season2-5:戸惑い(viewpoint満月)

 なぜだか砂川さんに懐かれてしまった。

 繰り返されてきたいたずらの犯人は砂川さんだった。とてもくだらない理由で、私が納得できるものではない。それに、いたずらの件を突き付けたとき、砂川さんは反省の色も見せずに開き直っていた。

 砂川さんとは相容れないと思っていたし、会社で表面上の関係はともかく、実質対立し続けるだろうと覚悟していた。

 ところが、いたずらの件を話した翌日、砂川さんが何事もなかったかのようにランチに誘われたのだ。

 いたずらの件で反省したのか、それともまだ私に文句があるのか、ともかく話をして見なければいけないだろうと誘いに応じたのだが、嬉々として草吹主任と矢沢さんの尊さを語られただけだった。

 そして、それから度々ランチや夕食に誘われている。

 矢沢さんに、いたずらの件はお遊びだと装っているので、矢沢さんがいるところで無下に断ることもできない。砂川さんの誘いを受けてしまうのは、砂川さんを許した訳ではなく矢沢さんに心配をさせたくないだけだ。

 砂川さんと二人で食事をしているときに、「いたずらの件が許せないのでもう誘わないでください」とでも言えればいいのだろうが、あえて波風を立てるのもどうだろうと躊躇してしまう。

 それに、砂川さんのトークの勢いがすごくて、私が口を挟んで別の話題を出す隙がないというのもある。

 そんなわけで今日も昼休みになると、砂川さんが笑顔で私の席に近づいてきた。

「野崎さん、ランチに行かない?」

 この砂川さんの態度に戸惑った。砂川さんが何を考えているのかまったくわからなかったし、私もどう対応していいのか分からなかった。

 ひとつ思い浮かんだのは、私が矢沢さんに近付けないように拘束するという目的だ。矢沢さんをランチに誘おうかな、と思ったときに砂川さんに声を掛けられるため、結局矢沢さんとランチタイムを楽しむことができずにいた。ランチ以外の場面でも狙いすましたかのように妨害されるため、矢沢さんと接するチャンスが激減している。

 多分、これが砂川さんの目的だと考えて間違いないと思う。ただ、最近ではそれが副次的な目的でしかないように思えてきた。

 おそらく一番の目的は語ることだ。隠していた(草吹主任と矢沢さんを眺めて妄想する)趣味を私に公開したことで、堂々と語ることができる相手(つまり私)を見付けて喜んでいるのだ。

 目障りだと言い放った相手(つまり私)に萌えを語る気持ちとは一体どんなものなのだろう。全く理解できない。

 砂川さんからのランチの誘いをうまく断る口実を探して、私は辺りを見回した。すると偶然通りかかった日和さんと目が合う。

 日和さんならばちょうどいい。私と同期だから誘うのも不自然ではないし、入社して間もなくのころには砂川さんと日和さんとの三人でランチに行ったこともある。

 砂川さんの誘いを断ることはできないが、三人でのランチならば、少なくとも砂川さんの萌え語りからは解放されるだろう。

「ねえ、日和さんも一緒にランチに行こうよ」

 私は「行かない?」という疑問形にせずに日和さんに声を掛けた。

 お願いします。OKしてください。と心の中で唱える。本当に砂川さんの『草×陽』トークには辟易しているのだ。

 そもそも『草×陽』ってなんだよ。

 苗字なら苗字同士『草×矢』だし、名前なら名前同士『光×陽』じゃないだろうか。ただ、そんなことを砂川さんに言ったら、さらにトークが盛り上がってしまいそうなので、私は日々黙ってそれを聞くことに徹している。

 この辛さが分かるだろうか。

 私が矢沢さんに対して抱いている気持ちはアレだと思う。そう自覚したのに、別のカップリングの尊さを切々と説かれるのだ。

 だからといって「そこは『満×陽』でどうですか?」なんて言えるはずもない。そんなことを言ってどんな地獄が待っているのか、想像しただけでうんざりする。

「うん、いいよー」

 私の願いが通じたのかはわからないが、日和さんは笑顔を浮かべてのんびりとした口調で答えた。思わずガッツポーズをしそうになるのをグッと堪えた。

「じゃあ、今日は三人でランチに行きましょうか」

 私は笑みを作って砂川さんを見る。

 砂川さんは「うん、そうしようか」と笑顔で答えていたけれど、少しだけ表情が硬いように感じた。

「どこに行きましょうかね~」

 私は鼻歌でも口ずさみたい気分で財布を持って立ち上がった。



 今日のランチは会社から数分の場所にあるカレー店に決まった。店の前を通りかかったときのカレーの香りに三人が同時にお店を見てしまったからだ。

 本格的なインドカレーのお店で会社の人たちも結構利用しているお店だった。私も何度かこの店に来たことがある。

 店内に入ると四人掛けのテーブルに案内された。

 窓際の席に日和さんが座り、私はその隣に座る。砂川さんは日和さんの正面の席に着いた。少しだけ砂川さんの機嫌が悪いように見えたけれど気にしないことにした。

 日替りランチは、二種類のカレーとサラダが付く。そしてライスかナンかを選ぶことができた。

 今日はチキンカレーと豆カレーという私の大好きな組み合わせだった。本当に今日は良い日だ。

 三人とも日替りランチ(ナン)とドリンクを注文したのだが、私はご機嫌だったので、二百円プラスしてチーズナンにグレードアップした。

「満月さん、チーズナン、ちょっと頂戴」

 日和さんがうらやましそうな顔で言った。今日は日和さんにお礼をしたい気分なので笑顔で快諾した。すると砂川さんの機嫌がさらに悪くなったように見えたけれど気にしない。

「最近、満月さんと砂川さん、仲がいいよね」

 日和さんがポワポワとした口調で言う。

「そんなこともないと思うけど……」

 黙々とナンをちぎってカレーにつけている砂川さんをチラっと見ながら私は否定する。

「そう? 最近よく二人でランチに行ってるじゃない」

「まあ、たまたまね」

「私も誘ってよ」

「うん、もちろん。また三人でランチしよう」

 私が元気よく答えても砂川さんは黙ったままだ。息継ぎもせずに萌え語りをする砂川さんとは全く別人のようで思わず笑ってしまいそうになる。

 そんな砂川さんの様子には日和さんも気付いたようだ。

「砂川さん、もしかして迷惑ですか?」

 日和さんは少しだけ首を傾けて砂川さんを見た。すると砂川さんは作り笑顔で「そんなことないよ」と答える。

 これからはできるだけ日和さんも誘ってご飯に行くようにしよう。そうすれば『草×陽』トークから解放される。明るい光が差した気分だ。

 私は「ナイス日和さん」と心の中でつぶやきながら、チーズナンをちぎって日和さんの皿の上に追加で乗せた。

「チーズナンおいしいね。今度は私もチーズナンにしようかなぁ。でも二百円かぁ」

 日和さんは呑気な口調で言いながらチーズナンにカレーを付けて口に運ぶ。指についたカレーを舐める仕草が少し色っぽく見えた。

 砂川さんはそんな日和さんに恨みがましい視線を送っている。私はやっぱりそれに気付かないフリを決め込んで、豆カレーをスプーンですくって口に放り込む。鼻腔を通り抜けるスパイスの香りと食感の違う数種類の豆が口の中で踊るのを堪能する。

 日和さんは「二百円」とつぶやきながら、私が渡したチーズナンを指先でつまんだ。そしてパッと顔を上げる。

「あ、もしかして砂川さんもチーズナン、食べたいですか?」

「ん? ううん。大丈夫」

 砂川さんは笑顔を作って答えた。若干怖い感じの笑顔になっているけれど、無視無視。

「あっ、そうか」

 日和さんはチーズナンを皿に戻すと、ポンと手を叩いた。何かが閃いたのだろう。私は豆カレーを食べながら日和さんの横顔を眺める。

「砂川さんって満月さんのことが好きなんだ」

 私は思わず豆カレーを吹き出すところだった。何を突然言い出すのだろう。

「な、ばっ、違うわよっ!」

 私が否定の言葉を口にする前に砂川さんが激しく否定した。だけどなぜか顔を真っ赤にして目を彷徨わせている。

 私は唇を結んで目をしばたかせた。砂川さんのその反応だと、まるで肯定しているように見える。

「ホント、違うから、そんなはずないでしょう! 違うから!」

 執拗に否定する砂川さん。

 よし、気付かなかったことにしよう、と決めて私は残っていたナンを摘まんでカレーに浸す。どうも今日は気付かないフリばかりだ。

「なんだ、違うのかぁ」

 日和さんはあっさりと砂川さんの言い分に納得した。それで砂川さんもホッとしたようにナンちぎりはじめる。私もホッとした。妙なところを掘り返されて地雷が出てきたら最悪だ。

 しかし砂川さんが私のことを、ってどういうことだろう? 目障りだとか言ってなかったっけ? 気付かないフリをしたのに頭の中に疑問が湧き起こる。本当に砂川さんの思考回路が理解できない。

 そして、もう一方の理解できない女、日和さんはまた新たな疑問が浮かんだようだ。

「じゃあ、満月さんには好きな人がいるの?」

 なにが「じゃあ」なのか分からないけれど、どうしてそう言う話題をこのタイミングで私に振るのか分からない。日和さんは思っていたよりもずっと怖い人だった。邪気のない笑顔が余計に怖い。

「え、あー、いないよ……」

 笑顔を浮かべて答えたけれど、若干ひきつっている自覚がある。

「あ、それはいるって感じじゃない?」

 ちょっと待って、さっきの砂川さんの態度には食いつかなかったのに、私には食いついてくるの? 本当に勘弁してほしい。少なくとも矢沢さんに対して抱いている気持ちを砂川さんに知られるわけにはいかないのだ。多分血の雨が降る。

「本当にいないって」

「えー、なんで隠すの? 教えてよー」

 日和さんは引き下がらない。こういう感じは学生時代にもあった。面倒臭いタイプの女子トークってヤツだ。どれだけ否定しても相手が満足する答えを出すまで解放されないヤツだ。

 せっかくの昼休みにのんびりするどころか精神的疲労が蓄積していく。一人でゆっくりランチを食べたい。

「そういう日和さんは好きな人いるの?」

 こういうときは質問を質問で返して回答権を相手に譲ってしまおう。そうしてうやむやにしてしまえばいい。

 だが、日和さんは間髪いれずに「いるよー」と答えた。

「え? そうなの? 誰? どんな人? 私も知ってる人?」

 好奇心が刺激されて、思わず矢継ぎ早に質問してしまった。

「んー、教えてもいいけどー、そうしたら満月さんも教えてくれる?」

 日和さんは返す刀で私に迫る。しまった。

「あ、いい。聞かない」

「そんなこと言わずに聞いてよー」

「聞かない、聞かない。あ、まずいもう時間だ。早く食べないと」

 私は棒読みでそう言って残りのカレーに視線を移す。

 その後も日和さんと「聞く」「聞かない」「教える」「教えない」攻防を繰り広げながらランチを平らげた。

 その間、砂川さんは会話に混ざろうとはしなかった。自分ひとりだけ安全な対岸で身を潜めているなんてずるい。



 そんな感じで非常に疲労感の募るランチを終えて会社に戻った。

 三人でランチに行けば砂川さんの萌えトークからは解放される。だが、日和さんのどこから飛んでくるか分からない攻撃に耐えなければならない。私には安寧のランチタイムはないのだろうか。

 ぐったり疲れていても、午後からもがっつり仕事がある。矢沢さんの足を引っ張らないようになると決めたので、仕事の手を抜くわけにはいかない。

 そんながんばりの成果か、最近では少しだけミスが減ってきているように感じる。横目で矢沢さんを見ると、黙々と仕事を片付けていた。

 その日の夕方、矢沢さんが草吹主任に呼び出されてミーティングルームに入っていった。

 密室でどんなやり取りが行われているのか私には分からない。

 砂川さんではないけれど、矢沢さんと草吹主任の関係は気になる。

 矢沢さんへの気持ちを自覚したことと、砂川さんから萌えトークを刷り込まれたことで、二人のことが気になって仕方がない。

 チラリと振り返って砂川さんを見ると、笑みを堪えるように口もとを手で押さえていた。

 私は小さくため息をついてパソコンに向かう。

 草吹主任が矢沢さんを可愛がっていることは入社したときから気付いている。だけど私にはそこに恋愛的な匂いを感じなかった。

 以前は草吹主任が矢沢さんをペット扱いしているように感じていた。だが、最近は母親……というよりも、おばあちゃんが目の中に入れても痛くない孫を甘やかしているように見える。

 ただ、私の目はかなり曇っているようなので、正しい判断ができている自信はない。

 一方の矢沢さんも草吹主任に対して好意は持っているだろう。それは分かるのだが、その好意の種類まで見抜くことはできない。

 二人がどんな関係なのかを聞いてみたいけれど、それを聞くチャンスが訪れるようには思えなかった。日和さんのようにズバッと空気を読まずに聞いてしまえるスキルが欲しい。

 そんなことを考えているうちに、矢沢さんが自席に戻ってきた。なんだか少しぐったりして元気がないように見える。

 また草吹主任から熱烈なハグをされて窒息しかけたのかもしれない。私は合宿研修最終日の山小屋で見た二人の姿を思い出して、草吹主任のバストで窒息というのは一度経験してみたいと思った。あくまでも知的好奇心である。

 熱烈ハグが原因でぐったりしていると思っていた矢沢さんは、終業時間になってもぐったりしたままだった。

 そんなに激しいハグだったのか? とも思ったのだが、さすがにそんなはずはないだろう。何か悩みがあるのかもしれない。

 私は辺りをぐるりと見回す。幸いなことに砂川さんの姿がない。

「矢沢さん」

 帰り支度をはじめた矢沢さんに小声で話し掛けた。矢沢さんは手を止めて私を見る。やっぱり元気がないように見えた。

「よかったら、今日食事に行きませんか?」

「あ、今日は……」

 矢沢さんはそう言いかけて言葉を止めた。そして数秒沈黙してから「行きます」と答えた。

 やっぱりちょっと様子がおかしい。悩みがあったとして私に相談してもらえるか分からないし、相談されたとしてもそれを解決できるなんて思わない。

 だけど明日は会社も休みだ。ゆっくりと矢沢さんの話を聞けば気晴らしくらいにはなるだろう。

「じゃあ、行きましょうか」

 私は慌てて帰り支度をして、砂川さんに見つからないうちに矢沢さんと一緒に会社を出た。



「さて、どこに行きましょう? この間行った矢沢さんの行きつけのお店にしますか?」

「別のところがいいです」

 矢沢さんは元気のない声で答える。

「何か食べたいものはありますか?」

「特には……」

「私もあまりお店知らないんですけど……。あ、そうだ。ウチの近くの店でもいいですか?」

 私はできるだけ明るい声で矢沢さんに話し掛けた。それくらいしかできることがないのだから仕方ない。

「はい」

 矢沢さんの返事を聞いて、自宅の最寄り駅にあるイタリアンレストランに向かった。

 高級レストランという雰囲気ではなく、イタリアの家庭料理を出すお店という感じだ。

 店内は既に混み合っていたが、二人席が空いており待たずに席に案内してもらえた。

「飲み物、どうしますか?」

「モスコー・ミュールが飲みたいです」

 以前、矢沢さんはあまりお酒を飲まないと言っていた。だけどモスコー・ミュールに興味を示していたから、今日は挑戦したい気分なのかもしれない。

 ビールよりはアルコール度数は高いけれど、極端に高いというわけでもないし、飲み過ぎないように注意してみていれば大丈夫だろう。

 私は頷いて、店員にモスコー・ミュールを二杯と数点の料理を注文した。

 矢沢さんは黙ってテーブルを見つめるばかりで何も話そうとはしない。元々自分から嬉々としてしゃべるタイプではないけれど、それにしても元気が無さ過ぎる。

 少しするとモスコー・ミュールが運ばれてきた。

 私はグラスを手に持ったが、矢沢さんはモスコー・ミュールが届いたことにも気付いていないようにじっとしている。

「矢沢さん?」

 そこでようやくハッとしたようにグラスを持ち上げた。私は腕を伸ばして矢沢さんの持つグラスにカチンとグラスを合わせて「おつかれさまです」と声を掛けた。矢沢さんも「おつかれさまです」とつぶやくとグビリとモスコー・ミュールを飲む。

 私はその様子を見ながらモスコー・ミュールを少し多めに喉の奥に流し込んで勢いをつけた。

「矢沢さん、もしかして何かありましたか?」

 中途半端な聞き方だけど「悩みがあるんですか?」とか「相談にのりますよ」とまでは言えなかった。

「いえ、別に……」

 矢沢さんは目を伏せた。やはり私なんかには言えないのだろう。

「それならいいんですけど、ちょっと元気がないかな? って思って」

 私は笑顔を浮かべる。

 矢沢さんは私の顔をしばらく見つめてモスコー・ミュールを飲んだ。

「ありがとうございます。大丈夫です」

 あまり大丈夫そうには見えなかったが、語りたくないというのならば深追いしない方がいい。そして私は、矢沢さんが元気になれそうな話を探す。

「ウチのアパートの側のお家で猫を飼ってるんですけどね。毎朝窓際でお見送りしてくれるんですよ」

「そうなんですか」

「お金持ちのマダムって雰囲気なので、勝手に『マダム』って呼んでたんですけどね」

 私が必死で話している間も、矢沢さんはモスコー・ミュールをグビグビ飲んでいる。

「この間の休みに、飼い主さんが『マダム』を抱っこして散歩をしていて……」

 そこで注文していた料理が届いた。矢沢さんのグラスは空になっている。

 店員に「お飲み物はいいですか?」と聞かれて、矢沢さんは「おかわりを」と注文した。慌てて私も追加でモスコー・ミュールを頼む。

「それでどうしたんですか?」

 矢沢さんに聞かれて首を捻ったが『マダム』の話だったと思い出した。

「ああ、それで声を掛けたんですけど、その猫の名前『コジロウ』だったんです。男の子だったんですよ。イメージが違ってビックリしました」

「そうですか」

 爆笑できる話ではないことは自覚していたが、クスリとも笑ってもらえなかったことにショックを受ける。少し残っていたモスコー・ミュールを飲み干したとき、おかわりが届いた。

 そこからも私は果敢に話を続けた。途中で心が折れるかとも思たが、続けているうちに、少しだけ笑みを浮かべてくれるようになった。

 しかし気になるのは矢沢さんがお酒を飲むスピードだ。私よりも早いペースでグラスの中身を空にしていく。

「矢沢さん、ちょっと飲むペースが速くないですか?」

「大丈夫です」

 矢沢さんは少し笑みを浮かべた。

 顔色は少し頬が赤くなっている程度だ。目がトロンとしてきているような気はするが、心配するほどではないように見える。

 普段あまりお酒を飲まないからといって、お酒に弱いということはない。矢沢さんはお酒に強いタイプなのだろう。

 ただ、普段飲み慣れていないと思った以上に酔いがまわってしまっていることもある。大学時代は、それで雅に多大なる迷惑を掛けてきた。

「あ、そうだ。輝美ちゃんが就活なんです」

 お酒が回ってきたのか、矢沢さんから話を振ってくれた。もう振る話題のネタに詰まっていたのでありがたい。

「輝美ちゃん?」

「はい。輝美ちゃんです」

 矢沢さんの返事は説明になっていなかったが、矢沢さんの行きつけの居酒屋の店員だったと思い出した。

「ああ、あの居酒屋の……」

「この間ご一緒にご飯を食べたときに言ってました」

 矢沢さんの言葉に右の眉がピクリと動いてしまった。よく顔を合わせる店員と客という関係だと思っていたのに、どうやらそれ以上の関係のようだ。

 胸の奥に急に沸いた不快感が嫉妬であることは考えるまでもなかった。

 私だって、砂川さんの妨害がなければ、矢沢さんを食事に誘いたかったのだ。

「えっと、その輝美ちゃんが就活をはじめたんですか?」

「はい。輝美ちゃんは大学四年生なんです」

「え? 四年? ちょっと遅くないですか?」

「そうなんですか?」

 矢沢さんはコテンと首を傾げた。その仕草が幼い子どものようで妙にかわいく見える。

「あ、いや、よく分からないですけど……」

 悶えてしまいそうな自分を律しながらなんとか言葉を返した。少なくとも私は、雅にお尻を叩かれて三年には就活に取り掛かっていた。

 しかし目指す職種によっては試験などの関係で就活の時期が遅いこともある。

「輝美ちゃんから相談されました」

「へー、輝美ちゃんと仲がいいんですね」

 ちょっと棒読みになってしまったけれど、矢沢さんが少し元気になってきているようなので、なんとか話しを続けられるように返事をした。

「輝美ちゃんはいつもよくしてくれるので……」

「そうなんですね」

「はい。だから少しでも力になりたかったんですけど、全然ダメでした」

「いや、そんなことないと思いますよ」

 矢沢さんが力になりたいと思っただけで充分価値があると思う。

「私なんてダメです。頼りにしてもらえてうれしかったけど、全然頼りにならなくて……」

「そんなことありません。矢沢さんは頼りになりますよ」

 実際に仕事では矢沢さんを頼りにしてばっかりだ。

 だが矢沢さんは首を横に振ってモスコー・ミュールをあおる。

「少なくとも私はいつも頼りにしてますよ。仕事ではいつもそうですし、ほら、合宿のオリエンテーリングの時もすごく心強かったです」

 矢沢さんは少し私の顔を見つめてすぐに俯いてしまった。

 矢沢さんを元気づけようと思って言ったのに、なんだか落ち込ませてしまったみたいだ。

 何がいけなかったのだろう。オリエンテーリングの話だろうか。よく分からないけれど、ともかく話題を変えるしかない。。

「あ、そうそう。いたずらはやっぱり砂川さんでした」

「はい」

 矢沢さんは目撃していたのだから驚きはないだろう。

「砂川さんとちゃんと話したので、もういたずらはなくなりましたよ」

「そうですか」

「えっと、矢沢さんが教えてくれたおかげです」

「どうして……」

「え?」

「どうしていたずらしていたんですか?」

 矢沢さんがジッと私の目を見る。だけどその理由を矢沢さんに教えることはできない。

「あー、えーっと、遊び、みたいな感じかな?」

 とりあえずこう言っておくしかないだろう。

 すると矢沢さんは俯いてグラスに手を伸ばした。

「仲がいいですね」

「そんなこともないんですけど……」

 仲がいいというのとは全く違う。少なくとも私の方は仲がいいなんて思えない。

「最近、よく一緒にランチに行ってますね」

「はあ、まぁ……」

「私は野崎さんを全然ランチに誘えません」

 一気にテンションが上がる。矢沢さんが私をランチに誘おうと思ってくれていたなんて知らなかった。

「誘ってくださいよ。大歓迎ですよ!」

「野崎さんは、錦さんとも仲がいいですよね」

 一瞬、錦さんって誰だっけ? と思ったが、日和さんの苗字だ。

「日和さんは同期ですからね」

「大学の頃のお友だちとも仲がいいですよね」

「雅ですか? 腐れ縁みたいな感じですよ」

「野崎さんは、お友だちが多くていいですね」

 なんとなく矢沢さんの言葉に棘を感じる。これはもしかして嫉妬だろうか。嫉妬ならば矢沢さんが私に対して特別な感情を抱いていると期待できるのかもしれない。

「私なんて……」

 そうして矢沢さんはグラスのお酒をあおって空にすると店員を呼んでおかわりを要求する。

 なんだか嫉妬をしているのとは違う感じだ。

「えっと、友だちが多いからいいってわけじゃないと思いますよ」

「……」

 矢沢さんは座った目で私をジッと見る。矢沢さんが何を考えているかさっぱりわからない。

「えっと、私としては、たくさんの友だちよりも、矢沢さんともっと仲良くなりたいです」

 私は思い切って言う。ちょっとお酒の勢いを借りたけれど率直な気持ちだ。たくさんの友だちと仲良くするよりも、矢沢さんのことをもっと知りたいし、もっと仲良くなりたい。ちょっと告白みたいだけれど、そう思われてもいい。

 私はゴクリと生唾を飲んで矢沢さんを見つめた。

 すると矢沢さんはフイっと視線を落とす。

「光恵さんが……」

 思いっきり私の発言がスルーされてしまった。結構勇気を出した発言だったからちょっぴり泣きたい気持ちになる。

「光恵さんって、草吹主任ですよね」

「友だちはたくさんじゃなくていいって」

 どうやらもう私の言葉は聞こえていないようだ。私は黙って矢沢さんの言葉を聞くことにした。

「ゆっくりでいいって」

 そこまで言うと矢沢さんは黙ってしまった。しばらく言葉の続きを待ったが、それ以上は語ろうとしない。

 矢沢さんが落ち込んでいる様子だったのは、草吹主任との間に何かがあったのだろう。

 ともかく矢沢さんがかなり酔っていることは分かった。顔色に出ないから分かりにくい。もっと早く止めておくべきだった。

「矢沢さん、そろそろ帰りましょうか」

「まだ大丈夫です」

「あまり大丈夫じゃなさそうですよ」

「モスコー・ミュール、おいしいです」

「じゃあ、また今度飲みましょう」

 そう言ってなんとか矢沢さんを立たせて店を出る。全額私が支払うことになったのでちょっと痛い出費だが、今は矢沢さんの方が心配だ。

「矢沢さん、帰れますか?」

「モスコー・ミュール」

「いやいや、帰りますよ」

 座って飲んでいるときには気付かなかったが、足元がかなりおぼつかなくなっている。ひとりで帰らせるのは無理そうだ。

「矢沢さん、送っていきます。お家の場所、言えますか?」

 電車に乗るよりもタクシーの方がいいだろう。さらに出費がかさみそうだが仕方がない。

「おうち……やだ」

 子どものように駄々をこねる矢沢さんもかわいいが、ちょっと困る。

「そんなこと言わずに帰りましょう」

「やだ。飲みに行く……」

「今、飲み終わったばっかりですよ~」

「行く」

 矢沢さんはふらつく足取りで私を引っ張って歩き出そうとする。私は矢沢さんを抱えるようにしてなんとか引き止めた。

 矢沢さんが住んでいる街の駅は分かる。だけど正確な住所は分からない。とりあえず近くまで行くという手もあるが、ちゃんと家の場所を教えてもらえるのか不安だ。

「ね、のみ、いこっ」

 矢沢さんがさらに誘う。思わず「はい」と返事をしてしまいたくなる。だけどここはお姉さんとして毅然とした態度を取るべきところだと思う。

「ダメです。帰りますよ」

「いじわる……」

「意地悪をしているわけじゃなくて」

「ヤダ」

「……矢沢さん、本当にどうしたんですか?」

「何が?」

「なんだか今日はおかしいですよ」

「うん、楽しいね」

 だめだ。会話が噛み合わない。酔っ払いと会話をしようとするのが間違っているのかもしれない。

「送っていくので帰りましょう」

「ヤダ」

「そんなこと言わないで……」

「ヤダ!」

 そう言って矢沢さんが私に抱きついた。どうしていいのか分からず、思わず両手を上げて万歳をしてしまう。

 矢沢さんは私の背中に回した腕にギュッと力を込める。

「やだ……」

「えっと……矢沢さん?」

「やだ。辞めないで……」

「矢沢さん?」

「辞めないで……」

 矢沢さんの肩が小さく震えていた。矢沢さんが泣いている。

 私は矢沢さんに何かを辞めるなんて話はしていない。だから矢沢さんの言葉は私に対して言っているものではないのだろう。

 矢沢さんの様子がおかしい原因が草吹主任にあるのだとすれば、矢沢さんが「辞めないで」と訴える相手は草吹主任なのかもしれない。

 確かめたいが、今の矢沢さんにそれを聞くことは無理だろう。

 私は挙げていた手を降ろして矢沢さんの背中を静かにさすった。

 少しすると私の背中に回していた矢沢さんの手が緩み、私にかかる矢沢さんの重みが増していく。

 まずい、寝落ちしかけている。私は焦った。いくら矢沢さんが小柄だといっても、私には抱きかかえて歩けるほどの腕力はない。それに私もそれなりに酔っぱらっている。

「矢沢さん、矢沢さーん、起きてくださーい」

「はい」

 半分眠ったような状態で矢沢さんが答えた。

 この状態で矢沢さんの家まで連れて行くのは無理だろう。そうなると私の家に連れて行くしかない。

「矢沢さん、歩けますか? ウチに行きましょう」

「はい」

 矢沢さんは私にしがみつきながらなんとか足を動かしてくれた。

 来年の合宿研修のために体力を付けようと思っていたけれど、またこんなことが起きたときのために筋力も付けておくべきだろうかと考えながら、ゆっくりと足を進める。

 しかし矢沢さんを我が家に連れて行くことは本当に正しいのだろうか。もしかしたら別のいい案があるのかもしれない。

 私は矢沢さんの動きに注意を払いつつ携帯を取り出した。困ったときの『雅えもん』だ。

 少し長めのコール音が切れ『なに?』という不機嫌そうな雅の声が聞こえた。

「ちょっと緊急事態なんだけど」

――だから、なんなの?

「矢沢さんと飲んでたら、酔っぱらっちゃって」

――へぇ。

「寝落ちしかけてるから、ウチに連れて行こうと」

――へぇ。

「どうしたらいい?」

 すると電話の向こうから大きなため息が聞こえた。

――押し倒しちゃえばいいんじゃない?

「はぁ、何を言ってるの!」

 私が叫んだときにはすでに電話は切れていた。

 雅の塩対応はいつものことだけど、この切羽詰まった状況でのこの対応は冷たすぎる。

 電話を掛け直す気分にもなれず、私は携帯をポケットにしまった。

 歩みを進めながらも、矢沢さんが私に預ける体重の比率は徐々に高くなっていた。

 早く家に辿り着かなければ矢沢さんは完全に寝てしまうだろう。だから、矢沢さんを我が家に連れて行くという選択は正しいはずだ。

 矢沢さんの顔を覗き込むと、もうほとんど目を閉じている。

「や、矢沢さん、がんばって歩いてくださいね」

 私はそう声を掛けて矢沢さんを抱える腕に力を込めた。骨の堅さと同時に柔らかさも感じる。そのとき「押し倒しちゃえば」という雅の声が脳裏をかすめた。

 私はブンブンと頭を振って雅の声を追い払う。

「矢沢さん、もうすぐ着きますからね」

 邪念を追い払って声を掛けると、矢沢さんは「辞めないで」とつぶやいた。

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