13・日曜日【真相・サイドA】

 聡美は露出度の高い悪魔のコスチュームの上に長いブーツを履き、分厚いウールのロングコートを着てフードをすっぽりかぶっていた。眼鏡を外してコンタクトをつけたままにしている。着替えを詰め込んだという、少し大きめの赤いドラムバックを肩から下げていた。

 宇賀神の後ろに隠れるようにして息を殺し、林のマンション横の路地から玄関を覗き込む。張り込みに気づかれずに入るチャンスを伺っていたのだ。

 強い風が吹いて、通りに吹き溜まっていた粉雪が舞い上がった。

 玄関は、遠くの喫茶店から警察が監視している。これ以上表通りに近づけば、彼らの視界に入ってしまう。下手をすると林との接触を阻止されてしまう恐れもある――。

 聡美にそう信じ込ませておくことが、宇賀神の――すなわち、警察側の目論見だった。

 宇賀神は、この時間に林の部屋に向かうことを相馬所長にメールで伝えている。それでも表向きは、聡美の意思を尊重して警察には黙っていたように見せかけなければならなかったのだ。

 聡美が、林の部屋に入るところは絶対に警察に見られたくないと強硬に訴えたからだ。聡美は林からの指示を破ることを極端に恐れている。宇賀神はスマホの電源を切って聡美に渡していた。聡美を安心させるためだった。何よりも聡美の不安を煽り立てたくなかったのだ。今は林の指示に従って気丈に振る舞っているが、数日前は署内で半狂乱になっていた女だ。今ここで同じ状態に陥れば、どんな不測の事態引き起こすか分からない。

 それを警戒した対策だった。

 警察側にも警察の事情がある。細部まですり合わせていたわけではないが、宇賀神は当然警察の思考法には馴染んでいる。本部や署長の意図も推測できた。

 上層部はおそらく、林の意図がはっきりするまでは予想外の展開は避けたいと望んでいる。林とその上部組織に警戒心を起こさせないことを最優先にする。だから宇賀神たちが林の部屋に入ったのを確認したとしても、すぐに阻止に動き出す可能性は低い。

 2人が危害を加えられると決まっているわけでもないからだ。まずは林の狙いを探ることを優先し、部屋に入ることは黙認するのが順当だ。現役の警官が聡美の監視と警護についているのだから、非常識だとも言い切れない。脅迫状が送られてきたとはいえ、一匹狼の林に仲間がいる気配はない。一方の宇賀神は、逮捕術を身に付けた体力自慢の警官だ。拳銃を扱う訓練まで受けている。危機を感じれば林を倒すことも容易だと考えるのが普通だろう。

 宇賀神も同様に、林の目的を暴くことを最優先にしていた。その狙いが捜査を阻むようなものであれば第一に林を止め、次に組織暴力団への連絡を封じ、そのうえで聡美からスマホを取り戻して署長に連絡を入れる――。

 それが、思い描いていた対処法だ。うまく事が運べば、さらなる報償が得られるという欲もあった。予測通り、警察が動く気配は感じられない。宇賀神はそれを見越した上で、行動を起こすタイミングを計っていた。

 中国本土から来た団体観光客の移動を待っていたのだ。

 林のマンションでの民泊客は、次に支笏湖温泉に向かう団体がほとんどだ。この時間にマイクロバスが集中して集まる。ホテルや旅館の代金を節約するために千歳で民泊を利用し、支笏湖の日帰り温泉で過ごしてから札幌の民泊に移動するコースが定番化しているのだ。その陰に隠れれば、監視に気づかれずに玄関を通過できる可能性が高まる。

 その日は特に運が良かった。

 3台のマイクロバスがマンション前にずらりと並び、さらにバスの乗客同士が激しい言い争いを始めたのだ。ツアーコンダクターを間に挟んで、中国人の集団が怒鳴りあう。中には、つかみ合いの喧嘩を始める者たちもいた。本土では村同士の争いは日常茶飯事で、死人が出てさえ驚かないともいわれる。仲の悪い地域の住人が遭遇してしまったのかもしれない。あたり一面に轟く中国語の罵り合いを、近所の住人が遠巻きにしてうんざりした視線を向けていく。

 宇賀神にとっては、千歳空港勤務の時に何度か目にした光景でもあった。

 彼らは、普通に話していても怒鳴りあっているようにしか見えない時がある。店舗の中でも、端と端で会話することすらある。それが本気の喧嘩ともなれば、もはや日本人の常識では理解不能な修羅場が繰り広げられるのだ。

 だが、注意を引き付けられるのは監視役も同じだ。彼らの視線は今、マンション前の騒動に集中しているはずだ。バスの陰になった玄関は注意から外れる。

 宇賀神は聡美の手を軽く引いた。

「今です。行きますよ」

 聡美はうなずき、やや早足で玄関に飛び込んで行った。

 林の部屋は、一階の廊下の端だ。まだ廊下に残っていた数組の中国人家族を避けながら、進んでいく。廊下の道路側には二重ガラスの防音窓が並んでいて、普通なら奥へ向かう2人の姿は外から確認できるはずだ。だが今は、その視界をマイクロバスと怒声を響かせる団体が塞いでいる。

 おそらく署の監視役は気がついていない。

 宇賀神はドアベルを押した。

 間を置かず、奥から林の声がする。

「誰だ?」

「宇賀神翔。命令に従ったぞ」

 鍵が外される。2人は、薄暗い玄関に中に入った。主照明が消されている上、外からの光も入っていない。

 聡美が振り返って、中からドアの鍵を閉める。玄関がさらに暗さを増す。

 林がモゴモゴとつぶやく。ひどく酒臭いし、呂律も回っていない。

「やっときたか……中に入れ……聞きたいことがある……」

「酔っ払っているのか?」

「おまえには関係ねえ……酒でもくらわなきゃ……時間が潰せねえんだよ……」

 宇賀神が靴を脱ごうとして屈んだ瞬間だった。

 聡美がコートから細長いリモコンのようなものを取り出し、後ろから宇賀神の首筋に押し付ける。同時に激しい火花が散った。

 宇賀神は前のめりに倒れた。

 それを見ていた林がニヤリと笑う。壁に手をついて体を支えている。

 聡美はすかさず唇に人差し指を当て、『黙れ』のサインを送る。

 怪訝な顔つきの林を無視して、ロングコートのポケットから別の装置を取り出す。小型ラジオのような装置のスイッチを入れると、倒れた宇賀神の体に向ける。だが、何も起きない。

 聡美はさらに壁や天井にも装置を向け、全体を探る。

 林が身を寄せてささやく。

「盗聴器か……?」

 うなずいた聡美はブーツを脱いで、小声で答える。

「宇賀神は持ってない。玄関も大丈夫。中を調べてくる」

 聡美はずんずん居間に入って、装置をあたり一面に向けて盗聴器の有無を探った。やはり反応はない。

 背後で林が言った。

「何で……部屋の中まで……?」

「だって警察が捜査に入ったんでしょう? 簡単に仕掛けられるじゃない。でも、そこまで頭が回らなかったみたいね。盗聴はされていないわ」

 林が呆れたように言った。

「準備が……いいな……」

「通販で揃えたのよ。明美を守るためだもの。その人、こっちに連れて来て」

 林はぐったりした宇賀神の体を引きずってくる。そしてフードを外した聡美の姿を見て、驚きの声をあげた。

「なんだ……その髪型? なんで……明美と同じなんだ……?」

 聡美は厳しい口調できっぱりと林の問いを封じる。

「説明は後」聡美はさらにポケットから細長いビニールの紐のようなものを出した。結束バンドだった。「これで宇賀神さんの手足を縛って。腕は体の後ろに回してね」

 宇賀神の体をソファーに乗せた林が、息を切らせながら言う。

「なんで……そんなことまで」

「だって警官よ。武術の訓練も受けているんだろうから、その気になったらあんたなんかイチコロでしょう? ろくに舌も回らない酔っ払いだし。それで、明美はどこなの?」

 林は宇賀神の腕を背中に回して、結束バンドで締め上げながら答えた。

「まあ待て……ここにはいないけど……用が済んだら居場所を……教えるから……」

「無事なんでしょうね?」

「当然だ……。何もしてねえよ……」

「あんたの目的は、何?」

「この警官が……どこまで俺のことを調べたのか……知りたい……。今の生活は……壊したくないんだが……ことによったらすぐ姿をくらませないと……ヤバいかも……。命は惜しい……からな……」

「分かった。でも、この人、もうすぐ目を覚ますと思うわ。急に大声で喚かれたらまずいんじゃない?」

「それもそうだな……時々、刑事みたいな奴らが……このあたりをうろついているからな……」

「ねえ、あんたガムテープって持ってる? まず、声が出せないように口を塞いでよ。で、状況を納得させてから、聞きたいことを喋らせればいいと思うの。わたし、ちょっと電話するから」

「なんだよ……電話って……」

「荷物をここに運んでくれるように、友達に頼んであるの」

 振り返った林が苛立ちを露わにする。

「なんだ、それ……人の部屋で……勝手なことしてんじゃねえよ……」

「あんたにとっても重要なことよ」

「だから……なんなんだよ……⁉」

「この警官に本当のことを喋らせるための小道具よ」

「は……? おまえ……なに仲間ズラしてんだよ……。こないだ……ちょっと顔を合わせただけなのに……」

「あなたはもう、わたしの仲間。だってこうやって、わたしが連れてきた警官を縛り付けているんだから。あなたはこいつから聞きたいことを聞き出す。それが終わったら、わたしは明美の居場所を教えてもらう。ほら、利害が一致してるでしょう? そういうのを仲間って呼ぶのよ」

「明美も……妙な女だったが……おまえはもっと変な女だな……まあいい……俺は俺の仕事をする……」

 そう言って林はクローゼットを開けた。黒いプラスティックの工具箱が入っている。中身は意外にも、きちんと整理されていた。箱から布製のガムテープを取り出した林は、それを切って宇賀神の口に貼った。

 それを見ながら、聡美はスマホで誰かと連絡を取っていた。

「あ、わたしよ……あの荷物、持ってきてくれるかしら。……そう、106号室。玄関に前に置いておいて。……今度日本に来た時に、カフェに来てね。お店の権利書のオーナー変更、その時までにハンコを押すだけにしておくから」

 ガムテープがきっちり貼られて宇賀神が喋れないことを確認した林が、屈んだまま振り返る。

「これで……こいつがいつ目を覚ましても……大丈夫だ……」そして、下卑た笑いを堪えるようにしながら付け加えた。「用が済めば……あんたにも明美の居場所を……教えてやる……」

 その時、聡美は林の首筋にもスタンガンを当てた。火花が散る。

「その必要はないわ。明美はずっとわたしと一緒だったんだから。あんたが嘘つきだってことも、分かってるし」

 呆然とした表情を浮かべたまま、林が床に崩れる。


    ✳︎


 目を覚ました林は、宇賀神の隣に座らされていた。同じように結束バンドで手を縛られている。結束バンドの下には、手首に跡が残らないようにタオルが巻いてあった。

「おい……なんで俺まで……あれ……? おまえ……明美か……?」

 林は、自分の意識が異様に朦朧としていることに気づいた。酒の酔いとは明らかに違う。

 視界はふやけ、滲み、歪み、溶け、揺らぎ、回っている。

 部屋の中がわずかに焦げくさい。床に置かれたカレー皿の上で、紙の燃えかすがくすぶっていた。

 女の声がする。

「段ボールに入れた命令の紙、燃やしたのよ。あ、あなたはこのこと、何も知らないわよね。気にしないで。余計な証拠は残しておきたくないだけだから」

 なんのことか、林には理解できない。それでも、目の前に悪魔のコスチュームの女が立っていることは分かる。手に注射器を持っているのも見えた。

「おまえ……明美だよな……?」

 女は、笑っているようだ。 

「気持ちいい? 今、ちょっぴりケタミン打ったから」

「はあ……? ケタミンって……そんなもん、どこから……? そもそも……俺をどうしようっていうんだよ……」

 悪魔の姿の女は言った。

「あなた、この警官を脅して警察がどこまで知っているか聞き出そうとしたんでしょう? あなたにとっては、警察よりも札幌のヤクザの方が怖いものね。警察に麻薬取引の証拠を渡したなんて知られたら、石狩湾に沈められちゃうでしょうから」

 林の頭は、首が座らない乳児のようにフラフラ揺れている。

「なんで明美が……ああ、そうか……おまえ、姉さん方か……なんで明美と同じ……悪魔のコスプレを……?」

 聡美は昨日美容室へ行った際に、林に写真を添えたメールを送っていた。

『あなたをコソコソ探っている警官を騙して連れていくから、明美と交換して。規則を破って勝手に捜査しているだけだから、警察はまだトランクルームのことに気づいていないはず』

 添付された写真は、宇賀神がトランクルームに入っていく姿を聡美自身が撮影した画像だった。それを林に見せ、操るためだ。

 林は確実にメールに怯える。トランクルームの薬物と取引現場の録画データが押収されれば、自分を捜査の足がかりにして取り締まりが札幌の暴力団に及ぶ恐れがある――と。

 末端の半グレには命の危険を意味する緊急事態だ。林にとっては、法に縛られた警察より、野蛮なヤクザの報復の方がはるかに恐ろしいはずだ。捨て駒にさせないために密かに用意していた安全対策が、自分を袋小路に追い立てる凶器に逆転したわけだ。

 林は宇賀神を脅せば警察がどこまで知っているか確認できると考え、交換に乗った〝芝居〟をするだろう――と聡美は計算し、誘導した。

 聡美にとっては、宇賀神と2人で林の部屋に入れさえすればよかったのだ。それを警察に知られずに行えれば、さらに望ましい。

 結果は、聡美が期待した以上だった。

 意識を取り戻した宇賀神が、呻きながら聡美を見つめている。その目は疑問ではち切れんばかりだ。

 聡美が注射器を見せびらかしながら微笑む。

「動物病院から麻薬を盗んだのって、実はわたしなの。あっちゃんが病院の鍵を持ってたから、簡単だったわ」

 宇賀神が驚きに目を見開いて、呻き声を高める。

 林がつぶやいた。

「おまえ……俺に濡れ衣を着せようっていうのかよ……」

「どうだろう……? そんなことする必要はないと思うけどな。あなたには主役を演じて欲しいしね」

「主役って……なんだよ……?」

「焦らないで。お芝居は始まったばかりだから」そして、宇賀神を見つめる。「あなた、わたしが演劇部だったこと知ってるでしょう? 演劇っていっても、高校生のお遊びみたいなものだったけど。でもあっちゃんは、公演があるたびに喜んで見てくれてた。いつもニコニコ笑って、本当に楽しそうだった。だから、もう一度見せてあげたいのよ……」 

 林にはその意味が理解できない。視線が目まぐるしく泳ぐ。そして、聡美の隣に置かれた大きなトランクに止まる。

「おい、さっき言ってた……荷物って……それかよ……。そんなバカでかいもん……何が入ってるんだよ……」

 聡美の笑みが悲しげに変わる。

「見せてあげるね。あなた方2人に見せるのが、わたしの一番の目的だったから」

 聡美はトランクの掛け金を外した。蓋がゆっくりと倒れる。

 中には、窮屈そうに縮こまった人間が入っていた。顔だけが真横を向き、真っ直ぐにソファーの男たちを見ている。血の気が失せている。明らかに死体だ。

 透き通るように真っ白く凍りついた、若い女の全裸死体――。

 林が息を呑む。

「まさか……おい……それ……明美かよ……?」

 宇賀神がひときわ大きな呻きをあげて暴れる。しかし、もがいても手足の結束バンドは緩まない。

 聡美が愛おしそうにケースの中を覗き込む。

「ちっちゃくなっちゃったよね……かわいそうに……」

「おまえ……明美に何を……」

 聡美が林をにらむ。

「わたしじゃないよ。やったのは、あなたたち」

「何を言ってんだよ……頭おかしいのか……?」

 聡美の視線が宇賀神に向かう。

「あなたがあっちゃんとの交際を断った夜から、あっちゃんはおかしくなったの。わたしが慰めても聞き入れずに、余計に荒んでいった。部屋から出ずに、何も食べずに、ただずっと泣いていた。何日も何日も何日も……。そしてある朝、やせ細って、首を吊ってた。あなた方が、2人であっちゃんを壊したのよ」

 林がつぶやく。

「俺は何もしちゃいねえ……あいつが勝手に出てっただけだ……」

「そうかしら? 暴力を振るわなかった? 言葉で罵らなかった? 病院から麻薬を盗めって脅さなかった? みんな知ってるのよ。あの時すでに、あっちゃんの心は圧し潰されていた。でも、最後の気力を振り絞って、助けを求めた。それが、あなた」

 聡美が宇賀神を見る。

 林がうなずく。

「そうだ……悪いのはこの警官だ……」

 宇賀神の目が必死に助けを乞うている。

 聡美はその目をまっすぐ覗き込みながらつぶやく。

「あっちゃんはあなたの優しさにすがりたかったのよ……体の関係を続けるだけでもよかった……せめてもうしばらく……あっちゃんの心が少しだけでも膨らんでからなら……きっと死ななかったって思うの……それなのにあなたは……あっちゃんの手を振り払ってしまった……自分の生活を壊されたくないからって……」

 聡美の目から一筋の涙が落ちる。

 宇賀神の喉元から、下手くそな腹話術師のようなくぐもった声が漏れる。

「あんた……狂ってる……」

 聡美がうなずく。

「そうよ。あっちゃんが死んだからね。だからわたしも、狂ったの。いいわ、あなたも言い訳ぐらいはしたいだろうから」

 聡美は薄い黒手袋をはめた手で、宇賀神の口を塞いだガムテープを少し剥がす。

 宇賀神の声がわずかに鮮明になる。

「彼女が自殺したのは辛かったろう……だが僕だけの責任なのか……?」

「もちろん違うわよ。ここにいるみんなの責任。だけど、引き金を引いたのはあなた。だから、ここに来てもらったのよ」

「来てもらった……?」

 聡美がうなずく。

「だってあなた、この男が札幌のヤクザとつながってる証拠まで見つけちゃうんだもの。完全に予定外。このままじゃ、ヒーローになっちゃうじゃない。わたしと縁を切りたがっていたのは見え見えだったから、つなぎ止めるのに必死だったのに。だから『悪徳警官の身代わりで処分されるかもしれない』って怯えるように、知恵を絞ったのよ。なんとか計画を立て直せて、そこまでは満点だったわ。あんたがビビって逃げ出してたら、こんなお芝居はそもそも成り立たなかったもの。うまく誘導してDNA鑑定やトランクルームの捜査までさせられた時は、規則違反のダメ警官に仕立て上げて人生をぶち壊してやれると喜んだんだけどね。それが、ヒーローだなんて……」

「なんだよ、それ……あんたに踊らされてたっていうのかよ……?」

「当然。でも今のままじゃあっちゃんの仇は打てない。だからちょっと危ない橋だったけど、この部屋におびき出したの。まさかメールひとつでこんなに簡単に騙されちゃうだなんてね。警察なんて、この程度のもの? あなた、上司からわたしを見張れとでも命令されたんでしょう?」

「あんた……何がしたいんだ……?」

 聡美はその言葉には答えない。

「あっちゃんの死体を清めてお化粧をしながら、わたし、じっくり考えた。どうしたらあっちゃんの魂を救えるんだろう――って。で、あなた方に手伝ってもらうことにしたの」

 林が懇願する。

「俺は関係ないだろう……トドメを刺したのはこいつなんだから……」

「そう、この警官は最後にあっちゃんの希望を打ち砕いた。でも、それだけ。本当の重圧は、林大輝、あんたが加えたものよ。関係ないなんて言わせない」

 宇賀神が怯えながら言う。

「何をさせる気だ……?」

 聡美はその言葉が耳に入らなかったかのように、平然と続ける。

「あっちゃんの死体は、このトランクに入れてお店の裏口に出しておいた。外と同じ気温だから、もう芯まで凍りついている。わたしのあっちゃんは、綺麗で可愛いまま、ここに居続けるの。で、わたしは動物病院から麻薬を盗んだ」宇賀神を見つめる。「そうすればあなたを巻き込むことができるから。あっちゃんの鍵で病院に忍び込むのは簡単だったわ」

「なぜそんなことを……?」

「まず、こっち側にあなたを引き込むため。そうすれば、あっちゃんと付き合ったことがあるあなたが、麻薬盗難とは関係ないことを証明しなければならなくなる。警察がただの家出だと決めつけてわたしを追い返そうとしても、犯罪が絡んでたら調べないわけにいかないから」そして林を見る。「そして、その裏で元カレの林が糸を引いていると疑うことになる」

「だが、この家の玄関で確かに髪留めが――まさか……あれも、君が……⁉」

「もちろん。わたしが玄関で拾ったふりをしただけ。でもあれ、本当にあっちゃんのものだし。皮膚片とか髪の毛が付いていたら、DNAはあっちゃんのものに決まってる。だからあっちゃんがこの部屋にいた証拠になっちゃう」

 宇賀神は言葉を失った。

 林が叫ぶ。

「俺は関係ない!」

「あら、大きな声はまずいわね。防音対策してる建物でも、誰かに聞かれるかも」そして、再び林に微量のケタミンを注射する。「ついでにあなたにも」

 宇賀神もまた、ケタミンを注射された。

「なんだよ……これ……」

「わたしが動物病院から盗んだケタミン。筋肉注射でも、少しだけ使えば幻覚剤になるんですって。意外よね。ケタミンが手元にあったらこんなに役に立つんだなんて、思いもしなかった」

「どうして……こんなもの……」

「大騒ぎしないで聞いて欲しいから」そして林に言った。「あなたが麻薬取引を本業にしていたのにはびっくりしたわ。あなた、あっちゃんに麻薬を盗ませたくて恋人になったんでしょう?」

「そうじゃねえ……向こうから近づいて来たんだ……俺が半グレだから……余計に気に入ったらしい……」

「何よ、それ」

「何かから逃げ出したかったんじゃねえのか……例えば、常識からとか……うっとおしい姉ちゃんから、とか……」

 聡美が皮肉っぽい笑みを浮かべる。

「わたしから逃げたかった、か……。あんた、悪党のくせに人の気持ちがよく分かるのね。それとも、悪党だから分かるのかな。たぶん、そうなんでしょう。あっちゃんには、息苦しい生活だったんだろうな……」

「だから明美は……悪魔だのコスプレだのっていうバカバカしい遊びに逃げ込んでいたんだ……頭は悪くないくせに、やることはガキみたいだったからな……」

 聡美の目に厳しさが浮かぶ。

「でも、あなたが『病院から麻薬を盗め』って命令したことは知ってるわよ。あっちゃん、日記をつけてたの。鍵をかけてたけど、死んじゃったら開けても咎めようがないものね。で、あなた方があっちゃんに何をしてきたのか、全部分かったわけ」

 林が鼻で笑う。

「明美がシャブを受け入れないなら……もう用はない……。どうせすぐ別れるつもりだったし……。上客がケタミン使ってみたいっていうから……小遣い稼ぎには都合がいいと思っただけだ……」

 聡美が不意に悲しげな目をした。

「あっちゃんを風俗に売り飛ばそうと企んでたわけ? そうよね、本職は札幌のヤクザと組んだ麻薬販売だものね。ほんと、ひどいやつ……。思った以上の悪党だったおかげで、逆に警察を遠ざけられたなんて、笑える」宇賀神を見る。「警察って、今でも極秘捜査をしてるんでしょう? あら、あなた警官だものね、そんなこと答えられるはずないか。でも、極秘すぎて捜査してる人も少ないから、今あなたがここにいることさえ気づいていないんじゃない?」

 宇賀神が悔しそうにつぶやく。

「そこまで……操られていたのか……」

「そう。わたしが操っていたの。さっき玄関に入った時の中国人の乱闘騒ぎ、偶然だと思う? わたし、中国人のツアーコンダクターと知り合いだって言ったわよね。わたしのお店をあげるって言ったら、なんでも言うことを聞いてくれた。日本のことを知ってる中国人って、みんな日本に住みたがってるから。お店なんて本当はとっくに売り払っちゃったんだけどね。今度のことで、お金が必要だったから。昨日、美容室に行った特に話をつけたのよ。あの乱闘、わたしがお願いして起こしてもらったんだ。ついでにトランクも運んでもらった。団体の観光客が出入りしてるマンションなんだから、警察が大きな荷物を見たって全然不自然じゃないでしょう?」

「あ……じゃあその悪魔の衣装も……あんたが準備していたのか……?」

「当然。林が持ってきたように見せかけて、あなたがここに来なければならない理由を作ったのよ。あなたが上司に連絡を入れることは分かってたけど、極秘捜査中だからまだ動きは取れないんでしょう? わたしの計画を邪魔されないのなら、別に見張られてたって構わないから」

「そこまで……計算して……」

「あら、計算はもっと先まであるわよ。まだ、たった半分。だから警察には手を出して欲しくないの」

「なんでそこまで……そんなに僕が憎いのか……」

 聡美の表情が真剣に変わる。

「憎いわよ。あっちゃんの心をへし折ったんだから」

「そんなつもりはなかった……」

「どんなつもりだろうが、あっちゃんは死んだ。苦しんで苦しんで、やせ細って死んでいった。あなたが最後の一押しをしたのよ。お巡りさんなんだから、責任をとってね」

「なんだよ、それ……俺にだって言い分はある……自分の人生を大事にして、何が悪いんだよ……」

「別に悪くないわよ。わたしは、責任を取ってくれさえすれば、それでいいの。あっちゃんは1人で死んじゃったんだから、あなたも死んで。そうすればあっちゃんだって、寂しくないもの。あなたのこと、本当に好きだったんだから」

「なんだよ……あんた……それでも人間か……?」

 聡美は真顔でうなずいた。

「もちろん人間。今はまだ……だけど。でも、もうすぐやめるつもり。そう決めてるの。じゃなければ、こんなバカなこと、できやしない」

 宇賀神は言葉を失った。

 聡美は宇賀神に近づくとケタミンを打ち直してから、爪先だけを使ってガムテープを貼り直す。一度剥がしたテープは粘着力が弱まってぴったり付かなかったが、聡美は気にも止めない。

 そしていったん廊下に出ると、聡美は再び大きなトランクを転がして戻った。

 林が怯えてうめく。

「そっちの中身……なんだ……?」

 聡美が微笑む。

「知りたい?」

「なんなんだよ……」

「林大輝が殺した警官の死体」

「は? 何……言ってんだ……?」

 聡美はトランクを開けた。

 林がびくりと身を震わせる。だが、中身は空だった。

「すぐ分かるわ。これから死体が出来上がるから」

 聡美の意図に気づいた宇賀神が、恐怖に目を見開いてもがき始める。

 聡美は微笑みを広げながら宇賀神の鼻を力いっぱいつまんだ。

 息を止められた宇賀神はさらにもがいたが、すでに全身にケタミンの効果が現れている。もがいてももがいても力が入らずに、か細い聡美の腕を振り払うことができない。宇賀神は一度テープを剥がした口の端から息をしようと試みた。だが空気を吸い込むと余計にテープが吸い付いて、苦しさが増すばかりだ。

 林はその姿を呆然と見つめている。

「あんた……なんてことを……」

 聡美は林の目を覗き込んだ。

「だから、わたしじゃないんだって。だって、このガムテープはあなたの家に最初からあったものだし、指紋だってべったり付いてるんだから。この警官を殺したの、あんた以外に考えられないじゃない」

 林は顔を背け、恐怖に目を固く閉じた。

「おまえ……悪魔かよ……」

「そうよ、人間やめるっていったでしょう? わたしはこれから悪魔になるの。あっちゃんが好きだったアニメの、〝冥府の王〟の下僕ってところかな。そしてあんたは、冥府の王への捧げ物を用意する従者になるのよ」

「明美みたいな言い草だな……アニメの見過ぎだ……姉妹揃って……」

「冥府の王は、あなたをこの世の束縛から解放してくださるわ。警官殺しの罪から逃れたければ、わたしの命令を聞く他ないのよ」

 そう言いながらも、聡美は宇賀神の鼻を塞ぎ続ける。

「まだ言うのかよ……」

「事実ですから。悪魔の力は、この世の全ての規律を凌駕します」

「頭おかしいのかよ……そんなバカな話……誰が信じるか……。サツに捕まった方がよっぽどマシだ……」

 宇賀神が細かく痙攣し始める。

 聡美は苦悶する宇賀神の顔を無表情に見下ろすばかりだ。

「あら、あんたこそ警察がどっちを信じると思ってるの? 売人やってる麻薬中毒の半グレか、妹の身を案じて奔走していた姉か。たとえ警察があんたの言い分を信じたって、もうヤクザとの取引をバラしたことは隠せない。あんた、生きている限りずっと命を狙われ続けるんじゃない?」

「ちくしょう……」

 宇賀神の力が次第に弱まっていく。

 聡美は宇賀神の瞳を覗き込みながらつぶやく。

「あなたが悪い人じゃないことは分かってる……。ただ、ちょっと弱いだけ。でも、その弱さがあっちゃんを苦しめた。お巡りさんなんだから、ドラマみたいなヒーローを気取れば良かったのに。あなたがあっちゃんの手を振り払わなかったら……」そして、ため息を漏らす。「終わったことよね。ケタミンで意識を失くしてから窒息させるって……あんたが教えてくれた方法。驚きよね、非力な女でも武闘派の警官が殺せるだなんて……。わたしだけじゃ、こんなこと思いつけなかった……」

 恐怖に囚われた宇賀神の目から、次第に光が消えていく。

 さらに数分間、聡美は宇賀神の鼻を塞ぎ続けた。林は口を半開きにしたまま声も出せずに、その姿を凝視するばかりだ。

「林大輝、あんたはわたしの命令に従うわよね?」

 ようやく怯えきったつぶやきが漏れる。

「従ったら……逃げられるのか……?」

「さあ、それはどうかな。でも、従わなかったら破滅するのは間違いない。警察もヤクザも、あんたを狙っているんだから」

「なんなんだよ……それ……」

 聡美は宇賀神の鼻から手を離し、もう一度林に注射を打った。

「あんたガタイがいいから、これぐらいの量ならまだ気は失わないと思う。でも、そんなに抵抗する力は残ってないわよね」そして、スタンガンを見せびらかす。「逆らったら、わたしがあんたを殺します」

 そして、結束バンドを切った。

 床に崩れた林がうめく。

「俺に……何をさせる気だ……」

「悪魔からの最初の命令。この警官の死体を空のトランクに詰めて。あっちゃんと一緒に、ベランダに出すのよ。しばらく置いておいたら、凍りつくでしょうから」

 林が、いたずらの言い逃れをする出来が悪い小学生のようにつぶやく。

「ベランダには……雪が積もってる……」

 聡美がにらみつける。

「だったら除雪しなさい! スコップぐらいあるんでしょう⁉ なければ手で掘れ!」

 林は聡美の怒声に首をすくめた。

 聡美は血の色のようなドラムバッグのジッパーを開いて、赤いバンダナと細長い鎖を取り出した。バッグの奥には、金属製のグロテスクな装飾品らしいものも見える。悪魔とドクロとコウモリの羽が絡み合って一体となったようなレリーフだ。まるで、血まみれの猛獣の内臓から現れた人間の骸骨のようにも思える。

 林はそれが妙に気になった。自分の未来を予告する禍々しい呪いのアイテムにしか見えなかったのだ。

「その奥の……それ……何だ……?」

 聡美が〝それ〟を取り出して林に見せる。

「これかしら? 大きいけど、ただの安物のペンダントよ。見たことない? 明美のお気に入りだったんだけど」

「なんでそんな……ものを……?」

「これから使うの。悪魔にとっては、すごく重要な儀式の道具。これがないと、貢物を完成させられないんですもの」

「どういうことだ……?」 

 聡美がコンタクトレンズを外して、部屋の隅に弾き飛ばす。もう必要ないと決め付けている振る舞いだ。

 視力が弱まっても林の居場所ぐらいは分かるようで、焦点が定まらない目で無表情に見つめた。

「今に分かるわよ。死体をさっさと詰め込んで、外に出して。それが終わったら、この鎖でわたしをきつく縛りなさい。手首に跡が残るぐらい。そしてこのバンダナで、軽く猿ぐつわをしなさい。わたしの肉体を、悪魔に捧げるのよ……」

 林の目にあからさまな恐怖がにじむ。

「なんだ……それ……。おまえ……本気かよ……何考えてんだよ……悪魔、悪魔って……」

「勘違いしないでね。そういう〝設定〟だってことだから。言ったでしょう? 全部お芝居。あっちゃんをあの世に送ってあげるための、まあ〝壮行会の出し物〟みたいなものかな。でも、手を抜かないで設定通りに忠実に実行しなさいよ。それが、あなたの将来を決めるんだから」

「ふざけてんじゃねえよ……」

「あ、それと、わたしを縛ったからって逃げられるなんて勘違いしないように。死体が2つもあるんだから。まあ逃げても構わないんだけど、それこそあなた、殺人犯で指名手配されて死刑になるわよ。だってわたしが『明美も警官も林大輝が殺しました』って証言するから。それが嫌だからってわたしを殺せば、それこそ正真正銘の連続殺人犯だし」

 ケタミンで意識を朦朧とさせた林には、聡美が悪魔そのもののように見え始めていた。聡美の命令が、人を淫らな夢に溺れさせる〝女悪魔〟の罠のようにも思えてくる……。

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