6・水曜日【拘束・サイドB】

 男に急な命令が下ったのは、日付が変わって間もなくだった。意識を失うような深い眠りから覚めて初めて空腹に気づき、深夜営業のコンビニでの食料調達から戻った直後だ。

 時間も忘れて女の体に耽溺していた男は、薬物を切らせないように注射し続けたまま、消耗し切っていた。自分でも気づかぬうちに、疲労の極限に達していたようだ。居間のソファーに倒れこんだまま眠りこけていたのだ。

 悪魔は言った。

『ベランダのトランク2つを持って、この部屋を無人にしろ。神の手先がそこまで迫っている。だから、これからしばらくは麻薬を控えろ――』

 男は熟睡していたために、数時間はケタミンが切れた状態になっていた。たまたまそれが、移動のためには有利に働いた。

 2人の死体が入ったトランクを転がし、しかも意識が定かではない女を連れて部屋を開けるためには、せめて男だけはまともに動けなければ話にならない。しばらく麻酔薬を抜いたことで、男の意識や身体機能は概ね正常時に近づいている。生来の悪知恵は充分に働くし、力仕事もそこそここなせる。

 だが麻薬が切れても、意識は濁ったままだ。悪魔の存在は男の心の奥にすでに強固な根を下ろしている。男はもはや、自分が悪魔の手先であることから逃げようとも抗おうとも思わなかった。たった数日で、その役目が快く、身に馴染んだものになっていた。この快感の先に、悪魔として生まれ変わる瞬間が用意されているのだと考えると笑いを抑えきれない。

 麻薬で朦朧とした中での女との蠱惑的な交わりも、男の精神を隅々まで溶かし切っていた。そのドロドロに溶解した意識の中に、悪魔の命令が溶け込んで絡み合った。もはや真実と幻想が混じり合った非現実的な世界は、男にとって唯一の〝リアリティ〟として固定化していたのだ。

 悪魔は男の頭の中で、強固で揺るがない〝実体〟を得たのだ。

 悪魔の声が外からもたらされるのか、あるいは自分の中から湧き上がってくるのか、男にはもはや分からなくなっている。

 分かろうとも思わない。

 分かる必要もない。

 もはや男と悪魔は一体で不可分になっている。すでに自分は悪魔になっているのかもしれないとさえ思える。いずれにしても、悪魔はここに存在している。男にとっては、それが最も確かで自然な〝現実〟だった。

 まだ完全とはいえない意識の中で、男は悪魔に返事をする。不満げな口調だ。

「神の手先……か? だが……なぜ逃げる……? ぶっ倒せばいいだろうが……悪魔でも……神は怖いのか……?」

 悪魔は男の〝理想〟でもあった。

 理想は完璧であってほしい。強くあってほしい。戦ってほしい。何者にも負けないでいてほしい。

 悪魔は、神を恐れずに抗い続けていて欲しい――。

 そんな期待が、男にはあった。

 だが悪魔は、徹底して冷静で計算高い。

『まだ準備が整っていない。儀式を終えるまでは戦えない。もうしばらく時間が必要だ。できるだけ、この部屋に我々がいた痕跡は残すな。おまえが法を犯している証拠も消しておけ。丸1日、姿を隠せれば充分だ。奴らも諦めて、すぐには行動を起こさないだろう』

 それでも男には幾分かの不満が残る。悪魔への捧げ物となる女との交わりを中断することが口惜しくもあった。

「だが……こそこそ逃げ回らなくても……」

『戦いは、勝つために行うものだ。全ては神の企みを打ち砕くための戦略だ。細部の戦術では退くことも厭わない』

「そうは言ってもよ……。神の手先ってのは必ず来るのか……?」

『私は間違わない。奴らは必ず来る。そして、この部屋を徹底的に調べていく。だが安心するがいい。今回の移動によって神の油断を誘えば、それで目的は達成される。我々はすぐにこの部屋に戻る。その時こそ、儀式の始まりだ。この儀式は数日に渡って続けなければならない。その間、絶対に誰にも邪魔はさせられない。神に悟らせることはできない。だからこそ今、あえて神に手の内を晒して時間を稼いでおかなければならないのだ』

 男はその理論的な説明に安堵した。狡猾で隙を見せないのが悪魔なのだ。悪魔は悪魔的でなければならない。

 一方で、〝神の手先〟には心当たりがあった。

 食料や生活用品を補充するために、男は何度も外出している。目覚めた直後も、出かけている。歩いても数分しかからないコンビニで大量のインスタント食品を買い込んで帰る際にも、真夜中にもかかわらず尾行を察知した。

 誰かに見張られている――。

 危険を感じ取る直感の鋭さは、男にとっては第二の天性と化している。そうならなければ生き残れなかったからだ。麻薬の使用でその能力は弱っていた。だがケタミンをしばらく抜いたことで、注意力も狡猾さも蘇ってきている。取るべき対応も難なく計算できた。

 うろたえるな。自然に振る舞え。気づいたことに気づかれるな。だが、隙は見せるな。相手からできるだけ多くの情報を取れ――。

 それは、苛烈な階級社会の中で生き残るために男が身につけた知恵だった。細胞の一つ一つにまで染みついている。

 相手は2人だった。街灯の陰に隠れる姿は、監視に慣れている。

 組員か、探偵か、それとも刑事か――。

 部屋に戻ってそんな疑問を悪魔に告げる前に、移動の命令が下されたのだ。

 監視者の職業が何であれ、神の手先として操られていることは間違いない。とはいえ、監視はずっと以前から行われていたのだろう。なぜ今、唐突に姿をくらませる必要があるのか? それもたった1日空けるだけで充分だという。慌ただしくこの場を去らなければならない理由に完全に納得できたわけではない。

 その短時間で、本当に監視者の目を誤魔化せるというのだろうか……?

 男は疑問を口にした。

「そんなにすぐに戻ってきて……何かの役に立つのか……?」

『目的は、神の手先に部屋の中を調べさせることだ。部屋をくまなく調べ尽くせば、またすぐに入ろうと試みることはない。そうやって、奴らの油断を誘う。だから、見られて困るものは残すな。絶対に、だ』

 男は職業柄、もともと部屋の中に置くものは無害なものに限定していた。今危険なのは、寝室で眠る女に関わるものだけだ。それは大した量ではない。

 だが――。

「女はどうやって運ぶんだ……? それに、でかいトランクが2つもあると、目立つ……」

『女は自分の足で歩かせる。だから移動先から戻るまでは薬物の投与を中断しろ』

「それじゃ逃げられるんじゃ……?」

『女の心は、もはや私のものだ。しかも廃人同然だ。逃亡など企てはしない』

「本当に……外に出しても大丈夫なのか……?」

『悪魔を疑うのか?』

「いや……ただ、少し不安なだけだ……。こいつを連れまわすのは、俺だからな……。サツに目をつけられたら、ややこしいことになる……」

『私を信じろ。それにこれは、女にとってまともな食事を取れる最後の機会だ。いわば〝最後の晩餐〟だ。生贄から最も効果的に力を得るには、屠る前にもてなす必要がある。それが儀式に不可欠な手順でもある。豚を屠畜する前に太らせるようなものだと思え。この移動には、生贄の価値を最も高めるという重要な意味もあるのだ。儀式に必要な段階を踏んでいることを心に留め置け』

 それでもまだ、男は不安げだった。

「分かったよ……」

『まだ不安か? 仮に移動が神の目に止まったとしても実害はない。逆に監視者は、安心してこの部屋を調べていくだろう。そのことで、今後何日間かは自由な行動が約束される。儀式には充分な時間だ』

「じゃあ……監視は気にする必要はないのか……?」

『たとえ尾行されても構わない。ただ、あまりに無警戒すぎる行動を起こすと、逆に不必要な疑念を抱かせる。部屋の中を見てくれと言わんばかりだからな。適度な警戒心を印象付けておく必要はある。だから移動には、今回も異邦人たちの力を借りる。彼らの集団が向かう次の宿泊地に便乗しろ。何台ものバスが横付けされるし、大きなトランクも目立たない。荷物の運搬も異邦人どもに行わせる。貴様は、隠れて移動しているのだという演技をしていればいい。本当に見つからなければ、それでも構わない。私の力で神の手先どもをこの部屋に導くまでだ』

 その計画を聞いて、男はようやくうなずいた。

「分かった。で、出発は何時頃に……?」

『異邦人たちの移動に合わせる。9時頃といったところか』

 男は腕時計を見た。

「まだ時間はあるな……」

『それまでは、今まで通り好きに過ごせ。眠っていようが、女を犯そうが構わない。ただし、薬物は控えろ。女にも注射はするな。顔などの目立つ場所に傷をつけることも禁じる。出血もさせるな。他は自由だ』

 男がニヤリと笑う。

「では、お望みのままに……」

 男は引き戸が開け放されていた寝室に入った。

 カーテンを締め切った部屋の中は相変わらず薄暗い。排泄物の匂いも消えていない。

「この匂いもなんとかしなくちゃな……」

 黒っぽいベッドの上で、全裸の女が身じろぎする。まるで、淫らな夢の中を漂っているようだ。

「おまえ……嬉しいのか……?」

 男は、笑みを堪えることができなかった。

 傷だらけの女を犯すことへの嫌悪感は、すでに暴力的な喜びに変わった。暗がりで苦痛に歪む女の顔を舐め回すことが、これほど官能的だとは思いもしなかった。流血に対する抵抗が一度破られると、その先には異様なほど蠱惑的な快感が広がっていたのだ。

 それが、〝悪魔の鍵〟の力だ。

 ねっとりと粘り付く血の匂い、汗と体液が混じりあってぬめる薄い脂肪、快感と痛みに震える柔らかい筋肉、女の全てがこれまでの体験をぶち壊すほどの新鮮な喜びだった。

 そして、女もそれを堪能しているように思えた。それこそが悪魔から与えられた報酬なのだと、今では完全に理解している。

 悪魔と一体化する充実感が、男を奮い立たせる。

 だが、女の様子はこれまでとは少し変わっていた。今までのように、男を歓迎するような気配を漂わせてはいない。自分1人で、孤独な繭に閉じこもっているような雰囲気だ。

 じっと暗がりに目をこらす。

 男はまだなにもしていない。なのに女は、絶頂感をこらえるかのように身悶えしている。

「やっぱり……俺を待っていたのか……?」

 女が小さなうめきをもらす。

「うっ……」

 その声から、快感は読み取れなかった。必死に痛みをこらえているような、苦しげなうめきだ。

 男が近づいて女の体に目をこらす。あちこちに青あざや鎖の跡があった。腕や足、腹や尻にもだ。その数は数え切れない。一部には、血が滲み出している。

 男がつけたものではない。少なくとも、記憶にはない。そもそも混濁した意識の中には、明確な記憶など数少ないのだが。

「悪魔にやられたのか……?」

 女は答えない。

 女はもう脚を縛られてはいなかった。両手首は長い鎖でベッドに繋げられていたが、そこそこの自由はあったはずだ。

「悪魔にやられたんだな」

 男は過去に何度も、何人もの女を殴ってきた。その時々の怒りや苛立ちに任せて、打ちおろす平手に力を込めた。反抗心をへし折って従順な奴隷に仕上げる目的で、意図的に危害を加えたことも少なくない。だがその時でも、これほど醜い跡が残ったことはない。しかも女の内出血は奥が深そうだ。一体どれだけに力を込めて痛めつけたら、こんな傷が残るのか……。

 自分でも暴力的だと思ってきた男にさえ、判断できない。それほどの暴力を振るう理由も思い付かない。なんらかの目的を叶えるための暴力ではない。暴力自体を楽しんだ結果だ。暴力というより、拷問にしか思えなかった。

 そして気づいた。

 これもまた、儀式のために重要な〝手順(プロトコル)〟なのだ。徹底的に女を痛めつけ、悪魔への忠誠を心の底にまで叩き込む。そうやって完璧な生贄を作り上げたのちに、その苦行を労って歓待し、最後は儀式のクライマックスに供するのだろう。

 悪魔は容赦しないのだ。女はとことん悪魔的な暴力を加えられたのだ。

 にもかかわらず――いや、だからこそ、女は従順に従い、耐えているようだ。女はもはや悪魔の所有物だ。心も意思も失っているに違いない。逃亡を望む気力さえ消え去っているらしい。

 腹の青あざの一つに触れてみる。

 女がびくんと体を震わせて、かすかに仰け反る。

 痛みから逃げているのか、快感に弾けたのか――。

 いずれにせよ、それが男の欲望に火を放った。

「悪魔って……ひどいことをするよな……だけどさ、俺も悪魔になるんだ……もう、なってるのかもしれない……ひどいことしてると、興奮してくる……サドなんかじゃなかった……はずなのにな……」そして男は女の乳房に指を這わせ、乳首を吸い、軽くかじった。「まだ、2、3時間は楽しめるな……」

 再び女を貪り始める。

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