7・木曜日【確信・サイドA】

 警察の機関を個人的に利用することが悪質な逸脱行為であることは分かっていた。謹慎を厳命されている身で札幌まで出かけること自体が、既に重大な職務規定違反だ。だが、聡美が撒いた疑念の種は、宇賀神の中で着実に芽を吹いて根を張り、大樹に育ってしまった。

 千歳中央署が組織として事件の拡大を未然に防ごうとしているなら、当然宇賀神が切り捨てられる。警官が絡んでさえいなければ、瑣末な窃盗事件として闇に葬れるのだから。たかが交番警官の不祥事ごとき、マスコミに知られて大騒ぎになる前に存在しなかったことにするのが〝常識〟なのだ。

 切られた尻尾がどれだけ跳ね回ろうが、いずれは朽ちていくだけだ。

 腐った尻尾にはされない。

 いや、ならない――。

 それが宇賀神の意地だった。

 そのためには、自分が明美が起こした盗難事件とは無関係だと完璧に証明しなければならない。明美の所在を明らかにし、証言させることが不可欠だ。

 状況から考えれば、明美と林が結託している可能性が極めて高い。おそらく明美は林に命令されるか、脅されて盗難に加担したのだろう。だとすれば、警察の動きを知った林が、どこかに明美を匿っていると考えるのが順当だ。

 その場所を探し出すのだ。第一歩が、明美と林が今でも深い関係にあることを明らかにすることだ。

 聡美が言う通り、林の家で見つかった髪留めと明美本人のDNAが一致すれば、ここ1ヶ月の間に2人が接触していたことが動かぬ事実となる。証拠能力はとっくに失っているから、警察の方針を転換させるのは難しい。それでも、林を追い込む材料にはできる。

 林は、宇賀神が謹慎処分中であることなど知らないはずだ。DNA検査の結果を突きつけて追求すれば、警察に証拠を握られたのだと観念して明美の居場所を明かす可能性もある。賭けではあるが、勝率は低くない。多くの職務質問をこなしてきた交番勤務の警官として、職務質問の技術を磨いてきた自負もあった。

 明美の証言さえ得られれば、自分に落ち度がなかったことが証明されて処分は免れられる。謹慎破りの職務規定違反は問題として残るが、宇賀神に犯罪性が全くなければ処分は軽く済まされるはずだ。お堅い警察組織とはいえ、その程度の柔軟性は備えている。

 いったん気持ちが固まれば、行動は早かった。昨夜8時に、〝作戦〟を開始した。

 札幌道警本部の科学捜査研究所には、警察学校時代の知り合いがいる。新沼悟という同い年の男だ。

 科捜研のスタッフは警察官ではなく技術職員だが、警察学校で1ヶ月程度の研修を受ける規定になっている。研修には逮捕術などの実技はなく、法律や職務倫理の座学ばかりだ。宇賀神は座学が昔から苦手だった。たまたま食堂で知り合った新沼悟とアニメの話で意気投合し、個人的に学科を指導してもらったことがあるのだ。それ以後も休日が合えば個人的に飲み歩き、互いの生い立ちなどを話したりもした。新沼の人生は、意外にも宇賀神との共通点が多かった。

 いがみ合うことが多かった両親、金銭的に恵まれない子供時代、そして苦労して大学を出たことまで、まるで自分の過去を見るように思えた。一度だけだが、付き合っていた当時の明美も交えてアニメ論議で盛り上がったこともある。

 その意味でも、手助けを乞うには最適の男だった。

 あくまでも個人的な関心からだと念を押して、3種類の検体のDNA型鑑定を頼み込んだのだ。

 当然、最初は断られた。警察の機材を個人使用したことが明るみに出れば、厳格な処分を言い渡されるからだ。一度は明美の名を出すことも考えた。そうすれば、新沼は必ず協力してくれると分かっていた。だがそれは、宇賀神と同じリスクを背負わせることでもある。

 林は札幌の組織暴力団との関係が疑われているので、道警本部まで捜査が及ぶことも容易に予想できる。科捜研が無断で容疑者の鑑定を行ったことが明るみに出れば、処分は宇賀神に止まらない。担当者の進退問題に発展することさえあり得る。

 新沼は人気のテレビドラマに憧れて科捜研を目指したという、いわばミーハーだが、決してこれまでの道のりが平坦だったわけではない。地道な努力を重ねてようやく夢を掴んだという点でも、宇賀神と変わらないのだ。それをぶち壊しにするのはあまりに傲慢だ。

 何も知らせないのがベストだというのが自然な判断だった。あくまでも新沼は、宇賀神の嘘に騙されたという立場にしておかなければならない。そこで宇賀神は、新沼のアパートに着くまでに練り上げた作り話を、しぶしぶ打ち明けるかのように披露した。

『実家にいる母親が父親の浮気を疑っているんだ。相手は近所のサークル仲間に違いないと思い込んでいる。だからその女の髪と父親の持ち物に付着していた髪を採取して、DNA型鑑定をしてくれと持ってきた。民間の業者に鑑定してもらうことも考えたけど、一致してるとその場で離婚話になりかねない。で、まずはおまえに検査してもらって、本当かどうか確かめたかったんだ。間違いならそれでよし。本当だったら先に親父に結果を見せて、どう丸く収めるか考えさせる。その上で、改めて業者に依頼するかどうか決めるつもりだ。両親は顔を見たくないほど嫌いだが、いい歳をして離婚させるのもかわいそうなんでね――』

 新沼は考えあぐねた末に言った。

『分かった。もしバレたら、検査の練習をしていたとでも言うさ。幸い、俺はまだ半人前扱いだからね。ある程度の自主訓練が大目に見てもらえる。だが、急ぐなら簡易鑑定しかできない。精度はかなり低いぞ』

『構わない』

『それに、正式な鑑定書は残せないな……』

『親父がビビって心を入れ替えればいい。本物に似せた文書を個人的に作れないか?』

『公文書偽造かよ⁉』

『そうじゃなくて、〝子供銀行券〟みたいな、プロなら笑っちゃうようなまがい物でいいんだ』

『まあ、そんな程度なら俺のパソコンでも作れるけどな』

 報酬は、普段は口にできない高級ステーキで決まった。

 新沼は何も疑っていない様子だった。

 今のところ一所轄の些事に過ぎない問題が、すでに本部の耳に入っている可能性は少ない。自分が謹慎を破って千歳を離れたことさえ知られなければ、問題は起きないと考えていた。

 結果は朝10時にメールで送られてきた。新沼は恩義せがましく『早朝から作業を始めた』と言い添えていた。ステーキの効果だ。

 持ち込んだ検体のDNAは全て一致していた。

 明美が林と別れた後もマンションに出入りしていたことが証明されたのだ。宇賀神はスマホに送られた偽鑑定書のPDFをプリントし、林との対決に備えた。

 次の問題は、聡美をどう扱うかだった。

 林との対決に聡美を加えるべきか――?

 宇賀神がここまで追い込まれた原因は、聡美が明美との関係を署で明かしてしまったことにある。聡美が余計なことを話さなければ、ごく軽微な職務規定違反が問題視されることはなかっただろう。身を守るためにこれほどの手間をかけ、友人まで巻き込む必要などなかったのだ。

 これ以上聡美に振り回されないためにはどうすればいいのか――?

 勝手に動かれては事態が複雑になりかねない。まず、目の届く場所に置いて動きを封じることが必要だ。

 密かにDNA型鑑定する計画は伝えてある。署には絶対に話すなと釘を刺したが、また激情に任せて口走る恐れは消えない。妹の安否を気遣うあまりの行動だと同情できても、危険は変わりない。検査結果を教えなければ、手当たり次第に明美を探し回りかねない。手がかりは林だけなのだから、探すのは林が拠点にしている繁華街、それも半グレがたむろす場所が中心になる。そこには当然、林の知り合いも多い。警官でも探偵でもない聡美があれこれ聞き回れば、目立つことこの上ない。聡美の妙な動きが林にまで伝われば、明美の行方は余計に隠されてしまうだろう。

 すでに警戒心を高めている林から情報を引き出すには、不意打ちが必須なのだ。少なくとも林と対峙するまでは、聡美を野放しにはさせられない。聡美を落ち着かせるためにも、検査結果は正直に知らせたほうがいいだろう。

 それが宇賀神の結論だった。

 宇賀神は鑑定結果を受け取ってすぐに聡美へ電話を入れた。

 聡美はスマホを握りしめて報告を待っていたようだ。1回目のコールが終わらないうちに出た。

『結果が出ましたか⁉』

「はい。検体は全て同一人物のものだと判明しました。明美さんは確実に林のマンションに行っています」

『明美の行方も知っているんですね⁉』

「それは断定できません。ですが麻薬盗難でつながっているのなら、何も知らないということはないでしょう。僕は、林がどこかに明美さんを匿っていると疑っています」

『じゃあ、林のところに乗り込むんですか⁉』

「一緒に行きたいんでしょう?」

『はい!』

「では11時に、奴のマンションの前で合流しましょう。なるべく目立たない服装をしてきてください」

 宇賀神は、あえて警官の制服を着て林のマンションに向かった。クリーニングを終えた予備の制服だ。その上に、裾の長いトレンチコートを羽織っていた。いつものダウンジャケットを着なかったのは、制服を完全に覆い隠すためだ。知り合いの警官に遭遇しても、遠目なら気づかれない可能性も高い。気休めに過ぎないが、謹慎を破ったことを咎めらないようにしたかったのだ。

 林と直談判したところで成果を上げられる確証はない。何も得られなければ家に戻って、ずっと部屋にこもっていたふりをするつもりだった。同僚に目撃されてしまえば、そんな言い訳すら通用しなくなる。

 マンションの玄関に近づくと、宇賀神はトレンチコートの前のボタンを開いた。あえて林に制服が見えるようにして、精神的に優位に立つためだ。どんなに悪ぶっていても、人は権威に弱い。警察の制服は、アウトローにとっては最大の脅威なのだ。

 聡美は少し遅れて宇賀神と合流した。相当急いだらしく、厳寒の中でもわずかに汗ばみ、メガネも曇っている。

 聡美は、宇賀神のコートの下からチラリとのぞく制服に気づいて言った。

「現場に戻れたんですか?」

「いや、まだ謹慎中です。だけど、林はそれを知らない。制服の威圧感を利用させてもらいます。奴も、思わず手がかりを漏らすかも知れない」

「あの……わたしのような一般人が一緒で、変に思われないでしょうか?」

「見られたら、ね。ですから、最初は奴から見えない場所に隠れていてください。この前とは逆の立ち位置です。陰から話をよく聞いていて、何か手がかりになるようなことを言ったら出てきてくれて構いません」

「手がかりって?」

「あなたが知ってる明美さんの友人の名前とか、行きつけの場所とか……。多分明美さんは、どこかに匿われています。匿っているとすれば、半グレ仲間の家か溜まり場でしょう。場所が特定できそうな言葉が出ないか、気を配っていてください」

「あの人、部屋にいるかしら……?」

「昨日、本当に警察が任意捜査に入ったなら、しばらくは商売には出ないと思います。多少は怯えているでしょうからね。スネに傷がある身ですから、尾行されることを警戒するはずです。部屋にいなければ、1時間ごとに尋ねます。それだけやっても、空振りになるかも知れません。あなたはいつ帰っても構いませんから」

「とんでもない。捕まえるまで諦めません」

 そう言った聡美の目は、決意と不安、そして焦りが入り混じっているように見えた。精神的にも相当追い詰められているようだ。

 林の部屋の前に来ると、聡美は開いたドアの陰になる位置に立った。宇賀神がインターホンを押す。しばらく待って諦めかけた頃に、部屋の中に人の動きが感じられた。

 林は部屋にいた。閉じたドア越しに言った。

「誰だよ⁉」

 ドアが開く気配はない。やはり警戒しているようだ。

「警察の宇賀神です」

「けっ、あの交番野郎か……。おっと……穴兄弟だったか。……まあ、どっちでもいい……用はないから帰れ」

 拒否されることは予測の範疇だった。だが宇賀神は、逆に不自然さを感じた。

 電話だけで立会いなしの捜索を許したという昨日の余裕と、あまりに違いすぎる。見られて困るものはないという絶対の自信があるからこそ、任意捜査を許可したはずなのだ。たった1日で態度が逆転するのは、解せない。

 理由として考えられるのは、再捜査はされないという安心感から、隠さなければならなかった〝何か〟を部屋に戻したということだ。

 今、明美はこの部屋にいるかもしれない。

 それとも、そもそも捜査は行われていなかったのか……。

 宇賀神は毅然とした口調で命じた。

「今日は捜査の一環で来ました。入れていただけないと、それなりの処罰を覚悟していただきます」

 そして偽のDNA鑑定書をドアスコープの前に出す。

 わずかな間があって、鍵が外されてドアが開く。同時に、部屋の熱気が宇賀神に吹き付けた。林は薄手のトレーナー姿で、全身に汗を滲ませているようだ。室温が高すぎるとも思える。

 宇賀神は一瞬、高温を必要とするような作業――例えば大麻の乾燥のようなことが行われているのかと疑った。嗅覚に神経を集中させる……。

 だが、生活臭以外の異臭は感じら取れなかった。

 冬場はふんだんに灯油を使うのが、北海道の生活様式でもある。環境問題が騒がれる前は、真冬でも室温を上げてTシャツ姿でアイスクリームを食べるのが普通だといわれていた。今でも、暖房費は節約しないという家庭は少なくない。

 室温だけでは、断定的なことはいえない。

 林は今日も朝から酔っ払っているようだ。腹立たしそうに吐き捨てる。

「毎日、毎日……サツはそんなに……暇なのかよ……」

 宇賀神がカマをかける。

「それは申し訳ありませんでした。昨日お伺いしたのは、別の部署の人間です。担当が違うので、行き違いも起きるのです。任意捜査に来たのは何人でした?」

「知らねえよ……そんなこと……。電話で部屋を捜索させろって……言って来たんだから……」

「あなたは立ち会わなかったんですか?」

「札幌にいたからな……立ち会わなきゃ……気に入らねえか……?」

「いえ、警察を信頼して積極的に捜査に協力してくださる市民は大歓迎です」

 林が鼻で笑う。

「俺は真っ当な市民として……真っ当な暮らしをしてんだ……。どうせ探したって……何も出ねえ……。警察に何を見られたって……困りゃしねえからな……」

 少なくとも、昨日警察が任意捜査に入ったのは本当だと確認できた。それなら、自分が〝トカゲの尻尾〟にされるという恐れは杞憂だったのかもしれない。

 しかも林の言葉には自信が満ちていた。捕まらないという絶対的な確信があるようだ。

「部屋の中は捜査後に散らかったりはしていませんでしたか?」

「なんだ、おまえ……仲間の仕事ぶりを……確かめに来たのか……?」

「まあ、交番のお巡りさんですから。市民にはご迷惑はかけないように気を使っていますので」

「なら、捜査に来たやつに……言っとけ……。雑誌の山ぐらい……崩したら元に戻しておけってな……」そして宇賀神の手の偽鑑定書を見る。「でその紙……なんだ……? 今度は……令状ってやつか……?」

 宇賀神は、今が攻め時だと決断した。玄関に一歩踏む込む。

「似たようなものです。お手数かけますが……」だがそこで、口調を〝職務質問〟に変えた。「あのですね、前回私がお邪魔した際に、この玄関でこれを拾ったんです」

 そう言って宇賀神は、ポケットから小さなビニール袋に入った明美の髪留めを出した。林の表情をじっと観察する。

 林は狐につままれたように髪留めを見つめる。

「なんだ、それ……? ガキのおもちゃか……? そんなグロいもの……なんでここにあったんだ……?」

 言葉通りに困惑しているようにしか見えなかった。林が酔っ払っているなら、なおさらとっさに状況を判断して表情を作ることなどできないだろう。明美と直接繋がる印象深い証拠品をいきなり出されれば、動揺しないはずがないのだ。

 宇賀神は現場を預かる警官として人の心を探る眼力を磨いてきた。そんな宇賀神にも、林が演技をしているとは思えない。隙を狙ったつもりの一撃が、逆に林が無関係であることを証明してしまった形だ。

 だが、林があらかじめそれを予期していたのなら……。

 聡美は警察署でこの髪留めを見せている。それを知っている誰かが林に知らせたという可能性はゼロではない。それは、署内に林と結託して麻薬取引を黙認している〝悪徳警官〟がいることを意味するのだが……。

 宇賀神は漠然とした不安を感じながらも、もうひと押ししようと決めた。

「髪留めなんですよ、明美さんの。彼女、ゴスロリとか好きだったから。こんなグロテスクなアクセサリー、他にあんまりする人っていませんよね」

「は……? だから……なんだっていうんだ……?」

「で、絡まっていた髪を鑑定しました。明美さん本人のものだと証明されました」鑑定書をひらひらさせながら、一気に攻め込む。「これがDNA鑑定書なんです。明美さん、最近もこの部屋に出入りしてるんでしょう? あなた、どこかに匿っているんでしょう? 彼女は今、麻薬盗難の嫌疑がかけられています。しらばっくれてると、あなたも共犯になりますよ。それとも、あなたが明美さんに『盗め』って命令したんですか?」

 それでも林は表情を変えなかった。またしても鼻先であざけるように笑う。

「何言ってんだ……おまえ……?」

 そして部屋の奥から女の声がした。

「大ちゃん、誰なの?」

 振り返った林が笑う。

「サツだよ……。俺……気に入られちゃったみたいだ……」

「サツって……あんた! なんかヤバいことやってんの⁉」

「こいつはそう思ってるらしいが……ただの勘違いだ……。昨日みっちり調べて行った奴らだって……後から謝りの電話を入れてきたぐらいだからよ……。俺だって迷惑なんだ……」

 宇賀神はさらに鋭い口調で詰問した。

「奥に女の方がいらっしゃるんですね?」

 林の反応は相変わらずふてぶてしい。

「ああ、いらっしゃるよ……。1人だけ、だがな……」そして奥に声をかける。「サチ……ちょっと顔出せや……」

「やだ、服着てないのに」

「顔だけ出せって……」

「ええ……面倒だな……」

 幼い顔つきの女が、廊下のドアの縁から顔をのぞかせる。眩しそうに目を細めている。

 明美ではなかった。

 肩まである髪を脱色している。化粧はしていないが、いかにも水商売の女だという雰囲気を漂わせていた。

 林がさらに自信満々で吐き捨てる。

「自分の部屋で女抱いてたら……法に触れるんでしょうかね、お巡りさん……。ちなみにあいつ……ガキに見えるけど……もう20歳だ……。児童福祉法がなんたらとか……言われる筋合いはねえからな……」

 宇賀神が全く予測していない展開だった。

 言葉を失っているうちに、背後に聡美が姿を見せた。

 聡美もまた、部屋の中を覗き込んでつぶやく。

「あの女……誰……?」

 林が聡美を睨みつけた。

「またおまえかよ……。誰だろうが……ババアにゃ関係ねえよ……」

 部屋の奥から女が言った。

「大ちゃん、もういい? 寒いよ」

「ああ……こいつら……すぐに帰るから……」そしてスマホを出して短縮番号を押す。もはや宇賀神たちを見ようともしなかった。「あ、高梨さんっすか……? 俺……林大輝です。昨日はご苦労さんっした……。昨日聞いた交番の警官……今、玄関に来てるんっすけど……。あ……その女も一緒です……」

 宇賀神は顔色を失った。踵を返して玄関を飛び出すと、聡美の腕を引っ張って走る。

 背後で呂律が回らないまま林が笑う。

「バカが……! 木っ端警官なんか……引っ込んでやがれ……!」

 マンションを出てしばらく進んで路地に身を隠すと、聡美が息を切らせながら言った。

「あの女、誰だったの……?」

 宇賀神がトレンチコートの前をぴったり閉じる。遠目なら気づかれないと思っていたが、それでも今は不安だ。

 林は完全に署員と話をつけている。相馬の話通りに捜査が空振りに終わったか、内部の一部署員と結託しているかのどちらかだ。

 前者でも宇賀神の処罰は免れられないが、後者なら確実にスケープゴートにされる。林に偽の鑑定書を見せているのだから、処分は相当きついものになるだろう。

「誰でも構わない! 明美さんじゃないんだから!」

「明美も中にいたのかも――」

 宇賀神は苛立ちを隠せない。

「まさか⁉ 林は外に出られないから部屋で時間を潰していただけでしょう!」

「でも……あの男が悪魔だったなら――」

「くだらないこと言わないで! そんなバカ話、本気にしてるんですか⁉」

「そうじゃなくて、明美があの男のことを悪魔だって思い込んでるなら――」

「いい加減にしてください! あの部屋に明美さんはいない! そう考えるしかないんです!」

「でも、儀式だとかいって女の子を集めてたり――」

「だったらどうしろっていうんですか⁉ 玄関口で言い合ったんだから、部屋にいるなら気づいたはずでしょう⁉ それでも出てこないなら、出てきたくないんです! 彼女の意思なんです! これ以上、どうにも出来ないんですよ!」

 宇賀神の語気の荒さに一瞬怯んだ聡美が、話題を変えるかのようにつぶやく。

「高梨さんって……言ってましたっけ……あいつが電話したの、警察のお仲間なんでしょう……?」

 それが問題なのだ。

 宇賀神が息を整えてからうなずく。

「生活安全課のベテランです……」

「やっぱり……」

「僕がまた勝手に動き回ってること、署に知られてしまった。文書偽造も、不正な制服着用も見られたし……」

「まずいんですか?」

「当たり前です! 重大な職務規定違反で、しかも謹慎中ですから!」

「じゃあ、これ以上はお力を借りられませんか……?」

 宇賀神はしばらく考え込んだ。

 もはや、どう転ぼうと厳しい処分は避けられない。身の潔白を証明しようと焦るあまり、泥沼にはまり込んだようなものだ。

 それなら、ここで完全に手を引けば事態は修復できるのか――?

 いや、不可能だ。

 警察の常識から考えれば悪質な職務規定違反をすでにいくつも犯している。じっとしていれば叩かれるだけだ。宇賀神をスケープゴートにしたがっている人間がいるとすれば、願ったり叶ったりだ。それが思い過ごしだとしても、サンドバッグ状態に耐えたところで今の安定を維持できる保証は1つもない。

 ならば、攻めに転じるべきだ――。

 武器を手に入れて戦わなければ、自分を守れない。潔白を自ら証明する以外に、この〝迷路〟を抜け出す道はない。

 高梨への疑いも消せなくなっていた。

 きっぱりと言った。

「いや、今しばらくは付き合います。もう僕自身の問題になってしまったようですから」そう言った宇賀神は、やや落ち着きを取り戻していた。「高梨警部ってベテランだけど、ぱっと見、冴えなくて。それなのに、そこそこ金回りも良さそうなんですよね。いつも部下に奢ってやったりして慕われているみたいで、悪い人じゃないとは思っていたけど……もしかしたら組から裏金とかもらってたりするかも……」

「林の仲間⁉」

「いや、関係があるとしても些細な捜査情報を漏らしたりとか、取り締まりを警告したりだとかの程度でしょうけど……。現場に出てると、誘惑も多いらしいですからね」と、不意に動揺が治る。「……あ、でも、もしもそうなら、僕が制服着てうろついてることは逆に握り潰してくれるかも……」

「え? どういうことですか?」

「林と深いつながりがあると疑われたら自分の身も危なくなるし、変に警察の注意を引くと林も商売しにくくなりますからね。密売ルートってデリケートで、新しく作り直すには信頼を勝ち取るまで手間も時間もかかるらしいんです」

 逆に聡美の顔色が曇る。

「なんだか、怖い話……。あっちゃん、そんなことに巻き込まれてたら可哀想だな……」

「どれもこれも、ただの仮説です。小説やドラマに出てくるような極悪警官なんて、そうそういるもんじゃありませんから。少なくとも、僕は1人も知りません。高梨警部が林の仲間だと決まったわけじゃありませんしね。でも、なんとか明美さんの居所を探し出さないと、僕自身の潔白も証明できなくなってしまう……」

 宇賀神はそう言ったが、自分の身を守るためには高梨が〝悪徳警官〟であった方が都合がいいかもしれないとも考え始めていた。

 聡美がつぶやく。

「さっき林の部屋にいた女の子、何か知らないでしょうかね?」

 宇賀神がうなずく。

「可能性は低いけど、ゼロじゃないですよね。行きずりの相手、って感じでもなかったから。彼女も半グレたちの仲間だとしたら、その中の誰かが明美さんを匿っているかもしれませんし」

「明美さえ無事なら、それでいいんです。ですけど、あんな人たちと関わっているとなると心配で心配で……」

「盗難の件もありますしね。分かりました。長期戦になりかねませんけど、女が部屋から出てくるのを待って尾行して、タイミングを見計らって職質かけましょう」

「しょくしつ?」

「職務質問。半グレ仲間なら、制服には怯えるでしょうから」

「でも、わたしたち姿を見られたし……」

「彼女、たぶん普段はメガネをしてます。不自然に目を細めていたから。あれ、視力が弱い人のクセです。僕らの顔までは見えていないと思いますよ」

 2人は再びマンションの玄関を見張れる喫茶店に陣取って監視を続けた。


    ✳︎


 夕方5時。

 北海道の冬は寒さが厳しく、夜が長い。すでに陽は落ちて辺りは真っ暗になっていた。

 冷たい北風が粉雪を巻き上げる中、宇賀神たちはカップルを装いながら、林の部屋を出た女の後を歩いて行った。まばらだった街灯の明かりが、飲食店の看板や商店のウインドウに移り変わっていく。降り積もった雪に反射する色とりどりの灯りは、北の街を象徴する幻想的な光景だ。東南アジアや中国人観光客を引きつける〝資源〟でもある。

 女は駅近くの繁華街を目指しているらしい。寒そうにコートのフードをかぶっているので、尾行の気配には気づいていないはずだ。足を取られながら雪道を進むのは楽そうには見えないが、林のマンションからではタクシーを使うには近すぎる。北海道生まれの人間にとっては大した苦労でもない。女は特に急ぐ風でもなく、慣れた様子で歩いていく。やはり背後に対する警戒心は全く見せていなかった。

 2人は、ガールズバーの裏路地に彼女が入ったのを確かめた。バーの裏口が目的地に違いない。そこは、最近観光客相手のデリヘルを裏商売にしていると噂され、警察がマークしている店だった。

 宇賀神は聡美に早口でささやいた。

「路地の入口で見張ってて。警察に邪魔されるとまずい」

 聡美はうなずいて、路地を塞ぐように立った。

 宇賀神は素早く中に走り込んで、背後から女の腕を取る。

 振り返った女が大した驚きも見せずに言う。

「あんた、だれ?」

 いきなり腕を掴まれても動じないのは、そんな状況に慣れているからに違いない。ガールズバーのスタッフなら、記憶にない男から声をかけられたり絡まれたりすることも多いのだろう。

 表情がふてぶてしい。

 宇賀神がコートの前を開いて制服を見せ、手帳を出した。

 女が緊張するのが分かった。

 警察手帳と制服の威力は抜群だ。

「ちょっと話を聞かせてください」

 女の声が硬くなり、警戒心がにじむ。

「え? あたし、何かした? もう20歳だから、お水だって平気でしょ?」

 おそらく、女は年齢を偽っている。だが、それは今の宇賀神には関心がない。

「聞きたいことがあるだけです」宇賀神がスマホを差し出す。「この女の方、見たことありませんかね? 捜索願が出ているんです」

「何であたしに聞くの?」女は訝しがりながらも写真を見た。「あ、なるほど、そういうことね。この人、大ちゃんの女だったことあるよ。なんか、悪魔のコスプレが大好きだったらしくて、大ちゃん、いい歳して気持ち悪いって言ってたっけ……あ、あんた! 今日、大ちゃんの家に来たポリス⁉」

 宇賀神が再び女の腕をつかむ。今度は逃さないためだ。もう、優しいお巡りさんを演じる必要はない。

 言葉にドスを効かせた。

「はっきり言っておく。あの男はヤクの売人だ。君が奴をかばうようなら、共犯者として処罰する。署では、もうそういう方針が固まってる。売春もしているようなら、罪はさらに重くなる。デリヘルで本番、やってんじゃないのか?」

 女が息を呑むのが分かった。

「ウリはやってないって……」

 やっているのだ。

 宇賀神の高圧的な態度は交番警官とはかけ離れていたが、短時間で核心に迫る情報を引き出すには脅迫するしかない。

「どうだかな。一緒に店に入って、オーナーや他の女の子にも確認したっていいんだぞ。この子がチクった、って言ってな」

 今度は女の表情に焦りが生まれた。

「やだ! お店に迷惑がかかるって! あたしだって仕事なくしちゃう!」

 嘘は苦手な娘なのだろうとも思える。だが、追及の手を緩めるわけにはいかない。

 できるだけ強い口調で命じた。

「なら、知っていることを教えてもらおう」

「分かったわよ……。でもあたし、大ちゃんとはそんなに長い付き合いじゃないよ。売人だなんて、知らないし……」

 宇賀神が口調を和らげる。

「あらかじめ言っておこう。今の僕は警官としては動いていない。この写真の女の行方が知りたいだけだ。個人的で、大事な知り合いなんだ。だから、君が知っていることを素直に話してくれれば、署には何も報告しない。いいね?」

「うん……」

「大ちゃんって、誰のこと?」

「知ってるんでしょう? 部屋まで来たんだから」

「だから、誰?」

「林大輝よ」

「で、君とはどんな関係?」

「大ちゃんは、このバーにちょくちょく遊びにくる、半分常連。いつも、寝られる女を漁ってる。ちょっと前からあたし、よく誘われるようになった。付いていけば多めにお小遣いもくれるし、金離れもいいお客だよ」

 宇賀神が小さくうなずく。

 半グレといえども組の信用を得て麻薬密売ルートの一端を担っているなら、そこそこの収入があって当然だ。

「で、写真の女を最後に見たのはいつ?」

「だいぶ前だよ。たぶん3、4ヶ月は経ってると思う。時々、店の前まで迎えに来てたらしい。あたしが見かけたのは2、3回かな」

「2人はどんな付き合いをしてたか知ってる?」

「詳しくは知らない。でも、当然、寝てるよね。なんだか女の方がベタベタしてて、うざい感じだった。ガールズバーまで迎えに来るって、どんな神経なんだろう」

「林は彼女のことを何か言っていたか?」

「悪魔のことのほかに? 覚えてないけど……大ちゃんはあの女のこと嫌っていたような気がする。どう見たってしつこいもの。なんで付き合ってたんだろうね?」

 おそらく林は、明美に麻薬の盗難をそそのかすために恋人のふりをしていたのだ。あるいは覚醒剤に慣れさせて風俗に売る準備を進めていたかの、どちらかだ。

「最近、林からその女のことを聞いたことはある?」

「ないわよ、そんなの。関心ないし」

 女の表情は嘘を言っていない。

「じゃあ、林自身のことは他に何か知らないか?」

「何かって?」

「誰と付き合ってるとか、何か隠し事してるとか」

「あたしとは付き合ってるうちなのかもしれないけど、隠してることがあったって分かるはずないじゃん。隠してんだから。あたし、大ちゃんの仲間とかに会ったこともないし。あ、でも……」

 女は何か思い出したようだ。

 宇賀神が身を乗り出す。

「でも?」

「付き合う前に、ちょっと変なことがあったかな」

「変?」

「おっきな荷物引きずってトランクルームに入ってくの見かけたの。髭ぼうぼうのむさ苦しいかっこして。家だって一人暮らしだって言ってたし、そんなに遠くもないはずなのに、なんでわざわざレンタル倉庫なのかなって。海外旅行でもしてきたのかなって、お店に来た時に聞いたんだ。そしたらなんだか慌てて、『見なかったことにしろ』って怒られた。寝るようになったのは、それからなんだけどさ」

 宇賀神には、鉱脈を掘り当てた感触があった。警官の勘だ。

「倉庫って、どこ!」

「ほら、駅近くの、なんていったけ……」

「本間ストレージ?」

「そう、そのストレッチ!」

「ありがとう。いい話を教えてくれた」

 林はおそらく、別の場所で変装して貸し倉庫と行き来している。海外旅行を装っているなら、千歳空港のロッカーに変装道具を隠しているのだろう。

 女が媚びるように、営業用の声でささやく。

「ねえ、本当にあたしをチクったりしないよね。いましゃべったこと、大ちゃんにも黙っててよ。お店の子で、大ちゃんに殴られた事があるっていう子がいてさ……」

「君は殴られた?」

「そんなことないよ。怒鳴られるのはいつもだけど」

「なんで付き合ってるんだ?」

「だって大ちゃん、アレ、すごいんだもの。超ゼツリンで、何度でもできるし」

「だけど、本当は怖いんだろう?」

「そりゃあ……少しは……。でも、怒らなければ優しいし。お小遣いもくれるし……」

「大丈夫、僕が関心があるのはこの女だけだ。今の情報が役に立ったなら、君のことは全部忘れる」

「って……役に立たなかったら?」

「また、聞きにくるかも。今度林に会ったら、もっと価値のある情報を聞き出しておいてくれると助かる」

「やだ……それって、キョーハクってやつ……?」

「お巡りさんは、そんなことはしない。町のみんなのために働いてるだけだ。家出した女の子を悪者から救ってお家に帰したりして、ね。ただし、今日の僕は警官としては動いていないから。君、名前は?」

「ジャネット」

 宇賀神は思わず吹き出した。

「お店の呼び名じゃなくて、生まれた時にご両親がつけた名前」

「中島さちえ。さちえはひらがなね。かっこ悪いでしょう? だから、すっごく嫌い」そして、甘えるような営業用の声を出す。「あのさ……何かあっても、家には連絡しないんで欲しいんだけど……」

「やっぱり、家出してるの?」

「あんた、今はお巡りさんじゃないんでしょう? 放っておいて欲しいな……お店に来てくれたら、サービスするし」

 それが、丹羽が言っていた『弱みを見せたらここぞとばかりに取り込もうとする』という、歓楽街の手口なのだ。警官が客になってくれれば、対抗する店やバックの組織からの妨害が減るという利点もある。

「誰かに『警官には愛想良くしておけ』って言われてるの?」

「うん。マスターから」

 宇賀神は声を出して笑いそうになった。この娘は、あまりに無防備だ。いずれは底辺の風俗へ〝供給〟される末路を迎えるのかもしれない。

「分かったよ。ただし僕はもう、君に会わないですむことを願ってるけどね」

 女を解放して聡美と合流し、トランクルームに電話した。だが、『本日の新規受付は終了しました。新規のお客様は明朝9時以降にご連絡ください』という録音が流れただけだった。

 宇賀神は聡美と明日の打ち合わせをしてから別れた。

 だがアパートに近づくと、不審な車が止まっていることに気づいた。寒いだろうに、車内には人影もある。1人らしい。部屋を見張っている。明らかに〝同業者〟だ。署は謹慎を申し付けるだけでは満足せず、監視まで付けていたのだ。だが、見るからに素人臭い。新人刑事に訓練として張り込みを命じたのだろう。

 室内の照明は点け放してきたが、宇賀神が部屋にいないことは確実に知られている。それでも見張っているのは、部屋に戻ったところを捕らえるつもりだからだ。すでに謹慎は何度も破った。今度捕まれば、おそらく中央署に軟禁される。明美が発見されるまでは、署から出られないと考えたほうがいい。

 宇賀神は相手を確かめたかったが、近づき過ぎればこちらも見つかる危険がある。何一つ手札を持っていない状態では、姿を見せるわけにはいかない。

 諦めて静かにその場を離れ、聡美に連絡を取った。

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