9・金曜日【専行・サイドA】

 宇賀神は、明美の部屋で仮眠した。『カフェ・フォレスト』の2階だ。宇賀神は、店舗で仮眠が取れればいいと言い張った。だが聡美は、宇賀神と明美が一時期深い関係になっていたことから、その部屋を使っても構わないだろうと勧めたのだ。

 明美が失踪したままになっている部屋のインテリアは、コスプレ好きの主人の趣味がそのまま反映されていた。壁にはびっしりとアニメのポスターが貼られ、壁の一角の棚には〝悪魔っぽい〟装飾品が並べられている。全体的にグレーと赤が基調の暗いトーンで統一されていたが、適度に乱雑で、神経質さはあまり感じさせない。クローゼットの中にはコスプレ衣装がぎっしり詰まっているのだろうが、宇賀神はさすがにそこを開けようとは思わなかった。

 部屋着は聡美が用意した。父親の遺品だという。

 宇賀神は明美の父親の服を着て、明美の香りが残るベッドで眠ることになったのだ。だが当の明美とはとっくに別れている上に、今は姿をくらませてこの部屋にはいない。宇賀神は凄まじい居心地の悪さに苛まれ、眠れないだろうなと観念した。だが気がつくと、いつの間にか窓の外には朝の光が溢れていた。

 ここ数日の騒ぎで、神経がとことん磨り減っていたことを思い知らされた。

 それでも、充分に休めたという実感は湧かない。身体が休息を求めていても、張りつめた神経は緩むことを許さないのだ。何一つ問題が解決されていないどころか、困難さが増すばかりの状況ではやむを得ないことでもあった。

 朝、臨時休業にしている喫茶店に降りると、キッチンで聡美が朝食を作っていた。

『カフェ・フォレスト』の建物は築20年ほどだというが、聡美の手入れが隅々まで行き届いていた。内装は木材をふんだんに使ったログハウス風のデザインで、細部まで磨き上げられていて古さは全く感じさせない。重厚な一枚板で作られたカウンターやボックス席のテーブルも、まるで新品のように輝いている。

 聡美の性格は、明美とは随分違うようだった。

 朝食にはオムライスが用意されていた。

 宇賀神は食欲がなかったが、状況を打開するためには身体と頭にエネルギーを補給しておかなければならないと自らに言い聞かせた。今でさえ、見つかればその場で拘束されるだろう。これ以上勝手な捜査を続けていれば、最悪の場合、警察から逃げ回らなければならなくなる。次にいつ食事ができるかも、予測できないのだ。

 2人は食べながら今後の計画を相談した。

「聡美さん、色々ご迷惑をかけます。でも、本当に助かりました。仲間から見張られていて、僕はもうアパートに戻れないかもしれないんで……」

 聡美はわずかに微笑みながら答える。

「いいえ、誰かが一緒の方が心強いですから。明美が消えてからずっと1人なんで、なんだか夜とか、寂しいし、怖いし……。警察の方が一緒なら、こんなに安心なことってありませんよね」

「そう言っていただけると、気が楽です」

「でもその見張りって、確かに警察のお仲間なんですか?」

「確認はしてません。顔が分かるまで近づいたら、こっちが捕まっちゃいますから。でも、他に考えられないし……。どっちにしろ、謹慎破りはとっくにバレてます。だから部屋に帰ったらそれで終わりです」

「じゃあ……これからどうします?」

「あの女の子の話ぶりからすると、林が明美さんを隠していることは間違いないと思います。問題は、どこにいるのかです。だけど警察を納得させるには、僕の印象だけじゃ弱過ぎます。確実な証拠を手に入れるのは難しくても、それなりの説得材料が必要なんです。林が使っているっていうトランクルームには、きっと何かしらの手がかりがあるはずです」

「手がかりって?」

「林が売人なのはほぼ確実なのに、奴の部屋からは一切の証拠が出なかったそうです。それがそもそもおかしいんです。ヤバいものは倉庫に隠しているんだと思います」

「警察の人が買収されているんじゃなくて?」

「僕もそれを疑いましたが、林が倉庫を借りているのが本当なら話が根本的に変わってきます。暴力団との関係があるものは全部そこに隠しておけば、いつ部屋を捜索されたって安全ですからね。あの女の子が見かけた時は髭だらけだったっていうのも、変装してたんだと思います。自分と倉庫の関係を隠すためでしょう。たぶん、パトロールの警官に目を付けられないように気をつけていたんです」

「でも、倉庫じゃ明美は隠れられないと思う……」

「そりゃ、本人はいないでしょう。でも、組の手先として売人をしてる証拠は見つかるはずです。その証拠さえ得られれば、警察は林を捕まえて堂々と取り調べができます。盗まれたケタミンが倉庫に隠してあれば、明美さんの行方も厳しく追求できるでしょう。盗難と林が結び付けば、その間をつなぐ明美さんは必ず見つけ出せます。物的証拠と一緒なら、僕は警察に戻って構いません。無論、厳しく処分されるでしょう。それでも、明美さんはきっと助けられます」

 聡美はまだ不安そうだ。

「そんなにうまくいくのかしら……。レンタル倉庫の話だって、女の子の記憶だけなんだし……」

 宇賀神自身も、不安を隠せずにいる。

「何もかも希望的観測ですよ。でも、僕は職務規定をいくつも破って監視されている。次に捕まったらもう自由には動けないでしょう。警官の身分も奪われるかもしれません。だから、これが最後のチャンスなんです。もう、明美さんを手当たり次第に探す時間の余裕は残されていません。この一点に賭けるしかないんです」

「警察に情報を知らせるだけじゃダメなんでしょうか……?」

 それは、宇賀神自身が悩み抜いた点だ。

「重大な職務規定違反を犯していますから、何を言ってもまともに扱ってもらえないと思います。僕をかばってくれた人たちほど、裏切られたと怒っているでしょうしね。たとえ信じてもらえたとして、また命令を破って勝手に動いたことを咎められます。スキャンダルの芽を摘むために僕を切り捨てるって決めているなら、情報自体を握り潰される恐れだってあります。何よりも怖いのは、署内に汚職警官がいる場合です。ハリウッド映画だったら、殺し屋が来ちゃうパターンですから」

「まさか……」

「それは大げさですけど、本当に何をされるか分かりません。僕なんか警察組織の下っ端で、それこそいつ消えても気づかれないような端役ですから。どっちみち、林がレンタル倉庫にヤバい物を隠しているのが確認できれば、その場で通報します。そこから先は警察の権限を使わないとどうにもなりませんので」

 1時間後、2人はトランクルームを訪れていた。古いビルの1階で、元はアパレルショップが入居していた。その1フロアを小さな部屋に区切って個人向けの貸し倉庫に改装したのだ。宇賀神の記憶では、レンタル倉庫を始めてから3年ほど経つはずだ。

 聡美は近くのバーガーショップで待機し、もしも店の外に異変があれば携帯で連絡する手はずになっていた。

 宇賀神が最も警戒していたのは、従業員に身分を疑われて警察に通報されることだったのだ。トランクルームの周辺は管轄外なので、警官としての宇賀神を知る商店主たちはほとんどいない。〝顔パス〟というわけにはいかないだろう。

 制服姿に戻った宇賀神が倉庫の事務所に入る。開店したばかりの倉庫に客はいないようだった。宇賀神は狭いカウンターの奥から出てきた管理人に警察手帳を見せてから、林の写真をスマホに表示した。

「この男なんですが、こちらのお客さんではないでしょうか?」

 腹が出て頭が禿げ上がった中年の管理人が、スマホを覗き込む。

「はあ……どうでしょう……見覚えがあるような……」

「もしかしたら、髭を生やしていたかもしれません」

 管理人の表情が明るくなる。

「あ、斎藤さんね! ええ、週に2、3度ぐらいはご利用されていますよ。なんでも買い込んだフィギュアを奥さんに見せられないので、ここに保管しているんだとか」

 宇賀神は内心でガッツポーズを決めた。

 林は確かにこの倉庫を使っていたのだ。しかも、妻帯者だと偽っている。警察に見られてはまずいものを隠していることは、ほぼ確実だ。

 宇賀神が興奮を抑えながら、声を落とす。

「実はこの男、本名を林大輝と言いまして、麻薬の密売人の可能性があるんです」

「まさか!」

「署では内定が進んでいるんですが、なかなか証拠が押さえられなくて。知人の証言からこの倉庫を使っているらしいことが分かりました。ちょっと中を見せていただけないでしょうか?」

 管理人の顔が一気に曇る。

「そうは言われましても、倉庫の中身はお客様のプライバシーに関することで……。捜査令状とかはお持ちですか?」

「いえ、まだ上司には報告していないんです。まずは自分の目で確かめてからと思いまして……。又聞きの噂話のような曖昧な情報でして……いきなり令状を取って空振りだと、僕の立場が悪くなったりするんです。正直、手柄は欲しいんですけど、逆にあまり先走ったミスをすると昇進にも響きますし……」

「やはり、正式な令状をお持ちいただかないと、私の方としましても客商売ですし……。フランチャイズの自主規定ですとか……」

 そう渋られることは、予想していた。

「ただ、この倉庫が麻薬取引の中継地点になっているとすると、どのみち他のお客さんの部屋も全て開けていただくことになります。麻薬や金を交換する場所として使われている可能性がありますのでね。令状を取っての正式な捜索となると、大勢の捜査員が一度に押しかけますし、お店の評判にも関わりかねませんよね。目立ちますから、隠すことはできないでしょう。マスコミにも知られますしね。林の荷物だけ調べて関連なしだと分かれば、こちらには一切のご迷惑はかかりません。僕にだけ、ちょっと見せていただけないでしょうか。無論、立ち会っていただいて結構ですので、任意での捜査ということで……」

 管理人はしばらく考え込んだ。だが、上司に連絡を取るような気配は見せない。つまり、管理人自身がオーナーだということだ。話を早く進めるためにも、事を大きくしないためにも、都合がいい。

 管理人はしばらくして小さくうなずいた。

「いいでしょう。まずは内密にお願いいたします。あの……良ければもう一度手帳を見せていただけますか?」

「ええ、何度でも」

 手帳をじっくり見た管理人がつぶやく。

「うがじん……さんと読むんですか? 珍しいお名前ですね」

 漢字名の下のローマ字表記を読んだようだ。

「親が栃木なもので。なんでも神様の名前に由来する苗字らしいです」

「分かりました、ご案内します」

 管理人は背後の棚の扉を開けてカードキーを取り出すと、枝分かれした狭く細長い通路に入っていった。宇賀神が続く。

 通路の両側にはびっしりと扉が並んでいる。建物全体の大きさから考えると、それぞれの部屋は3畳程度の広さしかなさそうだった。

『024』と記されたプレートが貼られた扉が、林のものだった。

 管理人は言った。

「中をご覧になるのは構いませんが、なるべく荷物に手は触れないでください。私も一緒に入ります」

 それは宇賀神も覚悟している。

 扉を開けると、中のスペースはほとんど埋まっていなかった。

 部屋の両側には3段の棚が据えられていたが、何も乗っていない場所が目立つ。狭いはずの室内が、広々と感じるほどだ。

 管理人がつぶやく。

「あれ……? スカスカですね……」

 右側の棚の中段にだけ、プラスティックのCDケースのようなものが4、50個ほど積み重ねられている。

 宇賀神は言った。

「フィギュアらしいものはないようですね……」

 管理人もため息交じりにうなずく。

「確かに、聞いてたイメージとは違いますね……。時々大きなトランクとか引いてきてましたから、倉庫の中もぎっしり詰まってると思っていました。これじゃあ、レンタルしている意味ありませんよね……」

「彼にとっては、使用料を払うだけの価値があるということです」

「斎藤さん、いえ、林とか言う男は、確かに嘘をついていたらしいです。まあ、秘密の物を隠したい人も使うのがトランクルームですから、驚きはしませんけどね」

「中身、見てもいいでしょうか?」

「お客さんがわざわざ嘘をついていたなら、仕方ないでしょうね。なるべく痕跡は残さないようにお願いします。私は見なかったことにしますので。受付の方に行っています」

「いいんですか?」

「警察の方を信用しないわけにはいきませんから」

 そう言って管理人は去った。

 宇賀神は白い手袋をはめ、指紋を消さないように注意しながら一番手前のケースの蓋を開けた。中には小さなビニール袋に入った錠剤がびっしり並んでいた。

 思わず破顔する。

「ビンゴ」

 これで、林が薬物売買に関係していたことは証明できるだろう。明確な証拠物件を探し出したのだから、規律違反に対する処分にも手心を加えてもらえるはずだ。薬物密売の捜査の途上で明美が発見できれば、問題は全て解決する。聡美も去り、穏やかな日常を取り戻すことができるに違いない。

 さらに箱を開けていく。同様の袋に、今度は白い粉末が入っていた。他にも枯れた植物や乾燥したキノコらしいものもあった。

「なんだよこれ……林の奴、ここまで派手に商売していやがったのか……」

 そして箱の一つには、大量のマイクロSDカードが並んでいた。

 その時、ポケットでスマホが振動した。箱の内容確認に没頭していた宇賀神は、いきなり現実に戻されてはっと身震いした。

 電話は聡美からだった。声が上ずっている。

『宇賀神さん! 玄関にパトカーが来ました!』

「ちっ! 管理人が呼んだのか!」

『逃げてください!』

 トランクルームのフロアに裏口らしいものはないことは、あらかじめ調べていた。

「もう無理です。でも大丈夫。奴の持ち物から薬物が出ました。これで上司に信用してもらえます。あなたは逃げて、自宅で待っていてください。あとで連絡しますから」

『でも……』

「いいですか、逃げるんですよ。必ず連絡しますから」

 と、廊下に相馬所長の怒声が響く。

「宇賀神! いい加減にしろ! 精一杯かばってやったのに、このザマはなんだ⁉」

 宇賀神は廊下に出た。相馬の背後で数人の署員が廊下を塞いでいる。

 宇賀神は笑った。

「所長、証拠が出ました。林が借りた倉庫から大量の薬物です。事後になりましたが、令状を請求してください」


    ✳︎


 最初、宇賀神は容疑者同様の扱いで署に〝連行〟された。だが、1時間後に署員の態度は一変した。宇賀神が発掘した証拠物件が、意外なほど大きな波紋を広げていたのだ。

 宇賀神は仮眠室で1人で眠っていた。8畳ほどの部屋に畳ベッドが並んでいる。毛布をかぶって横になるなり、熟睡してしまった。精神的な緊張と肉体的な疲労は、思っていた以上に大きかったようだ。明美の部屋でも眠れはしたが、気持ちは張りつめたままだった。ここ数日、宇賀神はずっとその重みに耐えてきたのだ。

 自身の潔白を証明する手段にたどり着いて、一気に緊張が解けた。ようやく、心の底から安心して眠ることができたのだった。

 相馬が仮眠室に入り、ベッドに歩み寄って宇賀神の肩を揺する。

 はっと目を覚ました宇賀神が、毛布を剥ぎ取って体を起こす。

「所長……」 

 相馬が穏やかな口調で話かけた。

「規律違反は見逃せんが、お手柄だったな。あのSD、爆弾だった」

 宇賀神はベッドの縁に腰掛けた。

「押収したんですか⁉」

「当然だ。放ってはおけない。ヤクだけなら泳がしておくべきかもしれないが、SDの内容は精査する必要があるからな」

「ですが、林がそれを知ったら――」

「対策は打ってある。押さえたのはSDだけだし、目立つようなガサは避けた。その上で奴の自宅もトランクルームも、監視をつけた。自宅の方は中国人だらけで、奴が隠れて出入りする気なら見逃しもありそうだがな」

「では、倉庫に入ったら捕らえるんですね?」

「そうするしかないだろう。札幌の組に知られるわけにはいかないからな。だが今のところ、林も組も沈黙したままだ。奴の家にガサ入れして以来、林は札幌へ行ってもいない。警戒して、ほとぼりが冷めるまでは商売を止めると決めたらしい。誰もトランクルームには近づかないはずだ。このままじっとしているなら、その間はブツを押収したこともバレないだろう」

「あれ……? なんか、好都合ですね……」

 相馬が苦笑する。

「お前が先走ってくれたたおかげだ。怪我の功名だな」

 そう言われても、褒められた気はしない。

「はあ……」

「林は、ヤクや金の受け渡し現場を残らず隠し撮りしていたようだ。あのSDにたっぷり記録されている。うまくいけば札幌の組の連中も一網打尽で挙げられるかもしれん」

「相手の顔まで写っているんですか⁉」

「カメラを隠していたようで、何を撮ってるのか分からないものも多い。声だけしか証拠にならんものがほとんどらしい。だが、声紋は調べられる。取引の内容や日時ははっきりしているし、場所も特定できるかもしれない。金の受け渡し方法も全容が解明できる可能性が出てきた」そして、ニヤニヤと笑う。「その他にも、興味深い隠し撮りがたっぷりあったぞ」

「何ですか?」

「林が部屋に連れ込んだ女だよ。ご大層に、セックスの様子を隠し撮りしていた。下手なアダルトより見ものだ。エロいし、暴力的なものもある。さすがに流血沙汰はなさそうだがな。ガサに入った高梨によれば、間違いなく林の部屋で撮影したもんだ。今ざっと中身を検索しているが、カードの数が多すぎて詳細まで調べるのにどれだけかかることやら。少なくとも2、30人分はあるらしい……」

 意外だった。

「え? あの男、なぜそんな記録を残したんだろう……? 犯罪の証拠になりかねないのに」

「単なる趣味か、アングラAV屋にでも売って金にする気か、それとも連れ込んだ女が人妻とかだったら、脅迫する材料に使おうって魂胆なのかもな」

 宇賀神が気づく。

「明美は⁉ あ、大浜明美さんの姿は写っていますか⁉」

「まだ分からん。調べ始めたばかりだからな。高梨には写真を渡して、注意して見ておけと言ってある。札幌の組も絡んでくるんで、本部にも連絡を入れた。証拠の全体像がつかめるまでは大っぴらにするなっていうご命令だ。主導権を取りたがっているのが見え見えだ。まあ、有力な組を叩けるかもしれない物証が出たんだから、張り切って当然だがな。そろそろ団体様で乗り込んでくる頃だろう。しばらく極秘捜査になるから、こっちも2人だけで証拠調べを進めている。情報漏れは絶対に許すなという本部からのきつい御達しがあった」

「じゃあ、林はどうするんですか⁉」

「監視を強化して現状維持。少なくとも、本部の方針が固まるまでは泳がせておく。下手に手を出して上部組織に警告されたら台無しだ。本部は完璧に証拠を固めて、一気に組に攻め込む腹だ」

 それは、証拠固めが終わるまで林には手を出せないことを意味する。

「じゃあ、明美さんの件はどうするんですか……?」

「それも保留、だな。何しろ、林と結託している可能性が極めて高い。どこかに隠れているなら、いずれは引っ張り出す。だが、今は堪えろ。おまえもあの姉さんに余計な情報は与えるなよ。そこから捜査情報が林に漏れたら、本部に何されるか分からん。俺たちぐらいの首は軽く飛ぶだろうな」

「捜査の経過は教えていただけますか?」

「おまえは一時的に交番勤務から外すことになった」

「まだ謹慎ですか⁉」

「いや、数日のうちには捜査本部が立つはずだ。そっちに合流しろ。容疑者たちと個人的に関係があるんだから根掘り葉掘り突かれることになるだろうが、貴重な戦力でもある。ま、交番勤務の底力を見せつけてやれ」

「では、それまでは?」

「正直、あまり署から外に出て欲しくない。おまえにはここ数日、色々と掻き回されたからな。ま、本部の連中が来たら世話してやってくれ」その時、相馬の携帯が鳴った。スマホを出した相馬が答える。「おう、まだ署内にいるが……ほう、面白いな」そして宇賀神に問う。「おまえの元カノ、コスプレ好きだって言ってたか?」

 質問の意味が分からないまま、宇賀神がうなずく。

「ええ、まあ……」

「セックスビデオの中に、悪魔のコスプレをした女があるそうだ」

 2人は証拠保管のために急遽用意された小会議室へ向かった。


    ✳︎


 宮原と名乗った北海道警察本部組織犯罪対策局・薬物銃器対策課の警視が宇賀神に質問した。

「では、この女性が大浜明美さんであることは間違いないんだね」

 小会議室のモニターに映し出された明美は、コスプレのまま林と交わっている。

「はい。間違いありません」

 宮原の口調が厳しく変わる。

「で、君はこの女性とどういう関係だったのだ? 正直に話してもらおうか」

 画像には日付も入っていた。宇賀神が明美と出会った日と同じだと思う。

「おそらく、この日に出会いました。悪魔のコスチュームの上にコートを羽織って、公園から飛び出して来たんです。パトロール中にそれに出くわしました。林にひどく殴られたと言っていました。恋人同士の痴話喧嘩なので、本人は被害届を出す気まではないと言っていました」

 宮原の顔色が曇る。

「事件化はしたくない、と? ならば、本来警察が口を挟むべきではなかったのではないか……?」

「ですが、明美さんから『もう林と別れたいので何とか話をつけてもらえないか』と懇願されたんです。そのまま放置して暴力が激化したりストーカー化すると、それこそ警察の怠慢だと非難されかねません。その可能性を防ぐため、介入を決断しました。で、僕が林のマンションに出向いて警官として厳重に注意しました。さらに今後明美さんに近づいたら、ストーカー規制法で厳しく罰するとも警告しました」

 宮原がしばらく考え込む。

「多少出すぎた処置だとも言えなくもないが……相手が半グレなら、その程度の介入は止むを得まいな……。実際に暴力を振るわれている現場がこのビデオに写っているんだから、法的に問題にされることもなかろう。で、その後に大浜さんと個人的な付き合いを始めたのだね?」

「彼女の方から、ちょくちょく交番に顔を出すようになりました。僕も嫌な気はしませんでしたので、自然とお付き合いするようになりました」

「どの程度の関係まで?」

「彼女は何度か僕のアパートに泊まりに来ています。一応、結婚が前提の交際です」

「交際した期間はどれぐらい?」

「2ヶ月間程度だと思います。僕の方から交際を断りました。1ヶ月ほど前……だったと思います」

「ほう……別れた理由はなんだったんだね?」

 宇賀神はさすがに口ごもった。

「なんだか、怖くなって……」

「怖いって……」宮原の目がモニターの悪魔コスプレに向かう。「このヘンテコな感性が、か?」

「いや、僕らの年ではアニメファンとかコスプレイヤーとか、珍しくありません。そもそも付き合うことになったのは、アニメの趣味が一緒だったからです。インスタで彼女のそういう写真もたくさん見ていたし、全然抵抗はありませんでした。むしろ楽しそうだなと思っていました」

「だったら、なぜ?」

「彼女……僕の方をあまり見なかったんです」

 宮原がわずかに首をかしげる。

「どういう意味だ?」

「僕との交際は、何かから逃避するための方便だったような気がしたんです。現実の世界から脱出するためにしがみついた救命ロープのような……。心の避難場所とでもいうか……僕じゃなくても、誰でも良かったのかもしれないなって……。暴力を振るわれながらも林と付き合っていたのも、誰かにしがみつきたかったからだと気付いたんです。たぶん、聡美さん――お姉さんからの強い束縛を受けて、それから逃れようとしているんだと、そんなふうに考えていました。でも、そんな人と一生を共にするには、ちょっと……。たとえ最初はうまくやれても、何年かすればきっと耐えられなくなると思ったんです」

「なるほどね。で、君はここ数日そのお姉さんと行動を共にしていたらしいね。聡美さんは、そんなに独占欲が強そうな人に思えたかね?」

「いいえ、全然。ひたすら妹の無事を願ういいお姉さんにしか思えません。正直言って、明美さんから聞いていた印象とは全然違うので驚きました。でも、人間には誰しも裏がありますから。なかなか心の奥までは入り込めませんよ。PTAの熱心な幹部が殺人犯だったとか、実際にそんな事件が起きていますからね……」

「だから、怖かったのか。異常性があるというか……精神的に不安定だったのか?」

「確かにそんな面はありました。病的というほどではないと思いますが。不安定というか、子供っぽいというか……。急に父親に甘えるようなそぶりを見せたこともあります。彼女たち、10年ほど前に両親を事故で失って、2人で生きてきたそうですから、そんなトラウマのせいかなとは思いました。ですが、僕が理想としている女性像とはかけ離れていました。だから、思い切って別れを切り出したんです」

「どうやって話したんだね?」

 宇賀神の言葉は歯切れが悪かった。

「実は遠距離の婚約者がいる、って嘘をつきました。フェアではないとは思いましたが、彼女、割としつこくなってきていて……ストーカー化されても困りますので……」

 嘘ではないが、真実だともいえない。だが、あまりにも個人的な感情の機微をさらけ出すことが不可欠だとも思えなかった。

 宮原は充分に納得した様子だ。

「なるほど、褒められたことではないが、その程度なら目を瞑ろう。経緯は概ね了解した。また疑問が生じたら、詳しい話を聞かなければならないかもしれない。それまで、常に所在を明らかにするようにしていてくれ給え」

 無論、宇賀神に異存はなかった。これで明美との関係から生じたトラブルは全て終結したのだ。本部の偉いさんを交えることで警察組織との関係も修復された。本部からの命令は、聡美との接触をきっぱりと断つ〝お墨付き〟にもなる。

 保身が目的の独断専行の結果だとはいえ、林と組織暴力団をつなぐかもしれない重要な証拠を発掘したのだ。評価は低くないはずだ。

 宇賀神は、ようやく満足できる場所にたどり着いたのだ。

 だがそれは、ひと時の安息でしかなかった。

 夕食後に聡美から送られて来たメールが、またしても全てを覆した。

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