12・土曜日【決意・サイドB】

 悪魔が言った。

『そろそろ時が満ちる。儀式の仕上げを行う夜が近づいている』

 林が、ベッドに組み伏せた女から体を上げてつぶやく。

「儀式の仕上げか……いよいよだな……」

 さちえの死体はトランクに詰めて、ベランダに並べてあった。寝室の中にも、さちえに焼印を押した痕跡は残っていない。まだ日は高く、遮光カーテンの合わせ目からわずかな光が漏れている。部屋の中が、さちえが現れる前の状態に戻っていることも見て取れる。

『今夜は新月だ。神の光は地上に届かない。神の目も暗闇を見通せない』

「で……何をするんだ……?」

『神が作った欺瞞に満ちた世界を壊す儀式を開始する。最終的な準備は、これからおまえが整えるのだ。そのための道具は、間もなく届くだろう。おまえを取り巻く息苦しいこの世界を、悪魔の儀式を完遂することによって跡形もなく破壊し尽くせ。それこそが、おまえの望みのはずだ』

「俺の……望み……?」

『この世におまえのような悪党が安住できる場所はないのだろう? ならば、この世を破壊するしかない』

「そりゃあそうだが……いったい、どうやって……?」

『悪魔の力が、それを可能にする。だがまだ、生贄が足りない。計画を成就させるに充分な力が蓄積されていない』

「それじゃあ……儀式は……できないんじゃないのか……?」

『これまで面倒な手順を踏んできたのは、その力を得るためでもある。ここにはもう1人、女が残っているではないか。生きた女だ。この時のために、生かしておいた女だ。だから生きたまま、刻印を押せ。昨日、死んだ娘にしたように、全身に焼印を刻め。私に苦悶と絶望の呻きを聞かせろ。それで力が満たされる。生贄も揃う。悪魔の力を解き放つ時が訪れる。そして、神の世界は終焉を迎える。神はもう、悪魔の呪いから逃れることはできない。世界の全てを覆すのだ』

 林は女の横に横たわり、真剣な眼差しで祈るように天井を見上げた。

「そこに……俺の居場所は……あるのか……?」

『それは分からぬ。居場所は、おまえ自身で探せ。もしも今の世にそれがあるというなら、私はすぐにここを去っても構わない』

 林の答えに躊躇はない。

「ねえよ、居場所なんて……。神ってやつは……この世界は……俺を嫌ってる……。俺も、ここが嫌いだ……」

『ならば、全てを悪魔に委ねよ。そして、おまえ自身が悪魔になれ』

「分かった……。もう俺は……あんたから離れられないようだな……。だが、生贄はそれで……充分なのか……? もっと数が増えれば……あんたの力は……強くなるんじゃないのか……?」

『どういうことだ?』

「あんたがより強くなれるなら……もう1人ぐらい生贄を都合するが……?」

『できるのか?』

「心当たりはある……。俺は……疑い深いんだ……。いざ神の世界を壊そうとしたら……やっぱり力が足りなくて負けちゃいました……なんて間抜けなオチはごめんだからな……」

『確かに、生贄は多い方が力は強まる。だが一方で、新月が過ぎれば過ぎるほど、神の力が蘇っていく。今が一番神が弱まる時なのだ。機会を逃せば、次の対決は1ヶ月先に伸びるが? おまえは、待てるのか?』

 薬物で機能が鈍った林の頭でも、それなりの計算が始まる。

「1ヶ月はきつい……サツだって神の手先になってやがるんだろう……? その頃には俺、きっと捕まってるよな……ってことは、勝負はここ2、3日か……」

『すぐに生贄が手に入るなら、儀式は延ばしても構わない。だが、待っても2日間だ。それ以上は危険だ』

「もし手配できるようなら……儀式は1日だけ延期してもらってもいいか……?」

『では、待とう。だが、あまり外で目立つ行動を取るのは感心しない。神は今、様子を伺っている段階のようだが、新たな生贄が連れ去られると確信すれば阻止に動くだろう。そこでおまえが捕らえられれば、この儀式も中途半端に終わる。神の力は打ち砕けなくなる。それでもおまえは新たな生贄を手に入れられるのか?』

「たぶん、な……。メールで騙して呼び寄せられるような女に……心当たりがある……。だが、あんたが心配なら……できる手は打っておこう……。ここにいる生贄に焼印を押して、儀式の準備は終えておく……。その上で、さらに生贄を増やせるかどうか探る……。無理なようなら、そこで儀式を始める……。可能なら……1日だけ儀式を延期する……。こんなんでどうだ……?」

『おまえの頭の中はすっかり悪魔に変わってしまったようだな。異存はない』

「俺の頭が変わったんじゃない……俺はきっと……元から悪魔的だったんだ……」

『それでこそ力を貸す甲斐があるというものだ。では、すぐに準備にかかれ。そこの女を焼印で覆うには、足りない道具を補充しなければならない。昨日の娘がまだこの部屋で生きていると思わせるにも、生活物資を補充したほうがいいだろう。神を油断させるためにも、もう一度買い物に行って姿を晒してくるがいい』


    ✳︎


 林が買い物から戻ると、生贄を捧げる準備が再開された。

 これまでベッドに寝かされていた女が床に敷いたシートに移され、すべての体毛を剃られていく。

 女は昨日、少女が殺された後に何をされたのか逐一見ていた。儀式の生贄になるということの現実を、一つ残らず知っていた。その過程がこれから自分に訪れるのだということも、理解していた。しかも、まだ生きている。生贄になるということは、生きたまま全身に焼印を押されていくということなのだと分かっていた。

 それでも女は、抵抗しなかった。むしろ、穏やかな笑みさえ浮かべていた。女の心はすでに悪魔にぴったりと寄り添って離れないのだ。

 林が女の全身を剃り終えると、外でチャイムの音がした。

 林が押し殺した声を上げる。

「まさか……警察……⁉」

 林は体を硬くして身構えた。

 神の反撃が開始されたのか――⁉

 だが、神の手先に急襲されたなら、雪に覆われたベランダに飛び出したとしても逃げ通せるはずはない。来たのがヤクザであれ警察であれ、ベランダ側にも見張りを置いているはずだ。

 林は覚悟した。

 万事休す……悪魔は神に敗れるのか……。

 だがチャイムは一回鳴っただけで、『ドアを開けろ』と催促する気配はない――。

 悪魔が言った。

『おそらく私の手下だ。玄関を見てこい』

 林は、詰めていた息をもらす。恐る恐る玄関の様子を見に行った。

 だが、寝室に戻った時には満面の笑みを浮かべていた。

 またも大ぶりなトランクを転がしている。

「あんたが言った通りだよ……。玄関の横に……これが置いてあった……」

『儀式に必要な道具が届いたのだ。この部屋に外の光が入らぬように厳重に窓を塞げ。明かりはトランクの中のロウソクのみを使え』

 トランクに鍵はかかっていなかった。

 林は、悪魔の指示に従って〝最後の儀式〟の舞台を整え始めた。

 カーテンを閉じ、その上にベッドに敷いていた防水シートを重ねて画鋲で止める。完全に外光を遮断すると、トランクの中にあった6本の燭台に太いロウソクを灯し、その明かりで部屋を満たす。

 次に取り出したのは魔法陣を描いたマットだった。床に敷かれたマットは幅90センチほどの正方形で、円形の魔法陣の中には正三角形を2つ組み合わせたヘキサゴンが描かれている。それぞれの三角形の頂点の先に、燭台を配していく。燭台は頂点から正確に40センチ離すように、悪魔は命じた。トランクの中には、その長さを測るメジャーまでが用意されていた。

 さらにトランクの中には鍵がかかった皮表紙の分厚い本と、黒いシーツを丸めたような布が詰められていた。

 林が問う。

「この布は……?」

『儀式用のローブだ。準備を終えたらおまえも全ての体毛を剃り落とせ。風呂に浸かって、神の呪いを完全に洗い落とすのだ。その上でローブを着て、女の体を焼印で覆え。やり方はもう分かっているな?』

「ヤクは……やってていいのか……?」

 林はもはやケタミンの陶酔感から逃れられない状態になっていた。

『儀式の手順では、問題はない。だが、意識を失われては困る。ほどほどにしておくように』

「そりゃそうだよな……。で、特別な呪文とか……あるのか……?」

『もはやおまえは悪魔と一心同体だ。呪文などは必要ない。神の介入を避けさえすれば、あとは自由だ。昨日のように好きに振る舞え。今回の生贄は、まさに生きている。楽しみが増そうぞ』

「なるほど……確かにそそられるものはあるな……」林はトランクからローブを取り出そうとする。「あれ……? 重いな……」

 持ち上げたローブから、何かが落ちてゴトンと音を立てる。

 拳銃だった。

 悪魔が言った。

『人間の武器は悪魔には必要ないが、おまえはまだこの世に縛られている存在だ。万が一、神の手先が介入しようとしたなら、その武器で防げ。生贄への刻印は、何があっても最後までやり通すのだ』

 林が銃を取る。

「悪魔は銃まで……用意できるのかよ……」

『当然だ。この世の全ての武器は、そもそも悪魔が作り出したものだからな』

「トカレフ……か……。遊び半分に撃ったことはある……。神の手下が来たら、殺してもいいのか……?」

『構わん。そうなれば、おまえが手配しなくとも生贄が増える。貢物として受け取ってやろう』

 林が真剣な目で念を押す。

「殺して……いいんだな……?」

『もちろんだ。それでも、充分に私の力は増す。おまえの身の安全も私が守ると約束する。安心して殺すがいい』

 林がニヤリと笑う。

「心強いな……」

 

    ✳︎


 女の全身の毛を剃った後に、林は自分の体毛も剃り落とした。手が届かない背中は、女にT字カミソリを渡して剃らせた。もはや、刃物を預けることにさえためらいはない。林はそれほど悪魔を信頼しきっていた。実際に女は、何一つ林の指示に逆らうことなくカミソリを使った。

 さらに身を清めて部屋に戻った林は、全裸の上に頭からすっぽりかぶるローブを身に纏っていた。暗い部屋の中では、クー・クラックス・クランのローブを黒く染めたようにも見える。

 悪魔が指示する。

『魔法陣の上に女を横たえろ。そして頭の下に、皮表紙の本を置け。それで私と生贄との精神が結ばれる。生贄の苦悶が私に流れ込んで、活力となる。その全てが、神を打ちのめす刃を鍛えるのだ』

 女は林が導くままに魔法陣の上に仰向けで寝かされた。やはり、一切の抵抗はない。

 傍らでは、カセットコンロでペンダントが熱せられている。

 ペンチを取った林は、女の目を覗き込みながら言った。

「さあ……始めようか……」

 女は声を出さなかった。

 苦痛に耐えるうめき、そして汗と血と精液と肉が焦げる匂いが、部屋を満たしていく……。

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