5・水曜日【拘束・サイドA】
宇賀神は一刻も早く日常を取り戻したかった。
非番の1日を潰して、言葉通りに聡美の手伝いは終えた。これ以上の援助はできないと、最初から明言している。聡美も期待はしていないだろう。
かつて明美と関係はあったとはいえ、とっくに忘れ去っていた相手だ。しかも明美が麻薬の盗難という重罪にまで絡んでいるとすれば、まずは巻き込まれないことを考えるのが当然だ。身を守ることが最優先なのだ。
警官という職業は、軽犯罪に抵触しただけでも重い処分を食らうことがある。マスコミやバラエティ番組が喰いつきそうな特殊な事件なら、なおのこと危険だ。
現職警官が半グレから女を略奪し、しかもその女が麻薬盗難犯だとなれば、注目度は抜群だ。公になれば、問題は一所轄や道警レベルでは済まないかもしれない。斜陽が囁かれている全国紙や週刊誌、テレビネットワークで大々的に報道される恐れすらある。
彼らは、スキャンダルで食い繋いでいるのだ。スキャンダルにならないようなら、燃料を注いで燃え上がらせるのが常套手段でもある。過去のほんの一時期、宇賀神の素行が不良だったことまで暴かれれば、それこそ願ってもない〝視聴率の生贄〟が誕生する。
ましてや暇な主婦を相手にする昼のテレビのバラエティショーなら、分かりやすいネタに飢えているはずだ。不祥事を起こしたのが権力の代表である警察なら、なおのこと盛り上がる。ややこしい経済談議や政局話より、面白おかしい〝実話〟の方が視聴率が稼げることは分かりきっている。関係者の家族の取材やら、再現ドラマやらが氾濫して昼の時間帯が埋まるかもしれない。
そうでなくとも、不用意なツイッターのつぶやきが大炎上することがある。関係者の1人が面白半分に情報を漏らしただけで、道警が袋叩きにされることもある。特に被害者である動物病院側が警察の対応に不満を抱けば、炎上させるのが目的の情報漏洩さえ危惧しなければならない。笑い飛ばせるはずの突飛な妄想が、悪夢に変わる。
万が一にもそのような事態になれば、道警からは数人のノンキャリが責任を取らされるだろう。被害が署長クラスのキャリアに及んでもおかしくはない。真っ先に、そして確実に叩き落されるのは、宇賀神の首だ。
安全で安定した職業を得られてようやく落ち着いた宇賀神にとって、明美が起こした盗難事件は人生設計を根幹から揺るがすアクシデントになり得る。消してしまいたい過去から逃げ出そうともがき続けて、やっとの思いで掴み取ったスタート地点を失うわけにはいかない。〝堅実で安定した職業〟は、宇賀神が渇望して止まなかったものなのだ。
警察官はそつなく仕事をこなしてさえいけば、取り立てて手柄は立てずとも老後までの安定が約束される。それでこその公務員だ。正義だの社会貢献だのという美辞麗句に憧れて警官を目指したわけではない。凶悪犯と対峙するような危険にも晒されかねない刑事を目指したことは、なおさらない。出世などとは無縁でよかったのだ。
ただ、過去を断ち切りたかっただけだ。
そして、断ち切ったつもりでいた。
どんなに平凡で退屈でも、今の生活に満足していた。これまで見ることもなかったアニメでダラダラと非番を潰し、学生時代は考えもしなかったプラモデル作りに熱中する。そんな〝つまらない〟人生こそが、宇賀神にとっては心穏やかにまどろんでいられる安住の地だった。
家庭の事情も相待って、高校までは学業は振るわなかった。当然、大学もギリギリの成績でやっと卒業している。労力を割いたのは、主にアルバイトだった。そうしなければ、忌むべき〝家族〟と縁を切ることができなかったからだ。
マイナスからの出発というハンデを乗り越えて人並みの人生を得る方法は、それほど多くはない。幸い宇賀神が大学を卒業する頃には景気も一応回復して、就職氷河期などという単語は死語になっていた。地方の中小企業なら就職先はいくつもあった。選びさえしなければ、就ける職業は数多く準備されていた。
だが、そのような場所では、確実な安定は望めない。手が届きそうな弱小企業の多くは、景気の波に揉まれて浮沈を強いられる。昨日まで安泰だと目されていた日本を代表する大企業でさえ、業績不振や粉飾決算で市場から消え去る厳しい時代だ。現に世界を混沌の渦に巻き込んだパンデミックは、無数の企業を微塵に砕いた。宇賀神程度のスペックで堅実な民間企業に職を得ることは、まず不可能だった。
公務員が宇賀神が狙いを定める職業となるのは必然だった。
体力にだけはそこそこ自信があった。長期休暇中には、工事現場などの〝ガテン系〟も厭わなかった。バイト代の手取りの多さだけを基準に選んできた結果だ。身長も低く一見貧弱そうな体つきだが、柔軟な筋肉は〝質〟が良く、意外なほどのパワーを出せたのだ。職場での上下関係や気性が荒い上司との付き合いもそつなくこなすコミュニケーション能力も身につけた。現代ではそれは、逆に最も高く評価されるスキルでもある。
そんな宇賀神にとっては、警察が最も門戸が広かったのだ。でなければ、同学年からは敬遠されがちだった警察官などいう職業は選ばなかっただろう。それでも人生のスタートであり、約束されたゴールとしては申し分ない。社会的にも尊敬される職業だ。
底辺ばかりをさまよっていた自分にとっては、出来すぎだとさえ思えた。だからこそ、ようやくたどり着いた安住の地を脅かしかねない〝不安定要素〟は看過できない。明美との接点は可能な限り隠しておきたかった。深入りするなどというのは、論外だ。
やるべきことは決まっている。
あの姉妹とはもう一切の関わりは持たない。たとえ聡美が再び接触してきても、決然と拒否する。万が一、動物病院の麻薬盗難が署内で問題化した時には、積極的に上司に情報を上げる。盗難事件との関連を疑われることだけは、絶対に避けなければならない。
必要なら、聡美や明美の個人情報を明かしても構わない。聡美を裏切ろうが、明美が何らかの危険に晒されようが、守らなければならないのは自分自身の将来なのだ。
だがそれは、危機を察知した時の最後の回避手段でもある。
まずはシフト通りの交番勤務に戻る。多忙で面倒な職務を、何事もなかったかのように大過なく進める。おそらくは、そうしているうちに明美は聡美の元に戻るだろう。
そもそも宇賀神は、明美が盗みを働ける女だとは思っていなかった。麻薬が消えたのは何かの勘違いか、たとえ盗難でも別の犯人によるものだと考えていた。麻薬盗難さえ関係なければ、明美が3、4日連絡を絶ったからといって〝事件〟だとは限らない。明美さえ帰れば聡美も落ち着き、全ては過去のものになる。2人の存在は自分の前から消える。
ありふれた毎日を取り戻せるのだ――。
宇賀神は心からそう願っていた。
一本の電話が、その期待を打ち砕いた。
出勤準備をする宇賀神の胸ポケットで、スマホが着信を知らせた。出たのは、署長だった。
『宇賀神君、少々面倒な事態が起きた。後ほど君の自宅に部下を向かわせて詳しく説明するが、今日は出勤しないで自宅で待機していたまえ』
全身の血が一気に下がるような恐怖を感じた。
「は? 何か事件がありましたか……?」
とは言ってみたものの、自分が関係する〝事件〟は明美の失踪以外に思い当たらない。
危機は、すでに宇賀神の前に立ちはだかっていたようだ。
非番の日に勝手に捜査まがいのことをしたのがバレたのか、聡美がさらに騒ぎを起こしたのか、あるいは明美の窃盗が明るみに出て自分に結びついたのか――。
様々な可能性が一瞬で頭に中を駆け巡る。
署長の声には、かすかな苛立ちと怒りがにじんでいた。
『詳しい説明は後だ。とりあえず、君には15日間の自宅謹慎を命じる。事態が収拾すれば期間は縮まるし、処分等も行われないだろう。交番所長がそっちに行くまでは、絶対に家を出ないように。分かったか?』
「はい、署長……ですが、どうして私が……?」
『だからそれを、後ほど説明する。私は君には問題はないと信じている。だが、くれぐれも市民の誤解を招くような軽はずみな行動を取らないよう、気をつけてくれ給え。特にマスコミ関係者とは絶対に接触しないように』
そして電話はいきなり切れた。
宇賀神はつぶやいた。
「軽はずみって……なんか、もうやらかしちゃったみたいだな……」
署内で何が問題になっているのか知りたかった。
とはいえ、まだ出勤時間前だから気心が知れた仲間は通勤途中だろう。〝事件〟が昨夜起こったとするなら、まだ誰も情報には触れていないはずだ。
末端の交番にまで噂が流れているとも思えなかったが、とりあえず勤務中の同僚に聞いてみることにした。
スマホで2つ年上の巡査長の個人番号に電話をする。
「あ、宇賀神です。丹羽先輩、お疲れ様――」
先を続ける前に怒声が返った。
『翔! おまえ、何やらかした⁉ 謹慎だと⁉』
すでに情報が広まっている。予想以上の〝大事件〟のようだ。
「ええ、俺も今、署長から聞いたばっかりなんっす。相馬所長をよこして説明させるって言ってましたけど、なんだろう、俺も成り行きが分かんないんっすよね」
『なんだ、それ……心当たりはないのか?』
まだ明美の件を話すのは早いと思えた。
「ええ、一応……」
『女じゃないのか? ヤバい商売女にでも引っかかってトラブったとか』
「俺、そんなにガキじゃないっすよ。先輩、何か聞いてませんか?」
『おまえのことか? なんで俺がおまえより知ってなきゃならないんだよ』
「じゃなくて、署でなんか騒ぎが持ち上がってないか、です。いきなり謹慎とか言われたんで、何かの事件に関係してるとか疑われてるんじゃないかって……」
丹羽の声が真剣に変わる。
『ヤバいこと、やってんのか?』
「だから、丹羽先輩ほどガキじゃないですって」
『おい、先輩をガキ扱いかよ』
「だって、非番はパチンコ入り浸りじゃないですか」
『そりゃあそうだが……』
「いろいろ、怪しい誘いはあるんでしょう?」
『ま、女もいないからな。なんだよ、疑ってんのか?』
「そんなことはないですけど。ただ俺らって、ヤクザや半グレとかともしょっちゅう顔を合わせてるし、宅配倉庫の中国人たちの揉め事にも絡むことあるし、夜の姉さんたちだって知り合いが多いじゃないですか。知らないところで誰かが事件を起こしてたら、幇助したとか疑われることだってあるっしょ。空港があるから外国人だって多いし。そんなんで、なんかトラブルがあったのかなって……」
『まあ、そう言われればそうだよな。組とつながってこっそり処分された連中も実際に何人かいるしな。俺も危険と隣り合わせだってことかよ……』
「で、昨日署でなんか事件がありました?」
『あ、あれか。そういやあ、あったね』
宇賀神がスマホを握る手に力がこもる。
「なんです?」
『どっかの病院から麻薬が消えた、とかだ。容疑者のお姉さんらしい女が署に乗り込んでひとしきり騒いでいったらしい。容疑者の手配署も回ってきてるぞ』
宇賀神は思わず息を呑んだ。
やはり、聡美が原因だったのだ。
宇賀神が関わりを断つと決めても、向こうから追いかけてくる。しかも明美は、すでに〝容疑者〟だ。
それが原因で宇賀神の謹慎が決まったのなら、明美との過去が知られていることになる。
聡美が喋った可能性もある。
『翔……どうした? おまえなんか知ってるのか? 関わってるのか?』
宇賀神はハッと我に返った。
「先輩、すんません。またかけ直します。署に戻ったら、詳しい事情を聞いといてくれませんか?」
『まあ、事件化しているんだから嫌でも情報が回って来るけどな』と、いきなり深刻な口調になる。『これから所長が来るんだろう? 悪いことは言わない。ヤバいことに関わってるなら全部正直に話せ。些細なことでも隠し事はするな。それに、くれぐれも勝手に動くんじゃないぞ。組織ってやつは、コントロールから外れた人間を嫌う。はみ出したやつはあっという間に切られていく。キャリアさんたちは、何より経歴に傷がつくのを嫌がるからな』
宇賀神は思わず聞き返していた。
「先輩も経験があるんですか?」
丹羽がいつもの明るい口調に戻る。
『それこそ大昔の話だよ。それに、大したことじゃない。御察しの通り、パチンコがらみの古傷だ。奴ら、こっちが弱みを見せたらここぞとばかりに取り込もうとするからな。うっかり気を許すと、足元をすくわれる――おっと、あんまり話すわけにはいかないな。今だって真っ白な人間ばっかりじゃないんだから。じゃあ、こっちで調べられることは調べておくから。繰り返すが、謹慎中は絶対に家で大人しくしてろよ』
そう言って丹羽の方から電話を切った。
だが、ただ大人しくしているわけにはいかなかった。聡美から教えられた番号に電話をかける。
聡美はすぐに出た。
『宇賀神さん! ごめんなさい、わたし、あなたのこと話すなって言われてたのに……』
丹羽から聞いた情報に間違いはないようだ。
「署で喋っちゃったんですね?」
『なかなか明美を探すって言ってくれなかったもので、つい……そしたら、急に向こうの態度が変わって、偉い人が出てきて……』
宇賀神には、それだけでおおよその成り行きがつかめた。
聡美は宇賀神と別れてから、明美の捜索を急かすべく再び署を訪れた。だが担当者は、『大人が数日家を空けただけでは特別扱いできない』と繰り返す。苛立った聡美は、交番勤務の宇賀神翔も一緒に調べて林大輝を疑っている、とか口走ったのだろう。その間に、動物病院から麻薬盗難の届けが入り、容疑者として明美の名前が挙がった。
そして誰かが2人が同一人物だと気付いたのだ。
こうなると事件だ。しかも容疑者は、警官の元カノだ。事件のスキャンダル化を恐れて、あらかじめ警官に謹慎を言い渡すのももっともな話だ。
もはや宇賀神は、関わりを断てる場所にはいなかった。確認しないわけにはいかない。
「で、過去に僕が明美さんと付き合っていたことがあると話したんですね」
『ごめんなさい! 仕方なかったんです。あの髪留め、あんな証拠があるのに何も話を聞いてくれなかったから。あなたと一緒に林の家に行ったと言うしかなかったんです。なのに急に向こうの態度が変わって……』
宇賀神はとっさに、隠し事はしないほうがいいだろうと判断した。
「それ、たぶん病院から盗難届けが出たんです」
『え? じゃあ、明美が盗んだってことになっちゃったんですか⁉』
「まだ分かりません。でも、容疑者の1人には数えられてます。交番にまで手配署が回っていますから。でも逆にいえば、それで警察は本気で明美さんを探します。きっとすぐに居場所は分かるでしょう」
『だけど、 それじゃあ犯人ってことに……』
「それはもう避けられません。捕まった時は麻薬盗難の実行犯という前提で厳しく取り調べを受けます」
『そんな……だって、明美が事件に巻き込まれて危険な目に遭っているかもしれないのに……』
「警察は彼女自身が事件を起こしたと判断していますよ。それでも、身柄を拘束できれば危険はなくなります。僕自身は、明美さんがそんなことをする人だとは思っていません。何かの間違いなら、ちゃんと証明できますって」
『そうならいいんですけど……』
「あなたも明美さんを疑っているんですか?」
『そんな……でも、林に命令されて、とか……』
「ありえない話ではないですけどね。今も明美さんが林とそんな関係にあるんだとしたら、今度こそ確実に別れられるでしょう。当然処罰は受けますが、早いうちにけじめをつけておかないと近い将来もっと大きな危険に見舞われる恐れが大きい。一度犯罪に手を染めると、ズルズル深みにはまっていくのが普通ですからね。半グレ相手ってことは、いつかは暴力団に取り込まれるってことなんです。若い女だったらシャブ漬けとかにされて、最後には風俗に沈められるのがお決まりのパターンです。明美さんのためには、今処罰された方がきっと安全ですから」
『ですけど……』
宇賀神はここできっぱり釘を刺しておくべきだと決断した。
「申し訳ない。ここまで問題が大きくなったら、僕にはもう何もできません。上司の話次第ですが、これ以上は手助けすることは許されないと思います。もう関わるなと命令されれば、僕は従います。あくまでも警察組織の一員ですから。結局は、公務員に過ぎないんですよ……」
『そんな……』
「ここから先は、すべて警察に任せてください。そのための組織なんですから。ところで、あのグロテスクな髪留め、警察に渡したんですか?」
聡美は宇賀神の語気の強さにたじろいでいたようだ。自信なさげにつぶやく。
『見せはしました……。でも受け取ってもらえませんでした。どっちみち、証拠能力はないって……』
宇賀神は驚きもしない。
「でしょうね。正当な捜査で得たものではないし、もはや林の家にあったと証明することもできないですしね」
聡美の声のトーンが急に上がる。
『だって、一緒に見つけたじゃありませんか!』
「もう僕の証言だけでは無意味なんです。僕自身が麻薬盗難への関与が疑われているかもしれないんで。そもそも、昨日は非番だったから捜査自体が違法だし、証言したところでまともに扱ってもらえるとは思えません。裁判で不当捜査だなんて非難を浴びたら、警察の威信に関わります」
『まさか……あなたが言うことまで警察に信じてもらえないなんて……』
「実際、違法な捜査に手を貸しましたからね。それがバレて、さっき謹慎を言い渡されました」
『え? 謹慎、ですか……? それって……わたしのせい、ですよね……』
「まあ、そうなります」
『申し訳ありません……』
その件を非難しても得るものは何もない。今できるのは、事件が拡大しないように打てる手を尽くしておくことだ。
「謝られても、もうどうにもできません。僕自身が危険を承知でお手伝いを決めたんですから、責めるつもりもありません。で、髪留めは持ち帰ったんですか?」
『今、手元にありますけど』
「もう遅いかもしれないけど、なるべく素手では触らないで。厚手のビニール袋か何かに入れて、後で僕のアパートに持ってきてください」
『まだ助けていただけるんですか⁉』
「正直言って、分かりません。謹慎の理由さえまだ正確には聞いていませんから。ただ、証拠があるなら手元に置いておきたいんです。何かの役に立つかもしれませんから」
嘘だった。
聡美があの髪留めを持って余計な騒ぎを起こすことを恐れたのだ。1人で林の部屋に怒鳴り込みでもすれば、混乱が拡大しかねない。新聞社にでも通報して騒がれたら、それこそ懲戒免職へのフリーフォールだ。
だが聡美は、嬉しそうに答えた。
『いつ行けばいいですか?』
「僕の方から連絡します。これから上司が来ますので、鉢合わせするのはまずい。あ、それから、まだ髪の毛が絡んだままですか?」
『それはそのままにしてあります』
「よかった」
『どうするんですか?』
「まだ分かりません。署の話をよく聞いてから今後のことを決めたいと思っています」
聡美が念を押す。
『手伝っていただけるんですよね?』
宇賀神は苛立ちをむき出しにした。
「ですから、分かりませんって! 本心を言えば、もう一切関わりたくないんです! それなのに、問題が僕自身のことになってしまいました。無実を証明するには、とにかく明美さんに出て来てもらわなくちゃならない。だから手伝うことになるかもしれません。もしかしたら、DNA型鑑定をする必要もあるかもしれません。まだ何も決められない状態なんです!」
『すみません……こんなお願いばかりして……』
宇賀神は興奮を抑えるために深呼吸をした。ゆっくりと、言う。
「今、自宅ですか?」
『はい、そうです。どうしたものかと悩んでいるうちに、ついうっかり眠ってしまって……』
「疲れてるんですよ……。あまり眠っていないんでしょう?」
『はい……』
「まずは休んでください。頭がはっきりしていないと、この先面倒になるかもしれないので」宇賀神が心配していたのは、混乱した聡美が捜査を乱すような騒ぎを起こさないかの一点だった。「それと、もうひとつお願いです。はっきり明美さんのものだとわかる個人的な品物を何点か一緒に持って来てください。歯ブラシとか、クシだとか。髪留めが明美さんのものだと証明しておきたいので。どうなるか分からないので、準備だけは万全にしておかないと」
電話を切った宇賀神は、座り込んで床を見つめた。
まるで、悪夢だ。平穏だった日常に唐突に聡美が現れ、事態が収束するどころかますます困難になっていく。聡美が自分を追いかけてくる疫病神のように思える。いや、聡美は妹の身を案じているに過ぎない。悪夢の根源は、明美だ。
不意に、悪魔のコスプレをした明美の姿が思い出される。心から楽しそうだった表情が、まるで悪魔の微笑みのように蘇る。そして、背筋に寒気が走り抜けた。明美の姿を借りた悪魔の企みに絡め取られてしまったかのような不安に襲われたのだ。
「バカな……」
声に出して否定しても、不安は去らない。
だが、このまま放置するわけにもいかない。DNA型鑑定については、本当に必要になるかもしれないと考えていた。少なくとも、準備だけはしておくべきだ。
実行するかどうかは、交番所長との話次第だ。自分を守るためならどんな情報でも提供する。その決意は揺るがない。だからこそ、カードの1つとして明美のDNAを手元に置いておきたかったのだ。それがあれば、麻薬盗難の捜査も円滑に進むはずだからだ。
行手を塞ぐ壁を避けられないのなら、それを壊す方法を探さなくてはならない。
✳︎
署から上司が来たのは意外にもおよそ10時間後、午後5時近くになってからだった。
待ちくたびれていた宇賀神は、直接の上司にあたる交番所長の相馬警部補を居間に上げて紅茶を出した。
「相馬所長、もっと早く来てくれるものだと待ってました」
普段は高圧的ともいえる所長の口調は、意外にも穏やかだった。対応がひどく遅れたことを済まなく思っているようだ。
「遅くなったからあれこれ心配したろう? 悪かった。色々調べなくちゃならないことがあったんでね」
「調べるって?」
「本来は謹慎中の署員に話すことじゃないが……私は宇賀神君を信頼している」
そして相馬は、これまでの経緯を語った。それは概ね、宇賀神が予想した事態と同じだった。
署も、明美の行方を真剣に追い始めている。
宇賀神が言った。
「大浜聡美さんが署で話したことは、ほとんど真実です。非番中に捜査まがいのことをするのは間違いだと分かっていましたが、明美さんとは個人的な知り合いでしたから、つい出過ぎた真似を……」
相馬も納得しているようだった。
「一時は結婚も考えていたんだってね。気持ちは分かる。だから謹慎は、あくまでも万一の時に言い訳になるように手を打っておいただけだ。分かってはいるだろうが、マスコミ対策の予防線だよ。だから、記者とかマスコミが訪ねてきても絶対に出るな。相手をしてはいかん」
それが署の本音だ。問題が拡大しないように、宇賀神とマスコミが接触する可能性を完全に封じておきたいのだ。
宇賀神はとっくに覚悟している。
「で、署長は何か言っていましたか?」
「署長だって本気で君を責めてるわけじゃない。運が悪かっただけだ。そもそも、問題の女ともとっくに別れているんだからね……。で、本題だが、大浜さんの証言を改めて検討して、林大輝の捜査が決まった。林はそもそも末端の麻薬密売人として泳がされていた男だから、この際一気にガサ入れしようということになったんだ」
宇賀神は身を乗り出した。
「ガサ! いつ入るんですか⁉」
「もう終わったよ。さっき結果の連絡が入ったばかりだ」
宇賀神にとってはまぎれもない衝撃だった。
「え? もうそこまでやったんですか⁉」
「ああ」
「令状を取って⁉」
「いや、任意だ。だが、生安の薬物担当も出向いた」
薬物事犯を念頭に置いて生活安全課までが捜査したとなると、署は相当の覚悟を決めている。明美の行方を捜すことを口実に、麻薬密売ルートの内定を一気に進めようと目論んだのだろう。
「林が了解したんですか?」
「本人は立ち会わなかった。君から教えられた電話番号で連絡を取ったが、勝手に調べて構わないという承諾を取った。札幌にいて急には戻れないということでね。家の中の物はあまりいじくるなと念を押されたが、ドアの鍵は教えられた通りの場所に隠してあったそうだ」
「そんな……で、何か出ましたか⁉」
「何も。だから困っているんだ。もちろん、大浜明美さん本人はもとより、彼女がいたという物証もない。それどころか、ヤクもチャカもない。金属バットやチェーンなんかの半グレらしい武器すら出てこなかった。奴は札幌の組からヤクを供給されているはずなんだが、関係を示すものはあらかじめどこかに隠していたようだ」
「ガサ入れには抵抗しなかったんですか?」
「それどころか、電話の感じではニヤニヤしながら話していたみたいだったという。『警察の要請ですから信用してますよ』とかうそぶいていたらしい。立会人として市役所から職員を派遣してもらった。通話の内容も捜索中の映像も、証拠物件として記録してある。おまえが署に戻ったら見せてやる。こっちとしては本人が家にいて抵抗するようならしめたもので、緊急に令状を取って徹底的に調べる段取りはつけていたんだがな。おまえが勝手な捜査をしたんで、あらかじめヤバイもんは部屋から出しておいたんだろう。だから安心して捜索を認めやがった」
宇賀神としては、予想外の大失態だ。
「申し訳ありません……」
相馬は宇賀神を責めはしなかったが、内心で部下の先走りを非難していることは隠しきれない。
「おかげで、明美さんの手がかりも何もつかめず、だ。まあ、あくまでも任意で、名目は行方不明者の捜索だからな。部屋の中は目視でくまなく探したが、こっちもそれ以上の家探しはできない。違法な物が何一つなければ、家中ひっくり返してってわけにはいかない。化学薬品を使って薬物の痕跡を探すことまでは無理だった。生安は、これで密売ルートを潰すのが何年か遅れるとがっくりきていた」
相馬はさらに詳しい捜査経過を宇賀神に伝えてから、『くれぐれも何もするな』と念を押して帰った。
30分後、電話で呼ばれた聡美が宇賀神の部屋に飛び込んだ。息を荒くしている。相馬の話は予め伝えてあった。
出された紅茶を飲む間も惜しんで、聡美がまくし立てた。
「明美のパソコンのパスワードがやっと分かって、通販履歴を見たんです。そしたらこの髪留め、1ヶ月ぐらい前に注文してました。まだあなたとお付き合いしている頃です。だから、明美が林の部屋に行ったのはほんの最近のことなんです。これ、昔出入りしていた頃に落としたものじゃありません!」テーブルの上には、ジップロックに入った髪留めが置いてある。その横には、まだ未開封の同じ髪留めがあった。2個セットで、納品伝票まで添えられている。「DNA鑑定、是非お願いします!」
だが宇賀神は、勝手な行動を止められている。これ以上関わるつもりもない。
問題は、どうやって聡美を納得させ、黙らせるかだ。
「でも、通販で買えるものならこれが明美さんのものだとは限らないし……」
だが、聡美は宇賀神の困惑をあえて無視したようだった。
「それに、怖いことがあるんです……」
宇賀神も真剣にならざるを得ない。新たな事実が現れたのなら、それが自分とどう関わるのかを知らなくてはならない。
「怖いこと、ですか?」
「パソコンの中のメモなんですけど……『わたしは悪魔の儀式に加わらなくちゃいけない』って書いてあったんです……」
「悪魔の儀式?」
「はい」そして、宇賀神の顔色を伺う。「そんなの、馬鹿馬鹿しいですよね……明美はそんなアニメばっかり見ていたんだし……でも、なんだか、お遊びだなんて思えなくて……」
聡美を笑うことは簡単だ。だが、妹の安否を気遣って神経を弱らせている姉の心をへし折れば、説得も誘導もできなくなる。
「儀式って、どんなことなのか書いてありましたか?」
聡美の表情がわずかに明るくなる。
「信じてもらえるの⁉」
「悪魔を信じるわけじゃありません。でも、明美さんがそんな妄想に囚われる可能性は否定できない。もしも彼女が本気で悪魔を信じているなら、馬鹿げた行動を取ることもあり得ます。で、何か具体的なことは書いてありましたか?」
「いいえ……ファイルは探しては見たんですけど、他には明美が書いたものは全然見つかりませんでした。あの子、手書きで日記を書く方が好きみたいなんで。そのメモだけがデスクトップにポツンと置いてあったんです。でも……なんだか、わたしに宛てた〝遺書〟みたいな気がして……」
「姉の直感、ですか? そういうの、あってもおかしくないとは思います。でも、感覚だけで遺書だと決めつけるわけにもいきません。しかも遺書なら、明美さんは自分の意思で姿を消したことになる。麻薬の盗難も含めて、です」
「ですよね……」
「それでも、探し続けますか?」
「というと……?」
「明美さんの行動が分かったとしても、それがあなたを傷つけることになるかもしれません」
聡美の返事にためらいはない。
「はい。覚悟はしています」すでに考え尽くしていたようだ。そしてセカンドバッグからやや大きめのジップロックに入ったクシと歯ブラシを出す。「これ、明美のものです」
「ありがとうございます……」
だが宇賀神は、それを手に取ろうともしない。それどころか、聡美の目さえ見ない。新たな情報を加え、対処法を考えなければならなかったのだ。
聡美は、気が抜けたような宇賀神の生返事に苛立つ。
「あなたが欲しいっていうから持ってきたのに! 髪留めだって、こんな変な趣味の人、そんなにたくさんいると思いますか⁉ だから調べてくださいってお願いしてるんじゃないですか!」
宇賀神はぼんやりと聡美を見返した。ため息が漏れる。
「ですから、鑑定できるとは限らなくて……あくまでも念のために持って来てもらっただけです。僕、さっきも上から『絶対に動くな』って釘を刺されちゃったんで……」
「でも鑑定すれば、明美が最近林の部屋に行ったことがはっきりするじゃありませんか! まだ完全に別れていないって証明できるじゃないですか! そうしたら、わたしがもう一度警察と話をしてみますから!」
宇賀神はやはり乗り気ではない様子を隠さない。
「あんまり無理を言わないでください。DNA型鑑定ってかなりの設備が揃ってないと、短時間で正確にってわけにはいかないんです。個人で簡単に手が出せるもんじゃありません。だいたい、警察が林の部屋の中まで入って誰もいないことを確認してるんです。これ以上、奴に関わっても無駄ですって――」
聡美は引き下がる様子を見せない。
「もし別の場所にいたら? 例えば、あの男にどこかに監禁されてるとかしたらどうするんですか⁉」
「とんでもない飛躍だな」
聡美は叫んだ。
「だってまだ連絡が取れないんです! 胸騒ぎがして仕方ないんです! 生きているかどうかも分からない!」
「そりゃ心配でしょうけど……まさか、死んでるとか監禁だとか……」
「どうしてそんなことがないって言えるんですか⁉ 何も連絡がないのに! ヤクザみたいな男が関係してるのに!」
「それはそうですが……。仮にそんなことがあったとしても、今の僕にはどうにもできないし……」
「だからDNAを調べて、林の部屋に明美がいたことを証明してください! もう一度あいつを問い詰めてください!」
宇賀神は、食い下がる聡美にうんざりしていた。
「捜査が空振りに終わったのに、すぐにもう一度なんてできませんよ。向こうは警察が来ることを予期していたようだというし、裁判沙汰にでもされたら警察の汚点になります。上が認めるわけがありません。プロが調べて違法な薬物が見つからなかったんだから、何もないって証明されているんです。明美さんはきっと別の場所にいます。林にこだわってばかりいると、本当に彼女を探し出すチャンスを失うかもしれませんよ」
「でも、わたし、感じるんです。きっとあの男です。あの男が明美の自由を奪っているんです」
「しつこいな! 警察が調べても何も出なかったんですって!」
「だって、こんなにはっきりした証拠があるのに! この髪留めは、まだ調べていないじゃないですか!」
「もう無理なんですって!」
「どうして⁉ 明美が心配じゃないんですか⁉ 一度は付き合ってくれていたのに!」
「だから困ってるんです! 僕を追い詰めないでください!」
「どういうことですか⁉ 明美の行方が知れないのに、追い詰めるなって……危険なのは、あっちゃんなのに……」
宇賀神は、迷った。
このまま聡美と行動を共にしていれば、また所長の指示を破ることになる。もう、寛大な処置など期待できない。最悪、職を失う。
妹の失踪を心配する姉の気持ちを傷つけるのは本意ではない。だからといって、自分の人生を狂わせる危険を冒す気はさらさらない。
迷ったまま、つぶやく。
「明美はね……あなたのことが大好きみたいでした。いつもあなたのことばかり話していましたよ……本当に、いつもいつも……」
聡美は意外そうに宇賀神を見つめた。
「話って……どんなことを?」
「ご両親が亡くなってから10年間、あなたが慣れない客商売でどれほど身を粉にして働いてきたか……大学進学や自分のやりたいことを諦めて、どんなに自分を愛してくれたか……お芝居が好きで演劇部の先輩とまた一緒にできると楽しみにしていたのに、それ以来大学のことは一言も言わなくなった、とかね……。あなたのことを話す口ぶりは、まるで父親か恋人のことを話しているみたいでした。心から信頼しているというか、頼りきっているというか……」
聡美はじっと宇賀神を見つめたまま、不意に涙をにじませた。わずかにメガネが曇る。
「そう……あの子……そんなことを話したんですか……」
だが宇賀神の目はなぜか冷たい。
冷静に聡美を見返す視線の中に、決意がにじんだ。
「だから僕は、明美さんと別れる決心をしたんです」
聡美の穏やかな笑顔が凍りつく。
「はい……? どういうことですか?」
宇賀神は聡美から目をそらした。
「明美さんが話すのは、アニメやコスプレのことの他には、あなたのことしかなかったんです。社会人なんだから、仕事とのこととか、ニュースのこととか……馬鹿馬鹿しいお笑いのことだって構わない、話題はいくらでもあるじゃないですか。それでも話すのは、苦労してきたお姉さんのことばかりでした。他のことにはまるで関心がなかったみたいなんです」
聡美が首をかしげる。
「それが何か……?」
「テレビで動物番組を見ても、大した興味を示さない。だって、好きで動物病院に勤めているんでしょう? 毎日犬や猫に接しているんでしょう? あんなことがあったこんなことがあったとか、可愛いくて仕方ないとか、本心では動物が大嫌いなんだって言ったって構いませんよ……何かしら反応があるのが普通じゃないですか。彼女、何もないんです。空っぽなんです。僕の仕事や将来のことにも、無関心でした。自分の方から、結婚して欲しいと言っておきながら……。変なんですよ。まるで彼女の世界にはコスプレとお姉さんしかないような感じでした。それが、怖かったんです」
「怖い……?」
「明美さんは美人だし、仕草だって可愛いし、2人でいるところを誰かに見られた時は誇らしくて満足していました。だから何度も会って、この部屋にも泊まって行きました。でも、その度に僕は、彼女から拒否されているような気分になりました。僕が入り込む隙なんて、なかったんです。彼女、心が歪だったんです。だから最初は、遠距離恋愛の婚約者がいるって嘘をついて別れようとしました」
聡美は、まるで初対面の男を見るような目で宇賀神を見つめた。
「やだ……そんな嘘まで……」
宇賀神はそのつぶやきを聞いても聡美の目を見ようとはしない。
「仕方ないじゃないですか……明美さんを傷つけたかったわけじゃないんですから……。だけど明美さんは、それでも構わないから抱いて欲しいってすがってきました。おかしいでしょう? 心では僕を受け入れていないのに、体だけはつながっていたいだなんて。セックスで気持ちを紛らわせて、嫌なことから逃げようとしているとしか思えないじゃないですか。それなのに、結婚したいだなんて……。僕の人生をそんなことに使われたんじゃ、たまりません。だからはっきり、そう言いました」
「あっちゃんに……直接……?」
「ええ。かわいそうでしたけどね。どうしようもなかったんですよ。本当に怖かったんですから」
聡美はわずかに沈黙してから、ぽつりと涙を落とした。メガネを外して、涙を拭う。
「そうですよね……あなたの人生ですものね……」
「済まないとは思います。ですからもう、明美さんとは関わりたくないんです。僕は今の仕事を続けていくだけで満足しているんです。それだけが望みなんです。公然と命令に違反すれば、処分されかねません。そんなことはお断りです」
「あなたのお気持ち……よく分かりました」そして聡美は、まるで幽霊のように力なく立ち上がった。「わたしが勝手だったんです……。とっくにあっちゃんと別れているのに、一緒に探して欲しいだなんて……」
「分かっていただければ、それでいいんです。あとは、署の方で適切に捜索を続けてもらえますから、そちらに相談してください」
「真剣に話を聞いてもらえさえすれば、わたしだって信頼したんですけどね……」
「大丈夫です。今は林の部屋も捜索してます。それって、あなたの話が本当だと信じている証拠ですから」
「だったらいいんですけど……」と不意に、聡美ははっと息を呑んだ。「でも、あなたは林の自宅を捜査したという話を聞かされただけなんでしょう?」
宇賀神が、立ち上がったままの聡美を見上げる。
「もちろん。謹慎中ですから」
「それって、本当なんですか?」
「何が?」
「林の部屋に何もなかったって……」
「警察が嘘をつくとでも思っているんですか⁉」
「だって林って、もともと麻薬密売とかで目をつけられていたんでしょう? なのに何もないっておかしいじゃないですか。もしも捜査に入った人たちと林が裏で繋がっていたら――」
宇賀神は不意に語気を荒げた。
「馬鹿言うんじゃない! 同僚が半グレごときとグルだっていうんですか!」
聡美もまた、宇賀神につられるように声を強める。
「絶対にないって言い切れるんですか⁉ 警官だって人間じゃないですか! お金とか女とか、そんなもので釣られる人だっているんじゃないんですか⁉」
宇賀神の頭に、今朝聞いたばかりの丹羽の言葉が蘇る。
『奴ら、こっちが弱みを見せたらここぞとばかりに取り込もうとするからな――』
おそらく捜査は数人で行っている。主体は生活安全課だろう。だが、常に組んでいる捜査員なら、チームごと買収されている恐れがないとは言い切れない。
林自身にそんな力はなくとも、札幌の組織暴力団がバックで暗躍していることはほぼ間違いないのだ。確実な証拠が押さえられずに、捜査が難航しているに過ぎない。林の密売ルートを守りたい上部組織がその気になれば、買収やハニートラップ、あるいは家族への脅迫で署員を懐柔していても不思議ではない。
他県での事件だとはいえ、半グレが起こした金塊強奪事件に関して警察内部から捜査情報が漏れていたという事例もある。その事件の背後には、組織暴力団の関与があるのではないかとまで取りざたされている。
一方、仮にそうだとしても、暴力団が隠したいのは薬物取引の証拠だろう。明美の失踪が林と関係があったとしても、組とは無縁の個人的な犯罪であるはずだ。林の部屋に明美の痕跡はないという結論自体は、間違いないと推測できるのだが――。
不意に宇賀神の頭に大きな疑念が浮かぶ。警官の買収などよりはるかに現実的な、恐ろしい可能性だ。
そもそも、捜査自体が行われていなかったとしたら――?
宇賀神が聞いたのは、相馬所長の話だけだ。署が薬物盗難に関わった恐れのある交番警官をいち早く切り捨てようと目論んだなら、宇賀神を納得させるためだけの作り話かもしれないのだ。捜査映像を見せるとは言っていたが、謹慎中は署に近づくこともできない。
全てが警察にとって不都合な情報を外部に漏らさせないための芝居だとしたら――。
相馬が来るまで何の連絡なく10時間も待たされたのは、どうやってスキャンダルを回避するかを議論していたからかもしれない。相馬の態度が妙に温和だったのは、スケープゴートにすることを隠すためだったのかもしれない。
宇賀神が薬物盗難の容疑者と〝結婚を考えた仲〟であることは署に知られている。その容疑者が半グレを通じて組織暴力団とつながっている可能性も知られている。この2つの事実をマスコミが結びつければ、面白おかしい記事が書き放題だ。
火のないところに火事を起こすのがマスコミだ。火事が起きれば誰かが火消し役として〝生贄〟にされる。宇賀神はすでに、謹慎を言い渡されている。それ自体があまりに早い判断だった。
あの時すでに、宇賀神は生贄に選ばれていたかもしれないのだ。決めるべきは、謹慎をいつ懲戒免職に切り替えるか、だけだったのかもしれない。
署の方針が、宇賀神を切り捨てるということだったなら――。
宇賀神の疑念は急激に膨れ上がっていった。
時に警察組織は、キャリアの経歴を守ろうとして規律を歪める。スキャンダルを恐れて隠蔽工作に走る。経験の浅い宇賀神にさえ、過去に積み重ねられてきた不正の一端は耳に入っている。
もしも自分が、スキャンダルを未然に防ぐための〝トカゲの尻尾〟にされたなら――。
確かめたい。だが、どうやって?
仮に組織としての決定事項なら、宇賀神がどんな態度に出るかも予測して手を打っているはずだ。連絡を取りそうな署員には、あらかじめ箝口令を敷いているだろう。内部情報を無理に聞き出そうとすれば、相手にも迷惑がかかってしまう。たとえこの危機を無事に切り抜けられたとしても、署内には居づらくなるに決まっている。それは避けたい。
だが、本当に自分が犠牲になりそうなら対応策を準備しておく必要はある。
宇賀神は立ち上がって言った。
「ちょっと考えてみます。色々調べたいこともあるし」
聡美が身を乗り出す。
「まだ手伝ってもらえるんですか⁉」
宇賀神は聡美を玄関に押し出すようにしながら答えた。
「それも含めて考えます。あなたはまず家に帰って、休んでください。相当お疲れのようですから。いいですか、ちゃんと休むんですよ」
「ですけど……」
宇賀神が強い口調で命じる。
「僕が手伝うにしても、あなたがしっかりしていなければ話になりません。勝手に動き回られても、迷惑です。その結果、また僕が上司から疑われるようなことになったら本当に手詰まりになりますから。しっかり休んで、僕が連絡するのを待っていてください。必ず、ですよ」
聡美が部屋を出て数時間後、あれこれと電話連絡を取った宇賀神は改めて決心した。
組織の捨て駒にだけはされない――。
そして、仲間の署員から監視されていないかにひどく気を配りながら、吹雪の中、道央自動車道を札幌へ向かった。
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