season2-2:いたずら犯(viewpoint満月)

 合宿研修を終えた月曜日は、研修に参加した社員は休日になっていた。土曜は終日、日曜は帰るだけとはいえ拘束されるための振り替え休日だと思っていたが、きっとそれは真相ではない。

 あの地獄のレクリエーションを課せられた社員が、月曜から元気に働くことができないのを見越しての措置だと思われる。

 私も日曜の午後に帰宅してからずっと寝て過ごすことになった。それでも火曜日になった今日も体は悲鳴を上げ続けている。

 それほどまでに過酷な体験をしたのだから、同期の何人かは文句を言うなり、会社を辞めるなり騒ぐのではないかと思っていたが、そんな声は聞こえてこなかった。

 帰りのバスの中でのみんなの顔を思い出す。疲労でぐったりしているにも関わらず、どこか充実した満足気な顔をしていた。どうやら地獄を乗り越えた達成感は、地獄を見せられた理不尽さを超えるらしい。

 私の経験したオリエンテーリングは達成感を得られるようなものではなかった。バスに乗り込んだときには「帰ったら退職願いの書き方を調べよう」という気持ちが五十パーセントくらいはあったのだ。

 だが、それを調べることなく火曜日も当たり前に出勤しているのは、あの日のバスで隣の席に座った矢沢さんの姿を見たからだ。ウトウトとする矢沢さんを見て、なぜか「来年のために体を鍛えよう」と決心してしまった。

 他の社員たちと比べると動機は不純かもしれないけれど、あのオリエンテーリングのトラブルを考えたら、来年も……なんて考えられない。

 地図の取り違えによる遭難。怪我もなく無事に帰ってこられたが、一歩間違えば大惨事になっていたかもしれないのだ。

 だけどそのお蔭で、私は矢沢さんに対して抱いていた疑念を払拭することができた。

 矢沢さんは不器用で照れ屋でやさしくて真面目な人なのだと分かった。多分、これがこの合宿での最も大きな収穫だと思う。

 そんな矢沢さんを疑い続けていたために、私はオリエンテーション中、ずっと足を引っ張り続けて迷惑を掛けてしまった。だから、それを何かの形で返さなくてはいけないと思っている。具体的に何をどうすれば返せるのかは分からない。だけどその気持ちは必要だと思う。

 とりあえずは仕事を頑張って、仕事でも矢沢さんの足を引っ張る真似は(できるだけ)しないようにしたい。

 そして、遭難して過ごしたあの山小屋で抱いた矢沢さんに対する気持ちが何なのかも確かめたい。

 異常事態に陥り、これまで距離を取ろうとしていた人と急接近したことで勘違いしただけかもしれない。でも、もしも勘違いでないのならば……。

 いずれにしてももう少し矢沢さんのことを知る必要がある。

 あと一つ、会社を辞めたくない理由があった。それは、度々繰り返されてきているいたずらだ。もしも今、私が会社を辞めたら、いたずらに屈してしまったように見える。それはあまりにも悔しい。

 つまり、なんとか無事に合宿研修を終えた私には四つのミッションが発生したということだ。

 一つ目は来年に向けてトレーニングをすること。

 二つ目はもっと仕事を頑張って一人前は無理でも半人前くらいにはなること。

 三つ目は矢沢さんのことをもっと知って矢沢さんに対して抱いた気持ちの本質を探ること。

 四つ目はいたずら犯を突き止め、その理由を問い詰めること。

 とりあえず一つ目は筋肉痛がもう少し収まってからにして、二つ目と四つ目はすぐには無理なのでゆっくりと取り組むことにしよう。

 そんなわけで私は出社してすぐに行動を起こした。体を軋ませながらゆっくりと椅子に座って矢沢さんの方を見る。

「あの、今日の帰りに研修の打ち上げってことで、一緒にご飯に行きませんか?」

 これまでこんな風に誘ったことはないので、矢沢さんがどう返事をしてくれるか少し不安だった。

「はい」

 矢沢さんは小さな笑みを浮かべて返事をしてくれた。

 その笑顔を見てギュウンと一気にテンションが上がる。

「やった、本当ですか?」

 思わずいつもの調子で立ち上がり「ウガァッ」と怪獣のように叫び苦悶の表情を浮かべてしまった。

「大丈夫ですか? 無理はしない方が」

「大丈夫です。少し動いた方がいいんですよ、多分」

「そうですか?」

「はい。そうです」

 私は痛みをこらえて笑顔を浮かべる。こんなことで「やっぱりやめましょう」なんて言われたくはない。

 矢沢さんは少し心配そうな顔をしながらも「わかりました」とだけ言って仕事の準備をはじめた。

 そのとき刺すような視線を感じた。振り返って辺りを見渡したが私を見ている人はいない。

 気のせいだったのか、それともいたずら犯か。こうしている今もいたずらを仕掛ける隙を狙っているのだろうか。

 私がいたずら犯だと容疑を掛けていたのは、隣の席の矢沢陽(やざわよう)さん、上司である草吹光恵(くさふきみつえ)主任、一年先輩の砂川花(すなかわはな)さん、同期の錦日和(にしきひより)さん、日和さんの指導担当をしている用賀紫雨子(ようがしゅうこ)さんの五人だ。

 その中で矢沢さんは犯人ではないと確信できた。だから現段階での容疑者は四人になる。

 だが、そもそもこの容疑者が間違っているのかもしれない。矢沢さんを一番の容疑者にしていた私の推測が当たっているなんて思えない。何よりも信用できないのが私の洞察力だ。雅(みやび)の言葉を借りれば、私の目は曇っているらしい。

 ここは容疑者のことは一度忘れて、しばらく様子を見ることにしよう。頭の中を空にしてフラットな状態にした方が何かを発見できるかもしれない。



 体の痛みと闘いながらなんとか一日の仕事を終えて矢沢さんと一緒に会社を出る。

 打ち上げの場所に選んだのは、以前雅と一緒に行った居酒屋だ。私も矢沢さんも知っている共通の場所として挙げたのだが、矢沢さんに対する愚痴を聞かれた場所だと考えると少し気まずさはあった。だが、矢沢さんは特に気にしていないようだ。

 会社を出てから居酒屋へ向かう間も、店内に入ってテーブルに案内されているときも、矢沢さんは私のことを気遣ってゆっくり歩いたり手を差し伸べたりしてくれた。

 うれしいのと恥ずかしいのでなんだかムズムズする。これはアレだろうか、本格的にアレだろうか。などと考えながらテーブルに着くと、すぐに店員の女の子が注文を取りに来た。

 私はいつもの調子で「モスコー・ミュール」と注文する。するとほんの一瞬だが、店員の女の子が私を睨んだような気がした。この店に来たのはこれが二回目だ。前回、少々大声で話していたような気はするが、店員さんを怒らせるほどではなかったと思う。

 だから多分、注文をした私の方を見て確認しただけだろう。それを睨まれたと感じてしまうのは、いたずら犯のことで人の視線や動向に過敏になっているからかもしれない。

「矢沢さんはどうしますか?」

「えっと、私はビールを……」

 私の問いに矢沢さんが答えたとき、店員の女の子が「えっ?」と声をあげた。矢沢さんは成人しているが、見た目だけではそれは分からない。だからビールを頼んだことに驚いたのだろう。年齢を知っている私も、矢沢さんがビールを頼んだことを少し意外だと思ってしまったのだから。

 ここは私から矢沢さんは成人している旨を伝えよう、そう思ったとき矢沢さんが店員の女の子を見上げて口を開いた。

「会社の研修が無事に終わったので」

 すると店員の女の子は少し首を傾げて「研修?」と聞き返す。

「先週末から合宿研修だったんです」

「そうだったんですね。最近見掛けなかったんで風邪でも引いたんじゃないかって心配してたんですよ」

 店員の女の子は矢沢さんの顔を見ながら笑顔で言う。私はなんとなくその腰に付けられている名札を見た。手書きで『輝美ちゃん』と書いてある。

 矢沢さんは申し訳なさそうな顔をして「あ、すみません」と言った。

「いえいえ、勝手に心配していただけですから。じゃあ、こちらの方は会社の同僚の方ですか?」

 矢沢さんの言葉を受けて店員・輝美ちゃんは私の方をチラリと見た。私は平気な顔で小さく頭を下げたのだが、心の中には悔しさが溢れていた。

 この店は矢沢さんがよく来ているお店だ。だから、矢沢さんの年齢は既に知っていたのだろう。知っているのはきっとそれだけではないと思った。この輝美ちゃんは私なんかよりもずっと矢沢さんのことを知っているような気がしたのだ。

 私はこの間の合宿でようやく矢沢さんの本当の姿を知ったのに、居酒屋の店員さんの方が私よりも矢沢さんを知っている。

 そのことを悔しがるのはお門違いだと思う。私は自分で自分の目と耳を塞ぎ、矢沢さんのことを知ろうとしなかったのだから。

 注文を聞き終えた輝美ちゃんが去っていく後ろ姿を眺めながら「矢沢さん、店員さんと仲がいいんですね」と聞いてみた。

 すると矢沢さんは「はい。よく来ているので」と軽く答える。矢沢さん自身もあの輝美ちゃんと仲がいいと認識しているということだ。もしも他の誰かが「野崎さんと仲がいいですね」と言ったら、こんな風に、さらりと「はい」と答えてくれるだろうか。

 今はそんな風には言ってもらえないような気がした。私が矢沢さんに対して抱いているかもしれない気持ちはともかく、同じ会社で机を並べているのだから、居酒屋の店員よりは仲がいいと思ってもらいたい。スタートで失敗したけれど、今から頑張って盛り返そう。

 私は気を取り直して矢沢さんに話し掛る。

「このお店、そんなによく来るんですか?」

「はい。ほとんど毎日来ています」

「え? 毎日?」

 居酒屋までの道すがら、この近所に住んでいることは聞いた。しかし、さすがに毎日通っているとは思わなかった。

「おかしいですか?」

「あ、いえ、あー、矢沢さんがそんなにお酒が好きだったなんて、意外だなーと」

「お酒はあまり飲みませんよ」

「そうなんですか?」

「夕ご飯を食べに来ています」

「ごはん?」

「安くておいしいですし」

「なるほど。でも一人で居酒屋ってちょっと来づらくないです?」

「そうでもないですよ」

 そう言って矢沢さんは店内に目を移す。それにつられて私も店内を見回すと一人や二人の客が多いような気がした。

「それに店員の皆さんもやさしくしてくれるので、ここに来るとホッとするんです」

 先ほどの輝美ちゃんとも仲良さげだったが、きっと他の店員さんとも仲良くしているのだろう。

「へー、いいですね」

 私が胸の奥に浮かんだ嫉妬に似た思いを隠しながら笑顔を浮かべたとき、輝美ちゃんが飲み物を持って現れた。

「お待たせしました」

 輝美ちゃんは笑みを浮かべてそう言うと、矢沢さんの前にビールを、私の前にモスコー・ミュールを置く。

 私は早速グラスを手に取り、矢沢さんの方に少し差し出して「では、研修お疲れ様ということで」と言いながら乾杯を催促する。

 すると矢沢さんも小さな笑みと共にビールジョッキを持ち上げてカチンとグラスに合わせてくれた。

 私は胸の中に浮かびかけた不快感を流すようにグビグビとモスコー・ミュールを飲む。「プハー」と息をつくと、少し気分が晴れるような気がした。

「研修はホントに災難でしたよね」

 私が言うと、矢沢さんは「はい」短く答えて頷く。

「矢沢さん、疲れていませんか?」

「しっかり休んだので」

「私、筋肉痛がスゴイですよ。やっぱり鍛えた方がいいですね」

「そうですね」

 矢沢さんはあまり表情豊かな方ではなく、言葉も多い方ではない。そのことは分かっていたけれど、こうして一方的にしゃべっていると少し悲しい気持ちになる。

 やはり矢沢さんはまだ私に対して心を開いてはいないのだろう。でもそれも仕方のないことだ。合宿の夜、トラブルに巻き込まれたことで少しは打ち解けることができたけれど、たった一日だけのことだ。

 一足飛びに距離を縮められるはずはない。ゆっくりと距離を縮めていくしかない。入社してからの二カ月、私が距離を縮めようとしなかったことの結果なのだ。

「矢沢さんには迷惑を掛けっぱなしで、本当にすみませんでした」

 私は改めて矢沢さんに謝罪する。こんな言葉では足りないと思うけれど、それでも伝えておきたかった。

「いえ、迷惑を掛けてしまったのはむしろ私の方です。野崎さんにたくさん助けてもらいました……」

 あの日も矢沢さんは「野崎さんに助けられた」と言っていた。私が一体何をしたのだろうか。思い返してみても矢沢さんを助けたことなんてないような気がする。

「私は何もしてないですよ」

「でも、夜……」

 矢沢さんが口を開きかけたのを「ああ」と言ってさえぎった。あの夜のことは思い出すと恥ずかしい。仕方がなかったとはいえ、改めて語り合うのはちょっと照れくさい。

「あれはあれしかなかったっていうか……」

 そんな私の様子に矢沢さんは少し首を傾げた。矢沢さんは恥ずかしくなかったのだろうか。そんな微妙な心の温度差にちょっぴり胃の底がキリリと痛む。

 私は喉の渇きを感じてモスコー・ミュールを一口飲んだ。

「あの……野崎さんのお酒って……」

 そう言った矢沢さんの視線は私の手にあるグラスに注がれている。

「モスコー・ミュールですか?」

「おいしいですか?」

「飲んだことありませんか?」

「はい。お酒はあまり知らなくて」

 そう答えた矢沢さんの目に少しだけ好奇心のようなものが見えた気がした。

「ちょっと味見してみます?」

 私はほんの冗談のつもりで言ってみた。矢沢さんのことだから「あ、いえ……」と答えるのではないかと予測していたのだ。

 ところが矢沢さんは「はい」と小さく言って手を伸ばしてきた。驚いたけれど、その行動がちょっとうれしく感じる。

 矢沢さんはおっかなびっくりといった様子でゆっくりとグラスに口を付けた。そして少しモスコー・ミュールを飲むと、小さな笑みを見せる。

「あ、おいしいです」

「甘すぎないし、さっぱりしてておいしいですよね」

 なんだかテンションが上がって思わず声が大きくなってしまう。だけど、普段あまりお酒を飲まないのならば、ここは年上として伝えて置かなくはいけないことがある。仕事では矢沢さんが先輩でも、こういう場面では私の方がお姉さんなのだ。

「でも、ビールよりアルコール度数が高いから、お酒に慣れていないならこういうお酒は気を付けた方がいいですよ」

「そうなんですか」

 矢沢さんは少し残念そうな顔でグラスを私の方に返した。

 しまった。言うタイミングを間違えたかもしれない。これは居酒屋を出るときにでも言えばよかっただろうか。だって、今日は私と一緒なのだから、もしも飲み過ぎても私がちゃんと送って……と、なんとなく邪な思考がよぎり、ブンブンと頭を振る。

 まだまだ矢沢さんとはちゃんと打ち解けられていないかもしれないけれど、それでも少しは仲良くなれたのだ。ここでぶち壊すようなことはできない。

 あの合宿での遭難が良いことだとは言えないけれど、それでもあれがあったからこうして矢沢さんと食事に来ることができた。

 もしもあのことが無ければ、私は未だに矢沢さんをいたずらの犯人だと疑い続けていただろう。

 やはり、あの地獄を一緒に経験したことは大きいのだろう。

 私は少し迷ったけれど、いたずらについて矢沢さんに相談してみることにした。

 私は少しテーブルに身を乗り出して小声で矢沢さんに話し掛ける。

「あの……オリエンテーリングでのトラブル、もしかしたら私のせいかもしれません」

 矢沢さんは小さく首を傾げた。

「実は、最近ちょっとしたいたずらをされることがあって、地図の入れ替えもそうなのかも……」

「地図は草吹主任が廃棄せずに放置していたせいですよ」

「え?」

「今朝、用賀さんから教えてもらいました」

「そう、ですか……」

 地図はいたずら犯の仕業ではなかったようだ。それは少しホッとするニュースではある。いたずらのスケールが大きくなっているわけではないからだ。

「いたずらって何ですか?」

「ボールペンが無くなってたり、パソコンの電源が抜けてたりしたことがあるじゃないですか。アレです」

「……あれはいたずらをされていたんですか?」

「はい。他にも机に糊が塗られてたり、私の椅子がフロアの端に置かれていたり……」

 こうして説明するとすべてたいしたいたずらではない。一度や二度なら私だって騒いだりしないだろう。だが、連続すれば話は別だ。

「えっと、それ、砂川さんですよね?」

 矢沢さんはこともなげに言う。

「へ?」

「野崎さんが帰ったあと、砂川さんが糊を塗っていました」

「ん?」

「何をしているのか尋ねたら、『野崎さんを驚かせようと思って』と言っていましたよ」

 なんと、犯行はひと目を忍んで行われていたわけではなく、堂々と実行されていたのか。

「朝、野崎さんの椅子を動かしているときも、笑顔で『きっと野崎さんびっくりしますよ』と言っていたので……」

「マジですか!」

 私が思わず大声を上げると、矢沢さんは私の声にびっくりして目を丸くした。店員の輝美ちゃんも私のことを訝しげな顔でジロジロと見ている。

「えっと、学生の頃、友だち同士でそうやって遊んでいる子を見ていたので、野崎さんと砂川さんも仲良しなんだなと思っていて……」

「な、なるほど……」

 確かに傍から見ると幼稚な遊びのようにしか見えないだろう。

「ごめんなさい」

 なぜか矢沢さんが申し訳なさそうな顔で謝った。多分、砂川さんのいたずらをたいしたことはないと見過ごしていたことに対して謝っているのだろう。

「いえいえ、矢沢さんが謝るようなことじゃないですよ」

 私は笑顔を作って言う。

「なんだ、砂川さんだったのか。全然気づかなかった。砂川さんって結構おちゃめですね」

 とにかく矢沢さんを安心させたくて、いたずらは遊びの一環だったという風に装う。

 それで矢沢さんは少し安心したように表情を緩めた。

 しかし、散々いたずら犯が誰なのか推測していたのに、こんなにあっさりと判明するなんて思いもしなかった。

 現実なんてこんなものなのかもしれない。ドラマチックに犯人が分かるわけでも、どこからともなく謎の探偵が現れて華麗に解決してくれるわけでもない。

「そっか、砂川さんだったんですね……」

 私はため息交じりに言ってモスコー・ミュールをガブリと飲み干した。



 水曜日、私は早速行動した。

「砂川さん、よかったら一緒にランチにいきませんか?」

 昼休みに入ってすぐに砂川さんに声を掛けると笑顔で頷いてくれた。

 私は、ランチの席で砂川さんにいたずらの件を突きつけようと思っていた。

 あの日、居酒屋に現れた雅と一緒に帰る途中、いたずら犯が判明したことを伝えた。そして、そのことを本人にどうやって問い詰めればいいのかを相談した。

「満月はバカなんだから駆け引きしようなんて考えずにストレートに言うしかないんじゃない?」

「バカって……まあ、たしかにバカだよね」

「うん。バカだね」

 そんな雅の分かりやすいアドバイスを得て、私はストレートに砂川さんに問いかけることに決めていた。

 砂川さんのいたずらが、単なる遊びのつもりならば「やっと気づいた!」みたいな感じで笑って終わるだろう。

 だが、そうでない場合は修羅場になる可能性がある。

 だから、ランチの場所は会社から少し離れていて、同じ会社の人がいないカフェレストランを選んだ。

「何食べる? どれもおいしそうだよね」

 そう言ってメニューを眺める砂川さんに変わった様子はない。矢沢さんの証言が嘘だなんて思わないけれど、こうして相対しても砂川さんがいたずらをしていたなんて信じられない。

「じゃあ、私、カレードリアセットにしようかな。店員さん呼んでいい?」

 砂川さんに言われて「はい」と答えながら私は慌ててメニューに視線を落とした。そしてやってきた店員に「クラブハウスサンド」を注文する。

 一息ついて砂川さんと雑談をかわす。意味のない会話をしながら、私はどのタイミングでいたずらについて切り出すか考えていた。

 雅の言う通り私には駆け引きなんてできないし、さりげなく誘導して自白させる、みたいな高等テクニックは使えない。

 だから「いたずらをしていたのは砂川さんですか」とそのまま聞くつもりだ。

 聞くつもりだけれど、それをいつ言うかが問題なのだ。

 もう今言ってもいいだろうか。でももしも口論になった場合、変なタイミングで料理が運ばれてくるのは気まずい。

 食べながら話をした方がいいだろうか。それとも食べ終わって落ち着いたころに切り出すべきだろうか。

 しかし、万一食べるのが遅くなって話をする時間がなくなってしまったら本末転倒である。

 そうして迷っている間に料理が運ばれてきてしまった。

「おいしそう! いただきます」

 砂川さんは笑顔で手を合わせるとスプーンを持ってカレードリアをすくった。そしてフーフーと息を吹きかけてパクリと口に入れる。

 私はその様子を見ながら絶望していた。

 私もドリアとかにすればよかった。写真よりもボリュームのあるクラブハウスサンドはどう見ても食べにくい。

 大口を開けてかぶりつかなければいけないし、食べている途中でボロボロとこぼすに決まっている。

 これは深刻な話をするときに頼んではいけないメニューだ。

 私が目の前のクラブハウスサンドに手を出せずにいる間にも、砂川さんは少しずつだが着実にドリアを減らしていく。

 私はクラブハウスサンドを食べるのを諦めて砂川さんを見た。

「ボールペンを折ったり、スリッパを隠したり……ずっといたずらをしていたのは、砂川さんですよね」

 言葉の最後に疑問符を付けず、少し強い口調で私は言う。そして砂川さんの反応をじっと待った。

 心臓がバクバクと跳ねる。

 砂川さんはチラリと私に視線を送ったが、ドリアを食べる手を止めることなく「うん、そうだよ」と軽く返事をした。

「え? あ、はぁ」

 あまりに軽い反応に肩透かしを食らってしまう。やはり遊び気分だったのだろうか。そう思った次の瞬間、砂川さんの鋭い視線が刺さる。

「だって野崎さん、目障りなんだもん」

 砂川さんはそう言って笑みを浮かべた。だが目は少しも笑っていない。

「どうして……」

 雅が私に対して毒を吐くのとは違う。雅はいつもキツイことを言うけれど、そこには確かに愛情のようなやさしさも感じる。だが、砂川さんの言葉からは微塵のやさしさも感じなかった。

 砂川さんは私が入社してからとてもよくしてくれていた。この会社の中で、同期の日和さんを除けば一番仲良くしてくれた人だ。その人から発せられた冷たい言葉は想像以上に大きな衝撃だった。

 砂川さんにそんな風に思われていたなんて全く気付かなかった。鈍い私は自分が気付かないうちに砂川さんに対して失礼なことをしてしまっていたのだろうか。

「野崎さん、邪魔なんだよね」

「邪魔って……」

「いつも陽たんの側にはりついて」

「ようたん?」

「能天気な顔で陽たんの側をフラフラしてるから忠告してたんだよ」

 陽たんとは矢沢さんのことらしい。たしか砂川さんは普段「矢沢さん」と呼んでいたはずだ。陰では「陽たん」と呼んでいるのか。陽たん、矢沢さんっぽい。かわいい。似合う。と、思わず思考が逸れそうになるのを必死で押しとどめる。

「それは指導担当だからで……」

「分かってるけど目障りなの。だから、さっさと辞めるか別部署に行ってくれればいいのに」

 砂川さんはスプーンを動かす手を止めることなく続ける。その淡々とした口調が逆に恐ろしく感じた。

「それは……、砂川さんが矢沢さんのことを好き、だからですか?」

 すると砂川さんは驚いたような顔で私を見た。そして豪快に笑う。

「何勘違いしてるの? そんな訳ないでしょう」

「じゃあ、どうしてですか?」

「わからないの? 本当に鈍いのね」

「……すみません」

 なぜ謝っているのか分からないけれど、なんとなく謝ってしまう。

「私、草×陽なの」

「へ?」

「推しカプ」

「へ?」

「何マヌケな顔してるの? バカなの?」

 私の理解力がないのがいけないのだろうか。しかし、砂川さんの口から出た言葉は私の想像の外にあるような気がした。

「くさようって?」

「だから、草吹主任と陽たんに決まっているでしょう。私はあの二人がイチャイチャしてるのを見守るために会社に来てるの」

 私は何も言えず唇をキュッと結ぶ。砂川さんは調子が出てきたのか続けて話しはじめた。

「元々百合漫画が好きなんだけどね、三次元には興味なかったの。だけどこの会社に入社して草吹主任と陽たんを見てビビッときたのよね。真面目で幼い陽たんと大人でおっとりしててちょっとドジっ子の草吹主任のカプ、最高じゃない? 十歳の歳の差があるってのもいいよね。知ってる? 草吹主任、ときどき「陽ちゃん」って呼ぶんだよ。草吹主任は陽たんにベタ甘だし、陽たんも草吹主任にちょっと迷惑そうな顔をしながらも本心は嫌がってないっていうか。もう、いいでしょう! 尊いでしょう!」

 砂川さんは熱く語ると、ガっと私を見た。

「あ、え、えっと、草吹主任とよ……矢沢さんは付き合っているんですか?」

「そんなの知らないわよ」

「は?」

「あの二人がそうして存在しているだけで尊いんだから」

 だめだ。砂川さんの思考が理解できない。

 確かに草吹主任と矢沢さんの間には上司と部下以上の何かがあると思う。それは合宿最終日に目の当たりにした。草吹主任は矢沢さんを「陽ちゃん」と呼び、矢沢さんは草吹主任を「光恵さん」と呼んでいた。だけど、付き合っているのとは少し違うようにも感じた。それは私の希望的観測なのかもしれない。そもそも私の推測は外れるのだ。

「あの二人が百合百合してるのをずっと見ていたいのに、あなたが来てからその頻度が激減。本当に最悪なのよね」

「いや、そんなことを言われても」

 確かに矢沢さんは私の指導担当なので私と接する機会が多い。だけどそれは会社が決めたこと、というより草吹主任が決めたと聞いている。

「あなたがいなくなれば元通りでしょう?」

 砂川さんは恐ろしいほど爽やかな笑みで言った。

「だからっていたずらをするなんて……」

「たいしたことはしていないでしょう」

 確かに実質的な被害は少ない。

「そうですけど……ボールペンを折りましたよね?」

「壊すつもりはなかったんだけど、あなたが矢沢さんにペンを借りるから、つい力が入っちゃって」

「あ……合宿の部屋割りで機嫌が良かったのは……」

「草吹主任と陽たんが同室なんだから、テンション上がるに決まってるじゃない」

 決まってると言われても……。オリエンテーリングの準備中、部屋で顔を合わせたときに機嫌が悪くなっていたのは、私が矢沢さんとペアになったからだろう。

 念のためにもう一つだけ確認しておきたい。

「オリエンテーリングの地図を取り換えたのも砂川さんのいたずらですか?」

「そんなことするはずないでしょう」

 砂川さんは呆れたような顔で私を見る。その言葉は本当だろう。砂川さんは草吹主任と矢沢さんが一緒にいるところが見たいのだ。私と矢沢さんを遭難させる理由がない。

「これからは草吹主任と陽たんの邪魔しないでね」

 砂川さんはそう言うと立ち上がった。いつの間にかドリアを食べ終えていたようだ。

「いい、わかったわね」

 そう言い残して、砂川さんはお金も払わずに店を出て行ってしまう。

 しばしその後ろ姿を呆然と見送ったが、沸々と怒りが湧いてきた。

 いたずらの理由がくだらなさ過ぎる。

 何が「いい、わかったわね」だ。わかるかボケ!

 心の中で叫びながら、私はクラブハウスサンドにかぶりついた。

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