3・火曜日【捜索・サイドA】
宇賀神は背広姿の刑事を装って警察手帳をチラつかせ、不動産業者から様々な情報を聞き出していた。林の部屋の間取りも確認済みだ。
林大輝が住む賃貸マンションは、千歳駅南口から2キロほど離れた場所にある。建物は比較的新しいコンクリート造りの3階建てで、18世帯が収容できる。正面の道路は支笏湖に向かう道々16号線から少し入った私道で、閑静な住宅地の中にある。マンションの住民用の駐車場は建物の裏手にあり、その先には千歳川の河岸に設けられた細長い公園が広がっている。さらに対岸には広葉樹に覆われた小高い丘が連なり、そこには目立った建築物は見当たらない。その丘全体が、川向こうに広がる大きな公園の一部になっている。
マンションの各部屋のベランダからは川越に丘が一望でき、今は降り積もった雪に真っ白に覆われていた。『住宅地の中であることも忘れさせる、自然溢れる眺望』だというのが、建築当初の謳い文句だったという。部屋は全て2DKで、建前上は子持ちの世帯に貸し出すことを前提にしている。千歳空港の進入路に近いこともあって、各種公的な補助金を使って万全の防音設備を備えていた。
マンションの外壁は落ち着いたレンガ風で、降り積もった雪の中でも存在感を際立たせていた。玄関は建物の中央に一箇所だけで、どの部屋に入るにも必ずそこを通らなければならない。廊下には多くの窓が配されていて、玄関から廊下を進む人の姿は外からも確認できる。だが、張り込みが難しい立地でもあった。
周囲は住宅地だから2階以上の建物は少ないし、ほとんどは個人所有の戸建てだ。ベランダ側を監視できる場所も存在しない。建物を長時間見張ることが可能なのは、玄関から100メートルほど離れたアナクロ風の喫茶店だけだった。
喫茶店は2階建ての個人住宅の1階部分にあるので、警察が正式に要請すれば2階の一部を張り込み用に確保することは可能かもしれない。だが、いかに本物の警官であっても、個人的な事情で監視場所を借りるわけにはいかない。2人は昨日も喫茶店の客として、店舗の中から交代でマンションの玄関を見張っていたのだ。
しかし実際に訪れたそのマンションは、多くの部屋が民泊専用に使われていて、巨大な荷物やトランクを運ぶ団体客に占拠されていた。エアビーアンドビーのサイトにも部屋情報が登録されている。一時は完全に途絶えた中国人観光客も再び増加傾向にある。親中派議員の圧力によって入国制限が緩和され、中国で新たな感染症の噂が囁かれるたびに日本への〝観光客〟が増していったのだ。しかも、長期滞在者がメインだった。日本国内では、観光に名を借りた医療インフラへの〝寄生〟ではないかという非難も多い。
現に宇賀神たちが昨夜訪れた際に見た廊下や玄関、そして路上にたむろす集団も、中国人の団体ばかりに見えた。20席ほどのマイクロバスが狭い私道に入り込み、一時は3台が並んで長時間停車していた。
宇賀神が勤務する郊外住宅街の交番では外国人が問題を起こすことは滅多にない。管轄内で深夜稼働する宅配便倉庫に勤める中国人同士のいざこざに出動することが希にある程度だ。だがかつては、新千歳空港内の派出所を担当する同僚から中国人観光客の問題行動を度々聞かされていた。
数年前には、航空機の遅延や旅行代理店の対応に苛立った100人以上の団体が暴動に近い騒ぎを起こしている。最近は目立たなくなったとはいえ、土産物店や管理業者から持ち込まれる苦情もなくなってはいないという。おそらくこのマンションや周辺の住民も、彼らの振る舞いには相当の不満を抱いているに違いない。
宇賀神はスーツの上にダウンジャケット着ていた。寒さが厳しい北海道では、刑事の姿としては珍しくない。近くの公園の駐車場に車を止め、昨日と同じダッフルコート姿の聡美とともに歩いてマンションに近づいた。建物の際まで雪が吹き溜まっているが、玄関周辺だけはすっかり踏み固められている。今朝も大勢の観光客が出入りしたようだ。
宇賀神は無表情に言った。
「さすがに昼過ぎでは中国人たちも部屋を出た後のようですね」
その声には多少の安堵感も混じっていた。観光客に邪魔されたり、トラブルを起こすような事態は避けたかったのだ。嘘でもいいから聡美を納得させて、さっさと帰って昇任試験の勉強でもしたいというのが本音だ。きっぱりと縁を切った元カノがらみの調査に非番を費やすなど、時間の無駄にしか思えない。久々に雪雲が晴れ上がって暖かな日差しを背中に浴びていられることが、せめてもの慰めだ。
言外のニュアンスを感じ取ったのか、聡美もつぶやいた。
「わたしのお店にも中国の方がまとまって来ることがあるんですけど、あの人たちのお相手って、なかなか難しくて……真冬でもソフトクリームばかり欲しがるし……いつも怒ってるみたいに怒鳴ってるし……常連さんが嫌がって寄り付かなくなっちゃうんですよね……あ、わたしが言葉が分からないせいもあるんですけどね……日本語が喋れるツアーコンダクターの方とは、これでもうまくやれてるんですよ」
奥歯に物が挟まったような言い方ではあった。中国人客に幾分かでも収入を依存している商売人にとって、彼らを公然と咎めることは難しいのだ。
その時の宇賀神にはまだ、聡美に調子を合わせる余裕があった。
「僕ら警察官だってそうです。ちょっといきすぎると、やれ人種差別だとかレイシストだとか、特に上の連中が非難されることを怖がるんです。おかげで、アウトレットショップや空港の業者さんも泣き寝入りする事案が多いみたいです。もともと文化が違う人たちですから……。大概は些細な揉め事なんですけど、そういうのが重なると不満が溜まって大ごとになったりするんです。観光客が途絶えた時は静かで良かったんですけどね……」
「あれ以降は、だいぶ穏やかになってきましてけどね」
「中国もひどい不景気だっていいますから」
「でも……林って、どうしてこんなに騒がしいマンションに住んでいるんでしょう? 家賃だって安くはないんでしょう? 他にもいい場所はあると思うんですけど」
宇賀神が声をひそめる。
「たぶん、便利だからでしょう」
「もっと駅に近い物件だってたくさんあるでしょうに?」
「仕事上、です。林大輝が覚醒剤とかの密売をやっているのは、どうやら確かなようです。昔、ちょっと調べてみました。下っ端の僕なんかじゃ濃い情報には近づけませんが、奴は末端すぎて泳がされているんだという印象です。そんなヤバい仕事には、周囲が騒がしい方が誤魔化しやすいことが多いんでしょう」
「誤魔化すって……何をです?」
「人の出入りとか匂いとか音とか、色々とね。それに中国人の団体には、みんなあまり近づきたがりません。この周囲の住人もいろいろ困っていると思いますよ。それは警官だって同じです」
「お巡りさんでも、ですか?」
「国民性が違いますから、意思の疎通も難しくてね。引いたら負け、っていう感覚の人たちですから。しかも自国で我慢を強いられることが多い分、旅行先では羽根を伸ばしたくなるんでしょう。あ、そうか……林が民泊客を相手に麻薬をさばいていることだって考えられますよね」
「まさか……」
「ま、警官特有の勘ぐりにしかすぎませんけどね。日本の空港には麻薬はほぼ持込めません。だから中毒患者なら、自分で使う分を現地調達しないとならないわけです。麻薬を扱っている情報をこっそり流せさえすれば、客には事欠かないんじゃないかな? ツアコンに話をつけておく、とか……。実際、民泊の部屋が中国人マフィアの溜まり場になっている事例もあるから警戒しろという指示が入ったこともあります」
と、聡美がいきなり質問した。
「あの……昨日は遅くまで起きていらっしゃったんですか?」
宇賀神の目つきが急に不愉快そうに変わった。とりあえずは世間話で聡美の相手をしておこうと決めていたのだが、不意を突かれて本心が隠せなくなる。
表に出さないように我慢していた不満が滲み出した。
「なぜ? 目が充血してるからですか?」
その答えにには明らかな苛立ちが混じっていた。
宇賀神の口調の変化に、聡美がたじろぐ。
「あの、その……」
「確かに、眠れませんでした。イライラして、深酒もしました。妙な厄介ごとに巻き込まれましたからね。まだ頭がフラフラしてますよ。こうしてあなたに付き合っているのも、厳密には職務規定違反になりかねないんです。すでに、刑事のフリをして私的な調査に手帳を見せてますんでね。下手をすると懲戒も覚悟しないとならないんです」
聡美がうつむく。
「どうも申し訳ありませんでした……もう明美とは関係ないのに、こんなことに付き合わせてしまって……」
宇賀神の言葉からは微かな棘は消えない。
「あなたの責任だとは言いませんが、正直、迷惑なんです。明美さんのことが心配だから、こうしてお手伝いしているだけで。今ではなんの関係もありませんが、一時は結婚も考えてお付き合いしていましたからね。そこのところは理解してください。ようやく手に入れた警察官の仕事を失うような規律違反までは、絶対に犯しませんから」
聡美は、その語気の強さに宇賀神の決意を感じ取った。
事実宇賀神は、今日1日だけ聡美を手伝ったら、その後は一切手を引こうと心に決めていたのだ。
宇賀神の両親は千葉に住んでいる。栃木県出身の父親は貧しいくせに見栄っ張りで、母親も一人息子の成績ばかりを気にした。いつも下層の順位をさまよっていた宇賀神には、母親から褒められた記憶がない。世間体に振り回されながら、宇賀神は幼い頃から息苦しい毎日を強いられていたのだ。にもかかわらず母親は、息子が思春期を迎えるとあたかも恋人であるかのように振る舞い始めた。夫婦仲は最悪で喧嘩が絶えなかったため、一人息子に逃げ道を求めたのだ。自分の息子を性的な対象とさえ見ているようだった。
耐えられなかった。
一時は〝不良〟たちと付き合うことに居場所を求めたこともあった。だが彼らが〝シンナー遊び〟に興じて奇行を繰り返すのを見て、嫌悪と恐怖とともに自然と距離が開いていった。薬物が原因だったとは思えなかったが、時折、記憶を消失するという〝持病〟があったことも恐れを増長させた。夜中にふと目覚めると別の部屋にいるというような経験もあった。最初は一種の夢遊病かとも思ったが、独自に調べて過大なストレスからの逃避行動――精神病理学でいう〝遁走〟ではないかと疑い始めたのだ。図書館の解説書には、PTSDや解離性人格障害の原因になることもあるという記述があった。
このままなら重篤な精神障害を起こしかねない――そんな恐怖が抑えきれなくなった。何より、息苦しい家庭に我慢がならなかった。
結果として宇賀神は、あえて北海道のFランク大学に入学して、過去を断ち切って寮生活を始めたのだ。生活は苦しかったが、貧乏には慣れていた。交友関係も広がり、奨学金とバイトで最低限の暮らしは支えられた。両親と連絡を取ることも滅多になかった。宇賀神にとっては、生まれて初めて〝自由〟を実感できた生活だった。
大学で描いた将来像は、警官か自衛官になることだった。何よりも〝安定〟を求めた結果だ。それは、金銭的な苦労から逃れたことがなかった過去の反動でもあった。北海道での暮らしがすっかり気に入ったこともあって、最終的には道外への転勤がない警官を選んだ。本州には二度と戻りたくないという気持ちは強くなるばかりだ。だからこそ、ようやく掴んだ〝理想の環境〟を壊すわけにはいかなかったのだ。
この場所だけは何があっても守り通す――それが宇賀神の心の中で最も優先順位が高い行動原理だった。明美との交際を断ち切った理由でもある。
明美の容姿に不満はなかった。むしろ、宇賀神が望んだタイプだった。体の相性も悪くない。ただの恋人としての関係ならずっと続けていたかったと、今でも思っている。結婚をせがまれたことで、態度をはっきりさせなければならなかったのだ。
最初は、『実は遠距離恋愛で結婚を約束した女がいる』と嘘をついた。本当は、明美自身の精神状態の不安定さを恐れていた。だが明美から、体の関係だけでもいいからそばにいさせて欲しいと懇願された。だから、正直に自分の気持ちを話すしかなかったのだ。
趣味や振る舞いが時に子供っぽいことは許せた。アニメオタクの仲間たちとコスプレを競い合っていたことも、警官の妻としては褒められたものではないが、決定的な理由ではない。そもそも、宇賀神自身がアニメ好きだから明美と親密になったのだ。
しかし、普段はまるでアニメの賑やかしキャラのようにわざとらしいほど明るいのに、時折垣間見せる闇のようなものが怖かったのだ。どこかに病的な〝匂い〟があった。この女はいつも無理をしている。何かに怯えている――そんな印象がぬぐい去れなかった。
その精神的な歪みが、いつかは犯罪行為を誘発するのではないかという恐れを感じさせたのだ。身近なところでは不倫や万引きに走ったり、ギャンブルや薬物の依存症に陥る危険があり得る。犯罪までは犯さないとしても、妻が鬱病を患えば仕事には没頭できなくなる。刃物を振り回して暴れるといった暴力行為さえ起こすかもしれない。そんな漠然とした不安が、常につきまとっていた。
それは、数多くの犯罪者を間近で見てきた警官としての〝嗅覚〟でもあった。
宇賀神の職業が一般的なものなら、特に問題はなかったのかもしれないとも思う。しかし、警官にはとりわけ高い倫理性が求められる。妻としての明美が何かしらのトラブルを起こせば、それが些細なものであっても宇賀神自身の進退に直結することがあり得るのだ。
明美との結婚を選ぶか、安定した将来を堅持することを選ぶか――。
明美を諦める他に、選択肢はなかった。
その決断が正しかったことは、明美が盗難事件に加担しているらしいことで証明された。縁を切ったにも関わらず巻き込まれるのは、理不尽だとしか言いようがない。だが、関係が今でも続いていたら〝被害〟は凄まじく拡大したはずだ。懲戒免職まで恐れなければならない事態に陥っていただろう。縁を切った今なら、過去の関係を咎められることはないはずだ。だがその事実は、聡美には教えられない。
2人はその後、不自然な沈黙を守ったまま林大輝の部屋へ向かった。黙ったままマンションの玄関に入る。
セキュリティが緩いことは昨日確認している。玄関に認証システムはなく、誰でもどの部屋にも行ける。各所に監視カメラらしいものは設置されているが、それがどこで記録されているのか、あるいは単なるダミーなのかも情報は得られなかった。
彼らは昨日と同様に、1階右の奥に進んだ。廊下の行き当たりが林大輝の部屋だ。
廊下は細かいゴミが散乱して雑然としていた。菓子の空袋やタバコの空き箱や吸い殻があちこちに散乱している。中にはコンビニの袋にまとめられた生ゴミが、それもいくつも捨てられていた。清掃する管理者はいるのだろうが、全く追いついていないという印象だ。
建物はそこそこ綺麗でも、使う人間によってはたちまちスラム化する。しかも、廊下全体に油臭い臭気が立ち込めている。日本人だけが住む建物ではまず感じられない匂いだ。民泊客の自炊のせいなのだろう。そう思うと、壁すら脂ぎって見えてくる。一度中国人主体の民泊を始めると、一般の日本人はその周辺から離れていく。客を失った穴を埋めるためにさらに中国人観光客に頼るという、悪循環が始まるのだ。この建物はすでに、末期の様相を見せている。明らかに、中国化していた。
だからこそ、林はここを寝ぐらに選んでいるのだろう。
初めて建物の中に入った聡美は廊下のすさんだ様子に目を見開いて、絶句していた。
だが宇賀神は、平然と言った。
「中国人が増えたところは、どこもこんなものですよ。このマンションも、空室が多いといいます。日本人には耐えられませんから」
2人はあらかじめ打ち合わせしていた通りに、宇賀神が開いたドアの陰に隠れる位置に立ち、聡美がチャイムを押した。
わずかな間を置いて、ドアの向こうにかすかな人の気配がした。昨日にはなかった反応だ。おそらく、ドアスコープを覗いて訪問者の顔を確認している。
聡美が安堵のため息をもらし、再びチャイムに手を伸ばそうとする。
意外なことに、あっさりと鍵が外された。鉄製のドアがわずかに開く。太いドアチェーンがかけられていて、じゃらりと音がする。
林がいらだちを隠さない声で怒鳴った。
「誰⁉」
いかにも、大事な仕事を中断させられたような雰囲気だ。
聡美は両手でドアの縁を掴んだ。いきなり閉じさせないために教えられた方法だ。令状を持った警察の捜査なら、隙間に安全靴を挟み込んだりもする。だがそれでは林を警戒させてしまう。相手が女だと分かれば、林も気を緩めるだろうという宇賀神の判断だった。
だが聡美の頭からはそんな〝計算〟は吹き飛んでいたようだ。
ドアをこじ開けるようにしながら言った。
「大浜明美の姉です! 明美、この部屋にいませんか⁉」
ドアの向こうに見える林の顔が曇る。虚ろな視線が聡美の周囲をさまよう。
ひどく酔っ払っているような口調で答えた。
「は? 明美って……あ、あの女か……。とっくに別れてんだけど……」
「それは聞いています! でも、ここにいませんか⁉」
林が面倒臭そうな視線で、聡美の顔をじっと見つめる。心ここに在らずといった雰囲気だ。それでも次第に目の焦点が結ばれていく。
「あんた……同居してるっていってた姉さんか……? だったら、もう関係ないこと知ってんだろうが……?」
「明美が消えたんです。この部屋にいるんじゃないですか⁉」
林の声が大きくなる。
「だから知らねえって……。あんな女にはもう用はねえんだ……。とっとと帰れよ……」
林はドアを閉じようとした。聡美の指が挟まる。
「痛い!」
「ばか……指をどかせ……!」
「お願いです! 部屋の中を見せてください!」
林はいきなり不自然なほどの怒りを噴出させた。
「ふざけてんじゃねえ……! 誰が他人を上げるか……!」
聡美が力任せにドアを引っ張り、大声をあげる。
「お願いします! 確かめさせてください!」
聡美にとっては自然な反応のようだったが、それは宇賀神と打ち合わせた作戦でもあった。
ドアを開けさせたままで騒ぎを起こせ。絶対に鍵をかけさせてはダメだ――。
そうすれば、〝通りがかりの警官〟が自然に割り込むことができるからだった。
2人の騒ぎを偶然聞きつけたかのように、聡美の背後から宇賀神が姿を現して穏やかな声をかける。
「おやおや、どうしました? 何かトラブルですか?」
林が部屋の中から叫ぶ。
「何だ、てめえは⁉ ……あれ、おまえ……あん時のポリ公か……⁉」
林の反応は素早かった。いきなりの〝警官〟の登場にとっさに身構えたようだ。
宇賀神はかつて、明美が助けを求めてきた際にたまたま〝事件〟を担当した。通常パトロールの途中に、林からひどく殴られて逃げた明美を保護したのだ。明美は追われることを恐れ、繁華街方面ではなく、マンション裏の橋から川を渡って公園方向へ走った。
公園は宇賀神のパトロールの巡回コースだった。
実際には訴訟問題にまで発展しなかったので仲裁役といったところだが、その時の宇賀神は林に対して相当高圧的な言葉をかけている。激しい言い合いもした。林が麻薬取引がらみで警察を避けていなければ、乱闘になってもおかしくない状況もあった。
だから林が宇賀神の顔を覚えていても不自然ではない。宇賀神もそんな展開を想定していた。だが、ドアの隙間から覗いた一瞬で気付かれたことには、軽い驚きがあった。
宇賀神は警官の制服を着ていたわけではなかったからだ。
林の記憶力は、人相に関しては相当鋭いといえる。それは麻薬密売という危険な仕事には必要不可欠な、危機を回避するための〝才能〟なのかもしれない。
反面、都合がいい事もある。
警官だと名乗る必要もないし、手帳を見せなくても話ができる。非番だという事実も、黙っていれば誤魔化せるかもしれない。
宇賀神はあえてきつい言葉を出した。
「そう、時々見回ってたんだよ。おまえ、カタギじゃなさそうだからな」
林がうめく。
「くそ……てめえら、グルかよ……」
頭の回転も悪くない。犯罪の取り締まりに対する嗅覚も研ぎすまされているようだ。
宇賀神がとぼける。
「なんのことかな? 僕は大声が聞こえたんで、職務を果たそうとしているだけなんだが?」
「だがあんた……この女が誰だか知ってるんだろう……?」
「もちろん。大浜聡美さんだ。彼女は妹の明美さんの居場所を知りたいだけだ。ちょっとで構わない。部屋の中を見せてあげられませんかね? 明美さんがいないなら、それで聡美さんも納得するでしょうから」
「警官だからって……一般市民にそんなことを命令する権限があるのかよ……。どうしてもっていうなら……令状を持ってこい……!」
聡美は、不安そうな視線を宇賀神に向けた。
宇賀神が警官だと分かれば素直に部屋を見せると思い込んでいたらしい。
だが林は職業柄不可欠な知識として、不意の取り締まりを封じる〝法的対抗措置〟にも精通しているようだった。当然宇賀神も、抵抗を跳ね返す手段をあらかじめ用意していた。
笑顔でゆったりと諭す。
「そうおっしゃるなら、僕は全然構わないんですよ。別に好き好んで仕事を増やそうなんて思っていませんから。でもね、玄関口のトラブルですから、ある意味、路上の喧嘩のようなものです。聡美さん、ドアに指挟んで怪我しちゃったみたいだし。大げさにはしたくありませんけど、傷害事件ですよね。僕、警官だから仲裁に入らないとまずいんです。後で問題になっちゃうと、査定に響いたりするんで。これ、お巡りさんの役目なんですよね。職務質問って権限もあるんですけど、面倒臭いからそんなご大層な言葉は使いたくないですしね……」
林の怒りがわずかに収まる。戸惑っているようだ。
「てめえ……何が言いたいんだ……?」
「林さん、穏便に済ませましょうよ。聡美さんはね、明美さんの捜索願いも提出されているんです。今ここで強硬に断られると、上の者が捜査に入っちゃいますよ。誰かを部屋に隠してるんじゃないか……なんて疑ったら、隅々まで調べるんですよね、刑事課の連中。どこかに拉致監禁の痕跡があるんじゃないか、とか――あ、あなたの場合は生活安全課が出張ってくるかも、ですね。いいのかな、そんなことになっても……」
宇賀神の言葉に、林の表情が困惑から憎しみに変わる。
「俺を……脅してるのか……?」
宇賀神はさらににこやかに微笑む。
「脅し、ですか? どうして? 調べられたら不都合な物を持ってないんだったら、脅しになんかならないじゃないですか。あれ? もしかして持ってるんですか?」
「てめえ……」
と、宇賀神が顔をドアに寄せた。その声が小さく、冷たく変わる。
「僕はそんなものに興味はない。たとえ見つけても、見なかったことにする。ただ、明美さんがいないと分かればそれでいい。まず、チェーンを外せ。どうだ?」
林は一瞬、息を呑んだ。悔しそうにつぶやく。
「分かったよ……」
宇賀神が目配せすると、聡美がドアから指を離した。
林はいったんドアを閉じてチェーンを外すと、大きく開いた。
聡美が林を押しのけるように薄暗い玄関に飛び込んで、短い廊下の奥に向かって叫ぶ。
「あっちゃん! いるの⁉ 帰ってきて!」
聡美は慌ててブーツを脱いで部屋に入ろうとする。片方のブーツが玄関に転がる。
と、林が聡美の腕を掴んだ。
「中には入るな……!」
語気は強いが、舌がもつれ気味だった。聡美の勢いに押されて足元もふらつく。やはり、相当な量の酒を飲んでいるようだ。
廊下の先にはドアがあったが、今は開いている。その奥に乱雑に散らかった居間が見える。突き当たりの窓辺には、おびただし洗濯物がぶら下がっている。カーテンが開いている窓の外は、川向こうの丘の景色だ。
ぱっと見たところ女の気配はないが、隠れようと思えば身を隠す場所はいくらでもあるだろう。
「どうして⁉」
「とにかく入るな……! 他人には……見られたくないものもある……」
玄関に入ってドアを閉めた宇賀神が言う。
「ここまで見せたんなら、全部晒して安心してもらったらどうですか?」
振り返った聡美が宇賀神に訴える。
「見せろって命令してください。警官なんだから!」
宇賀神が残念そうに首を横に振る。
「これ以上部屋に入るには、確かに令状が必要なんです。住人に拒否されたら、従うしかありません」
「どうして⁉ 警官なのに⁉」
「警官だから、です。法律は破れません。現場の警官には権限がないんです。部屋の中に向かって話しかけてください」
林がニヤニヤと笑う。
「まあ……そういうことだよな……」
聡美は不満そうな顔を見せたが、仕方なくうなずく。そして、部屋の奥に向けて語りかけた。
「明美! いるなら返事して! お姉さんに心配かけないでよ。うちにいるのが不満なら、話を聞くから。とにかく、一度帰ってきて! 動物病院の奥さんも心配しているのよ。薬を持ち出したんなら、戻せばいいって言ってくれてるの。ねえ、何があったのか話して。なんでも聞くから。問題があったんなら、一緒に考えよう……」
林が聡美の腕を掴んだまま、嘲るようにつぶやく。
「何やってんだか……誰もいねえんだから、無駄だって……。明美がどこかに消えただと……? 大の大人だろうが……。何をそんなに慌ててんだか……」
聡美が林をにらむ。
「あなた! 明美に何かしたんじゃないでしょうね⁉」
「だからとっくに別れてんだって……。何ヶ月も前から……顔も見てねえ……。何度言えば分かるんだよ……」
「明美はあんたに追いかけ回されて怖いって言ってたのよ! 今でも付きまとってるんじゃないの⁉」
「おやおや……怖いお姉さんだこと……。だが俺をバカにするんじゃねえ……。明美程度の女なら、そこら中にゴロゴロ転がってらあ……。女に不自由なんかしてねえよ……」そして軽蔑するように宇賀神を見る。「しかも警官とつるんでる女なんか……誰が相手にするか……。あいつは俺たちとは別の世界を選んだんだ……。もう関係ねえ……」
聡美が不意に涙ぐむ。
「あっちゃんをどこにやったのよ⁉ あんたが隠したんでしょう⁉」
林は宇賀神に目をやって、うんざりとしたようにため息をもらす。
「このうるさい女……どうにかしてもらえないかな……」
宇賀神が林をにらむ。
「本当に明美さんはいないんだな?」
「いるなら、とっくに返事をしてるだろうが……。いても黙ってるなら、そりゃ……見つかりたくないってことだろう……? もちろん、ここにはいないがね……。明美にだって……自分の居場所を自分で決める権利はある……。諦めるんだな……」
宇賀神の口調が和らぐ。
「明美さんの行き先に思い当たる場所はないか?」
林の返事は冷淡だ。
「ないな……。ま、帰りたくなったら……帰ってくるんじゃねえのか……? 大人なんだから……」
宇賀神は、がっくりと肩を落とした聡美に言った。
「聡美さん、帰りましょう。明美さんはここにはいない」
「そんな……」
「これ以上は、迷惑かけることはできないんです」
聡美は長い間を置いてから小さくうなずいた。
「分かりました……」
聡美は林の腕を振り払おうとした。
が、逆の林に手に力がこもる。そして、下卑た笑いを浮かべた。
「おまえ……やせっぽちだな……。こんな貧相な体じゃ……ろくに男を楽しませられねえぜ……」
「離してください! 汚らわしい!」
林がかすかに吹き出す。
「汚らわしいってか……。尼さんかよ……。セックス狂いの明美と姉妹だとは思えねえな……」聡美の体を舐め回すように見る。「あいつは細くても柔らかくて……いい体してたからな……。貧乳でもねえし……抱き甲斐があった……。姉ちゃんの方がよほど子供っぽいぜ……。その眼鏡だって……賢そうに見せるためのダテなんじゃねえのか……?」
宇賀神が命じる。
「聡美さんを離しなさい!」
林が聡美の腕を離す。そして宇賀神にウインクした。
「あんただって……明美の体で楽しんだんだろう……? 穴兄弟ってやつじゃねえか……」
「ふざけるな!」
聡美は悔しそうに唇を噛み、無言でブーツを履き直した。こみ上げる涙をこらえているようで、その手元もおぼつかない。そのせいか、メガネのレンズも曇っていた。
体をかがめてじっとしたまま、数10秒が過ぎる。
宇賀神は小さく震える聡美の背中に向かって言った。
「聡美さん。帰りましょう」
聡美はかすかにうなずいて立ち上がる。
「はい……」
彼らは無言で玄関を出て行った。
背後で林が、廊下に響き渡るように吐き捨てる。
「おい、兄弟! 二度と来るんじゃねえぞ!」
ドアが乱暴に閉められた。
2人は何も言わずに、マンションの玄関を出た。
聡美の動きはぎごちない。思い通りに林の部屋を調べられなかったことが悔しかったようだ。それとも、林の捨て台詞に傷ついていたのか……。
と、聡美は不意に宇賀神の腕を引っ張って路地へと入った。動きが急にせわしなく変わる。
宇賀神はそれまで気づかなかったが、聡美はかすかだがガクガクと小刻みに震えていた。息も切れ切れで、声も上ずっている。
腹立ちでも、苛立ちでもない。異常に興奮しているようだ。
「今、靴を履く時……玄関で……これを見つけた」
聡美は宇賀神の前に握った手を差し出し、開いた。
プラスティック製の髪留めのようなものを握っていた。グロテスクなデザインだった。真ん中にミニュチュアの血走った目玉がある。直径2センチほどだ。その両脇から、真っ黒なコウモリの羽根が生えている。髪を縛るゴムも真っ黒だ。
宇賀神は、明美のインスタグラムを見たことがある。プライベートではコスプレ好きの明美のお気に入りは、悪魔のコスチュームやゴスロリだった。
まさに、ぴったりの雰囲気だ。
「これ……まさか、明美さんの……?」
聡美の声は上ずっている。
「分からない……でも、そうかもしれない。わたしは見た覚えがないけど……だけど、女の人が出入りしているのは確かでしょう? こんな髪留め、男じゃ必要ないでしょう?」
「玄関のどこにあったんですか?」
「他の靴の陰。履き直すときにしゃがんで、目に入ったの」
宇賀神が髪留めを手にとって、調べる。
「ゴムに髪の毛も絡んでる……脱色してますね。確かに、男の毛じゃなさそうだ……。で、何で見つけた時に黙ってたんですか?」
「だって、あの人が何か隠してるなら、知られちゃまずいんじゃないかって……咄嗟にそう思ったの」
「確かにそうですけど……これが明美さんのものなら……」
聡美の顔色が一気に変わる。
「まさか、奥の部屋の監禁されてるとか⁉」
宇賀神の反応は早かった。
「いや、それはないと思います」
「どうして⁉」
「林の態度です。確かに、中を調べられるのを恐れていたように思えます。でも、人の気配は感じなかった。玄関とか乱雑だったけど、女物の靴もなかったし」
「そんなの、簡単に隠せるわ!」
「僕らが来ることを予想していなければ、無理です」
「でも、ドアを閉めた一瞬の隙に、とか――」
宇賀神は聡美の言葉を遮るように言った。
「確かにただの勘です。でも、林の反応はきわめて自然でした。明美さんの失踪については本当に何も知らないと思います。これでも職務質問のプロですからね。経験の裏付けはあります」
「でも、わたしを部屋には入らせなかった!」
「あいつが隠そうとしていたのは別の物だと思います。隅々まで調べるって脅した時だけ、妙に緊張してましたから。隠していたのは、大きなものじゃない気がします。生活安全課って言葉にも過敏に反応していたし」
「生活……って?」
「麻薬の取り締まりも扱っている部署です。半グレだし、そっちの方が怖いんでしょう。人間を監禁してるなら、そもそも簡単に警官を玄関に入れたりしないでしょう? そんなに大きな部屋でもないんだから」
さすがに宇賀神の観察眼には説得力があった。
「それはそうですけど……」
「まずは落ち着いてください。こちらが強引に入り込んだんですから、少しばかり態度がおかしいからと言って疑いをかけるわけにはいきません」
「態度がおかしいっていえば……あの男、何か変だと思いませんでしたか? 隠そうとしていたようだけど、ひどく酔っ払ってるみたいで……」
「無論、気づいていましたよ。でも、ただの酔っ払いなら、別に構わないんです。飲酒を禁じる法律はないし、今の僕だって警官のくせに二日酔いですしね。昼間っから飲んでいたって罰することはできません」
「でも、あまり酒臭くはありませんでしたよ。それに、なんだか心ここにあらずっていうか……誰か別の人のことを気にしてるみたいだっていうか……」
「そこまで感づいていましたか……。確かに、悟られないように精一杯頑張っているっていう感じでしたね。断定的なことはいえませんけど、酒に酔っていたんでなければ、麻薬をやっているかもしれません」
「麻薬ですか⁉」
「それも、覚醒剤のようなアッパー系じゃなくて、幻覚を見たり朦朧とするダウナー系。ケタミンはダウナーの方に分類されます」
「ケタミン! もしかしたら、明美に盗ませて自分で使ってるんじゃ……⁉ それとも、もっと上の人から命令されているとか!」
宇賀神はとっくにその可能性を視野に入れていたようだ。
「ないとは断言できません。売人の疑いがある男ですから、上部組織から命令を受けることもあるでしょう。でも、窃盗の素人に麻薬調達を強要するのは危険すぎます。捕まって自白すれば、組織そのものが潰されかねませんから。自分で使うのが目的なら、なんでわざわざ明美さんを使って盗ませたりするんでしょうね? 普段から身の回りに麻薬が転がっているなら、売った数を誤魔化すなり自分で金を払うなりすればいい。いずれにせよ、これだけの情報で決めつけるわけにはいきません」
聡美も幾分か落ち着きを取り戻す。
「じゃあ、本当に明美とは無関係なんでしょうか……?」
「髪留めだって、いつ落とした物か分かりませんからね。頻繁に通っていた時に落としたままになっていたのかもしれません。あの玄関、ろくに掃除もしてないみたいだったしね。ただし、だからといって関係が一切ないとも思えません。特に、盗まれたケタミンの件が重要です。明美さんが自分の意思でやったと仮定しても、彼女自身が使うためじゃないでしょう。まさか、誰かを殺したりするために盗んだとも思えないし――」
「そんな! 怖いこと言わないで!」
聡美の表情が硬直したのを見て、言い訳気味に付け加える。
「あ、ケタミンはそもそも強力な麻酔薬ですから、そんな使い道もあるらしいんです。意識を無くさせてから、窒息させるとか……。でも、明美さんがそんな犯罪を企むはずがないのは、お姉さんならご存知でしょう? だとすると、理由はやはり換金目的じゃないのかな。まとまったお金が必要だったとか、で……。麻酔薬を換金できる知り合いが林の他にいることも考えにくいし、素人が自分で売りさばくのは論外ですからね。だとすれば、今はともかく、いずれは林に連絡を取るんじゃないでしょうか」
「じゃあ、ここを見張ってればいつかは会えるってこと?」
「それも1つの可能性です。でも、確実性はない。僕は明日から出勤だから、もう手伝えないし……」
聡美の反応は早かった。
「分かりました。あとはわたしが1人でやります」
「でも――」
聡美はきっぱりと宇賀神の言葉をさえぎった。
「あの男が危険なことは知ってます。ヤクザの手先みたいなことをしているんでしょう? だからこそ、余計に放っては置けません。明美がこのままズルズル引きずり込まれたらと思うと、いてもたってもいられません」
聡美の目には、強い決意が宿っていた。
宇賀神は逆に、内心の安堵を隠しながら聡美から目をそらした。これ以上聡美に煩わされることはないと確信したのだ。
だがそれは、完全な間違いだった。
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