


 苦し紛れに否定するも図星だ。


 印象を考えると同時に姉の美貌に見蕩れていた。先日ひと目見た時にも感じたが霧名ちゃんは本当に綺麗になった。幼少の頃は俺を庇護し、導いてくれる存在として慕っていただけなので容姿の美醜など考えたことなどないが、今はそれがやけに目についてしまう。


「ふふ、何考えてるのかしらね」


 姉は店の落ち着いた雰囲気を気に入り、また僕の言葉通り他人に見られる恐れがないことに納得してくれたお陰か表情が柔らかくなっていた。


 そして不敵に笑み、グラスに注がれた冷水を一口だけ上品に含んだ。水で微かに湿った唇もまた艶っぽく、変に身体が火照って姉の顔を直視出来なくなりそうだった。


 姉はもう昔の姉ではない。目の前にいるのは、かつて俺がヘマをしたりおどけたりするとケラケラと無邪気に笑っていた幼き日の和泉霧名ではなかった。六年の歳月を経て女性らしい色気をたっぷりと蓄えた石動霧名なのである。


 一体何をやっているのだと自己嫌悪に駆られる。まるで実姉を異性と認識しているようではないか。今日はラブコメみたいな甘酸っぱいひと時を過ごすために誘ったのではないというのに。


 ちょうどその時注文していたクラブハウスサンドイッチが両者の前に届けられる。霧名ちゃんは満面の笑みを浮かべながらおしぼりで手を拭き、いただきますを言ってサンドイッチにかぶりついた。


「はむ……。美味しい〜」


 咀嚼しながら堪らず舌鼓を打つ声を漏らす。俺は昔と変わらぬその笑顔を見て少し安心した。


「源次郎、あなた学校どう? 楽しい?」


 食事をして機嫌が良いのか、ちょっと前までピリついていたとは思えない自然さでそう尋ねてきた。だが返答に窮する内容で俺は思案した。


「ちょっと行くのが億劫かな。友達は……まぁいるけど、そんなに多くはない」


「そう……。バスケ部だったのよね? どうして辞めちゃったの?」


「え……?」


 その問いに拍子抜けし、俺はサンドイッチを運ぶ手を止めてまじまじと姉の顔を観察した。サンドイッチを咀嚼する顔には他意はなく、ただ純粋に身内として気にかけていると見て取れる。


 姉も六本松高校の生徒だ。あれだけ噂になっていたのだから知っているとばかり思っていたが、どういうわけか耳に届いていないらしい。


「えっと……レギュラーになれなかったからかな。身長は部内でもあった方だけど、肉体面フィジカルだけでは埋められない実力があるみたいでさ」


「そっか、残念ね。バスケは中学から?」


「いや、高校から。中学の時は柔道を」


「え、あなたが格闘技? 分かるような分からないような……」


 姉は苦笑を浮かべ、胡乱げな声でぼやいた。


 霧名ちゃんのその反応は予想通りだった。

 刑事の父の影響もあって、中学校では柔道部に所属していた。だが公式戦の成績ははっきり言って鳴かず飛ばずだった。団体戦は階級無しなので、試合に出て相手が自分よりも小さければ大抵勝てた。だが個人戦は階級別なので自分と同じくらいの身長と体重の選手とぶつかり、そして大抵負けた。顧問と父曰く「闘争心が薄い」という格闘家として致命的な欠点があるのだ。


 心技体の『心』が伴ってない。霧名ちゃんは父と同じくそのことを見抜いたのだろう。


「それで彼女はいないのかしら、ルックスに自信のある源次郎くん?」


 意地悪な質問をされ、俺は咀嚼していたサンドイッチを喉に詰まらせてしまった。慌てて水で流し込み、気道を確保するも心の乱れは収まらず恨みがましく霧名ちゃんに視線を投げる。無論俺の睨みなどで動じる姉ではない。


「いないよ、彼女なんて」


「あら、そうなんだ。今までも?」


「……うん」


 心底意外そうな顔なのはわざとなのか、あるいは本心なのか。その真意はさておき、生憎と俺にその手の浮いた話はとんとない。所謂『彼女いない歴=年齢』というやつだ(ルックスの自信とは……)。


「ふふ、大丈夫よ。源次郎、格好良くなったからきっとすぐにいい人が見つかるわよ」


「もう、あんまし揶揄うなよ」


 容姿を褒められても皮肉にしか聞こえない。先日は本気でこの人に気に入られようと手当たり次第にアピールをしたのだがもはや滑稽ですらあった。恋人なんていたことすらないのに、何がルックスに自信があるだ。今さなだが恥ずかしくて穴に入りたい気分だ。


 だが言われた当人に俺を小馬鹿にするつもりは毛頭なかったらしい。不貞腐れる俺の顔を見るや少し驚いたふうな表情をしたが、一瞬の後には慈愛に満ちた優しい微笑み浮かべたのだった。


「揶揄ってなんかない。本心よ。源次郎、すっかりたくましい男の子になってびっくりしちゃったもの」


 優しげな視線には確かに邪気というものが無かった。それ故に言葉通り俺は本心として真正面から受け取ってしまった。


 異性から容姿をこうもはっきりと褒められる経験は今まで無かったことだ。お陰でどう受け止めて良いのか分からず、俺は俯き、黙り込んだ。


 恥ずかしい、それなのにすごく嬉しい。自分の頬がどんどん紅潮していくことが察せられ、どうにか抑えられないものかと自制を試みるがなす術が無い。


「……りな……も……よ」


「え、何? よく聞こえないよ?」


「霧名ちゃんも、綺麗になったよ……」


 俺は苦し紛れにそう返すのがやっとであった。言われた姉がどのような表情をしているか、直視出来ないので分からない。


 姉弟で容姿の成長ぶりを褒め合う。複雑怪奇で、心のうちには恥ずかしさと嬉しさがない混ぜになった言葉にしづらい思いでいっぱいである。


 ただ一つ言えること。それは今、この時間は、俺の人生で一番幸せな瞬間だった。

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