8・木曜日【確信・サイドB】

 カーテンを開け放した窓から、夜明け前の淡い光が差し込んで来る。その先に、ぼんやりと姿を現した支笏湖の風景が広がっている。ベッドには、2人が横たわっていた。

 男は、傷だらけの女の体を愛おしげに撫で回しながら、奇妙な一体感に浸っていた。

 穏やかにつぶやく。

「なんか……悪くないな……こんな朝も……」

 仰向けに寝た女はぐったりと、なされるがままに身を委ねている。体は傷と青あざに覆われ、腹の焼印の痕からはまだわずかに体液が滲んでいる。

 男の顔には意外そうな、それでいて満足そうな表情が浮かんでいた。微笑んでいるようにさえ見える。それは、これまで他の女には感じたことのない〝温かい〟感情だった。体の中から、未知の力が湧き上がって来るような気がしていた。

 だが男は、その感情の呼び名を知らない。奇跡など信じたことがない男が、奇跡に出会ったのだ。

 男の脳裏に、過去が蘇る。

 それは、他人から見れば〝悲惨〟の一言に尽きる物語だ。

 幼い頃に両親が離婚し、母親は水商売から風俗へと職を変えた。それでも、母親の目的が幼い子供を養うためなら、世間の評価も違っただろう。だが母親は、不遇な環境への怨嗟と社会への憎悪を息子に向かって吐き出した。殴られ続けた男は学校へ通うことも減り、常に身体中に青あざを作り、口の中から血の味が消えることがなかった。一方の母親は場末のホストにハマって借金を重ね、ある朝、路地で凍死して絞り尽くされる人生を終えた。

 男が13歳の時だ。

 その過程で、いわゆる公的機関の大人たちとも何度となく出会った。だが彼らは、常に安全な場所から男を見下ろしていた。男が危機に陥った時は、必ず無様な言い訳を並べてその状況から逃走した。

 男を取り残したまま……。

 男に関心を持ち、時に窮地から救ったのは、同じような匂いを持ったはぐれ者たちだけだった。男は自然に彼らに取り込まれていった。

 半グレの溜まり場には常識を超えた〝救い〟など存在しない。厳格な階級社会があるだけだ。弱ければ弄ばれ、使い捨てられる。考えなしに歯向かえば、嘲られて叩き潰される。それでもそこは、男にとって唯一で最後の居場所だった。

 男は自ら血を流し、他人に血を流させ、時間をかけて学んだ。同年代より発育が遅れていた男は、自分の血を流したことの方がはるかに多い。それでも逃げずに戦い抜けたのは、〝真理〟を見つけ出したからだ。

 力が弱ければ身を守れない。逃げるばかりでは居場所を守れない。守るためには、頭を使って攻めなければならない。

 人を操るのに、痛みも流血も必要ない。弱点を暴き、心を砕き、服従させればいい。そうして、血を見るのは愚かなことだという確信が、痛みの記憶とともに嫌悪感を根付かせた。

 その結果、20歳を過ぎる頃には札幌の広域暴力団の若頭に重宝がられる立場になっていた。だが、組へ加わることは認められなかった。組の〝アウトソーシング〟先として、半グレのまま麻薬販売ルートを確立することを求められたのだ。

 厳格化する暴力団対策法への対応策だった。

 組員が売人として捕らえられれば、その〝使用者責任〟を追及されて組全体が潰されかねない。そのために売人は、ワンクッション置いた〝個人事業主〟であることが望ましい。麻薬の現物と金の動きさえ押さえられなければ、売人が捕まっても組に捜査が波及することはない。実態は、使い捨ての〝現場作業員〟だ。

 だが男にとって、その立場はかえって魅力的だった。何よりも、階級に縛られない自由があった。下っ端組員の暮らしを知り尽くしている男には、服従ばかりを求められる生活は羨ましくもなかったのだ。己の才覚で頭角を表すチャンスも広がっている。

 そして、実際にチャンスをものにした。

 男は半グレの仲間からもあえて距離を取って孤立し、危険を避ける嗅覚と悪知恵だけを頼りに単身で販路を拡大していった。特に中国人観光客に目をつけたのが功を奏した。札幌のような大都市で同様の戦略を取れば拡大し続けるチャイニーズマフィアとの全面衝突が避けられないが、周辺都市はエアポケットのような地域になっていたのだ。

 今では小規模ながらも独自の販売網を築き、安定した収入を上げている。男を拾い上げた若頭の評価も高いはずだった。男はある意味、己の才覚で安住の地を築き上げていたのだ。

 だがその世界は、悪魔の登場によって一変した。最初は、悪魔の下僕にされることが〝敗北〟だと感じたことを思い出す。

 今は違う。

 悪魔は、男を新たな地平に導いた。秘められていた力を開化させた。本当の自分を、見つけ出させたのだ。

 今、男は朝の光を浴びながら、自分は完全な人間に、いや、悪魔になれたのだと確信していた――。

 昨日、午前10時頃に2人が入ったホテルには、韓国からの個人客が連絡もなしにドタキャンした洋室の4人部屋が用意されていた。

 窓からは支笏湖の全景が見渡せ、温泉の内風呂も完備している。食事はレストランでのバイキング形式なので、従業員が不意に部屋に入ってくる恐れもなかった。中国人たちでごった返すレストランに紛れ込めば、浴衣で傷を隠した女も全く目立たない。手首に深く残っている鎖の傷跡は、シュシュをアクセサリーにして隠した。

 皮肉なことに、女をいたわって甲斐甲斐しく給仕をする男の姿は、側からは仲のいい新婚夫婦にしか見えなかっただろう。それが儀式の手順であることを厳しく言い聞かされている男は、一見すれば屈辱的な立場でさえ嬉々として受け入れていた。

 それは、他の時間は誰にも知られずに一日中部屋にこもっていることができるからでもあった。

 わずかに窓を開けたサンルームに、2つのトランクを並べた。部屋の中で最も寒い場所だ。すでに何日も屋外に出していたために、死体は溶ける心配はないほど凍結している。無論、臭いもない。

 衣類や部屋から持ち出した小物類は、赤いドラムバッグに収まっている。その中には、女を縛っていた長い鎖やベッドに敷いた防水シートも入っていた。

 男は部屋を出る際、女の監禁を示す証拠や痕跡、匂いなどが残っていないかを入念にチェックした。室内は徹底的に掃除し、排泄物用のツボも夜明け前にマンション裏の川に捨てた。床に残るシミらしいものも丹念に拭き取り、簡単なワックスもかけた。仮に血痕があったとしても、ルミノール反応の検査でもしなければ発見できないだろう。

 最後に早朝のコンビニで殺虫用の燻煙剤を買い、焚いてから部屋を後にしたのだ。少しばかりの匂いが残っていたとしても、おそらくは気づかれないはずだ。

 マンションからホテルへの移動は、騒がしい中国人団体と同じマイクロバスに乗った。我が物顔で振舞う団体客は最前列に乗った男たちに敵意にも似た視線を向けたが、間に入ったツアーコンダクターによって直接の接触は避けられた。

 座席を用意したツアコンは悪魔から充分言い含められていたようで、彼らに干渉はしなかった。厚手のコートのフードをすっぽり被って顔を隠した女にも関心は示さない。黙々とトランクの移動を手伝い、バスへの便乗を誘導しただけだ。最後にはたどたどしい日本語で『帰りは他のバスに乗れるように手配してある』と言った。

 女も、何の抵抗もしなかった。

 全てが悪魔の言葉通りだ。

 男は、悪魔の力の強大さに感嘆のため息を漏らすばかりだった。

 女も、もはや逃亡する気力など感じさせない。魂を持たない機械のように、従順に従った。足に力が入らないのか、視力が弱まっているのか、男の腕にべったりとしがみついて体を支えながら後についてくる。その姿は、他人から見れば旅行を楽しむ親密なカップルでしかなかっただろう。

 何者かが監視していたとしても、漫然と眺めるだけなら団体客の一部に溶け込んでいたはずだ。女とともにマンションから出たことにも気づかれていないと思えた。

 事実、ホテルから少し離れた湖畔には多くの警察車両や制服警察官が集まっていた。水中にダイバーを送り込んで湖底を捜索していたのだ。

 男の偽装の結果だ。トランクに入れている死体の靴や所持品を、数日前に桟橋に置いて心中を偽装した。警察は偽装を信じている。少なくとも、その可能性を確認するために大量の人員を割いている。なのに警官たちは、男たちを見かけても一切の関心を示さなかった。

 まさに悪魔が予言した通りに……。

 それでもなお、男には幾ばくかの不安は残っていた。

 男を尾行していた〝神の手先〟とは、何者なのか――?

 ヤクザ程度の目なら容易に欺ける。しかし、警察の鑑識レベルの徹底した捜査が部屋に行われれば、隠す術はないだろう。だが悪魔は、たとえ女の監禁が知られても、むしろ計画を推進することになると断言した。それが事実なら、今しばらくは男に身の危険が迫ることはないはずだ。

 神の手先の正体が分かったのは、ホテルの部屋にこもってから30分後だった。男に電話してきたのは、警察だった。

『自宅を捜索する。立ち会えるならしばらく待つが、それが無理なら市役所の職員を立ち会わせて家宅捜索を行う――』

 捜査の内容は、行方不明者の捜査だと言った。悪魔の予言そのままだった。

 男は驚きとともに、電話口で半分笑いながら答えた。

「勝手にしな……。調べられて困るものなんか、何もねえから……。ただ、部屋の中のものはあんまり散らかすんじゃねえぞ……」

 同時に男は、あまりに生々しい強烈なデジャビュに襲われて戸惑った。まるでつい最近、警官相手にまったく同じ会話をしたように思えたのだ。

 反面、男の記憶は極めて曖昧だ。特にケタミンを使い始めてからの意識の混濁は自分でも不安になるほど著しい。不意に襲ってきたデジャビュは、何年も前の記憶の断片かもしれないし、半グレ仲間や組員から聞かされた体験談のイメージだったかもしれない。あるいは、麻薬の摂取が生んだ妄想なのかもしれない。

 数日間打ち続けたケタミンの効果は、半日ぐらい投与を止めたところで完全には消えないようだった。なんとか一般人は演じられるものの、時間や空間の感覚は今も朦朧とし、記憶を得た場所や時間の順序も定かではない。かろうじて思い出せる記憶も、自分の経験なのかドラマで見たシーンなのかさえ区別がつけられない。

 まるで手で触れそうなほど鮮明なデジャビュさえ、予言とともに悪魔から脳に注ぎ込まれた幻影だとも思えた。

 男にとっては、その説明が最も腑に落ちる。

 悪魔のパワーの凄まじさに、総毛立っていた。

 全てを予言し、困難を回避し、しかも自分に未知の力を与える偉大な存在――。

 男は悪魔の下僕になったことに心から感謝した。

 そして、その恩恵を貪った。少なくともあと一晩は、女の体を心置きなく堪能できるのだ。ホテルを血まみれにするわけにはいかないから、過激なプレイは行えない。それでも、楽しみ方は豊富に残っていた。

 まず男は、内風呂に温泉の湯を満たした。女の体を温め、洗うためだ。

 女が来てから数日間、その体は湯で拭うだけで風呂には浸かっていない。男は女を充分に清め、その上で徹底して汚すつもりでいた。出血さえ伴わなければ、どれだけ痛めつけても構わない。むしろ悪魔は、それを望んでいると明言した。

 ケタミンの使用は、自分の部屋に戻るまで禁止されていた。男は早く自分の腕に注射器を刺したくて、ウズウズしている。その焦燥感と苛立ちは、女の体に向かって吐き出すしかない。その不自由さがまた、男のサディスティックな期待を嫌が応にも高めていた。

 男は浴室の前で女を立たせて服を脱がせた。

 やはり女は抵抗しない。腕を持ち上げれば素直に従い、コートの袖を抜けば自然に腕を下ろす。何も喋らない。下着を脱がせても、その場に立ち尽くしたままだった。目の焦点さえ定まっていない。意志を感じさせない人形のようだ。

 だがその体は、いく筋もの浅い切り傷と、なぜできたのかも分からない大量の青あざに醜く覆われていた。ヘソの周囲には、悪魔の焼印が3ヶ所も刻まれている。かすかな体臭と乾いた精液の匂いを漂わせていた。体と対照的な無傷の顔は、美しさが際立って見える。男にはその無表情な女が、たまらなく愛おしく思えた。

 女の前に跪いて、脂肪の少ない、それでいて柔らかい腹に頬ずりをする。滲んだ体液がぬめる。汗の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、焼印の上を舐め上げる。

 女の体がピクンと震え、かすかに仰け反る。

 男の欲望が高まる。胸に向かって女の腹に舌を這わせ、最後は軽く乳首に歯を立てた。

 女がうめき声をもらす。

 男は女から離れ、自分も全裸になった。そのまま風呂に入ると、女の体を丹念に洗う。女は、一切抵抗しなかった。ただ無表情に男のなすがままにされるだけだ。女はすでに、悪魔に魂を抜かれた空の入れ物と化していたようだった。

 浴室を出た2人は、髪を乾かす間も無くベッドに倒れこんだ。女を組み敷いた男は、ニヤニヤ笑っている。

 ケタミンを抜いている分、いつもより気持ちが高ぶっていた。もはや男は、自分の中で目を覚ました加虐性を隠そうとも恥じようともしていない。本来の自分を発掘した喜びに満たされている。

「血が出なきゃ、何をしてもいいらしいぜ。悪魔ってのは、本当に残酷なやつだよな。でも、感謝している。またこうして、おまえを抱けるんだからな……」

 男は女の体を貪った。

 何度も犯した後、犯しながら首に手を回して締め上げる。

 不意に呼吸を止められた女は目を見開いて苦しげな表情を見せたが、あからさまな抵抗はしない。その瞳には、今ここで死んでも構わないとでもいうような諦念が滲み出していた。

 男が思わず声をもらす。

「いいぞ……これはいい……たまらねえな……」

 女の首をつかんだ指に力が入る。

 10秒……20秒……30秒……。

 時間が経つにつれて、女の表情が苦悶に歪む。その顔を見た男の指先に、さらに力がこもる。

 男の脳に理性からの警告が発せられる。

 これ以上やると死んじまうぞ――!

 だが、手は離れなかった。まるで女の首に吸い付いてでもいるかのように、離せなかったのだ。

 女が体を細かく震わせる。

 40秒……50秒……。

 同時に男の全身に快感が突き抜ける。脳が真っ白に炸裂する。

 男は絶頂を迎えると同時に、ようやく女の首から手を離した。

 女は顔色は血の気を失い、短く浅い呼吸で乳房が激しく上下する。失神寸前だった。

 男は女を貫いたまま、仰け反っている。

「こいつはすげえ……ぶっ飛んだぞ……ヤクよりいける……」そして女を見下ろす。「おい、おまえ……大丈夫だろうな……思わず夢中になっちまったけど……」

 女は目を固く閉じ、引きつけを起こしたように空気を貪っている。

「だい……じょう……ぶ……」

 男は、女が生きていることに安堵した。

「殺さねえでよかった……」そしてまた、笑みを広げる。「これなら、まだまだ楽しめるな……」

 女も苦しげではあったが、同時に満足そうな微笑みも浮かべている。そして、つぶやく。

「大輝……悪魔って……ほんとにすごいね……」

 林が奇跡を実感した瞬間でもあった。

 その日、この場所には確かに〝奇跡〟が存在したのだ。男女の〝絆〟を得たような幸福感に包まれた。悪魔に近づくことで、生まれて初めて〝人間的〟な感情を知ることができたのだ。

 だが林はこれまで、ただの一度も、〝絆〟や〝愛〟と呼ばれる感情を実感したことがない。それが本物なのか幻に過ぎないのか、真っ当なのか歪んでいるのか、判断する基準など何一つ持ち合わせていなかった。

 それでも、初めて感じた喜びに包まれていたことは間違いない。

 悪魔に発掘された〝本当の自分〟……。

 2人は短い眠りを取り、交わり、首を絞められた女は生死の境をさまよった。何度もそれを繰り返して朝を迎え、さらにチェックアウト1時間前まで同じ行為を繰り返した。

 もはや林はその束縛から逃れようと考えられないほど悪魔に心酔し、まどろみ始める……。

 女が、不意に微笑む。そして、つぶやいた。

「おまえはこれで……また一歩、悪魔に近付いたな……」

 その微笑みは冷たく乾き、射るような視線は天井のはるか先の空の彼方を見据えているようだった。

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