season2-4:出会いと、再会と、(viewpoint陽)
この数カ月で、私と私の周りに少し変化を感じるようになった。
それは私の周りのやさしい人たちのお蔭だと思う。そして、私自身も勘違いに気付くことができた。
会社では先輩と呼ばれる立場になり、年は大人と呼ばれる年齢になり、私はその肩書に見合う自分にならなければいけないと思っていた。そして、そうなれていると勘違いしていた。
だけど、合宿研修で野崎さんと一緒にトラブルに巻き込まれたとき、私自身が思い描いていた姿には全然足りていないことを痛感した。そして、足りないからと無理をして突っ張る必要はないと分かって気が楽になった。
それは野崎さんのおかげだ。
「矢沢さんは先輩ですけど、私の方がお姉さんなんですよ。だから今はお姉さんの言うことに従ってください」
あのときの野崎さんの言葉は当たり前のことかもしれない。だけど私はハッとした。誰にだってできることとできないことがある。そして、すべてを一人でやらなければいけない訳ではない。
野崎さんの言葉で、まずはできることを精一杯やればいい。無理をして背伸びをする必要はない。そう教えられた気がした。
それにあの合宿から野崎さんとの関係も良くなった気がする。野崎さんと食事に行くこともできたし、野崎さんはいたずらのことを私に相談してくれた。私は砂川さんがいたずらをしていたことを教えることしかできなかったけれど、私のことを信頼して相談してくれたのだろうと思うとうれしかった。それにあの日以降、野崎さんと砂川さんは仲良くしている。
砂川さんとランチに行ったり一緒に帰ったりすることが多いからなかなか誘えないけれど、今度は私から野崎さんをご飯に誘ってみたいと思っている。
以前は声を掛けることすら難しかったけれど、今ならそれもできそうな気がした。
輝美ちゃんもそうだ。
いつもの居酒屋で輝美ちゃんと話すようになってから、多分一年半くらい経つと思う。その間、いつも輝美ちゃんが私のことを気に掛けて話してくれていた。私はろくに返事もできずに頷くだけだったけれど、輝美ちゃんはいつでも明るい笑顔で迎えて、やさしく話し掛けてくれた。
誕生日のときには、輝美ちゃんとお店の人たちがお祝いまでしてくれた。
うれしい反面、私には何も返せないことが残念だった。その輝美ちゃんが、私に就職のことを相談してくれたのだ。
具体的なアドバイスなんてできなかったけれど、私なりにできる答えを伝えられたと思う。
食事を終えたときには、輝美ちゃんも嬉しそうに笑っていたから、きっと大丈夫だったはずだ。
私にはまだまだ足りないものだらけだ。それでも、少しずつ人とのつながりを持って、話しができるようになった。野崎さんや輝美ちゃんも、私のことを少しは信頼してくれたから相談をしてくれたのだと思う。
それがとてもうれしい。
でも輝美ちゃんとの話でひとつ後悔していることがある。
輝美ちゃんが私の務めている会社に就職しようかと言ったとき、「これから先、長く働く場所なので、ちゃんと探した方が……」と否定的な言葉を伝えてしまったことだ。
あのときは知り合いがいるからという理由だけで会社を選ぶべきではないと思った。だけど家に帰ってから自分のことを棚に上げて生意気なことを言ってしまったと気付いたのだ。
私がこの会社を第一志望にしたのは光恵さんの存在があったからだ。そして、今も光恵さんと一緒の会社で働けてうれしいと思っている。
私が光恵さんと出会ったのは、この会社に入社するよりも、ずっとずっと前のことだった。
私はとても小さな赤ん坊だったらしい。食が細くて成長も遅かった。そして、言葉を覚えるのも遅かったらしい。
そのことを教えてくれたのはおばあちゃんだった。
お母さんの実家で暮らしていたころのことだ。
小学生になる少し前に両親が離婚した。それでお母さんの実家に身を寄せることになったのだ。
お父さんとお母さんは喧嘩が絶えなかったらしい。これもおばあちゃんから聞いた話で、私にはその頃の記憶はほとんどない。うっすら残っている記憶の中の私はいつも一人だった。
私はおばあちゃんが大好きだった。おばあちゃんは短気で、ちょっとしたことですぐに怒ったけれど、あっという間に怒ったことを忘れて元気に笑うような人だった。
お母さんもおばあちゃんもおじいちゃんも仕事をしていたから、私は家で一人のことが多かったけれど、おばあちゃんだけは時間を見付けて私に色々な話をしてくれた。
私は考えていることをうまく言葉にすることができなかった。それは今でも同じだけど、幼いころはもっとひどかった。
だからお母さんは、たまに話し掛けてくれても言葉を返せない私を見てため息をつくことが多かった。
小学三年の半ばでお母さんが再婚した。新しい父と暮らすために引っ越しをして転校した。
私はずっとおばあちゃんと暮らしたかった。だけどそれをお母さんに伝えることができなかった。
お義父さんはやさしい人だったと思う。
一緒に暮らすようになってしばらくの間は、私に色々と話し掛けて気に掛けてくれた。だけど私はそれにうまく応えることができなかったのだ。
「話してくれてうれしい」
「遊びに連れて行ってもらって楽しかった」
そんな簡単な言葉を伝えるのも当時の私には難しいことだった。
だからお義父さんは次第に私との距離を置くようになっていった。
お義父さんが私と距離を置くようになるのと同時に、お母さんも私と距離を置くようになった。多分、私に失望したのだと思う。
小学四年で弟が生まれてからはそれがもっと顕著になった。
そして私は、家の中に存在していないように過ごすことがこの家族にとって一番いいことなのだと思うようになっていた。
家の中だけではなく、学校でも私は一人だった。
転校してすぐのころは、クラスメートが次々と話し掛けてやさしく接してくれた。だけど私は考えていることや感じていることを言葉にして伝えることができない。次第にクラスメートが話し掛けてくることが少なくなっていった。
「陽ちゃん、つまんないね」
誰が言ったのか覚えてはいないけれど、そう感じていたのは一人ではないだろう。私がつまらない人間だというのは正しい評価だと思った。
だからクラスメートに迷惑を掛けないように、教室の中でも存在していないように過ごすようになっていた。
学校の先生も私が孤立していることに気付き、学級会で『お友だちと仲良くしよう』というテーマで話し合ったり、私に声を掛けてくれたりした。けれどそれがとても申し訳なかったし、放っておいて欲しいと思った。
あの頃、将来の夢を書くようなことがあったら、きっと『透明人間になりたい』と書いていただろう。
小学五年で私のクラスに教育実習の先生がやってきた。ほんわかとした雰囲気のやさしそうな先生だと感じた。
「草吹光恵と言います。短い間ですけど仲良くしてください」
教壇に立ってそんな挨拶をした先生は、なんだかキラキラしていて別の世界の人のように感じた。
先生はたちまち人気者になった。みんな「草吹先生」ではなく「光恵先生」とか「みっちゃん先生」と呼んでいた。私も少しだけ光恵先生と話してみたいと思ったけれど、キラキラして楽しそうな輪に足を踏み入れることができなかった。
雨の日の休み時間が苦手だ。
晴れている日には校庭で遊ぶ子たちも教室の中にいるからだ。賑やかな教室に私の居場所はない。だから私はいつも、人の少ない場所を探して校内を歩き回った。
その日は体育館の裏を目指した。
渡り廊下から体育館の軒下を歩いてたどり着ける体育館の裏からは近所の家の庭が見える。その庭はいつもきれい手入れされていて、季節ごとに色々な花を見ることができた。
ぼんやりと歩き目的地の直前まで来て私は足をピタリと止める。先客がいたのだ。
先客は体育館のへりにある段差の部分に腰を掛けていた。
引き返そうと思った瞬間、先客がパッと顔を上げて私を見る。
「あ、陽ちゃんじゃない」
先客は光恵先生だった。
一度も話をしたことのない私の名前を憶えてもらえていたことに驚きと喜びを感じる。だけど私はそれを言葉にできず、ただ立ちすくんでいた。
そんな私を見て、光恵先生はいたずらが見つかった子のような笑みを浮かべて人差し指を口もとに当てた。
「これ、秘密だよ」
そうして少し上げた左手にはパンが握られている。
「お腹が空いちゃって」
先生がこんなところに隠れてパンを食べているなんて信じられなかったけれど、なんだかかわいい人だなと思った。
私は考えた末にひと言だけやっと口にする。
「あの、名前……」
「名前? 私の?」
私は首を横に振った。
「ああ、陽ちゃんの名前を知ってること?」
頷くと光恵先生は「こっちにおいで」と手招きをする。私は少し迷ったけれど光恵先生の隣に腰かけた。
光恵先生は満足そうな笑みを浮かべてパンを半分にちぎる。
「はい、これは口止め料ね」
目の前に差し出されたパンにおずおずと手を伸ばし、光恵先生の横顔を見上げた。
「ああ、名前を知ってる理由だったよね? 担当しているクラスの子だもん」
そういうと光恵さんは残っていたパンをモグモグと食べる。私もそれを真似てパンを頬張った。シンプルなパンだけど、普段食べているパンよりもおいしく感じる。どこで買ったパンだろう。
「それに陽ちゃんかわいいし」
パンを食べ終わった光恵先生は手をパンパンと払いながらウフフと笑って言った。
私はかわいくなんてない。愛想がなくてかわいくないと母に言われたこともある。かわいいのは光恵先生のように笑える人だと思う。そんな私の気持ちを察したのか、光恵先生は「陽ちゃんはかわいいよ」と言って私の頭をポンポンと撫でた。
うれしいような照れくさいような気持ちになる。飲み込んだはずのパンが胸のあたりでつっかえているような感じがした。
やっぱり何も言えずに光恵先生を見上げると、光恵先生は「くぅ」と言いながら私をギュッと抱きしめる。
「もぅっ、我慢できない! かわいい!」
光恵先生の胸に顔を押し付けられて苦しかったけれど、すごく温かくて心地よかった。
「あ、ゴメンね、取り乱しちゃった」
十秒ほど経って我に返った光恵先生は、謝罪しながら私を解放すると、ペロっと舌を出して笑った。
「あの……」
光恵先生に伝えたいことが胸の中に溢れてきたけれど、それがあまりにたくさんで、自分が何を考えているのかすら分からなくなってくる。
「お話するの、ちょっと苦手?」
やさしい声で言う光恵先生に私は小さく頷く。
「考えていることを言葉にするのって難しいよね」
みんなの前で堂々と話をしている光恵先生がそんなことを言うのは意外で思わずその顔を覗き込む。
「難しいよ。考えていることをちゃんと言葉にするなんて、みんなできていないと思うよ」
そうなのだろうか。みんなたくさんしゃべっている。考えていることを言葉にできていないなんて信じられなかった。
「それに、本当に伝えたいことほど伝えられないものだよ」
光恵先生が嘘をついているとは思わなかったけれど、本当のことだとも思えない。
「たくさんしゃべることが良いってわけじゃないよ。ゆっくりでいいんだよ。陽ちゃんが伝えたいなって思ったことを、ゆっくり伝えていけばいいよ」
光恵先生はやさしい瞳で私を見つめて私の言葉を待ってくれた。私が伝えたいことは何だろう。なかなか考えがまとまらない。
光恵先生がパンをこっそり食べていたことは誰にも言わないとか、花がきれいだから見に来たとか、光恵先生もうまく話しができないことがあるのかとか、色々な気持ちがグルグルと頭の中を回る。
だけど私の口からこぼれたのは「光恵先生と、お話がしたい」だった。
私の言葉を聞いた光恵先生は、溢れるような笑顔を浮かべて再び私を抱きしめた。
「私も陽ちゃんとお話したいよ」
ちょっと苦しくて光恵先生の腕をポンポンと叩いたけれど、今度はなかなか離してくれなかった。
その日から、休み時間には体育館裏で光恵先生と会うようになった。
光恵先生の話を聞き、私も伝えたい言葉を少しだけ伝える。すると光恵先生は笑顔を浮かべてくれる。それがとてもうれしかった。
教育実習の最後の日、私は光恵先生に手紙を渡した。光恵先生とお話ができてうれしかったこと。会えなくなるのが寂しいこと。もっと話がしたいということ。手紙を書くのはとても時間がかかったけれど、しゃべるよりはちゃんと気持ちを伝えられたと思う。
光恵先生が学校を去って二カ月ほどが過ぎて自宅に手紙が届いていた。光恵先生からだった。
手紙には忙しくてなかなか返事が書けなかったことの謝罪と、私からの手紙がうれしかったというようなことが書かれていた。
手紙にあった住所に私は返事を書く。するとしばらくして光恵先生から返事が届いた。
そんな手紙のやり取りがしばらく続いたとき、光恵先生から先生になるのは諦めたという内容の手紙が届いた。
また学校で光恵先生と会えることを期待していた私は少し残念に思った。だけど、諦めた理由が『かわいい児童を抱きしめずにいられないから』と書いてあったので納得することにした。光恵先生に抱きしめてもらってうれしかったけれど、他の子たちにもそうすると思うとちょっと嫌だったからだ。
それから『光恵先生』ではなく『光恵さん』と手紙に書くようになった。
光恵さんとの手紙のやり取りはそれからもずっと続いた。
中学生になったときには、制服を着て写した写真を同封した。光恵さんは『かわいい』を連発していた。光恵さんの『かわいい』の基準が甘いなと思ったけれどうれしかった。恥ずかしいのを我慢して写真を送って良かったと思った。
中学の文芸部で少しだけ仲の良い子ができたと伝えたときには、自分のことのように喜んでくれた。仲良くなった子も言葉の多い子ではなかったけれど、言葉を選んで丁寧に紡ぐように語り合うのが楽しかった。光恵さんはそれでいいと言ってくれた。
高校に入学してアルバイトをはじめたと伝えたときはとても心配していた。どんなバイトなのかを聞かれて、レストランの厨房で皿洗いや料理補助をしていると伝えた。すると『陽ちゃんはかわいいんだから、変な人についていかないようにしてね』と返事が来た。
大学に行かず就職をすると伝えた。いくつかの候補で悩んでいると伝えると、その中のひとつが光恵さんの勤めている会社だと教えられた。そして『ウチの会社においでよ。一緒に仕事をしよう』という光恵さんの言葉を真に受けて、私はこの会社を第一志望にしたのだ。
入社式の日、光恵さんと約七年ぶりに再会した。
光恵さんはずっと大人っぽくてきれいな女性になっていた。でも、やさしい雰囲気や笑顔はあの頃のままだった。
会社ではじめて会ったとき、光恵さんは手を広げて私に駆け寄ろうとした。それを止めたのは用賀さんだ。
光恵さんは不満そうに頬をふくらませて用賀さんを一瞥した。そしてひとつ息をつくとキュッと唇を結んで私の前に立つ。
「矢沢さん、入社おめでとう。これからよろしくね」
陽ちゃんではなく矢沢さんと呼ばれて少し驚いた。だけど大人の仲間入りができたように感じて少しくすぐったい気持ちにもなった。
その日から、光恵さんは『草吹さん』になった。
仕事はそれまでの学生生活とは全く違っていたし、アルバイトとも違っていた。だから大変だったけれど辛いとは思わなかった。草吹さんと毎日会い、言葉を交わせることがうれしかった。
隙を見て私を甘やかそうとする草吹さんを用賀さんが注意する。そんなやり取りも楽しかった。
入社して間もない頃、草吹さんと用賀さんの三人で食事に行ったことがある。
「矢沢さんは小学生のころに草吹さんと出会ったんですよね」
「はい」
どうやら用賀さんは私と草吹さんの事情を知っているようだ。
「この人が小学校の先生だなんて……恐ろしい」
用賀さんの顔は冗談を言っているようには見えない。そんな用賀さんに対して草吹さんは納得いかない顔を向けた。
「私、子ども好きだよ」
「好きの度合いが大きすぎるんです。犯罪者になりますよ」
「そんなんじゃないもん」
小学生の頃に見た草吹さんはとても大人に見えたけれど、こうして見ると子どもっぽいところがあるんだなと思う。
「あの、草吹さんはどうして先生を諦めたんですか?」
昔もらった手紙には『抱きしめずにはいられない』というようなことが書いてあった。だけど本当にそれだけが理由なのだろうか。
「止められたの」
草吹さんが暗い声で言う。その隣で用賀さんが笑いを堪えていた。
「担当教官に、子どもをかわいがるのは良いけど度を超すなって。それから、特定の子どもに極端に愛情表現をするのを止めろって」
「はあ」
「分かりましたって言ったのに『お前は我慢できない。子どもたちと平等に接することができないお前に先生は無理だ』って断言された」
少しだけ分かるような気がした。
「だから、陽ちゃんだけ甘やかすから」
「会社でも同じです」
「えー」
用賀さんの言葉に光恵さんは不満気な声を上げる。
「いいですか、矢沢さんだけを甘やかして、迷惑を被るのは矢沢さんなんですよ」
「そんなことないよね、陽ちゃんは迷惑じゃないよね?」
草吹さんは涙目で私を見た。私は小さく頷いたが、用賀さんがピシャリと言う。
「そういうことではありません。ひとりだけを特別扱いすると、周囲から批判されるんです。その矛先は草吹さんじゃなくて矢沢さんに向きます」
「そうなの?」
「そうなんです」
用賀さんの言ったことは少し理解できた。学生時代、先生にかわいがられている生徒は、他の生徒からやっかみの中傷を受けることがあった。多分、用賀さんが言っているのはそういうことだ。
「分かった。じゃあ、陽ちゃんのことは隠れて甘やかすね」
笑顔で宣言した草吹さんに、用賀さんは深いため息をついた。
宣言通りにはいかず、草吹さんはあまり隠れることなく私にちょっかいをかけたけれど、用賀さんが心配しているようなことにはならなかった。
多分、草吹さんのキャラクターと用賀さんの歯止めがあったからだと思う。
輝美ちゃんには偉そうなことを言ったけれど、私は光恵さんがいるという理由でこの会社に入社して後悔はしていない。
小学生のころと比べれば、人と話すこともできるようになった。それでも決してすらすらと話せるわけではない。だから、草吹さんや用賀さんのフォローがなかったら、ちゃんと仕事を続けてこられなかったのではないかと思う。
今度輝美ちゃんに会ったら、伝えたことを訂正しておいた方がいいかもしれない。それに、単純に輝美ちゃんが私と一緒に働きたいと言ってくれたことはうれしいと思った。
それに野崎さんや輝美ちゃんのように私が持っていないものをたくさん持っている人たちと過ごすことは、私にとってもプラスになるような気がした。
「矢沢さん、少しミーティングルームまで来てくれる?」
背後からの声は草吹主任だった。
「はい」
私は切りのいいところまで作業を終わらせて席を立つ。
ミーティングルームに入ると、草吹主任は窓際でブラインドの隙間から外を眺めていた。
「お待たせしました」
私の声に振り向くと、草吹主任は笑顔を浮かべて「座って」と言った。私はドアに近い椅子に座る。
「急にゴメンね」
「いえ」
草吹主任はゆっくりと私の方に歩み寄って隣の椅子に座った。
「合宿の後から、野崎さんとはうまくやれてるみたいだね」
「はい」
合宿前には野崎さんとうまく会話をすることができなかったが、今では随分スムーズに話をすることができている。その変化を草吹主任にも認めてもらえたのがちょっとうれしい。
「矢沢さんの表情も随分明るくなってるし、これからもその調子でがんばってね」
「はい」
草吹主任は私の変化と成長をちゃんと見てくれている。多分、ずっと心配をしていて、だから私に野崎さんの指導担当を任せたのだろう。ゆっくりとだけど、それに応えられていることにホッとした。
ただ、わざわざ呼び出したのはその話が本題ではないと感じた。私は草吹主任の顔を見つめてその続きを待った。
だけどなかなか言葉を発しようとはしない。いつも柔和な笑顔を浮かべて楽しそうに話しをする草吹主任がどう言葉にすればいいのか悩んでいるように見えた。
「本当に伝えたいことほど伝えられないものだよ」
小学生のときに聞いた光恵先生の言葉が脳裏によみがえる。草吹主任は私に何を伝えたいと思っているのだろう。
「陽ちゃんには最初に伝えようと思って」
光恵さんが静かに口を開いた。そして椅子を寄せて私の背中に腕をまわす。いつもの窒息するような抱擁ではない。それが私の胸に不安を掻き立てた。
「光恵さん?」
「ごめんね」
私の耳元で光恵さんが小さく言う。
「私、会社を辞めることにした」
私には光恵さんが何を言っているのか理解できなかった。
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