season5-1:ねつ造(viewpoint花)

「ただいま~」

 私は玄関を開けてため息交じりに帰宅を告げる。もたもたと玄関でパンプスを脱いでいると、母がリビングからひょこっと顔を出した。

「おかえり花、遅かったね。ごはんは?」

「食べてきた」

「だったら連絡しなさいよ。まったく」

「ごめんごめん」

 申し訳ないとは思うけれど今はそんな話をしている気分ではない。さっさと二階にある自室に閉じこもろうと足を進めていると母が「ちょっと」と呼び止めた」

「なに?」

「崇(たかし)ちゃんが来てるよ」

「えー」

 私は不機嫌さを隠すことなく言う。どうしてこんな日に限って崇が来ているのだろう。母の肩越しにリビングを覗き込むと、崇がお茶を片手に「おう、おかえり」と声を掛けてきた。

「ごめん、帰ってくれる?」

 私はそれだけ言うと階段を上がりはじめた。

「おい、それはないだろう」

 崇が軽い足取りで私の後をついて階段を上がってきた。そして私が部屋に入ると当たり前のように私の部屋に入ってきてローテーブルの前にドカリとあぐらをかいて座った。

「まったく、何の用なの?」

 私はバッグをベッドの上に放り出すと、そのままベッドに腰を掛ける。

 我が物顔で我が家をウロウロしている崇だが、当然私の家族ではない。いわゆる同級生の幼なじみというやつだ。

 母親同士の仲が良く生まれたころからずっと互いの家を行き来して、ほとんど兄妹だか姉弟だか、そんな感じで育った。

 いくら幼なじみでも年頃になれば疎遠になっていきそうなものだが、なにせ中学から高校にかけて私と崇は付き合っていたから、大人になった今でもこうして当たり前のように我が家に顔を出す。

 確か高校二年か三年のときに別れたはずだけど、原因は何だっただろうか。多分、お互いに「やっぱ無理だよね」みたいな感じになってうやむやになっていた気がする。

 幼なじみだとはいえ、別れた女の家に、しかも本人が不在の間に飄々と上がり込めるものだろうか。「さぁ別れましょう」なんてはっきりと別れの言葉を口にした記憶はないし、もしかして崇はまだ私と付き合っていると思っているのではないだろうか。

「ねぇ、私たちって付き合ってないよね?」

 まさかとは思うけれど、念のために一応確認してみる。

「何言ってるんだ? オレ、彼女いるし」

「ええ? 崇と付き合う子いるの?」

「お前だってそうだっただろうが」

「分別のなかった子ども時代のことじゃない……まさか、未成年を騙してるんじゃ……」

「違うよ! オレ、これでも結構モテるんだからな」

 崇は眉根をギュッと寄せて私を見た。

 そうだった。なぜだか知らないが、崇はそこそこモテていた。私が崇と付き合っていたときも、女の子たちに「崇くんが彼氏なんていいよねぇ」などと言われたっけ。そんな言葉を半分以上お世辞だと思って受け流していた。幼なじみとしてずっと仲良くしてきたし、肩の力を抜いて話ができる相手ではある。だけど崇のどこに魅力があるのかは一切わからない。

「まぁ、そんなことはどうだっていいよ。今日は何の用なの?」

「はぁ、おまえなぁ……」

 崇はため息をつきながらも気を取り直して話しはじめた。

「来月イベントがあるんだけど、手伝ってくれない?」

「嫌だけど」

「即答かよ!」

 それは即答するだろう。貴重な休みを興味のないイベントに費やす理由がない。何の予定もないのなら、家で寝ていた方がずっとましだ。

「ちょっとは考えろよ」

「嫌だよ、大変なだけじゃん」

「いやいや、今回はオンリーイベだから、人はそんなに多くないし、気候もちょうどいい頃だし」

「そう言われても嫌だって。いつも一緒に行く友だちはどうしたの?」

「その日にどうしても抜けられない仕事が入ってるらしくてさ……。社会人って辛いな……。だからさ、頼むよ」

 崇は両手を合わせて私を拝んだ。拝まれようが嫌なものは嫌だ。

「それなら参加するのを中止すれば?」

「何をバカなことを! オレたちの本を待っている人がいるんだよ!」

「え? うそ、いるの?」

「おいっ、いくら何でも失礼だろう。いるよ。少ないけど、いるよ」

「ごめん、ごめん」

「それにイベントに参加するのは売るためじゃないんだよ。仲間と会って語り合えるとか、応援してくれる人と話ができるとか……。なにより、このジャンルに対する愛を表現することに意義があるんだよ」

 しまった、調子に乗ってからかったら面倒くさい話になってきた。

「わかったわかった、ごめん、冗談だってば」

「花だって前は結構楽しんでたじゃないか」

「ああ……若気の至りってやつかな」

「なんだそれ」

 崇の言う「イベント」とは同人誌の即売会イベントだ。崇は気が付いたときにはアニメオタクになっていて、昔は一緒にイベントにも参加していた。私は買う方だけだったけれど、崇はコツコツと絵の練習をしていたようで、大学生になってからは出展するようになっていた。そのころにはもう崇とは付き合っていなかったけれど、ときどき売り子を頼まれて参加していたことがある。

「彼女がいるなら、私じゃなくて彼女に頼めばいいじゃない」

「頼めるわけないだろう」

「もしかして、まだ隠してるの?」

 崇はそっと目を逸らした。

「いや、隠しているわけじゃ……言うタイミングがないってだけで……」

 昔から崇はオタクであることを周囲に隠していた。

 イベントやネットで知り合ったオタク友だちはいるようだが、学校や会社の友だちとは切り分けているようだ。

 そもそも私が崇と付き合うようになったのも、この隠れオタクが原因だった。

 幼なじみの私たちは中学生になってからも、変わらず仲良くしていた。そんな私たちの関係は、恋に目覚めはじめた年代の友人たちには恋人同士に見えたらしい。

 私たちはそれを否定することはせず、付き合っているフリをすることにしたのだ。

 私は他の誰かよりは崇が相手の方がましだろうという程度の気持ちだった。崇は交際を申し込まれても断るのが面倒だからとモテ自慢のようなことを言っていたけれど本当は違う。

 オタク関係のイベントなどに行くために友だちの誘いを断るとき、「彼女とデートだから」と言えば詮索されることが無いからだ。

「別にオタクだってこと隠す必要ないんじゃないの?」

 と言っても崇は頑なに秘密を守り抜いていた。

 どうしてそんなに秘密にしたがるのかは、興味がないから聞いていない。

「それならいい機会じゃない。オタクだってばらして、イベントについてきてもらえば?」

「それでフラれたらどうしてくれるんだよ」

「彼女に見せられないような本なの?」

「いや、そ、それほど、ハードじゃないし……」

 崇は再び目を逸らす。

「絶対イヤ」

「そんなこと言うなよ、オレと花の仲じゃないか」

「ただの腐れ縁だよ」

「なんだよ、今日は機嫌が悪いな」

「別に。話が済んだなら出て行って」

「わかったよ……」

 崇は渋々といった様子でつぶやきながら立ち上がり出口に向かった。そして出て行く間際、振り返って言葉を足す。

「じゃぁ、スケジュール送っておくから、予定空けておいてくれよ」

「だから嫌だって言ってるでしょう!」

 私が答えたときには「イヒヒ」といういやらしい笑い声だけを残して崇は部屋のドアを閉じていた。

 崇は私に対して遠慮がなさすぎる。いつも強引に自分の思い通りにしてしまおうとするのだ。

 私が間違えてしまったのも、元をただせば崇のせいだったと言えなくもない。

 あれは中学三年生のときだ。私も含めて四人の仲良しグループで行動をいつも共にしていた。その中の一人に、私は友だち以上の想いを抱いていたのだと思う。だけどその想いの理由がわからず戸惑っていた。

 そんなある日、崇に同人誌の即売会に一緒に行こうと誘われたのだ。それは日本でもっとも有名だと言ってもいいようなイベントで、度々ニュースでも取り上げられていたから、私も名前くらいは知っていた。

 私たちの家からその会場までは少し距離がある。中学生が一人で出掛けるには遠すぎた。

 崇は親に内緒で出掛けるという選択をせず、許可を得ようとしたようだ。もちろん反対された。ところが、なぜか私も一緒なら行ってもいいと言われたようなのだ。崇の母親には、私はしっかりした良い子だと思われていたせいだろう。

 特に用事があったわけでもないし、テレビで見るような大きなイベントには私も興味があった。だから私は軽い気持ちで崇からの申し出を受けたのだ。

 始発電車に乗って会場に向かい、辿り着いたのは開場時間より随分早かった。心の中で「早すぎたんじゃない?」と思ったのだけれど、会場の前にはすでに長い入場待ちの列ができていた。

 長い時間、列に並んで待ち、開場の時間になっても列はゆっくりとしか進まず、ようやく中に入れたときには、一日分のエネルギーを使い果たしたかのように疲れ果てていた。

「じゃあ別行動しようぜ」

 イキイキとした顔で崇が言う。

「オレが見たいところ、花は興味ないだろう?」

 私の返事も待たず、崇は待ち合わせの場所と時間を言うとそそくさと会場の奥へと歩き去ってしまう。

 崇が向かった方向には他にも多くの人たちが足を向けていた。これだけの大移動が向かう先は当然込み合っているだろう。

 そこで人の波が少ない方向へ向かって足を進めた。

 目的も決めずに適当に歩き回り、たまにブースのテーブルの上に置かれたものを覗き込んだ。

 アニメを元にした自作の本を売っているだけだと思ったのに、夏休みの自由研究のような「〇〇〇についての考察」みたいなタイトルが付いた小冊子や、CD、写真集、キャラクター雑貨から用途のよくわからない不思議なものまで売られていて、それらを見て回るだけで結構楽しめた。

 そうして辿り着いたひとつのブースの前で私は足を止めた。

 漫画の同人誌を売っているブースで、他より目立つ何かがあったわけではない。けれど漫画の表紙のイラストがとてもかわいかったのだ。

 表紙に描かれていたのは二人の女の子だった。セーラー服を着ているから中学生か高校生だろう。私はそんなことを思いながら表紙を見つめた。

 雨上がりの道を少女たちが笑顔を浮かべて歩いている。初々しさや瑞々しさを感じた。一体どんな漫画なのか興味が湧いた。

「あの、少し中を見せてもらってもいいですか?」

 周りに買い物をする人がいないのを確かめてから、ブースの中の人に声を掛ける。

「はい、どうぞ」

 ブースにいた女性は快く見本を差し出してくれた。

 それは高校で出会った女の子たちが喧嘩をしたり仲直りをしたりして絆を深め、友情以上の関係を築いていく話だった。

 ドキドキした。

「あ、あの、私、何も知らなくて……この本は何かのアニメなんですか?」

 たどたどしく話しかけた私に、ブースの女性は嫌な顔をせず笑顔で対応してくれた。

「これ、オリジナルの百合なんです」

「百合?」

「はい。えっと、女の子同士の友情とか恋なんかを表現するジャンルです」

「えっと、か、買ってもいいですか?」

「はい、もちろん。ありがとうございます」

 そうして私は少ないお小遣いからその一冊の代金を支払い、女性はビニールに包まれた新しい本を私に手渡した。

 私は百合というジャンルがあることをそのときはじめて知ったのだ。

 そして、そのときから私の勘違いがはじまった。いや、思い込みといった方が正しいのかもしれない。

 女の子に惹かれはじめていた私は、その気持ちの正体から目を背けて『百合』というジャンルが好きなのだと思い込んだ。

 クラスの女の子たちが、女性のアイドルやモデルに憧れるのと同じことだ。

 かわいい女の子が気になるのも、そんな彼女にドキドキしてしまうのも、私以外の子と仲良くしているのを見て少し胸がモヤモヤするのも、『百合』が好きだからだと気持ちをすり替えた。

 今になって考えれば、友だちが気になりはじめたのと『百合』を知ったのでは時期が前後する。それでも答えが見えない気持ちに戸惑っていた私は、突然目の前に現れた『百合』という世界に飛びついてしまったのだ。

 私は『百合』というジャンルをフィクションとして好きなのであって、実際に同性が好きなわけではない。現実では崇と付き合っている。付き合っているフリではあったけど、崇と一緒にいるのは不快じゃない。

 そうして抱いていた気持ちについて考えるのを止めてしまった。

 私は『百合』の世界に傾倒していった。

 崇についてイベントに行く度に、百合作品を捜し歩いた。一方で崇と本当に付き合いはじめて、百合はフィクションなんだという気持ちを強くした。

 イベントで彼氏や旦那さんがいる百合好きの女性と出会うことで、私の思い込みはさらに強固になっていった。

 そして崇と別れた後も男性と付き合っていた。

 私は自分の気持ちの源泉から目を背け、早々と逃げ道を用意して、『百合』が好きだから同性愛に偏見はないよ、という顔をしながら、誰よりも偏見を持っていたのかもしれない。

 『百合』はひとつのジャンルでしかないのだと現実と線引きをして、誰に問われたわけでもないに「私は違う」と主張していた。

 心が揺れる相手に出会ったときも「尊い」なんて言葉で誤魔化して、フィクションの世界に追いやった。

 年を経て、視野が広くなることで自分のそうした考え方がおかしいと本当は気付いてはいた。しかし私は余計に意固地になって『百合好き』を加速させていった。

 街角で仲良く談笑する女性たちを見掛ければ、そのカップリングを妄想し、電車でじゃれ合う女子高生を見れば「尊い」と拝み、私のまわりの現実をフィクションに変えてしまうことで、私は私の精神状態を保っていたのだ。

 入社して出会った草吹主任と矢沢さんのカップリングは、私にとっては絶好の妄想対象だった。

 ちょっととぼけた天然のお姉さんと不器用で一生懸命な矢沢さんは最高の組み合わせに見えた。

 しかも草吹主任は矢沢さんのことを目に入れても痛くないといった様子でかわいがっていたし、矢沢さんもそれを喜んでいるように見えた。

 だから私にとってオアシスのような存在を邪魔する野崎さんが気に入らなかった。良い先輩のフリをして野崎さんをランチに誘ったのは、矢沢さんから引き離すためだった。

 それでも野崎さんの教育担当になった矢沢さんは不器用ながらも野崎さんと距離を詰めようとしていく。野崎さんもそれに応えようとしていた。そのために矢沢さんと草吹主任の絡みが少なくなっていったのだ。

 そして私は「野崎さんが目障りだ」「どうにかして野崎さんを矢沢さんの側から引き離せないだろうか」と考えるようになった。

 だからってひどい仕打ちをすることもできないし、私の楽しみがなくなるから矢沢さんに近づかないでということもできない。そこで幼稚ないたずらを仕掛けることにした。

 最初は野崎さんが使っているボールペンを隠すことだった。

 本当にちょっとしたいたずらのつもりだった。

 出勤した野崎さんがボールペンを探して、次々と引き出しを開けたりファイルをパタパタ振ったりしている姿を見て、吹き出してしまうかと思った。

 少しだけからかったら「落ちてたよ」なんて言いながら、すぐにボールペンを返すつもりでいたのだ。

 だけど野崎さんは矢沢さんからボールペンを借りてしまった。無性に腹がたった。

 引き離すつもりが近付けてしまうという痛恨のミスに腹が立って、ついつい手に力が入ってボールペンを折ってしまったと、そのときは本当にそう思っていた。

 そのまま引き下がるのが癪でいたずらを続けてたのだ。私がいたずらをしているところは錦さんや矢沢さんにも目撃されているのに、なぜか野崎さんだけが一向に私の仕業だと気付かない。それが余計に腹立たしかった。

 宿泊研修のとき、矢沢さんと草吹主任が同室だと知って久々にテンションが上がった。オリエンテーリングのとき、矢沢さんと野崎さんがペアだと知って苛立った。

 草吹主任はオリエンテーリングには参加しない。それはわかっていたし、あのペアリングには社内でのチームワークを育む一環でもあるから、矢沢さんと野崎さんがペアになるのは当然のことだと頭ではわかっていた。きっとそれを決めたのは草吹主任だろうとも思っていた。それでも苛立ちが抑えられない。

 そうして気付いてしまったのだ。

 ずっとずっと目を背け続けてきたけれど、それ以上誤魔化すことはできなくなっていた。

 私は、野崎さんが草吹主任と矢沢さんの仲を裂くことが嫌だったわけじゃない。野崎さんが矢沢さんと仲良くするのが嫌だったのだ。

 気になっていたのは、矢沢さんと草吹主任ではなく、野崎さんだった。

 これまでの苛立ちが嫉妬に過ぎないことに気付いても尚、私はそれを認められなくて、支離滅裂な行動を繰り返してきたと思う。

 野崎さんをランチに誘うと少し困ったような顔をしたし、『草×陽』トークを繰り広げると、うんざりした表情を浮かべていた。

 それでも野崎さんに声を掛け続け、だけど同性が気になる気持ちはフィクションに過ぎないと頑なに暗示をかけて、野崎さんを『百合』について語り合う仲間に仕立てようとした。

 我ながらひねくれすぎている。

 だけど自分の気持ちを認めてしまうのが怖かった。

 偏見がないと言いながら、私は偏見に満ちていた。だから世の中のすべてが偏見に満ちていると思い込んでいた。

 だから草吹主任と用賀さんのことを知って衝撃をうけたのだ。フィクションではない現実がそこにあった。

 きっと私は目を閉ざしながら生きてきたのだ。自分の気持ちも周囲も見ようとせず、勝手に作り上げた都合のいい世界の中だけで生きてきた。

 私が現実を恐れて箱庭の中に逃げ込んでいたのに、草吹主任と用賀さんは堂々と自分たちの現実を生きて笑顔を浮かべていた。

 途端に恥ずかしくなった。

 これまでの人生のすべてが恥ずかしいもののように思えてきた。

 今日、はじめて野崎さんからランチに誘われた。うれしさもあったけれど、苦しい気持ちの方が大きかった。

 私は野崎さんのことが好きだ。

 そして、自分の気持ちを受け入れて、しっかりと目を開けて見渡せば、今まで見えなかったことも見えてくる。

 野崎さんが好きなのは矢沢さんだ。そして矢沢さんも野崎さんのことを憎からず思っているのだろう。

 そんな野崎さんに向かって、私はずっと『草×陽』なんて話をし続けてきたのだ。過去に戻って私を殴り倒したい気持ちだ。

 そういえば私自身が誤魔化し続けてきた気持ちに、錦さんは気付いていたようだ。一緒にランチを食べたときにそんな指摘をされたことがある。だけど野崎さんは鈍いところもあるから、きっと気付いていないだろう。

 そうでなければ、今日、私をランチに誘うはずがない。

 私は立ち上がってクローゼットの奥に隠してある段ボールを引っ張り出した。

 その中から古くなった同人誌を一冊取り出す。

 雨上がりの道をセーラー服姿の女の子たちが仲睦まじい様子で歩いている。私がはじめて買った百合同人誌だ。

 はじめて手に入れた日からずっと大事にしてきた一冊。

 女の子たちの繊細な心の動きが描かれたその漫画は、今読んでも胸がときめく。

 私は百合というジャンルが好きだ。

 それと同時に現実の私は同性に心を惹かれる。

 どうがんばって線引きをして、フィクションだと思い込もうとしても、いつまでも嘘をつき続けることはできない。

 もしもこの同人誌に出会わなければ、私はもっと素直に自分の気持ちを受け入れることができただろうか。きっと別の何かの理由を付けて、やっぱり自分自身の気持ちから目を背け続けただろう。

 同人誌を段ボールに戻してクローゼットの奥に押し込む。スマホをチェックすると崇からオンリーイベントの日程が送られてきていた。

 愚かな私はようやく自分が愚かであることを認められた。

 私には好きな人がいる。そしてその好きな人は別の人を好きだ。気付いた途端にこの状況なのは、愚かな私への罰なのかもしれない。

 さてどうしたものか……。

 私はとりあえずスマホを操作して崇に『高級焼肉とビール』と返事を送った。するとすぐに『交渉成立』と返事が届く。

 どうあがいたって現状は変わらないし、焦って行動すればきっと失敗するだろう。

 そもそも野崎さんの私への印象は最悪のはずだ。

 しつこくいたずらを繰り返した犯人なのだし、しつこく百合トークを強要した厄介者だ。

 だから今度は間違えないように、しっかりと目を開いて今の自分を見つめなおそう。

 まずは崇の依頼に答えてイベントに参加する。

 はじめて崇に連れられて行ったイベントで百合に出会った。もしかしたら今度も新しい何かと出会えるかもしれない。

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