そして悪魔は、最期に嗤う。
岡 辰郎
1・月曜日【失踪・サイドA】
尾行にしては、あまりにも拙い。
宇賀神翔は、新興住宅地の〝若手お巡りさん〟に過ぎない。だが、交番勤務であっても、その尾行に気づく程度の注意力は鍛えられている。
警察学校では基礎的な知識と訓練を叩き込まれてきた。まして外国人が大挙して訪れる、しかも国際空港が近い北海道警察千歳中央署の管轄であれば、テロにも敏感にならざるを得ない。空港は、航空自衛隊の基地にも運用されているのだ。感染症対策としても、特に外国人の挙動には常に注意を向けている。周囲の状況把握が職務になった今、それはすでに第二の天性と化していた。
その〝アンテナ〟が、異常を捉えた。
宿直明けの帰り道だった。
車を置いた駐車場からアパートまでは、ほんの100メートルの距離だ。駐車場の正面にあるクリーニング店から制服を受け取って店を出た時に、不審な振る舞いを見せる女性に気づいた。たっぷりと降り積もった粉雪を踏み込んで長靴を取られながら帰る途中も、背後に奇妙な気配が追ってくる。足を滑らせたふりをしながら、ちらりと視線を送る。
20代半ばに見える女だった。
身長は宇賀神よりも5センチほど低い160センチ程度だと、電柱の住所表示との対比で分かる。紺色のダッフルコートを着ているので正確とはいえないが、やや痩せ型。フードをかぶっていたが、コートの外にはみ出した髪は胸ぐらいまであるストレート。薄い縁のメガネをかけた、そこそこの美形だ。
まるでラブコメアニメの定番シチュエーションように、電柱に体を隠しているつもりでいるらしい。短いブーツの足元は、吹きだまった雪に半分埋もれている。冷たいだろうに、コンクリートの柱に素手で触れていた。
尾行など経験したことがない素人だ。だが、宇賀神に向けている視線には隠しようがない敵意が含まれていた。女は、明らかに相手が宇賀神翔だと知っている。
宇賀神も、女の顔立ちには見覚えがあるような気がする。誰だかはすぐに思い出せなかったが、知らない人物ではないという確信だけはあった。
宇賀神の決断は早かった。すぐに踵を返して女に近づいていく。さっさと部屋に戻って眠りたかったのだ。
明日は非番だが、日が暮れてからは集中したい〝作業〟を予定している。それでなくても忙しい警官にとって、趣味に没頭できる時間は貴重だ。急な呼び出しで出勤しなければならない場合もある。千歳空港でのトラブルに駆り出されることも、珍しくない。妙な女に生活のリズムを壊されたくはなかった。
宇賀神の接近に気づいた女が、一瞬、逃げる気配を見せる。
だが宇賀神が呼び止めようとする直前に、女も振り返った。意を決したように、逆に宇賀神に向かって来る。
宇賀神は言った。
「僕に何か御用ですか?」
女が足をわずかに滑らせながら、さらに近づいて来る。表情は何かに追い立てられているように切迫していた。
「宇賀神さんですよね。明美がどこにいるか知りませんか⁉」
言葉は質問だが、女は明らかに『明美がどこにいるか教えろ』と責めている。宇賀神が明美の居場所を知っていると思い込んでいる。宇賀神は〝明美〟の名前を聞いた瞬間、その女が誰かに気づいた。
大浜聡美――大浜明美と同居している姉だ。明美からスマホの写真を見せられたことを思い出す。
「聡美さん、ですよね?」
女がうなずく。
写真しか見たことがない聡美の名前まで覚えていたのは、命名の由来を聞かされていたからだ。
聡美と明美の姉妹。子供は2人作ると結婚前から決めていた両親が、〝聡明〟に育つことを願って選んだ名だという。しかしその両親は10年ほど前に大手宅配便会社が起こした交通事故に巻き込まれて亡くなっている。
姉の聡美は賠償金で権利を得て、千歳駅北口近くで住居と兼用の喫茶店『カフェ・フォレスト』を経営していると聞いていた。明美は、『姉は生活を支えるために必死だったので、まだ結婚できずにいる』と語っていた。明美とは3歳違いだから、聡美は今28歳になっているはずだ。
聡美が宇賀神に喰い付かんほどの勢いで繰り返す。
「明美の居場所を知りませんか⁉」
宇賀神の意識は自然と〝人探しの相談〟を受けた交番警官に移行し、穏やかな口調で答えた。
「家に帰ってないんですか? いつから?」
だが、聡美の答えから棘は消えない。
「もう2日以上になります。携帯は繋がらないし、職場にも行ってません。連絡なしにそんなに家を空けたことはありません」そしてさらに宇賀神をにらみつけた。「あなたの部屋にいるんじゃないんですか⁉」
数ヶ月間、宇賀神が明美と親しかったことは事実だ。肉体関係も重ねた。おそらく、そのまま過ごしていれば結婚も視野に入っただろう。
明美がそのつもりでいたのは確かだ。拒否したのは宇賀神だ。
「僕を疑っているんですね。ここじゃ寒い。とりあえず僕の部屋に行きましょう。すぐそこですから」
聡美の目に疑いの色が浮かぶ。
「あなたの部屋って……」
男の一人暮らしの部屋に入ることを警戒したようだ。
宇賀神はわざとらしく大げさなため息をもらした。
「明美さんが僕の部屋にいると疑っているんでしょう? だったら、中を調べなきゃ納得できないんじゃないですか? 僕はもう明美さんとは関係ないし、あなたに危害を加える気もない。それに、知ってると思うけど、僕は警官です。必死にもがいてやっと掴み取った夢です。それを台無しにするつもりはこれっぽっちもない。着いて来てください」
宇賀神は返事も待たずに振り返り、クリーニング済みの制服を折って脇に抱えるとアパートに向かう。
聡美も納得した様子で、素直に後を追った。宇賀神が言う通り、聡美をかくまっているなら部屋に招き入れるのはおかしい。かくまっていないのなら、部屋に上げた姉に危害を加える理由がない。
宇賀神は2階建ての古ぼけた木造アパートの1階に住んでいた。隣接する駐車場すらないのは、築40年を超える古さのせいだ。周辺には新築の小ぎれいな物件も多く、そのアパートは半数が空き部屋になっている。空港に離着陸するジェット機の騒音が異様に大きく聞こえることも多い。利点は家賃の安さだけで、他の住人はほとんど学生だった。
ただし、駅にはそこそこ近いので取り立てて不便はないし、落ち着ける場所がありさえすればいいと割り切れば建物の古さにも不満は湧かない。少し距離は離れているが、同じ大家が経営する駐車場も格安で借りられる。
1DKでも、一人暮らしなら部屋が1つ余る。そこが宇賀神が〝聖域〟にしている趣味の世界だった。削った家賃も主に趣味に投じている。だからこの部屋は、宇賀神にとっては貴重な〝優良物件〟だったのだ。
アパートのドアを開くと、部屋の暖かい空気が漏れてくる。冬場は、帰宅に合わせてファンヒーターのタイマーをセットするのが習慣になっているのだ。でなければ、疲れて帰っても隙間風の冷たさに数10分間耐えなければならない。
部屋の中にずんずん入っていた宇賀神は、戸口で靴も脱がずに立ちすくんでいる聡美を振り返った。
「入らないんですか? 部屋の中を確認しなくていいならそれでも構いませんが、ドアは閉めてください。暖気が逃げるともったいない」
聡美はドアを閉めてブーツを脱いだ。
厚いストッキングには、くるぶしから入った雪が半分溶けて張り付いている。だが聡美はフローリングの床が濡れることも気にせずに、怒りを堪えているかのように部屋に入った。
「上がらせてもらいます」
宇賀神がすぐ横のドアを指差す。
「そこの右のドアがトイレです。左は洗面所と風呂。中を確認して構いませんよ」
聡美は言われるままにドアを開き、どこも無人だと確かめた。
短い廊下を抜ける。その先の居間の中は、ぐるりと見渡すだけで誰もいないことが分かる。
宇賀神は、これも言われる前に物置の引き戸を開いた。
「好きなだけ中を調べてください。見られたくないものもあるけど、疑われるよりもいいですから」
物置の中をじっくり調べた聡美は、宇賀神に視線を移した。
「確かに、人は隠れられないですね……」
「こっちの部屋もどうぞ」
反対側のもう一つの部屋、4畳程度の細長い洋室の引き戸が開いていた。宇賀神は、聡美が洗面所や風呂を見ている間にその部屋に入ったようだ。さっきまで手にしていたクリーニング店から取ってきた制服がなくなっている。
窓には遮光カーテンが引かれて暗く、かすかにシンナーの匂いが漂っている。
「この匂いは……?」
「僕の趣味ですよ」
宇賀神が壁に手を伸ばして照明のスイッチを押す。
部屋の中央のテーブルには作りかけのロボットアニメのプラモデルが置いてあった。塗装の途中らしい。正面の壁の棚には、完成したロボットが何体も並べられている。
「これが?」
「そう。子供っぽいとか警官らしくないとか言われても仕方ないですけどね。僕って、ひ弱そうに見えるらしいしね。でも、好きなものは好きなんです。非番に時間を持て余してパチンコ浸りになるより、少しはまともじゃありませんか?」
警官とはいえ、誰もが聖人君子と呼べるわけではない。口にしにくい性癖を密かに抱えている者もいる。宇賀神自身、上司のパソコンでロリコンAVのフォルダを見つけて気まずい思いをしたこともある。
「入っていいんですか?」
「奥のクローゼットも開けて、中を確認してください」
聡美は部屋に入り、奥の引き戸を開いた。プラモデルの空き箱らしいものや雑誌やDVDのケースが雑然と重なっている。他のスペースは衣料品で埋められている。クリーニング済みの制服もハンガーにかけられていた。だが、人が隠れられそうな隙間はない。
かすかに首をうなだれた聡美がつぶやく。
「誰もいませんね……」
宇賀神は怒った素振りも見せずに、聡美の背中に語りかける。
「で、明美さんは連絡なしに家を空けただけですか?」
部屋から出た聡美からは敵意は消え、申し訳なさそうに視線をそらせている。
「本当に何も知らないんですね……? 明美のこと……」
宇賀神は軽くため息をもらした。
「でなければ、部屋に上げたりしないでしょう? 明美さんとは1ヶ月ぐらい前に交際を断ってから、連絡を取っていないし、もちろん会ってもいません」
うつむいた聡美の表情に落胆の色が浮かぶ。
「嘘じゃないんですね……」
宇賀神も一度は明美と真剣に付き合っていた。他人事とは思えない。
「2日間連絡がないと言いましたね。警察には通報しましたか?」
「もちろん」
「中央署にですか? 直接行って?」
「そうです。窓口の人が家出人として受け付けてはくれましたが、『大人なんだからそれだけでは特別には人を割けない』と言うばかりで……あと数日連絡がなかったらまた来いと言われて……」
確かにたったそれだけで25歳にもなる女の失踪を特殊な事案として扱っていては、警察の業務はパンクする。中央署に訴えても緊急性が認められないなら、犯罪がらみの兆候はないということだ。
警察には、同様の事例の過去データが山のように集積されている。時にストーカー事件を見過ごしたと非難されることはあっても、ほとんどの場合はデータを活用して安全に処理されているのだ。逆に具体的なストーカー被害が多少でもない限り、民事への介入は難しい。善意での関与が、不当な権力行使だと非難されることさえある。
だが、宇賀神は直感していた。聡美の不安げな様子は尋常ではない。質問を繰り返す。
「もしかして、他にも心配なことがあるんじゃないですか? 明美さんが危険な目に会ってるかもしれない、とか」
聡美はビクッと肩を震わせて、宇賀神の目を見上げた。宇賀神の言葉が核心を突いたようだった。
「あの……あなただけの秘密にしていただけますか?」
宇賀神が警官の顔つきに変わる。
「それって……警察には知られたくないってことですか?」
「分からないけど……あの子、何か大変なことに巻き込まれてるかも……」
「だったら、余計に早く探し出さないと。警察に全て正直に話して、助力を乞うべきです」
「でも……」
聡美の言葉ははっきりしない。
危険を感じているのだが、一方では妹が犯罪の片棒でも担いでいるのではないかという不安があるらしい。それなら、警官である宇賀神に何もかも打ち明けるわけにはいかないだろう。
聡美が赤の他人なら、宇賀神はそのまま部屋から追い出していたかもしれない。だが、一時は結婚も考えた明美の姉だ。その明美が行方をくらましたと心配しているのなら、放置することはできない。
地域住民をトラブルから守ることは、交番警官の責務でもある。世界的に珍しい交番制度は、いわばこのような〝お節介〟によって支えられ、長い時間と労力をかけて安全安心な国家の基盤を作り上げてきたのだ。宇賀神は交番警官の伝統に敬意を抱いている。
「分かりました。僕を信じてください。あなたの了解がない限りは、上司には何も知らせません。明美さんのことですから、私個人の問題として考えます。とにかく、何があったのか話してください。今、お茶を入れます。体を温めて、落ち着いてください」
聡美はうなずくと、部屋の中央のガラステーブルの前に座った。初めてストッキングが濡れていることに気づいたのか、顔を赤くして申し訳なさそうにうつむく。
宇賀神はキッチンで湯を沸かしながら、時折振り返って聡美の様子を観察した。ひどく不安に苛まれているように見える。同時に、警官に全てを打ち明けていいものか迷っている。
宇賀神は考える時間を与えるために、あえてゆっくりと紅茶を入れた。
「ミルクは要りますか?」
聡美がぼんやりと宇賀神を見上げる。
「え? あ……はい……」
宇賀神は小鍋で温めたミルクを多めにカップに注いだ。
テーブルにミルクティーを出すと、言った。
「砂糖はお好みで。考えはまとまりましたか?」
聡美は宇賀神が出した角砂糖を1つ入れると、一度カップに口をつけてから小さくうなずいた。
「ありがとうございます。全部、お話しします。でも、お願いですから当分は秘密にしていてください」
「分かっています。で、何がそんなに心配なんですか?」
聡美はさらにしばらく沈黙した。カップの湯気でメガネが曇る。そして気持ちの整理ができたのか、か細い声で語り始めた。
「昨日の夜に電話があったんです……あ、明美が動物病院で受付の仕事をしていることはご存知ですよね?」
宇賀神も自分のミルクティーを飲む。聡美の様子が落ち着いたことにとりあえず安堵していた。
「聞いていました」
「明美が勤めているのは犬猫専門の病院なんですけど、オーナーのご主人は家畜がメインで、道央の牧場を回って牛や馬を治療しているんです……」
宇賀神には、その話が明美が姿をくらませたこととどう関係するのか予測できなかった。
「その病院から電話が?」
「ええ。なんでも、大型動物用に備蓄していた麻酔薬が大量に消えてしまったとかで……」
宇賀神がいきなり真剣な目つきで身を乗り出す。
「ケタミンとか、ですか?」
聡美は、宇賀神の反応の速さにかすかな驚きを見せた。
「え? 何かそんな名前で……」
「商品名だと……ケタラールかな」
「あ、それです。ケタラールきんちゅう……なんとか」
「筋注用でしょうね。筋肉注射でも効果が出るタイプです。海外では抗うつ剤として使ってるところもあるそうですけど、使い方によっては幻覚作用が起きるんで麻薬に指定されてます」
「麻薬、ですか……。詳しいんですね……」
「職業柄、知識はあります。警察学校でも教えられましたしね。で、病院側は明美さんが盗んだと疑っているんですか?」
「麻薬庫から箱ごとなくなっているのに気づいて、もしかして明美が盗んだんじゃないかって……ここ数日、無断欠勤しているので……」
宇賀神がかすかにうなずく。
「だから警察に話せなかったんですね。でも、もし本当に明美さんが盗んだのなら、放置しておいたら余計に危険です。ケタミンは本来医療用の麻酔薬ですけど、スペシャルKとか呼ばれている麻薬でもあります。粉末ならデートレイプ・ドラッグとして使われることもありますしね」
「デート……?」
「飲み物とかにこっそり入れると、女性が意識を失ったり朦朧としたりするんです。で、抵抗できなくなるわけです。もっと危ない犯罪、例えば暴力団の密売とかに加担させられていることだって考えられますしね……」
聡美の顔が強張る。
「そんな……密売だなんて……」
宇賀神がなだめるような口調に変わる。
「あ、いや、単なる可能性ですけどね。でも、誰かに脅迫されて盗んだという恐れはあります。それに、病院から盗難届が出されるはずです。特に盗まれたのが麻薬だとなると、警察に知らせなければ逆に罰せられます。明美さんへの捜査は避けられませんよ」
聡美が困ったように目を伏せる。
「それなんですけど……病院の先生は、警察への通報は明日の夕方まで待ってくれると言ってくれました。だから、その前に何としても明美を探し出したいんです。明美が盗んだのなら、何とか説得して麻酔薬を返して、できることなら穏便に済ませたいんです」
聡美自身も、ケタミンは明美が盗んだのかもしれないという危惧を捨てきれないようだ。
宇賀神は2年以上の実務を経験し、実際に何人かの中毒患者を見てきた。彼らが犯す凶悪な犯罪と対峙した経験もある。警察学校では麻薬一般について学んだが、実際の危険性は教えられた知識をはるかに凌駕していた。麻薬は使用法を間違えば、それ自体が危険を及ぼす。だが、宇賀神の警官としての直感は、より大きな危機を告げていた。
明美がなぜ麻薬を盗んだのかが問題なのだ。
宇賀神が明美と知り合った時、彼女は麻薬の密売人だと目される男と付き合っていた。暴力団の正式な組員ではないが、いわゆる〝半グレ〟で、組と緩やかな共生関係を持っていると疑われていたのだ。
組織暴力団が麻薬密売に公然と手を出せば、末端の組員が逮捕されただけで組長までが一網打尽にされる。それを防ぐために、組とは直接の関係を持たない半グレを売人にするのが一般的なやり方なのだ。暴対法――暴力団対策法が強化された結果だった。男は半グレといえども密売組織の最前線にいるわけで、危険度もより高いと言わざるを得ない。
そもそも、宇賀神が明美と知り合った原因がその男にある。男の発作的な暴力に怯えて助けを求めてきたのが明美だった。
警官は民事事件には関わりを持てないのが原則だが、暴力事件やストーカー事案になれば介入が可能だ。何度も激しく平手打ちされたという明美の証言をもとに男の素性を照会したところ、暴力団との関わりが疑われていることが判明した。
その情報を知った明美は、すぐに男との関係を絶ったのだ。
そのはずだった。だが、男が再び明美に近づいたとするなら――。
「明美さんが以前どんな男と付き合っていたか知っていますか?」
聡美は、その質問を予期していたようだ。
「なんだかヤクザみたいな人だったとか……」
「正確には組員ではありません。ただ、無関係だとも言えません。明美さんがケタミンを盗んだとするなら、その男から命令されたのかも……」
「まだ付き合っているってことですか⁉」
「断定はできません。ですが、私が知っている明美さんは麻薬など必要としていませんでした。中毒患者ではないことは断言できます。自分で使うためでないなら、換金目的か脅迫されてということになります。それ以外にはケタミンを盗む理由がないと思えるんです」
「やっぱり、あの男のところなのかな……」
宇賀神は、ある意味で嘘を言っていた。
明美は確かに麻薬を使用している気配はなかった。だが、精神的に著しく不安定な女だった。病的とまではいえないにしろ、双極性障害――かつては躁鬱病と呼ばれた症状によく似たものを感じていた。それが交際を断った根本の原因なのだ。
その点では、麻薬常習者になる要素は備えている。
だがそれを、妹の安否を心配する姉に告げることはできない。
「あの男――たしか林大輝といったと思いますが、奴と付き合っていた頃の明美さんはどんな様子でしたか? 男の家に入り浸っていたとか、滅多にあなたに連絡を取らなくなったとか」
「外泊することはちょくちょくありましたけど、その時でも必ず連絡をくれていました。彼と会って遅くなっても、大抵家に帰ってきていましたし……。でも明美って、何であんな男と付き合ったりしたんだろう……? ずっと真面目ないい子だったのに……。何か聞いたことはありませんか?」
宇賀神が感じていた明美の印象とは、やや食い違っているように思える。
「明美さんがアニメイベントやコスプレに熱心だったのはご存知ですよね?」
急に話題が変わったことに聡美が戸惑いを見せる。
「もちろん……。近くに住んでいる仲間はよくうちの店にも来ていたし、コスプレの打ち合わせとか、楽しそうにしていましたよ」
「ご理解があったんですね……」
聡美の表情がわずかに和む。
「やだ、明美は大人だし、わたしは母親じゃないですしね。動物病院のお仕事はきちんとやって自立していましたから、自由な時間に何をしても構わないじゃないですか。コスプレで人様を楽しませこそすれ、迷惑をかけているわけじゃありませんしね。わたしも演劇部にいたことがあるし、他人に扮する気持ちは理解できます」
「子供っぽいな、とは思いませんでしたか?」
聡美は少し考え込んだ。
「まあ、明美は悪魔のコスプレばっかりしていましたからね……変だといえば変な気もしましたけど。でもそんなアニメって、たとえ見ているのが子供だとしても、作っている人たちは企業に勤めたりしている社会人だし、経済的にも日本を代表する産業でしょう? アニメーターとかは薄給でも手を抜かずに頑張ってる職人さんみたいな人たちらしいし。浮世絵とか紙芝居とかからの伝統文化の積み重ねがあって初めて出来上がった日本独自のスタイルがあるみたいですしね。ただのマンガだって単純に片付けるのは違うと思うんです。ほら、アニメスタジオの放火事件だって、世界中から支援が集まったじゃないですか。日本を代表する立派な文化だと思っています。明美だって真面目にコスプレを楽しんでいますから、日本のサブカルチャーの下支えをしているんじゃないんですか? たくさん開催されているコスプレイベントだって大勢の人を集めていますし。……まあこれ、明美の受け売りなんですけどね」
「明美さんが林と知り合ったのも、洞爺湖のイベントだったと言っていました」
洞爺湖では毎年『TOYAKOマンガ・アニメフェスタ』が開かれていて、温泉街全体がコスプレ会場に変わる。声優のトークショーや同人誌の即売会なども行われ、日本全国からファンを動員しているのだ。世界的なパンデミックで開催中止が決まった年は、多くのファンが悲鳴を上げたとも言われている。
林はそこで毎年、〝顧客〟にできそうな若者を漁っていたらしい。麻薬の販路を広げるとともに、いずれは風俗へ送り込むための少女たちも物色していたのだろう。
その網にかかった1人が、たまたま林の近くに住んでいた明美だったのだ。
「そうだったんですか……それは初めて聞きました。でも、明美があなたとお付き合いするようになったんで、わたし、安心していたんです。林が相手だった頃は、明美は何だか暗い顔ばかりしていましたから」
宇賀神があえておどけたように言う。
「僕、一応警官ですからね。そりゃあ林みたいな半グレと付き合うよりは安全でしょう。暴力を振るったりは絶対にしませんから。てか、職業柄できません。上にバレたりしたら一発で懲戒処分くらっちゃいますしね」
聡美の表情が真剣に変わる。
「お願いです、明美を助けてやってください。わたし1人じゃ、どうしていいか分からなくて……」
宇賀神はしばらく無言で考えた。
麻薬盗難がらみであれば警察が刑事事件として取り扱わざるを得ない。だが、一時的であれ、親密な関係を持った女が巻き込まれるのは心苦しい。そもそも、明美がケタミンを盗んだいう確証はない。まだ盗難届も出されていないという。
「分かりました。まずは連絡が付くかどうかを繰り返し試してください。案外、何でもない理由で電話が繋がらないだけかもしれませんしね。それでも行方が分からなければ、僕が個人的にお手伝いします。明日は非番ですので、今日の夕方から林のマンションへ行ってみましょう」
聡美が宇賀神の目を覗き込む。
「男の家が分かるんですか⁉ これからすぐに行けませんか⁉」
「こんなに朝早く行ったところで、部屋にいるかどうか分かりません。以前、少し調査しましたから、生活パターンはだいたい把握しています。夜は札幌や千歳の繁華街で活動していますから、まだ部屋に戻ってもいないでしょう」
聡美が済まなそうにうつむく。宇賀神が口にした〝懲戒処分〟という言葉が気になっている様子だ。
「でも、警察官なのに個人的になんて……叱られたりしませんか?」
「1日だけです。しかも知り合いを探すわけですから、バレたところで大ごとにはならないでしょう。ただし、休みでも呼び出しがかかって仕事に駆り出されることはあります。その時はお手伝いできないので、勘弁してください。とりあえず、ケタミンのことは僕には話さなかったことにしてください。病院から正式に盗難届が出されたら、警官として調査しなくてはなりませんから、その点は誤解なきよう。仮に明美さんが盗難に関わっていたとしても、大事になる前に話を聞いて、なるべく罪が軽くなるようにしないとね。いずれにしても彼女を探し出すことが先決です」
聡美は深々と頭を下げた。
「あなたを疑って申し訳ありませんでした。どうか、明美を助けてやってください。道を踏み外すような子ではないんです」
聡美の母親のような口調に、宇賀神は思わず微笑んだ。
「人探しなら充分お手伝いができますよ。僕、交番のお巡りさんですからね。聡美さん、あまり休んでいないんでしょう? 心配でしょうけど、まずはゆっくり眠って、明美さんからの連絡を待ってください。僕も少し眠りたいので。今日の夕方……そうですね、4時前には連絡します」
しかしその日、林大輝のマンションを訪れた2人は彼と接触することができなかった。聡美たちは午後5時近くから4時間ほどの間に、何度もマンションを訪れた。混乱を避けたいという理由で宇賀神だけが建物に入ったが、林が部屋に戻っていないことはほぼ間違いなかった。
廊下から見る限り、部屋に明かりはなかったし、中に人がいる気配も感じられない。宇賀神はマンションに出入りする民泊の中国人らしい観光客に混じって、さりげなく電気のメーターを確認した。その結果、部屋には誰もいないだろうと結論するしかなかった。
落胆した2人は、翌日の12時に待ち合わせて、再び林と接触を試みることにした。
それでも予想外の厄介事を持ち込まれてあれこれ思いを巡らせた宇賀神は、すぐには眠れずに思わぬ深酒をすることになった。
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