season2-3:踏み出す一歩(viewpoint輝美)

 名残惜しむようになかなか沈まない太陽を背に受けて、私はジリジリするような気持ちで、居酒屋の中に入っていく仕事帰りの人々の姿を眺める。

 いつもならば店内で「いらっしゃいませ」と出迎えているが、今日は外でその様子を伺っていた。

 今日はバイトのシフトが入っていない。それでも店に足を運んだのには別の目的があるからだ。

 先月、陽さんがモスコー・ミュールを飲み続ける会社の同僚を連れて来た。

 それを見て今のままではいけないと思ったのだ。

 陽さんと少しずつ距離を縮めていくのは楽しかった。だけどいつまで続けても、これ以上近付くことはできない。

 それにいつまでも続けられない事情もあった。それは、私が大学四年だからだ。あと一年もせずに卒業してしまう。いや、そんな先の話ではない。大学四年の初夏だというのに、いまだに就活をはじめていないのだ。

 ガイダンスには参加したし、少しだけ企業研究もした。だけどピントこなかった。特にやりたいことがあるわけでもなく、目標があるわけでもない。どの企業を見ても同じようにしか見えなかった。

 興味のない就活と陽さんを天秤にかければ、陽さんに傾くに決まっている。だから、私は就活から目を背けて、毎日バイトに通って陽さんと仲良くなることに専念していたのだ。

 しかし、さすがにそろそろヤバイと感じるようになってきた。すでに内定をもらっている友人もいる。

 かなり出遅れている今から就活をはじめれば、今までと同じペースでバイトをすることはできなくなるだろう。それはすなわち、陽さんに会えなくなるということだ。

 店長は「このままウチに就職しちゃえば?」と言ってくれた。その言葉にちょっと気持ちが揺れた。

 この仕事も店の雰囲気も好きだった。それに、この店で働き続ければ陽さんと会うことができる。

 しかも、店長は私の仕事ぶりを評価した上で声を掛けてくれた。認められて、これからも一緒に働きたいと言われるのは、正直うれしいと感じた。

 店長が評価してくれたポイントはいくつかあると思う。ひとつは長くバイトを続けていて、真面目に仕事に取り組んでいたこと。もうひとつは、バイトリーダーとして後輩の指導もちゃんとやってきたことだろう。

 そして、最後にヒットメニューを提案したことだ。陽さんもよく食べている夜定食は、私から店長に提案したメニューだった。

 夜定食は、一人のお客様や軽く飲みたいお客様にウケていた。お酒をたくさんのむお客様に比べれば利益率は低いらしい。しかし滞在時間が短いために回転率が高い。それに仕入効率も良いらしい。この辺りは店長の受け売りだから細かいことは分からないけれど、ともかく夜定食はお客様に喜ばれただけではなく、店にとってもプラスになる提案だったようだ。

 しかし私は店長の評価を素直に受け入れることはできない。なぜならば、夜定食は陽さんが店に通いやすいように考えたメニューだからだ。そして、バイトに毎日真面目に通っていたのも陽さんに会いたかったからだ。

 つまり、陽さんがいなければ店長からの高評価ももらえなかったということになる。

 それに、店長の誘いにのって就職したとしても、この店はチェーン店だから、いつまでもこの店舗で働けるとは限らない。もしも他の店舗の勤務になったらモチベーションが急降下することは目に見えている。

 だから店長には「考えさせてください」と返事をした。はっきりと断らず保留にしたことは勘弁してほしい。就活をがんばったとしても、無事に就職先が決まるとは限らないのだ。

 就職が決まらずフリーターになった私は堂々と陽さんに告白ができるだろうか。陽さんは高校を卒業してからずっと真面目に会社勤めをしている人だ。きっと軽蔑されてしまう。

「フリーターってなんですか? それっておいしいんですか? 食べ物じゃないんですか? 仕事をしていないんですか? もしかしてヒモになるつもりで告白したんですか?」

 妄想の中の陽さんは冷たい視線を私に浴びせてよくしゃべった。

 そんなわけで、私はバイトをセーブして就活に専念することにした。そして、その前に陽さんとの関係を変えるための一歩を踏み出すことにしたのだ。



 この一歩を踏み出す決心をするまで時間をかけ過ぎたと思う。

 陽さんがこの店に通うようになって約二年。打ち解けて話しができるようになってからでも一年半近く経っている。それほどの時間、店員とお客様という関係に甘んじてきたのは、どのタイミングでどう切り出せばいいのか分からなかったからだ。

 私は美人ではないし、かわいいわけでもない。

 そんな私だけど実は結構モテるのだ。だから、これまで何人もの人と付き合ってきた。

 なぜモテるのか自分では良く分からない。でも、遠くから見ていて憧れられるというよりは、身近な人から告白されることが多いから、話しやすいとか気が合うとか居心地がいいとか、まあそんなところなのだろう。

 付き合った人の数で恋愛経験を語るならば、私は恋愛経験豊富ということになる。そんな私が陽さんに対してはどうしていいのか分からなくなった。

 その理由は自分でもわかっている。

 付き合ってきた人は多いけれど、実は恋愛をしてこなかったからだ。

 はじめて付き合ったのは小学校五年生のとき。相手は小学三年生の男の子だった。当時、気に入った相手に告白して付き合う、というのが流行っていた。その流行りにのって「付き合ってほしい」と言われて、別に嫌いな子ではなかったからOKした。

 休み時間に話したり、休みの日に遊びに行ったりする程度だったけれど、当時の私はちゃんと付き合っているつもりだった。

 その子とは数カ月で別れたが、小学六年生の修学旅行で同級生の男の子に告白をされて付き合った。中学生になってすぐに分かれた。

 中学二年ではクラスメートの女の子から告白をされて付き合うことになった。この子との付き合いが一番長くて、高校一年の夏休みが終わった頃に別れた。はじめてのキスの相手もこの女の子だった。

 彼女と別れてすぐに、サッカー部の男の子から告白されて付き合い、二年生になる頃には別れた。

 二年生になって同じ部活の三年生の女性から告白をされて付き合い、先輩が卒業したのを機に別れた。

 三年生になってからは部活の後輩の一年生の女の子から告白されて、私が卒業したときに別れた。

 大学に入って一カ月くらい経ったとき、同じサークルの男性から告白されて付き合い、一カ月ほどで別れた。その後、別の男性に告白されて、この人とは一年くらい付き合った。陽さんをはじめて見たのはこの男性と付き合っていた頃だ。

 陽さんに対する興味が増してアルバイトの日数を増やすにつれて、彼とは疎遠になって別れた。

 告白をされて嫌でなければ付き合う。そしてなんとなく時期が来たら別れる。それは小学生の頃からずっと変わらなかった。だから、恋愛とはそんなものなのだろうと思っていた。

 付き合った相手に対してはそれなりの愛着があったけれど、陽さんに対して感じているような気持ちを持ったことはなかった。つまり、付き合ってはいたけれど恋愛感情を抱いたことが無かったということだ。

 だけど誰も「それは恋愛ではない」と教えてくれなかった。

 いや教えてくれた人はいた。だけど私には理解できなかったのだ。中学二年から付き合っていた彼女は、別れ際にとても寂しそうな目で私を見ていた。

「輝美は私と一緒にいて楽しい?」

 彼女にそう問われて、私は迷うことなく「もちろん、楽しいよ」と答えた。だけど彼女は首を横に振る。

「私のこと、好きじゃないよね?」

「好きだよ」

「違う、好きじゃないんだよ」

 そうして別れようと言った彼女を私は引き止めなかった。

 恋愛なんてそれほど楽しいものでもないと思っていたし、ドラマや漫画のような恋愛はフィクションなのだと思っていた。

 それが嫌だったわけではない。それなりに恋人たちと過ごす時間を楽しんできたつもりだ。

 だけど相手のことをもっと知りたいと思ったり、どうすれば喜んでくれるだろうと悩んだりしたことはなかった。こんなことを言ったら嫌われるだろうかと不安になったり、相手が別の人と一緒にいるのを見て嫉妬したりすることもなかった。

 陽さんのことを知りたいと思ったときも、最初はただの好奇心だと思っていた。その想いは私の知っている恋愛とは全く違うものだったから。

 そして、昨年の陽さんの誕生日に胸を撃ち抜かれて、それが恋だと気付いてからも、はじめての恋愛感情をどう扱っていいのか分からなかった。

 毎日のように陽さんに会って話せるだけでも楽しくて満足できていた。そのささやかな幸せを続けられるのならば、無理をして一歩踏み出す必要なんてないんじゃないかと思っていた。

 だけど陽さんが店に来ない日が続いたことで、毎日会えなくなる不安をリアルに感じた。そして、あのモスコ女への対抗心が私の背中を押したのだ。

 一歩踏み出すのならば、今しかない。今を逃してはいけない。そう痛感した。

 一歩踏み出す決意をして、これまで告白をしてくれた人たちに申し訳ないと感じるようになった。

 私は告白の言葉をとても軽く受け止めていたと思う。だけどあの告白には大きな勇気と覚悟があったはずだ。今、やっとそれに気付いた。

 同時に聞いてみたいと思った。どうやってその勇気を形にしたのか。告白の言葉をどう選んだのか。どうするのが正解なのか。

 だけど告白したい人ができたから教えてくれない? なんて元カレや元カノに連絡するわけにもいかない。

 だから私は、考え抜いた末にバイトを休んで陽さんを待ち伏せしている。

 今日は告白できなくてもいい。ともかく店員としてではなく、大学生の輝美として陽さんと話す機会を作ろうと思った。そして、できれば連絡先を交換して、店員とお客様とは別の関係を結ぶのだ。



 駅の方向に目を凝らすと、家路を急ぐ人たちの隙間からチラリと小さな体が見えた。

 来た。

 私はゆっくりと深呼吸をする。

 念のために陽さんの周りをチェックしてモスコ女がいないことも確かめた。

 陽さんがここを通ったら「こんばんは」と声を掛ける。そう心の中でつぶやいて、足を半歩だけ踏み出す。

 陽さんがゆっくりと近づいてきて居酒屋を見上げた。そのとき陽さんの表情が少しだけ緩む。なんだかそれがとてもうれしかった。

 店長の掲げる「つい『だたいま』と言いたくなる居酒屋」というスローガンを知ったとき、心の中で「メイド喫茶か」と突っ込みを入れた。

 だけど、今の陽さんの表情を見て店長が目指しているものが分かった。学校や仕事を終えて、家に帰ってきたようにホッとできる場所。そして、陽さんはこの居酒屋をそんな風に感じてくれている。

 そんな感慨に耽っていたら、陽さんは私に気付かずに目の前を通り過ぎてしまった。

 私は慌て飛び出して、陽さんの肩をガシっと掴む。

「ヒッ」

 鋭く息を吐くような声を出して陽さんが飛び上がった。比喩ではなく本当に飛び上がって驚いていた。

「陽さん、驚かせてごめんなさい」

 私の声に振り向いた陽さんは驚きで目を見開いたまま、安心したように息をついた。多分、これまでで一番陽さんの表情が動いた瞬間だと思う。

「びっくりしました」

「本当にごめんなさい」

 私は改めて謝る。

「輝美ちゃんは何をしているんですか?」

 落ち着いた陽さんはいつもの表情に戻り少し首を傾げた。

「実は、今日はバイト休みなんです」

「そうなんですか」

「それで、陽さんと一緒にご飯をたべたいな、と思って……ダメですか?」

「いえ」

 短い言葉だったが決して嫌がっていないことをその表情から読み取る。

「えっと、それじゃあ」

 私はそう言うと居酒屋に足を踏み入れた。

「いらっしゃ……どうしたの、輝美ちゃん、今日シフトは行ってないよね」

 たまたま入口近くにいた店長が予想していた通りの声をあげる。私は思わず苦笑いを浮かべた。

「今日はお客様ですからサービスしてくださいね」

 私はそう言いながら視線を後ろに向けた。すると、店長もそちらに視線を移して陽さんと一緒だということに気付いてくれた。

「そっか、じゃあ奥の席が空いてるから、そこにする?」

 店長の言葉に頷いて私は店の奥の席に向かう。他のお客様の目に留まりにくい席だ。店員からも見づらい席なので、通常は満席になるまでこの席にお客様を通すことはない。

 すぐにその席を指定してくれる店長の察しの良さや気遣いに感謝した。この店長の元ならば正社員になっても働きやすいだろうと思える。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、陽さんと共に奥の席についた。

「私、お酒を飲んでもいいですか?」

 私は陽さんに聞く。陽さんは普段あまりお酒を飲まないので一応確認しておいた方がいいと思った。それに、色々切り出すのにお酒の力を少し借りたいと思ったからだ。

「はい」

 陽さんは笑みを浮かべて頷いて「私もビールを」と続けた。

「今日は何かいいことがあったんですか?」

 私はいつもの調子で尋ねる。

「はい。輝美ちゃんと一緒なので」

 陽さんの言葉に一気にテンションが上がり、鼻血が出るかと思った。陽さんって実は天然のタラシなのだろうか。

「いつもあまりお話できないから……」

 そう言って照れたように俯く陽さんの姿に、本当に鼻血が出そうになって手で鼻と口を覆い隠す。

「そうですね。はじめてですよね」

 本当に勇気を出してよかった。でも、まだミッションはこれからだ。

「じゃあ、定食じゃなくておつまみを頼みましょうか。何にしますか?」

「輝美ちゃんのおすすめはありますか?」

「んー、そうですね」

 そう言いながら、陽さんの好みとこれまでに食べていた料理を思い出しつつ最適解を導き出す。

「山芋のサイコロステーキはどうですか?」

「山芋?」

「はい。サイコロ状に切った山芋を鉄板で焼いた料理なんですけど、火が通っているところはホクホクで半生のところはシャキシャキで結構おいしいですよ」

「食べてみたいです」

 これまで陽さんが注文したことのない料理だが、多分気に入ってくれると思う。その他に、陽さんの大好きなチーズオムレツをはじめとした数点をオーダーした。

 飲み物が届き、静かに乾杯をして飲みはじめる。

「実は、私、バイトに入る回数が減りそうなんです」

「どうしてですか?」

「あー、就活がヤバイ状態で」

「あ、そうですよね。四年生でしたよね」

 陽さんは納得したように頷いた。「今更?」とか「遅いんじゃない?」というようなことを言わないのは、陽さんが大学に行っていないから、就活のスケジュールが分かっていないからかもしれない。だけどそれがありがたかった。

「お店であまり会えなくなるのは寂しいですね」

「はい」

「お店に来ると、いつも輝美ちゃんが出迎えてくれるのがうれしかったので……」

 リップサービスかもしれないけれど、陽さんの言葉に胸が詰まる。だが、感動に浸っている場合ではない。陽さんに連絡先を聞くならこのタイミングだ。そう思ったとき、一瞬早く陽さんが口を開いた。

「目指しているところがあるんですか?」

 だがその質問の意味が分からず首を捻ってしまう。もちろん、今目指しているのは陽さんの連絡先を聞くことだ。だけど、多分陽さんが聞いてるのはそんなことではないと思う。

「あの、就活の……」

「ああ? ああ……、ああ! そうですよね」

 就活の話をしていたのだから当然のことだけど、すっかり失念していた。

「いえ、それが特にないから困っているんです。入りたい会社とやりたいこととか、そういうのが全然なくて……」

「そうですか」

「陽さんは今の仕事がやりたいことだったんですか?」

「いえ。高卒を採用してくれる会社は多くないので」

「そうなんですね。いっそ、陽さんの会社に就職しようかな」

 なんとなく口走ったことだけど、なんだかとてもいいアイデアのような気がする。特に仕事に対しては夢も希望もないけれど、陽さんに対しては夢や希望で溢れている。陽さんと一緒なら、きっと仕事も楽しくできるはずだ。

「あ、えっと……」

 だが陽さんは困ったような顔をしていた。失言だっただろうか。

「これから先、長く働く場所なので、ちゃんと探した方が……」

 とてもまっとうな意見だった。

「ですよねー。陽さんと一緒に働けるなら楽しいかなと思ったんですけど」

「それは私もうれしいですよ」

 陽さんの天然タラシっぽい発言にテンションが上がる。

「でも、ウチの会社もキツイことはあるので……」

 それはそうだろう。考えたくはないが、万一陽さんにフラれたら、会社に行く意味がすべてなくなることになる。そんなことはないと信じたいけれど……。そういえば、陽さんの会社は社内恋愛についてどんな感じなんだろう。もしも社内恋愛がダメならば、陽さんとは違う会社を選んだ方がいいということになる。

 そんな話をしていると注文していた山芋サイコロステーキが運ばれてきた。しかも運んできたのは店長だ。

「お待たせしました」

「ありがとうございます」

 私が言うと、店長はフイっと無視して陽さんを見た。

「この店の社員にならないかって言ってるんですけどね、なかなかウンと言ってくれないんですよ。陽さんからも説得してください」

 すると陽さんはその言葉に笑顔を浮かべた。

 店長はそれを了承だと思ったのか満足気な顔でバックヤードの方に戻っていく。

「温かいうちに食べてください」

 まだジュウジュウと音を立てる鉄板を少し陽さんの方に押す。たっぷりとかけられたかつお節が踊り、甘めのタレが焦げる匂いがした。

 陽さんは箸で山芋を摘まんで、フーフーと何回か息を吹きかけてから口の中に放り込んだ。

 ゆっくりと味わいながら咀嚼して顔をほころばせる。

「すごくおいしいです」

「ですよね。私も好きなんです」

 そして私も一粒口の中に放り込んむ。舌の上に甘めのタレの味が広がり、噛むと山芋がホクホクシャキシャキと口の中に溶けていく。いつもより三倍はおいしく感じた。

 山芋ステーキの味に満足していると陽さんが「いいと思います」と言った。

「私もまかないで食べてからお気に入りなんですよ」

 私が笑顔で答えたら、陽さんが少し苦笑いを浮かべて「そうじゃなくて」と言った。

「ん?」

「就職のことです」

 私が首を捻ると陽さんは続ける。

「このお店かどうかはともかく、輝美ちゃんは話しやすいですし、お客様のこともよく見てくれて……だから、接客とか営業とか、人と接するお仕事は向いていると思います」

 陽さんがたくさんしゃべってくれた。しかも、私のことを褒めてくれている。

 感動でむせび泣きそうだ。

「ありがとうございます」

「いえ、たいしたアドバイスはできませんけど」

「すごくありがたいです。真剣に考えてみますね」

「はい」

 そこからは雑談に花を咲かせ、ほろ酔いの上機嫌でお開きとなった。



 陽さんの連絡先を聞きそびれたことに気付いたのは居酒屋の前で別れてからだった。

 だけど、今日はかなり距離が縮まったような気がする。次に会ったとき「連絡先を教えてください」といえば、すんなり教えてくれるだろう。

 目標は達成できなかったけれど、それ以上の収穫がったように感じた。

「店員さん?」

 ニマニマと笑いながら陽さんが去って行った方向を眺めていると店に入ろうとしていた人に声を掛けられる。

 常連客が多く顔を知られていることの弊害だ。私は営業スマイルを浮かべて声の方を見た。

「ホッケ女……」

 完全に仕事モードになっていなかったため、ついつい心の中で呼んでいた名前をつぶやいてしまう。

「ホッケ女って……まあ、そんな印象になるのもしょうがないか」

 ホッケ女はあまり気にしていないようだ。

「店先で何してるの?」

「今日はお客さんとしてご飯を食べたんです」

「仕事中じゃないんだ。それならちょうどいい。ちょっと聞きたいことがあったの。立ち話もなんだから中に入らない?」

 ホッケ女はそう言って居酒屋を指さす。

「私、今出てきたばっかりなんですけど」

「いいじゃない。まだ飲めるでしょう?」

 そう言うと私の腕を掴んで店の中に引っ張り込む。抵抗しようかとも思ったが、ホッケ女が何を聞きたいのかが気になったのでそのままついていくことにした。

「いらっしゃいませ」

「二人です」

「はい、こちらに……輝美ちゃん? また来たの?」

 運悪く再び店長に出迎えられて訝し気な顔をされてしまった。それでもそれ以上は何も言わず、先ほどまで陽さんと一緒にいた奥の席に案内してくれる。

 私は少し悩んだ末にカシスソーダをオーダーした。デザートだと思えばいい。

 ホッケ女はホッケをオーダーせずに夜定食を頼んでいた。

 聞きたいことがあると言ったくせに、ホッケ女は何も話そうとせずオーダーした料理が届くのを待っている。少しイライラしたが自分から切り出すのも嫌だったので、私は一足先に届いたカシスソーダをチビチビと飲んだ。

 ホッケ女がゆっくりと口を開いたのは、夜定食が届いて箸を持ち上げたときだった。

「立花雅(たちばなみやび)」

「へ?」

「私の名前。ホッケ女じゃなくて、立花雅」

 立花雅はボソリと言った。立花雅の無表情は陽さんとは全く違う。陽さんがナチュラルな無表情ならば、立花雅はそうするべきだと決めて意識的に作っている無表情だ。

「で、話ってなんなの、立花雅」

 お客様にするべきではない口調だったが、なんとなく立花雅に対しては許されるような気がした。

 立花雅は私の言葉を受けて片方の唇だけ少しあげてニヤリと笑う。

「輝美ちゃんは、矢沢陽のことが好きなの?」

「え、なっ、なんでっ」

「なんでって、この間来たきたときの様子を見ていれば分かるでしょう?」

 一応仕事中だったし、そういう私的感情は極力見せないようにしていたつもりなのに……。立花雅はエスパーだろうか。

「そ、それがあなたに何の関係があるの? あなたも陽さんを好きなわけ?」

「まさか」

 そう言うと立花雅はケラケラと笑う。

「だったら、何?」

「応援かな? さっさと矢沢陽にアタックしたら?」

「そんなの他人のあなたに言われる筋合いじゃないと思うんだけど」

「ふむ、まあそうだよね」

私には立花雅が何をしたいのかまったくわからなかった。

「どうしてそんなこと言うわけ?」

「最近、満月がちょっとうるさいからかな」

「はぁ?」

「きっぱりフラれれば少しは静かになるでしょう」

 立花雅は飄々とした顔で食事を続けている。

 満月とはモスコ女のことだろう。確か陽さんは「野崎さん」と呼んでいた。

「立花雅はモスコ女……。野崎満月の友だちなんじゃないの?」

「友だちだよ」

 そう答えて立花雅がクスクスと笑った。

「モスコ女って。確かに満月はモスコー・ミュールしか飲まないもんね。あれね、大学のとき好きだった女の子が飲んでるのを見て真似してるんだよ」

「もしかして……。立花雅は野崎満月のことが好きなの?」

 すると少しだけ立花雅の飄々とした表情が崩れた。だけどそれは一瞬だった。

「……好きだよ」

「だったら私をけしかけてないで、自分が野崎満月と付き合えばいいじゃない」

「無理だよ。私、彼女いるから」

「は? どういうこと? 野崎満月が好きなんだよね?」

「うん。でも彼女はいる。満月と付き合う気もない」

 やっぱり立花雅は謎だ。思考回路が全く分からない。

「私の見たところ、矢沢陽は満月に特別な感情は持っていないと思うよ」

「ちょっと待ってよ」

 戸惑う私を無視して立花雅は続ける。

「だからって、輝美ちゃんにも特別な感情は持っていないと思うけどね」

 私はウグっと喉を詰まらせる。分かってはいたけれど、他人から指摘されるとちょっと衝撃がある。

「ただ、矢沢陽はまだ恋を知らないだけじゃないかな。あの手のウブな子は早い者勝ちだよ。ちょっと強引なくらいに押せば落ちるんじゃない?」

「あなた、一体何がしたいの?」

「矢沢陽の件ではあなたの方を応援したいと思っているだけ」

「野崎満月の友だちなのに?」

 立花雅は頷く。

「野崎満月のことが好きなのに?」

 立花雅はピタリと箸を止める。

「好きだから、フラれて傷くように仕向けてるの?」

 立花雅は無表情に私の顔を見つめる。

「冗談じゃない。そんなくだらないことに私を巻き込まないでくれる?」

 私は立ち上がってグラスに残っていたカシスソーダを一気に飲み干した。

「あなたに関係なく、私のことは私が決める。口を挟まないで」

 そして立花雅の反応を見ることなく、私は店を後にした。

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