2・月曜日【失踪・サイドB】

 ベランダには、大きなトランクが2つ並べられていた。中にはそれぞれ、死体が押し込められている。1つは女。1つは男。

 外気は零下10度を下回る。女はとっくに凍りついているが、男も朝には芯まで固まっているだろう。

 悪魔への捧げ物だ。

 遮光カーテンを引いて照明を消した薄暗い部屋の中にも、女が1人、いた。

 ぐったりと横たわっているが、呼吸はしている。細い鎖で両手両足を強く縛られ、床に転がされていた。口には猿ぐつわをかまされている。

 女は、悪魔の扮装をしていた。一時期流行った、露出度の高いアニメキャラクターのコスプレだ。脱色したショートボブの髪を両側で縛り、まるで悪魔のツノのように立たせている。縛った髪留めには、グロテスクな飾りがついていた。妙にリアルな血走った目玉の両側にコウモリの羽が生えているデザインだ。ゴスロリやホラー風のコスプレのアクセサリーだろう。化粧は、キャバクラ風の〝プチ整形〟メイクだ。

 その部屋には男も1人、いた。

 フローリングの床にあぐらをかいた男が、女をぼんやりと見下ろしている。わずかなヨダレを垂らしながら、締まりなく笑う。頭がかすかに揺らいでいた。

「悪魔への捧げ物……かよ……。ほんと……悪趣味だな……。悪趣味な幻覚だ……」

 男はそれまで、悪魔など信じたことはなかった。元カノが悪魔のコスプレにはまっていたのも、単なる幼稚な遊びでしかないと思っていた。

 そもそも男にとっては、超自然的な現象などあり得なかったのだ。幼い頃に両親が離婚し、貧しい中で育った男は〝奇跡〟など実感したことはない。今のそこそこ安定した暮らしも、地べたを這い、血反吐を吐くようにもがき続け、ようやくしがみついた居場所だ。

 当然、同じような境遇にある〝仲間〟たちを何人も蹴落としてきた。今でもそこが決して安住の地ではなく、ほんのいくつかミスをしただけで失いかねないことも覚悟している。男を蹴落とそうとしている〝仲間〟は、背後に何人も迫っているのだ。

 だからこそ、決意している。

 二度と〝悲惨な過去〟に連れ戻される危険は犯さない、と――。

 男は酒に酔っていた。その上、微量の麻酔薬――ケタミンを筋肉に注射している。麻薬として流通することもあるケタミンは、微量であれば幻覚剤として作用するのだ。

 頭の中はすでに、この世から隔絶した暗がりを漂っている。体もふらついている。現実と幻覚の区別も難しい。もはや、到底正常な精神状態とは呼べない。

 視界はふやけ、滲み、歪み、溶け、揺らぎ、回っている。

 自分がいる場所がどこなのか、それすらはっきりと分からない。見慣れた光景にも思えるし、初めて訪れる場所にも感じられる。記憶のピースのあちこちが欠け、でたらめにつながっている。出来上がったジグソーパズルには、何の絵柄も浮かんでこない。

 そもそも、自分が何をしているのか、何をさせられているのかにさえ関心がなかった。

 意思さえ、溶けている。

 ただ、漂っていた。

 中学生の頃、シンナーを使って意図的に酔っていた時と、似ているとも思う。

 幻覚、幻聴、そして浮遊感……。

 その時は、共に〝遊んで〟いた仲間の異常な行動を目の当たりにして、『このままではまずい』という自己保存本能が働いた。それ以来、できる限りシンナーや薬物には手を出さないという戒めを守ってきた。

 なのにまた、同じ〝場所〟に自分が戻っている……。

 すでに何時間も、漂い続けているようだ。だが、どれだけの時間漂っているのか考えようとも思わない。そんな中に時折、幻聴にも似た言葉が湧き上がってくる。言葉がどこからやってくるのか、見当もつかない。耳元でささやかれているようでもあり、心臓の中心から響いてくるようでもある。

 それでも、無視はできない。絶対に実行しなければならない指示なのだ。でなければ、自分が破滅させられる。

〝悪魔の命令〟だから――。

〝悪魔〟が男に語りかける。

『その女を痛めつけなさい』

〝悪魔の声〟は、女だ。

 やはり幻聴なのか……それとも、超自然的な現実なのか……?

 そして男は、目の前に〝悪魔〟が転がされていることに改めて気づく。ずっと目の前にいるのに、一瞬前には気づいていたのに、意識からすっぽり抜け落ちてのだ。男の脳内のパズルは、1秒毎にピースが入れ替わり、消えてはまた現れる。

 よく見ると、悪魔は女の姿をしているようだ……。

 男がまた笑う。くだらないギャグがツボにはまったかのように、急に声を出して笑いながらつぶやく。

「あははは……いるじゃん……悪魔……。幻覚じゃねえのかよ……。これって……現実だよな……悪魔ってよ……本当にいるんだな……。悪魔だってよ……あははは……」

 体ががっくりと前にのめり、すぐに戻すが、メトロノームのように揺らぐ。それでも、心地よさそうではあった。

 そして急に真顔に戻って、床に転がされている悪魔をまじまじと見つめた。

「悪魔ね……おまえ……女だろう……? サキュバスってやつか……? おまえ……悪魔のくせに……なんで……そんなとこで寝てる……?」

 また、悪魔の声が頭に湧き出す。

『ここで寝ている女は、悪魔ではありません』

 男がぼんやりと天井を見上げる。

「あ……? これも……幻覚か……?」

『おまえは、幻覚と会話ができるのですか?』

 男はぽかんと口を半開きにした。しばらくしてから小さくうなずく。

「だよな……じゃあ、ここには……やっぱり悪魔がいるんだ……」

『もちろん、この部屋にいます。この女も現実です。ですが、この女は悪魔ではありません』

「ありません……って……どう見ても……悪魔だろうが……この格好……」

『似せているだけです。この女は、ただの人間です』

「人間? ふん……ただのおままごとかよ……面白くもねえ……。せっかく悪魔に……会えたと思ったのに……」

『おまえは悪魔に会いたいのですか?』

「ああ……本当にいるなら……な……。悪魔みたいな人間なら……たくさん知ってるけどよ……本物に会ったことはないからな……。自慢できるじゃねえか……」

『悪魔は、見せ物ではありません』

「だよな……悪魔だもんな……。だけどよ、なんでこいつ……悪魔の格好してんだ……?」

『悪魔になりたかったのでしょう。ですが、普通の人間ごときが悪魔にはなれません。それは、不遜な行為です。だからこの女は、罰せられなければなりません。悪魔を騙る人間を、〝冥府の王〟は許しません。わたしも許しません。だから、その女を痛めつけなさい』

「冥府の王って……だれ……?」

『我々を統率されている最も高位の悪魔です』

 男がくぐもった笑いを漏らす。

「おやおや……あんたも……中間管理職なのかい……」

『冥府の王の忠実なる下僕です』

「下僕って……下っ端じゃん……」

 女悪魔の声に、苛立ちが混じる。

『たかが人間が口にしていい物言いではありません。ですが、必ずしも間違ってはいません』

「おお、怖い……。それでも、あんた……悪魔なんだよな……? どこにいるんだ……?」

『おまえの中に』

「は……? 中に……? なんだよ、それ……気味悪いな……」

『人間には見えない場所だということです。悪魔は、どんな場所にも現れることができます。どんな人間の中にも現れます』

「姿は……見えないのかよ……。声だけじゃ……面白くねえな……でも……その声、女だろう……? なんで……女なんだ……?」

『性別も、関係ありません。ただ、冥府の王の下僕であるだけです』

 男が不意に下卑た笑みをもらす。

「あ、そうか……分かったぞ……。おまえ……女の悪魔だから……女が嫌いなんだろう……? 痛めつけるところを見て……楽しもうって魂胆か……?」

 悪魔が繰り返す。

『この女は罰せられなければなりません。ですから、冥府の王への捧げ物となってもらいます。おまえに命じます。女を鎖で繋ぎなさい。捧げ物の肉に、おまえの印を刻みなさい』

 男は笑みをさらに広げた。

「痛めつけろとか……刻めとか……俺……こう見えても……サディスティックな趣味はねえんだがね……」

 悪魔は笑いをこらえているようだ。

『ベランダで凍っている男を殺した悪党のくせに』

「ひどい言い様だな……。俺……根っからの悪党なんかじゃないぜ……。たぶん……だけどな……」

 パズルのピースが1つ、はっきりとつながった。男は、自分は人を殺したのだと理解した。

 確かに、大型のトランクに無理矢理死体を押し込めた感触が腕にも指先にも残っている気がする。柔らかく暖かい、肉の手触りだ。その感触だけは、妙に生々しい。

 だが、記憶の全体像はぼやけたままだ。どうやって殺したのかも定かではない。

 それでも、悪魔が言うなら、そうなのだろうと思える。

 というより、人を殺した記憶が不鮮明なことにも、関心が湧かない。悪魔に非現実的な命令を下されているという現実さえ、どうでもよかった。

 ただ、漂う心地よさに身を委ねていたかった。

『サドでも悪党でもないのなら、今から学びなさい。捧げ物は、冥府の王がお喜びになる姿をしていなければなりませんから』

「俺……悪魔の命令……聞かなければいけないのか……? 冥府の王っていうのにも……顔を合わせたこと……ないんだがな……」

『当然です。王が決められたことですから。人間ごときの前に姿を現すことも滅多にありません。ですから、わたしが使いに来たのです。ですが、おまえには断る自由もあります』

「断っても……いいってか……? 意外に話が分かるんだな……」

『その場合、おまえ自身が冥府の王への捧げ物になります』

 男ががっくりと首をうなだれる。

「やっぱりか……。だよな……悪魔だもんな……。そりゃ……怖いな……捧げ物って……殺されるってことだろう……?」

『この世界の言葉で表すなら、そうなります』

「じゃあ……仕方ないよな……。死にたくないもんな……」

 悪魔は嘘をつかないという、漠然とした思いはあった。具体的な記憶はなくとも、悪魔が人を殺す現場を目撃したような感覚も淀んでいる。

 従うしかないだろう。でなければ自分自身が悪魔に喰われて果てる。悪魔への畏れは、心の中心にどっかりと居座って根を張っていた。この恐怖心だけは、朦朧とした意識の中でも強固で動かしがたい。

 悪魔は人知を超えた恐るべき存在なのだ。

『従いますか?』

「従うよ……。何すりゃ……いいんだ……?」

『まずは、その女の服を少し切り裂きなさい。悪魔でもない者が悪魔を気取ることは傲慢です。処罰されなければなりません。道具は、あなたの横の箱に入っています』

 男の傍には黒いプラスティックの工具箱があった。

 男の意識が、ようやくその箱に向かう。見慣れたもののような気がする。しばらくすると、箱の中身までが想像できた。パズルが、また1つ噛み合う。それが自分の所有物であることも、ようやく思い出せた。カッターナイフも入っているはずだ。蓋を開くと、一番上のトレイに置いてある。

 あるべき場所に、カッターはあった。

 安心したように微笑んで赤い大型カッターを手にした男は、悪魔の扮装をした女に体を揺らしながらのろのろと這い寄った。

「切るって……どこを……?」

『どこでも。どうせ血まみれにして、犯すのですから』

 男は黒いブラトップの肩紐を引っ張り、カッターの刃を入れた。不器用そうに服地も切り裂いていく。だが、腕に力が入っていない。

 薬のせいで、思うように体が動かせない。

「服を切るのはいい……。犯すのも……別に平気だ……。だが……血まみれは嫌だな……。血まみれにして犯したら……こっちも血まみれだ……。なあ……ここ……俺の部屋……なんだろう……? 周りが汚れるのは……まずい……。汚しちゃ、まずいんだよ……。後始末も……大変だ……」

 男は女への虐待を命じられて、ようやくそこが自分の部屋であることに気がついたのだ。同時に、部屋に血痕を残してはならないという強迫観念が、男の意識に沸き上がっていた。職業柄どうしても避けられない約束事は、無意識の領域の奥底にまで抜きがたく染み付いている。

 悪魔がなだめるように言った。

『冥府の王は人間の血を求めているのです』

「だから……部屋は汚せない……。血はダメなんだって……」

『今は儀式の下準備の段階ですから、たくさんの血は必要ありません。毎日少しずつ、数カ所を切りつければ充分でしょう。王には、これから数日間をかけて楽しんでいただかなければなりませんから。ただし、顔はそのままにしておくように。まだこの女を外に出して儀式の手順を踏む必要があるので』

「儀式……? なんだよ、それ……?」

『おまえが知る必要はありません。ただ、従いなさい』

「どうしても教えろ……って言ったら……?」

『代わりの人間を探します。そしておまえには、トランクに入ってもらいます』

「分かったよ……おっかねえこと言うんじゃねえよ……」

 男は女の体を仰向けにした。女は眠っているのか、目を閉じたままだ。顔だけが、力なく横を向く。

 ブラトップを半分ほど切り裂くと、右の乳首が露わになる。男がガクッと首をかしげる。

「あれ……? こいつ……やせっぽちだな……」

 男は、不意にその女を昔から知っているように感じた。と同時に、知り合いではあり得ないという違和感がせめぎ合う。宙で止まったカッターがゆらゆら揺れる。

 男のためらいを封じるかのように、悪魔の命令が飛ぶ。

『胸に刃を入れなさい』

 男はまだ、迷っている。

「だから……血は嫌なんだって……」

『浅く、で構いません。流血に慣れるのです。これからの儀式に欠かせないプロトコルですから』

「プロト……って、なんだ……?」

『儀式の手順です。手順を踏むごとに、冥府の王の力は高まっていきます。この世でのお力を最大にするには、厳格な手順を踏むことが必要なのです。それができないのであれば、おまえ自身が血を流すことになります』

「分かったって……しつこいな……。だけど、床が血だらけだと後が面倒くさい……。俺の部屋なんだから……この先、ここでメシを食ったりもするんだろう……?」

『悪党のくせに、綺麗好きなようですね。仕方ありません。そこのバッグの中に防水シートがあります。それを広げて敷きなさい』

 男はあたりを見回した。壁際に血の色のような赤いドラムバッグが置いてあることに、不意に気づく。ふらふらと這い寄ってジッパーを開くと、中に様々なものが詰め込まれているが分かった。片側に、黒いシートが丸められている。

 男は言われるがままにフローリングの床に黒いシートを広げ、女を移動させた。大きなシートの真ん中に女を転がすのに、体に力が入らずにひどく時間がかかる。

 数分間かけて息を整えると、ようやくカッターを取る。

 だがカッターの刃先は、乳房に触れる前に止まった。男は顔を背けていた。

「う……痛そうだな……」

『他人の痛みが気になりますか? 人を殺した悪党のくせに。おまえは、悪魔の命令に従うと約束したはずです』

「嫌なものは……嫌なんだよ……」

『怖いのですか?』

「怖いんじゃない……嫌いなんだ……」

『殴るのは平気なのでしょう?』

「殴るのと……切るのは違うだろが……。平手でしか……殴ったことはねえしな……」

『血さえ出なければ何をしても大丈夫なのですか? 悪党らしい、勝手な言い草ですね』

「どうせ……俺は……悪党だよ……」

『ですが冥府の王には、気に入られるかもしれません』

「血を見るのが……嫌いなだけだ……。生理の女だって……抱いたことはねえ……」

『では女に注射をしなさい。痛みを感じなくなります』

 男は不満そうにつぶやく。

「それでも……血は出る……。でもまあ……暴れねえだろうから……何もしないよりましかもな……」

『どうしてもできないというのなら、おまえもケタミンを追加しなさい。それで嫌悪感を忘れなさい。冥府の王の要求は始まったばかりです。全ての儀式が終わるまで、おまえは指示に従わなければなりません。今は薬を使っても構いませんので、下僕として働くことに慣れるのです』

「儀式、儀式って……? 俺……何をさせられるんだよ……?」

『考える必要はありません。女に注射すればいいのです』

 男はわずかに不満げな表情を見せた。

「ああ……そうするけどよ……」

 だが悪魔の返事は冷淡で、男の感情など意に介していない。

『ただし薬の量は控えめにしなさい。麻酔薬ですから、意識を失ってしまいます。それでは、冥府の王にご満足頂けませんから。昼間は周囲から疑いをかけられないように振る舞う必要もあります』

「ヤクの使い方ぐらい知ってるって……素人じゃねえんだから……。少しばかり入れたって、他人に気づかれないぐらいの限度は分かってらあ……」

 男は注射器を取ると、慣れた手つきで女の腕に刺した。ごくわずかな量を注射する。同じ注射器を、自分にも刺す。注射を終えるとカッターを乳房に近づける。ケタミンの効果はすぐに現れた。身体も気持ちも、一層軽くなる。恐怖のピースも、1つ剥がれ落ちる。

「これなら……できるかも、だな……」

 息を整えてから、意を決して刃先を押し付ける。軽く引くと、皮膚と脂肪が切れる手応えがあった。コスプレの女が横を向いたまま、不意に目を開ける。だが、悪魔に視力を奪われているのか、目の焦点が合わずに宙を泳いでいる。表情も変えない。声も上げない。

 男は、かすかにこみ上げた吐き気に顔をしかめた。

「うへ……やっぱ、きっついな……」

 だが、出血は思ったより少ない。

 悪魔が命じる。

『あと数カ所、血が滲む程度に傷を付けなさい』

「まだ……やるのかよ……」

『慣れるのです。おまえには訓練が必要なようですから。一刻も早く王の要求を満たせるように鍛錬しなさい』

 男は顔を背けながらも命令に従った。

「これで……いいのか……?」

『いいでしょう。では、その女を犯しなさい』

 男は命令に従って、女を犯そうとした。

 だが、体が反応しなかった。

「だから言っただろうが……血だらけの女にその気になれるかよ……酒もヤクもやってるのに……」

 悪魔は平然と言った。

『まだ時間はあります。初日はこれで充分でしょう。冥府の王も、きっとお許しになられます。他にも仕事はたくさんありますから』

「まだ何かやらせる気なのかよ……」

『王は強欲でいらっしゃいますから、時間をかけてたっぷり楽しみたいのです。ですから外のトランクの死体の行方は、もうしばらく詮索されたくありません。明日の朝、支笏湖に行って靴と手帳、それとスマホと財布を置いてきなさい。スマホはバッテリーを外してありますから、向こうに着いてからバッテリーを入れ、湖に落とすように。2人が心中したように見せかけられますね?』

 支笏湖は、真冬でも凍らない北限の不凍湖だ。しかも自殺の名所で、いったん沈んだ死体は湖底の藻に絡まって二度と浮かばないと噂されている。

 男が鼻で笑う。

「大丈夫……そんなことなら問題ない……警察の捜査のやり方は……心得ている……。朝方は観光客でごった返すし……誰かに見張られていても……気づかれずに出ていける……。いつもやってることだ……」

『自信過剰は禁物です。わたしたち悪魔は、常に神の偽善から身を隠す必要があるのです。細心の注意を怠ってはなりません。わたしも力を貸しましょう。部屋の外で異邦人どもに騒乱を起こさせます。おまえは神の手先たちの注意が騒乱に向いている隙に姿をくらまし、湖に向かいなさい』

「だけど……もうしばらくってよ……いつまでだ……? 計画があるのか……?」

『次の新月までです。およそ1週間ほど先でしょうか。そこで、冥府の王が儀式を執り行います』

「また儀式かよ……。だからそれって……なんなんだ……? 働かせようってなら……目的ぐらい教えても……いいだろうが……」

 悪魔が仕方なさそうに答える。

『目的は、神が我々に押し付けた嘘まみれの世界を破壊することです。冥府の王は、そのために降臨なされるのです』

 男がかすかに鼻先で笑う。

「おいおい……この世がぶっ壊せるっていうのかよ……。どうやって……そんなことを……? それこそアニメだな……中二病かよ……」

 悪魔の声にわずかな怒りがにじむ。

『冥府の王のお力を侮るではありません。しかし、具体的な手段はおまえのような下僕が関知できる領域ではありません。おまえはただ、ご命令に従って儀式に必要な生贄を用意し、舞台を整えれば良いのです。何を知らしめるかは、王がお決めになります』

「分かったよ……」男の表情に疑問が浮かぶ。「だが……その前に、これだけは聞いておきたいんだが……? 俺自身のことだからな……」

『なんですか?』

「なんで……俺なんだ……? あんたや冥府の王とやらは……悪魔なんだから……なんでもできるんじゃないのか……? なんでわざわざ俺を……手下にするんだ……?」

『それなら教えられます。王が欲する生贄を得るためです』

「生贄って……それも儀式のためなのか……?」

『冥府の王は、生贄を得るごとに力を高めます。おまえのように心根が悪に染まっている者でなければ、この重要な役目は担えないのです』

「俺が……悪党だから……選ばれたのか……」男の頰が皮肉っぽく歪む。「悪魔だもんな……考えることが悪魔的だよな……」

 悪魔もかすかな笑い声を立てる。

『しかしこの世の破壊は、破壊のためにあるのではありません』

「なんだよ……禅問答とかってやつか……? 悪魔のくせに……」

『破壊は常に創造と一体なのです。世界を破壊した後には、おまえたちの解放があります。全ての束縛を破壊して、おまえのような歪んだ魂をも自由にさせます』

「そしてその魂を……ルシファーが喰らうのか……? 悪魔って……人の願いを叶える代わりに……魂を奪うんだろう……? 俺も……結局は喰われるのか……?」

『冥府の王が奪われるのは、神の毒に侵されたほんの一部にすぎません。貴重な下僕を、安直に滅ぼすわけにはいきませんから。そのために、儀式には別の生贄が必要になるのです。しかもおまえには解放という至高の喜びが得られるのですから、正当な対価だといえます』

「物は言いようだな……だが、嫌いじゃない……その自由ってやつ……確かに体験してみたいもんだな……」

『待つのも、そう長い時間ではありません。尽くすのです。王の欲望を満たすために、ひたすら奉仕しなさい』

「分かったよ……。儀式とかも……面白そうだしな……。一度は見ておく価値がありそうじゃないか……。こうなったら……とことん付き合ってやるさ……」

 湧き上がる好奇心を自覚した男は、すでに悪魔の共犯者であり、奴隷と化していた。

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