season1-4:遭難(viewpoint陽)

 二十歳の誕生日に、いつも通っている居酒屋で少しだけビールを飲んだ。十九歳から二十歳になる。ひとつ年を取る。ただそれだけのことなのに、苦くておいしいとも思えない飲み物を飲んだことで、大人になれたように感じた。


 高校を卒業して就職をしてから三年目になった。ある程度仕事を覚えて、任される仕事も増えている。新入社員の指導も任されている。社会人としても認められるようになったと感じていた。


 だから、私はちゃんとした大人になれていると思っていた。


 もちろん、不足していることが多いのも自覚している。会社の先輩たちに比べれば、まだまだできないことはたくさんある。新入社員の指導だってうまくできていない。野崎さんが不満を漏らしていたのも聞いた。


 それでも大人になった私ならば、それら足りない部分もすぐに克服できると考えていた。だから、大人として、先輩として振る舞うことで、克服できると思っていた。


 だけどそれは、幼い子どもが抱く全能感と同じだったのかもしれない。私は大人なんかではなくて、子どものままだったのだ。

 子どもっぽい意地を通して、先輩らしく振る舞おうと無理をした結果、最悪の事態を迎えようとしている。


 木に寄り掛かって膝を抱えて座る野崎さんを見た。その顔にははっきりと疲労が浮かんでいる。疲れているのは野崎さんだけではない。私も同じだ。体力は限界に近い。

 携帯電話を取り出して画面を見た。画面の上部には小さく『圏外』と表示されている。

 草吹主任は説明の中で携帯を使ってもいいと言っていた。それは、オリエンテーリングのコース内は電波が届いているとう前提の話だ。それが圏外になっていることの意味は深刻だと思う。

 草吹主任は少し天然なところがあるので、一部圏外の場所があることを伝え忘れただけだという可能性も考えられる。だが、安易にその可能性にすがることはできない。最悪の事態を避けるためには、最悪の場合を想定して行動するべきだ。

 脳裏に『遭難』の二文字が浮かぶ。

 空を仰ぎ見ると木々の隙間から見える太陽の位置がかなり下がっていた。地図に目を落とす。目指している施設からもっとも遠いチェックポイントまではあと少しだ。

 しかし、遭難をしているのならば、私が地図を読み間違えている可能性が高い。もしも読み間違えていないのならば、地図自体が間違っていることも考えられる。

 そもそもこの合宿は少しおかしかった。指導官の草吹主任と私が同室になったことだ。草吹主任を問いただしたら「だって、ゆっくり話がしたかったんだもん」と故意に部屋割りを操作したことを自白していた。

 おそらくオリエンテーリングのペアにもそういった操作があるのではないだろうか。指導担当である私が、野崎さんとの関係をうまく築けていないからこのペアになったのだと思う。そう感じたから、私は余計に張り切ってしまった。

 今の時間や距離、疲労度を考えると、今すぐリタイヤを決めてしまった方がいいと思う。

 来たときにはチェックポイントを探してかなり遠回りをしている。同じペースで歩き、真っすぐに施設を目指せば、制限時間を少し過ぎたくらいには戻れるだろう。

 しかし、疲労が蓄積している今の状態で、前半と同じペースで歩けるはずがない。そうすれば施設からかなり離れた山中で夜を迎えることになるはずだ。

 私が地図を読み間違えている場合、施設に戻る道すらも怪しくなってくる。遠回りをしてでも来た道を戻るという方法もある。だが、その場合はさらに時間がかかってしまうし、山中の道程を正確に記憶しているわけでもない。

 本部に電話をしてリタイヤを伝えれば救援に来てもらえるだろう。だが、電話をするための電波が届いていないのだ。

 遭難をしたときには下手に動かない方がいいと聞いたことがある。だが、これが遭難だと決まったわけではない。それにここに居続けたところで状況が好転するとも思えない。

 こんな場合どうすればいいのだろう。

 野崎さんは靴を脱ぎ、足の裏やふくらはぎを揉んでいる。あまり無駄に歩かせない方がいい。だったら、この場に残っても休んでもらって、私ひとりで携帯の電波がつながる場所を探しに行こうか。

 でも、電波の繋がらない場所ではぐれてしまったら……。

 一人でこうして考えているより、野崎さんにも状況を伝えた方がいい。二人で考えれば何か新しい良案が出るかもしれない。そう思っているのに、どうしても言葉にする勇気が出なかった。

 頼りにならない先輩だと失望されるのが嫌だ。

 どうしてそんな間違いを犯したんだと責められるのが嫌だ。

 もっと早く気付かなかったんだと非難されるのが嫌だ。

 野崎さんに失望され、落胆され、嫌われてしまうのが嫌だ。

 そんな風に考えて野崎さんに打ち明けることができないから、私は子どもなのだ。

 少しおかしいと気付いたとき、野崎さんに相談をしておけばよかった。

 いや、スタートしたときに先輩風を吹かせてリードしようなんて考えなければよかったのだ。

 私に対する不満を口にしていた野崎さんに、このオリエンテーリングで少しはいいところが見せられるんじゃないかなんて思わなければよかった。

 いくら後悔しても今の状況はどうすることもできないと分かっていても、その想いを止めることができなかった。



 オリエンテーリングの準備を終えて、私と野崎さんは並んで合宿施設を出た。山道に入る手前でコース踏破の作戦を話していないことに気付いて足を止めた。

 オリエンテーリングは長丁場だ。数分他の組よりスタートが遅れたとしても、効率よくコースを回る計画を立てておいた方がいい。

 地図を見て大体のコースイメージはできていた。それを野崎さんに伝えるだけでもいいと思ったが、年齢は野崎さんの方が上なので、押し付けにならないように「どう思いますか?」と聞いてみた。

 野崎さんはアゴに手を当てて真剣な表情で地図を眺める。そして、おもむろに「ここはどこですか?」と言ったのだ。

「え?」

「今の場所はこの地図のどこになるんですか?」

 野崎さんは地図を読むのが苦手なのかもしれない。最初のやり取りで私はそう感じた。

「この施設の場所はここです」

 私は蛍光ペンで合宿施設の場所に丸を打つ。

「ああ、ここか!」

 野崎さんはパッと笑顔を浮かべた。そして合宿施設の場所を指さし、チェックポイントが示された赤いマークを順番に指でなぞる。さらにコンパスで方向をチェックすると「一番近いチェックポイントはあっちの方角かな?」と山の方を指さした。そしてそれはまったく見当違いの方角だった。

 私は、野崎さんが地図を読めないのだと確信した。

 確か野崎さんは、支給された荷物をチェックしているときも、出発前にロビーに戻ってきたときも不安そうな表情を浮かべていた。きっと地図が読めないから、このオリエンテーリングに不安を感じているのだろう。

 それならば私が先輩らしくリードをすれば野崎さんも少しは私が頼りになると思ってくれるはずだ。私は改めて地図を眺めて、イメージしていたコースで問題ないかを検討した。

「野崎さん、一番遠いチェックポイントを目指しましょう。その間に少し遠回りをしながら、いくつかのチェックポイントを回ります」

 私はそう言って地図上のチェックポイントを指で押さえながらコースを示した。

 野崎さんが少し首を捻る動作をしたので、黄色のマーカーで予定コースを書き入れる。

「このチェックポイントは、すぐ近くにもう一個あるから、一緒に回った方がいいんじゃないですか?」

 野崎さんはコース途中にあるポイントを指さす。

「距離的は近いですが、高低差があるので難しいと思います」

「え? どうして高低差が分かるんですか?」

「それは等高線の密度で……」

「等高線って何ですか?」

 どうやら野崎さんはまったく地図が分からないようだ。等高線の説明からはじめていたら時間がかかりすぎる。それに私もうまく説明できる自信が無かった。

「では、このチェックポイントでは目視で確認して行けそうなら隣のチェックポイントにも行きましょう」

 私は説明を諦めて代替案を出す。野崎さんは首を捻ったままだったが何とか頷いてくれた。それを合図に私が先頭で山道を進むことになった。

 地図の中にある違和感を野崎さんは指摘しなかった。だから私の考えすぎなのかもしれない。いくら地図が分からないとはいえ、不自然さには野崎さんも気づいていいはずだ。だから、私はそれを口にはしなかった。

 ひとつ目の違和感はチェックポイントの数が多すぎることだ。そしてふたつ目の違和感は、合宿施設からもっとも遠いチェックポイントの場所が離れすぎているような気がしたことだ。

 これらをすべて回っていたら所要時間内に戻ってこられないのではないかと思った。

 しかし、地図を見ただけで所要時間が正確にイメージできるわけではない。私がそう感じただけで、実際には踏破することが可能なのかもしれない。

 それに、わざとリタイヤせざるを得ないコース設計をしているとも考えられる。過去二年の合宿研修でのリクリエーションを鑑みると、その可能性も否めない。リタイヤはともかく時間内に楽々ゴールできるように設計してはいないだろう。

 慣れない山歩きは予想以上に体力を使う。私は休日にちょっとした山にハイキングに行っているが、野崎さんはそんな趣味があるように思えない。

 そのため、体力のある往路では広い範囲を押さえながら最遠のチェックポイントを目指し、疲労が蓄積している復路では移動距離を減らしてできるだけ直線で帰って来られるようにルートを決めた。

 私が地図とコンパスを持ち、野崎さんにはチェックカードを渡した。地図を確認しながら野崎さんを先導して道なき道を行く。

 最初のチェックポイントに到着したのは出発して十五分程経った頃だった。野崎さんは嬉々としてチェックカードにスタンプを押す。程なく二つ目、三つ目とチェックポイントを見付け、野崎さんから不安そうな表情は消えたように見えた。

 それで私は少し調子に乗ってしまった。一時間半ほどが経過したとき、ふと鈴の音が聞こえないことに気付いたのだ。慌てて振り返ると野崎さんはかなり遅れて必死に足を進めていた。チェックポイント以外では休憩も取らずに歩き続けていたから疲れるのも当然だ。

 私は、一年目の合宿の直後から体力をつけるためにランニングをしたりスポーツジムに通ったりしている。ハイキング程度だが、山歩きにも多少慣れている。だが、野崎さんはこんな試練があるなんて想像もしていなかっただろう。

 それにすでに昼を過ぎている。

「少しお昼休憩にしましょうか」

 野崎さんが追い付くのを待って私は提案した。野崎さんは肩で息をしながら「はい」と返事をした。

 私たちは少し開けた場所に座りリュックを降ろす。野崎さんはペットボトルを取り出してグビグビと水を飲んだ。汗もかなり書いているようだ。リュックからタオルを取り出して汗を拭っていた。

 私もリュックから水を取り出して少し口に含む。すると野崎さんが歩み寄って「これ使いますか?」とウエットティッシュを差し出してくれた。

「ありがとうございます」

 ありがたく一枚もらって手を拭う。野崎さんは元の場所に戻って座り、おにぎりを取り出しておいしそうにかじっていた。

 野崎さんはこんな風に私に気遣いをしてくれるのに、私は野崎さんが疲れていることにも気付かずにハイペースで歩いてしまった。自分の未熟さを思い知らされる。

 ここからはもう少しペースを落として野崎さんの様子に気を配ることにしよう。おにぎりをかじりながら私はこの後のコースについて思いを巡らせた。

 先はまだ長い。できれば日が落ちる前にゴールをしたいけれど、多少暗くなったとしても施設の近くまで戻ることができれば、問題ないだろう。制限時間を多少オーバーしても仕方ないくらいの気持ちで進んだ方が良さそうだ。前半で無理をし過ぎて、後半歩けなくなるよりはずっといい。

 昼の休憩を取った後の野崎さんは少し元気を取り戻し、足取りも軽くなったように感じた。それでも、私は後半のことを考えて、少しだけペースを落として足を進めた。

 だが、徐々に野崎さんの遅れが目立つようになっていく。さらにペースを落として休憩も多めに取るようにした。それでも野崎さんの疲労は蓄積していくばかりに見えた。

 それでもチェックポイントを見付けられている間は良かった。ひとつハードルをクリアすればそれだけモチベーションが回復する。だが、あるときからチェックポイントが見つけられなくなったのだ。

「この辺りのはずですが……」

 辺りを見回したがチェックポイントを示すフラッグが見当たらない。野崎さんには休憩をしてもらい、私は近くを歩き回ってフラッグを探した。それでも見付けることができない。

 どこかで地図を読み間違えたのかもしれない。そこで、極力使わないようにしていた携帯を取り出して地図アプリで位置を確認した。

 アプリが示す現在地と私が地図で予測している現在地はほぼ一致している。

 チェックポイントを設置し忘れたのか、それとも地図の記載が間違っているのか。

「野崎さん、大丈夫ですか?」

 私は野崎さんが待っている場所に戻って声を掛けた。

「あ、矢沢さんだけに探してもらってすみません。休憩したのでもう大丈夫です」

 野崎さんは元気な声で言ったが、顔つきは元気そうには見えない。体力づくりをしてきたとはいえ、私の体力も限界に近付いている。ここでチェックポイントを探して無駄に体力を消費するのは得策ではないと思った。

「ここのチェックポイントは諦めて次に行きましょう」

 私は地図にバツマークを付ける。

「いいんですか?」

「大丈夫です」

 野崎さんはもう思考する力も残っていないのかもしれない。私の言葉に反論をすることなく黙って立ち上がった。

 しかし、次のチェックポイントも見付けることができなかった。野崎さんを不安にさせないように休憩を取ろうと伝えてひとりで辺りを歩き回った。地図と携帯アプリを確認する。場所は間違っていないように思える。

 この先は最遠のチェックポイントがあるだけだ。そこまで行って見つけられなければ真っすぐ合宿所に戻ろう。私はそう決めて野崎さんに声を掛けた。

 歩みを進める野崎さんの息が荒い。もう体力は限界を超えているのだろう。だが、なかなか最遠のチェックポイントに辿り着けない。

 こんなときは何かをしゃべりながら歩いた方いい。昨年の長距離ハイキングのときに誰かから聞いた。だが、野崎さんにどんな言葉を掛ければいいのか分からなかった。

「野崎さん、大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫、です」

 大丈夫そうには思えない声が返ってくる。それ以上に掛けられる言葉が見つけられない。

「少し、休憩をしましょうか」

 少し開けた場所を見付けて私は野崎さんに声を掛けた。私自身もかなり歩くのがきつい。空を見上げると太陽がかなり傾いている。時間は十六時を回っていた。私の判断ミスだ。今から最短距離で合宿所を目指したとしても二十時までに戻れる自信はない。

 私は携帯の地図アプリを見て愕然とした。圏外と表示されているのだ。『遭難』という言葉が脳裏に浮かぶ。

 自分の無力さと浅はかさを思い知らされる。自信満々にナビゲートした結果がこれだ。

 この事実を野崎さんに伝えたら、野崎さんに失望されてしまうかもしれない。伝えるべきだと思うが、どうしてもそれを伝える勇気がわかない。

「矢沢さん」

 そのとき野崎さんから声を掛けられて体がビクリと震えた。

「さっきからチェックポイントありませんね」

「え、あ、はい……」

 迷っている場合ではない。例え野崎さんに失望されたとしても、今伝えなければいけない。

「今、どの辺りなんですか?」

 私は地図を野崎さんの前に広げて現在地を指さした。

「あ、もう少しで一番遠いチェックポイントじゃないですか」

 野崎さんは疲労を隠して明るい笑顔を見せた。その笑顔に少しだけ心が軽くなる。私にはそんな笑顔を作ることはできない。

「あの、でも……もしかしたら、どこかで間違えたかもしれません」

 野崎さんの笑顔に後押しされて私は言葉を振り絞った。

「どういうことですか?」

「ひとつ前のチェックポイントが見つかりませんでした。それと、携帯が圏外になっています」

 そう言うと、野崎さんは慌てて自分の携帯を取り出して電波を確認した。

「うわー、本当だ」

「そ、それで、もしかしたら遭難したかもしれません」

「そうなんですね……あ、ダジャレじゃないですよ」

 野崎さんは顔を赤らめて笑う。野崎さんはもう一歩も動けないくらい辛いはずだ。そんなときに遭難したかもしれないと聞いて笑える野崎さんはすごい。

 多分、私を責めないようにそうしてくれているのだと思う。やっぱり野崎さんは私なんかよりずっと大人だ。子どもっぽい意地と慢心で野崎さんを巻き込んでしまった。最初にチェックポイントが見つからなかったときに、どうするかを相談していればよかった。

「矢沢さん、せっかくだからこのチェックポイントを目指しましょう」

「え、でも……」

「ここにいても圏外だから本部に電話できませんし、そこに行けば何かあるかもしれないじゃないですか」

 野崎さんは明るい声で言うと「よいしょ」と立ち上がった。そして、こっちですか? と明後日の方向を指さす。

「いえ、こっちです」

 私はそう言って目的地に向かって歩き出した。すぐ後ろに野崎さんの足音と鈴の音が続く。

「矢沢さんって背がちっちゃいですよね」

 息を切らしながら野崎さんが大きな声で話し掛けた。

「え? はい」

「身長何センチですか?」

「一五二センチです」

「足のサイズも小さいんですか?」

「二十三センチです」

「へー、足はそんなに小さくないんですね」

 疲れているはずなのに、野崎さんは大きな声で意味のない質問を繰り返した。少し訝しんでいたのだが、すぐに先ほど自分が考えたことを思い出す。疲れているときほどしゃべりながら歩いた方がいい。きっと野崎さんはそう考えてくれているのだろう。

 自分が情けないのと、野崎さんのやさしさがうれしくて涙が出そうだった。

 私から野崎さんに話を振ることはできなかったが、野崎さんの質問に色々と答えている間に目的地点と思われる場所に到着した。体は疲れ切っていたけれど、先ほどの休憩前よりは楽に歩けたような気がする。野崎さんが話し続けてくれたおかげだ。

 時刻は十七時になろうとしている。もう合宿施設に戻るのは無理だろう。

 地図上でチェックポイントとされている場所にはやはりチェックポイントを示すフラッグは見つけられなかった。その代わりではないが粗末な山小屋がポツリと建っていた。

「ここ、入れるんですかね?」

 そう言いながら野崎さんは扉に手を掛ける。するとギシギシ音を立てながら扉が開いた。

 私もそっと中を覗き込む。板を張り付けただけといった印象の粗末な小屋だったが、想像していたよりもずっと綺麗だった。小さな窓が一つあるだけで他には何もない。おそらく山で作業をする人が休憩をするために利用している小屋なのだろう。

「ここで少し休憩させてもらいましょう」

 私は野崎さんの意見に賛同した。本来であれば褒められる行為ではないかもしれないが、今は緊急事態と言っていいと思う。

 小屋の中に入って私と野崎さんはへたり込むように座った。

「そうだ」

 野崎さんはそう言って携帯を取り出す。

「やった! ここ電波つながるみたいですよ」

 私も慌てて携帯を取り出した。わずかだが電波を拾っている。

「では、本部に連絡します」

 私はそう言って草吹主任の携帯に電話を掛けた。そして少し野崎さんの近くに寄ってスピーカーに切り替る。

――もしもーし、どうしたの?

 能天気な草吹主任の声が小屋の中に響いた。

「えっと、あの、遭難したみたいです」

――遭難?

「はい」

――今の位置は分かる?

「はい。あ、えっと……」

 位置はおそらく間違っていないと思う。だが、それをどう説明すればいいのだろう。

 すると野崎さんが私の言葉を引き継いで話してくれた。

「今、施設から一番遠いチェックポイントにいるはずです。でも、チェックポイントの目印がなくて山小屋があります」

 そう説明すればよかったのか。野崎さんの横顔がすごく頼もしく見える。このオリエンテーリングで野崎さんに私が頼りになる先輩だと見せようと思っていたのに、まったく逆になってしまった。

――チェックポイントの山小屋?

 草吹主任は訝し気な声で言うと誰かと話しはじめた。携帯を離しているのか、その会話の内容は分からない。

――用賀です。

「はい」

――確認ですが、地図の通りチェックポイントを目指して山小屋に着いたんですね?

「はい」

――その地図の端か裏に何か文字が書いてありますか?

 用賀さんの言葉に従って私は広げた。しかし日が陰り室内が暗くなっているためよく見えない。すると野崎さんがすかさず懐中電灯を取り出して照らしてくれた。表面には特に気になる文字はない。地図を裏返して確認すると野崎さんが「これ」と言ってある一点を指さした。その文字を読み、私と野崎さんは思わず顔を見合わせる。

「えっと、あの『破棄』と書いてあります」

――やっぱり……。

 用賀さんは深いため息交じりに言った。

――それ、違う地図だね。

 声が草吹主任に変わる。

「違う?」

――最初はそのコースだったんだけど、検証したら時間内に戻るのが難しいってなってね……。おかしいなぁ、破棄したはずなのに……。

――主任、携帯の電池がもったいないです。

――大丈夫だよ、しゅうちゃん。ちゃんと充電してあるから。

――主任の携帯ではなくて矢沢さんの携帯です。

 電話の向こうで行われている草吹主任と用賀さんのやり取りが届く。用賀さんは普段『しゅうちゃん』と呼ばれているんだな、とぼんやりと思った。そんなことを考えられるのだから、随分心に余裕ができたということだろう。

 それから少し二人のやり取りがあり、ようやく決着したのか用賀さんの声が届いた。

――怪我はしていませんか?

「私も野崎さんも怪我はありません」

「ものすごく疲れてますけどね」

――わかりました。もう日が暮れますから今夜はその小屋に泊ってください。

「ここにですか?」

――はい。明日の朝迎えに行きますので、それまで小屋で待機してください。

「……はい。わかりました」

 そうして電話を切る。

「なんだか大変なことになっちゃいましたね」

「……ごめんなさい」

 私は野崎さんに謝った。こんなことになってしまったのは私のせいだと思う。

「なんで矢沢さんが謝るんですか? そもそも地図が間違ってたのがいけないのであって……」

 そこまで言うと、なぜか野崎さんは表情を硬くした。だが、すぐにそれを振り払うように笑顔を浮かべる。

「でも、野宿にならなくてよかったじゃないですか。一応屋根も壁もあるし。えーっと、不幸中の幸いってやつですかね」

「そう、ですね」

 今日、私は判断ミスと失敗を繰り返してしまった。そして、その度に野崎さんの明るさに救われたような気がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る