4・火曜日【捜索・サイドB】

 コンビニから帰った男は、カップ麺で膨らんだレジ袋を居間のテーブルに置いた。そして薄暗い寝室の引き戸を開けるなり、つぶやく。

「やっぱり臭えな……。ま、仕方ねえか。猫だって、飼ってりゃ臭うっていうしな……。しばらくは外には出ないが……次の買い物で消臭剤を買っておいてやるよ……ペット用の、な……。食事は悪魔の命令を片付けてから……用意してやる……」

 ベッドは黒い防水シートで覆われ、その上に全裸の女が横になっていた。

 女の腹から乳房にかけては、浅い切り傷が幾筋も刻まれている。出血はすでに止まっているが、傷口からは透明な体液がわずかに滲み出している。手首は鎖できつく縛られている。解こうともがいたのか、鎖の周りの皮膚は赤く擦れ、血が滲んでいる部分もある。

 その鎖にはさらに長い鎖が繋げられ、端が鉄製のベッドの支柱に結ばれていた。鎖が伸びた最大限先に、排泄用のツボが置いてある。匂いはそこから湧き上がってくるのだ。

 男は買い物に出る前から、自分の腕にごく微量のケタミンを注射して意識を浮遊させていた。麻薬を打つことに、もはや悪魔からの指示は必要なかった。これまで意識的に退けてきた麻薬への欲求が、一度摂取した途端に抑えられなくなっていたのだ。外に出かけても異常を悟られないように摂取量を控えることが、むしろ困難になりつつある。

 ただの酔っ払いに見られる程度なら誤魔化しも効く。奇異の目で見られないように、出かける前はウイスキーで口をすすいだ。だが、部屋に戻れば他人の視線を気にする必要はない。次の買い物までは好きなだけ〝酔って〟いられるのだ。こうして浮遊している感覚が、もはやたまらなく自然に思える。

 しかも悪魔の要求は陰惨だった。吐き気をこらえながら従うには、幻覚を見続けていなければ耐えられなかったのだ。

 男の精神は、すでに壊れ始めている。

 いや、むしろ溶けて滲み出し、大気中に拡散している感じだった。

 女もケタミンを注射されて、男と同じように意識が不鮮明なようだ。裸体を晒しているのに羞恥も恐怖も感じさせない。もはや、猿ぐつわを外されているのに叫ぼうともしない。

 むしろ、心地よさそうに微笑んでいるかのようだ。

 男はまるで恋人に話しかけるように、愛おしげに微笑む。

「けどよ……ベッドの上では漏らすんじゃねえぞ……。片付けるのは……俺しかいねえんだから……」

 部屋に入った男は片手でツボの取手をぶら下げて、壁に手をついてふらつきながら寝室を出て行った。中身をトイレに流して戻ると、ツボを同じ場所に戻して女をにらみつける。

「おまえ……ゲロまで吐きやがったのかよ……。ツボの中だからいいが……そこらに吐き散らすんじゃねえぞ……」

 再び寝室を出るとコンビニの袋の中身を開け、代わりにテーブルに用意してあった道具を詰め込む。その袋とカセットコンロを持って、女のベッドサイドに戻る。

 女がゆっくりと男に顔を向ける。

 男がその動きに気づいた。

「何をされるか……不安か……? なかなか……そそられるな……怯えてる女も……。俺は……Sじゃねえんだけどな……たぶん……」

 コンロをベッドサイドのテーブルに置くと、その上にレジ袋から出した小さな金網を乗せる。さらにアルミ製の大ぶりなブローチ出して、金網の上に置いた。

 ブローチは、悪魔とドクロとコウモリの羽が絡み合って一体となったようなグロテスクなレリーフだった。コンロに火をつけて弱火にして、金網の上でじっくりとブローチを焼く。

 言い訳をするようにつぶやく。

「悪く思うなよ……命令されたから……やるんだからな……こんな真似が……好きなわけじゃないんだからな……」

 そうは言ってみたものの、本当に血を見ることが嫌いなのかどうか、もはや自信が持てなくなってきている。悪魔の要求も、タガが外れた男の変化に合わせて急激に過酷さを増している。

 男は女の両手首を縛った鎖を頭の上へ引き上げて、ベッドの支柱に縛り付けた。腕を固定された女は、もう自分の体を守ることもできない。

 次にレジ袋から細いロープの束を出す。右の足首にロープを縛り、その端を思い切り引っ張ってベッドの右下の支柱に固定する。太ももを開かせて、左足首は左に固定する。女は淫部を晒したまま、膝を合わせることもできなくなっていた。

 女は抵抗はもとより、言葉を発しようとすらしなかった。焦点が合わないのか、うつろな視線をぼんやりと天井に向けているだけだ。すでに逆らっても無駄だと諦めているようにも見える。途切れることなく投与されていた微量のケタミンで、意識も定かではない様子だ。

 男が女の腕にさらにケタミンを追加する。

「これで……少しは痛みを感じなくなるだろうからな……ありがたく思えよ……おまえを苦しめたいわけじゃないんだから……」

 女は穏やかな笑みを広げる。満足げだ。ケタミンが効いているようだ。

 男はさらに袋から先が細いラジオペンチを取り出すと、焼けて一部が赤くなったブローチをつまんだ。

「なるべく……暴れるなよ……」

 男はしばらく息を整えてから、意を決したように焼けたブローチを女の腹に押し付けた。

 顔を背ける。

 ジュッというかすかな音とともに、わずかな産毛と肉が焼ける匂いが漂う。女はびくんと震えて、のけぞった。歯を噛み締めて叫び声をこらえているように見えた。

 ブローチを引き上げた男が言う。

「声も出さないのかよ……おまえ……生贄になりたいのか……? 焼印を押すと……おまえは悪魔の所有物になるんだぞ……」

 そして男は、再び別の場所をブローチで焼いた。焦げた肉から、わずかに血が滲む。男はコンロの火を消し、その上にブローチを戻した。ベッドの女に目をやる。

 縛られた全裸の女は、硬く目を瞑って浅く荒い息を繰り返していた。

 痛みに耐えているようにも見える。

 痛みを堪能しているようにも見える。

 その腹には、ドクロと悪魔の形の焦げ跡がくっきり残っている。

「おまえ……感じてるのか……? マゾなのかよ……」

 傷だらけの小ぶりな乳房がうねる。ゆったりと蠢く体がロープを強く引っ張り、ベッドがわずかにしきむ。だが、縛り付けられた体は寝返りをうつこともできない。全身からにじむ油汗が、薄暗い中でもぬらぬらと光る。

 男はその女をじっと見つめていた。

 自分でも気づかぬうちに、小さく舌なめずりする。

「そんなに悪魔のいいなりにならなくても……ちくしょう……悪魔の気持ちが分かってきやがった……エロいじゃないか……」

 唐突に悪魔のささやきが脳に響く。

『何を我慢しているのです? 犯しなさい。この女は冥府の王の所有物ですが、おまえの献身に与えられた褒美でもあります』

「俺に……?」

『王が求めるのは魂です。仮の姿である肉体などに興味はありません。どうせ、死ねば朽ちるだけの肉の塊。この女の体は、おまえが好きにしてよいのです。犯したいのなら、犯しなさい。おまえ自身を解き放ちなさい。欲望を抑える必要はありません。血まみれになって交わりなさい。おまえが神のくびきから解放されて完全な下僕となることは、これからの儀式にも必要なのです。それは冥府の王の望みでもあります』

 男の表情がわずかに歪む。まだ流血に対する嫌悪は完全には消えない。

「血まみれ……かよ……」

 悪魔は笑いをこらえているようだ。

『おまえ自身も、王の玩具なのです』

「ちくしょう……俺まで……おもちゃだってか……」

『当然です。今のあなたはどれだけ悪党であっても、ただの人間にすぎません。だから、脱皮するのです。冥府の王は、おまえが変わっていく姿を楽しまれています。いえ、試されています。血が嫌いなのは、今でもおまえに神の呪いが働いているからです。その呪いと、戦うのです。勝利を収めれば、おまえは玩具から完全なる下僕へと成長することができます。完璧な儀式を執り行う役割を果たせます。真に王をお支えする下僕となれるのです』

 男は不服そうに吐き捨てる。

「神の呪いだと……? バカ言うんじゃねえ……なんで俺が……」

『思い上がるのではありません。おまえが意識しなくとも、すべての人間には神が取り憑いているのです。悪党を気取っているおまえでさえ、例外ではありません。血を見ることにすら嫌悪感を抱いていることが、その証拠ではありませんか。現実を認めなさい』

「仕方ねえだろうが……嫌なものは嫌なんだから……。それに……体に傷をつけると……女の値段が下がるしな……」

『なるほど、手にかけた女たちを売りさばいて生活の糧にしていたということですね』

「確かに俺は……悪党……だからな……。若い女を……シャブ漬けにしろって……言われてんだよ……」

『誰から?』

「上からだ……。はぐれ者にだって……序列はあるんだ……。だが、血が嫌いなのは……本当だって……」

『女を売るのが平気なおまえが、なぜ流血を嫌うのですか? おまえのその心の弱さこそが、神の呪いです。だから冥府の王は、おまえにかけられた呪いを打ち消そうとしておられるのです。自分の弱さを認め、神と戦いなさい。それが冥府の王のご命令です。戦って下僕となり、そしていつの日か、おまえ自身が悪魔へと成長していくのです。本当の自分になるのです』

 ベッドの女はまだ、汗まみれになってもがいている。かすかなな呻き声がもれ続けている。

 男はその姿を、じっと見つめた。

 暗い部屋の中でうごめく、汗まみれの裸体――。

 排泄物と血と恐怖と歓喜が入り混じった匂い――。

 それはまさに、人間から理性も虚飾も偽善も剥ぎ取った、むき出しの動物としての生の姿だった。醜く野蛮で、それでいて自然で神々しく、野生的な本能を激しく揺さぶる衝撃だった。

「本当の自分……」

『おまえは、悪魔に成長できる逸材です。心の底で、悪魔になりたいと望んでいる〝原石〟です。選びなさい。神の欺瞞とともに朽ちるか、偽りのない悪魔とともに昇華するか。そして、望みなさい。望めば、与えられます』

「あんたが……与えてくれるのか……?」

『わたしが持っているのは小さな鍵だけです。しかし鍵を外せば、神が封じたドアが開きます。ドアの先には、真のおまえになれる世界が広がっています』

「悪魔に……なれるのか……?」

『冥府の王と共に歩む道を選ぶのなら、手助けをしましょう。それこそがわたしの役目です。しかし、悪魔になれるかどうかは、おまえが――おまえ自身の望みの強さが決めることです』

 男の脳裏に、これまで辿ってきた苦難の生き様が蘇る。まるで、死の直前に現れるといわれる〝走馬灯〟のように。そして、わずかな涙が滲む――。

「ホント、クソみてえだよな……。ふん……こんな人生、惜しくもねえ……。分かった。選ぶよ……俺は悪魔になる……。なれるものなら、必ずなってやる……。悪魔になって……これまでのクソみたいな人生を……笑い飛ばしてやる……」

『選びましたね。ならば命じます。その女を犯しなさい』

 男の中で鍵が回され、ドアが動き始める。最後の抑制が弾け飛んだ。笑みが広がる。

「だよな……悪魔の命令だものな……逆らえるはずねえよな……。俺はもう、こんなことまでしてるし……とっくに悪魔みたいなもんだしな……。逆らう理由なんて……もう……ないよな……」

 男はゆっくりと服を脱ぎ始めた。その目はベッドでもがく女に吸い寄せられ、離れようとしない。

 頭の中に悪魔の声が響き渡る。

『そうです、自由になりなさい。悪魔を求めなさい』

 男が女を見つめたままつぶやく。

「ああ……そうさせてもらうよ……」

 そして男は、体液が滲む焦げ跡に指を触れる。と、そのすぐ下に小さなアザがあったことに気づく。小指の先程の、魚の形のような、生まれつきのアザだ。

 なぜか、不意に親しみを感じた。どんな人間の体にも普通に存在するホクロやアザは、個性の証でもある。この世に生きる唯一無二の存在であると主張する、アイデンティティーの形だ。

 アザに指を這わせる。男の指が止まり、顔が曇った。

 開きかけたドアが、急に重くなる。

 この女が、玩具?

 いや、人間だ。生きた、人間だ――。

 人間って、なんだ――? 

 悪魔って、なんだ――? 

 俺は……なんだ――?

 わずかな逡巡を、悪魔が断ち切った。

『求めなさい』 

 我に返った男は、再び薄笑いを浮かべた。

「分かってるさ!」

 そして、女を犯した。

 何度も、何度も、時が過ぎるのも気づかぬままに……。

 悪魔が言う。

『もっとです……もっと壊すのです……冥府の王の欲望を満たすために……』男の頭の中では、女悪魔の声はいつの間にか男の声に変換され始めていた。〝冥府の王〟からの直々の命令だ。『もっとだ……もっとだ……生贄を壊せ……この世を壊せ……私を満たせ……もっとだ……もっとだ……』

 犯しながら、男がつぶやく。

「もっとだ……明美……もっともっと犯してやる……」

 何度も、何度も、つぶやいた。悪魔の前で一瞬の躊躇いを見せた自分を、叱責するように……。

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