season3-4:苦いデート(viewpoint輝美)

 日差しが熱い。『暑い』ではなく『熱い』だ。

 買わなくてはいけないものがあったから、やる気を振り絞って土曜の昼中に街まで出てきたのだけどやっぱり失敗だった。こんな日は涼しい部屋の中でキャリアセンターの職員にダメだしされ続けている自己PR文でも考えていた方がマシだと思う。

 友人たちが内々定をもらいはじめた時期に就活をスタートした私はすべてに出遅れていた。とはいえこの時期でも採用を行っている企業も多い。大人気の大手企業はもう手遅れだけど、私は大手企業を狙うつもりが最初からないので問題ない。それに噂では公務員試験に落ちた学生を狙って遅い時期まで採用を行っている優良企業もあると聞く。

 そんな話を聞くと無理に焦らずじっくりと腰を据えて就活をした方がいいんじゃないかという気持ちになる。卒論もキツいし少し長いスパンで考えて、卒業までに何とかできればいいくらいの気持ちでもいいんじゃないだろうか。

 問題を先送りしたくなるのはやる気がないからなんだけど、そんなことは言っていられないという気持ちだってちゃんとある。

 就活が長引くほどバイトを減らす日が長引くということだからだ。それでは陽さんに会う機会が激減したままになってしまう。

 それに陽さんのことで少しだけ気になることがあるのだ。

 少し前、陽さん成分が不足していた私はフラフラとバイト先の居酒屋まで行ってしまった。

 だけどバイトに入れないと言っているのに顔を出すのも少しだけ気が引けた。それに陽さんと顔を合わせてどんな話をすればいいのか分からなかった。就活が忙しくなると陽さんに伝えていたし、実際にそうなのだけれど、就活はまったく捗っていない。

 そんな恰好の悪いところを陽さんには見せたくない。ましてや弱音なんて吐きたくない。だけど陽さんの顔を見たらついつい弱音を吐いてしまいそうな気がした。

 やっぱりもう少し就活に目処がつくまで我慢しようと引き返そうとしたとき立花雅に見つかってしまった。

 そうして半ば強引に引きずられて妙な飲み会に参加する羽目になったのだ。

 参加していた面々は、私と立花雅の他に、陽さん、モスコ女こと野崎満月、そして立花雅の彼女。

 立花雅に彼女がいることは以前聞いたから知っている。同時に野崎満月のことが好きだという話も聞いていた。それなのに立花雅は野崎満月の前で堂々と彼女とイチャイチャしていた。何か心境の変化があったのか、それとも野崎満月に嫉妬をさせようという魂胆なのか。立花雅は底意地が悪そうだからそれくらいのことはしそうだ。

 でも立花雅とかその彼女とか野崎満月のことなんかはどうでもいいのだ。問題は陽さんだった。なんとなく、本当になんとなくなんだけど、ちょっぴり陽さんの様子がおかしいように感じたのだ。

 陽さんと野崎満月が一緒に飲んでいるところは前にも見たことがある。でも今回はそのときよりも陽さんが野崎満月のことを意識しているというか、気に掛けているというか、そんな感じがした。

 一方の野崎満月は陽さんそっちのけで立花雅と彼女に食いついていたから、きっと気にするほどのことでもないのだと思う。だけどどうしてもそのときの陽さんの変化が気になって仕方がない。

 だったら陽さんに連絡をするなり会いに行くなりして真偽を確かめればいいのだけど、そんな勇気もなくて私はこうして一人で街をぶらついている。

 考えていたら本当に不毛な時間に思えてきた。さっさと用事を済ませて早く家に帰ろう。そして夜になったら居酒屋に顔をだしてみよう。陽さんに会えるかもしれない。

 だけど土曜と日曜は陽さんが店に来ないこともある。来る場合でも時間はバラバラだ。陽さんに偶然会いたいならば平日の夜の方が高確率だ。

 陽さんから連絡先を教えてもらっているのだから、本当はそんな偶然を狙う必要はない。だけどまだ一度もメッセージを送ることができずにいた。

 メッセージを送ろうとしたことは何度もあるのだ。だけどどうしても送れなかった。

 最初はどんな言葉を送ろうかと迷った末に『お元気ですか?』と入力してすぐに削除した。その前日に居酒屋で会って連絡先を聞いているのに『お元気ですか?』なんて馬鹿過ぎる。それに文通じゃないんだからもうちょっと気の利いた言葉があるだろう! と悶えていて結局別の言葉を探せなかった。

 帰宅途中に見上げた空に大きなまん丸の月が見えた。そのとき『月がきれいですよ』と送ろうとして却下したこともある。告白かよ。告白してもいいけどいきなりこれって絶対おかしいだろう。告白だと思われないならむしろいいけど、微妙に「告白?」みたいに思われたら死ぬほど恥ずかしい。そもそも丸い月って満月じゃん。野崎満月を褒めてるみたいで腹が立つ。と苛立っていて別の言葉を探せなかった。

 大学の友だちにはくだらないことを軽率に送ることができる。

 この間、通学途中に猫を見掛けたときには『ニャー』と送った。そうしたら『ニャン』と返事が来た。

 フラッとランチに入ったお店で見掛けた犬の置物がかわいかったから写真と一緒に『超かわいいんだけど!』と送った。そうしたら『クマ?』と返事が来た。

 大学の友人にメッセージを送るときに慎重に言葉を選んだりはしない。ほとんど反射的に文字を入力して送信してしまう。ときどき間違えて変な内容を送ってしまうこともあるけれど、それも笑い話になるから別に気にしない。

 だけど陽さんだけは別だ。おかしなことを送って呆れられたくないし、既読スルーどころか既読すら付かなかったらと考えると恐くて仕方がない。

 陽さんの方からメッセージを送ってもらえたらそれはとてもうれしいのだけど、きっと期待するだけ無駄だと思う。多分、陽さんはあまりメッセージを送り合う習慣を持っていないだろう。

 だから私は毎日、陽さんにメッセージを送る理由を探していた。

 最近は卒論やら就活やらにほとんどの時間を使っている。キャリアセンターに顔を出したら、職員の女性に爽やかな笑顔でボロクソに言われて凹んだなんて陽さんには伝えられない。しかもその話の八割が「あなたみたいに毎年ギリギリに泣きついてくる学生がいて……」という話で、そんなことより具体的に何をすればいいのかを教えてくれよって思った、なんて送っても陽さんが迷惑するだけだと思った。

 就活用にスーツを買いに行ったとき、あまりにテンションが下がっていたので、陽さんにいつ見られてもいいようにかわいい下着も買ってきたなんて陽さんには絶対に送れない。

 エントリーシートを書いていても自己PRできることが一個もないから凹んでいるなんて泣き言を送ることもできない。

 求人を見てもどの会社も同じにしか見えなくて選ぶことすらできないからどうしたらいいですか? なんて送れない。

 毎日起きることのすべてが陽さんにメッセージできないことばかりだった。

 本当はそんな泣き言を陽さんにこぼしてしまいたい。陽さんならきっと困った顔をしながらでも一生懸命に話を聞いてくれると思う。だけど陽さんに私の情けないところを知られたくないという気持ちの方が勝っていた。

 そのとき突然ポンと肩を叩かれて、思わず「ギャッ」と声を上げてしまった。振り返ると立花雅とその彼女が立っていた。

「往来でボケっと突っ立って、何してるの?」

 立花雅の言葉に、いつの間にか立ち止まってぼんやりと考えごとをしてしまっていたことに気付いた。

「熱中症?」

 立花雅の彼女が言う。

 私は二人を見なかったことにして歩き去ることにした。だが二歩進んだところで襟首をグイッと引っ張られる。

「そうあからさまに無視しないでよ。傷つくじゃん」

 全然傷ついていないであろう立花雅が言う。

「友だちでもないんだから、無暗に話し掛けないでくれる?」

 脱力して言った私の言葉に声を返したのは立花雅の彼女だった。

「え? 私たち友だちだよね?」

 前に一度顔を合わせただけでまともに話をしたこともない相手を友だち認定されても困る。

「友だちどころか、あんたの名前も覚えてないから」

 私が反論すると立花雅の彼女はニッコリと笑った。

「私覚えてるよ、輝美だよね?」

 いきなり呼び捨てにされた。

「初対面の人を呼び捨てってないんじゃない?」

「雅は輝美ちゃんって呼んでたけど、輝美ちゃんって感じじゃないもん。どうしてちゃん付けなの?」

「お店でバイトしてるときの名札が『輝美ちゃん』になってるから」

 答えたのは立花雅だ。

「ふーん。じゃあ輝美、これからよろしくね。私、日和」

 何が『じゃあ』なのかよくわからないけれど、多分真面目に聞いてもダメなタイプの人だと思った。

「私も輝美って呼ぶことにしよっと」

 立花雅まで便乗してきた。面倒臭いカップルに捕まってしまった。

「もう好きに呼べばいいよ。私は急ぐから」

「まってよ、輝美ぃ、どこいくの?」

 日和は私の腕をガッチリ掴んだ。振りほどこうとしたが離そうとしない。

「別に関係ないでしょう?」

「お友だちじゃない」

「……日和、離して」

 私が言うと日和はニッコリと笑って「わーい、日和って言ってくれた」と言い、立花雅は「私の日和を呼び捨てにした」と目をむく。本当に面倒臭いカップルに捕まってしまった。

「冗談はさておき、どこ行くの?」

 気を取り直したように立花雅が言う。

「就活用のスーツを買いに」

「今更?」

 立花雅は首を傾げる。

「一着は持ってるけど、洗い替えが無いから」

 私は観念して今日の予定を伝えた。暑い中わざわざ街に出たけれど楽しい買い物ではないのだ。

「だったら一緒に映画でも行こうよ」

 日和が言った。

「耳ついてるの? 私、スーツ買いに行くって言ったでしょう」

 立花雅はこんな人と付き合っていて大丈夫なんだろうか。私なら三十分も一緒にいたらイライラしてブチ切れてしまうと思う。

 私の反論をサラッと無視して立花雅が日和に向かって話し馴染めた。

「私は別にいいんだけど……。せっかく明るいうちからデートしてるのに、日和はいいの?」

「いいよぉ。これからはいつでもデートできるんでしょう?」

「もちろんだよ。だったらいいか」

 二人はどことなく意味深な会話をしながら私の予定変更を確定しようとしている。

「ちょっと待って、だから私は……」

「スーツ、買う必要ないでしょう?」

 私の反論をさえぎって立花雅が言った。

「それって就活なんて無駄だって言いたいの?」

 私はイラっとして立花雅を睨む。確かに就活はうまくいっていない。それでも頑張っているのだ。

 日和が変な女だということに気を取られていたが、立花雅だって失礼かつ変な女だった。お似合いのカップルだ。近づきたくないけど。

 立花雅は私の視線に臆することなく「そんなこと言ってないでしょう」と笑った。

「スーツを一着持ってるなら、洗い替えを買う必要ないじゃない。日和もさっきそう言ったよね?」

 立花雅はチラリと日和に視線を送る。その視線を受けて日和はニッコリと笑った。

 あれ、そんなこと言ってたっけ? 記憶を辿ってみたけれどそんな言葉は少しももい出せない。

「そんなこと言ってなかったよ」

「そうだっけ?」

 立花雅は首を捻った。なんだろう、この二人はテレパシーで会話をしているんだろうか。すごく怖い。すごくキモイ。

「カラオケの方がいい?」

 唐突に日和が言った。もう本当にいい加減にしてほしい。

「今そんな話してないでしょう! どうして買わなくていいの?」

「輝美は四年でしょう?」

 日和が不思議そうな顔をして言うと立花雅を見た。そして日和の言葉を立花雅が引き継ぐ。

「一応、卒業までに就職先決めるつもりなんだよね? だったら就活スーツ使うのなんてあと少しだけじゃない。毎日面接があるわけでもないし、一着あれば充分だと思うよ」

「そうなの?」

 立花雅と日和はコクリと頷く。

「でも、クリーニングはしなくていいの?」

「スーツのクリーニングなんて半年に一回くらいでしょう」

「え? そうなの?」

「すごく汚れてて気になるなら別だけど……。普通に着るだけなら使った後、除菌スプレーして陰干ししておけば大丈夫」

 立花雅の言葉が本当ならば、確かに洗い替えを買う必要はないのかもしれない。

「でも買っておいても無駄にはならないでしょう? 就職してからも着れるし」

「就活生以外で就活スーツを着ている人、見たことある?」

 どや顔の日和の言葉に私はハッとした。確かにブラックの面白味の欠片もないスーツを着ている会社員なんてほとんど見たことがない。

「せいぜい新入社員研修の期間くらいまでだねぇ」

 そう言ったのは立花雅だ。

「マジか!」

 どうやら私はどこかの大人が作ったよくわからないルールに踊らされていたらしい。

「それにどんな会社に入るかによっても違うしね。ラフな服装で大丈夫な会社もあるし」

 立花雅の言う通りだ。もしも店長の勧めにのってバイト先の居酒屋に就職したとすればスーツなんて着る機会はないだろう。

「そうか、危うく無駄にお金を使うところだった」

「良かったね、じゃあカラオケに行こう」

 日和が笑顔で言う。

「行かない。帰る」

 アドバイスには感謝するがこの二人と行動を共にしたくない。絶対に疲れるだけだと思う。

「えー、行こうよ」

 歩き去ろうとする私の腕を日和が掴む。どうしてこんなに気に入られてしまったのだろう。

 日和の腕を振りほどこうとしていたとき、私の視線の先に陽さんの姿が見えた。

「あっ」

 私の声に立花雅と日和も私の視線の先を見た。

「矢沢陽だね」

 立花雅がつぶやく。

「休日に偶然陽さんに会えるなんて……これは運命かもしれない」

 私の気持ちが一気に弾む。面倒だと思いながらも街に出てきて、面倒だと思いながらもこの二人の話に付き合ったことに対する神様のご褒美かもしれない。

「私たちとも偶然に会ったのに、それは運命じゃないんだ」

 立花雅が苦笑いを浮かべて言ったが、私はそれを完璧に無視して陽さんの姿を目で追う。そしてその横に見知らぬ女性の姿を見付けた。なんだか親しそうに話をしている。

「へぇ、なんか珍し……くもないか」

 そうつぶやいたのは日和だ。

「日和の知ってる人なの?」

 私は食いつき気味に日和を問い詰める。

「矢沢さん?」

「違う、その隣の人」

 察しがいいのかわざとボケているのか分かりづらいし面倒臭い。

「会社の先輩の用賀さんだよ」

 日和は意地悪することなくサラッと教えてくれた。会社の先輩だったら陽さんが話をしていても不思議ではないけれど、休日の繁華街を二人で歩いているなんて、まるでデートみたいじゃないか。

「へぇ、なんかシュッとした人だね」

 立花雅がそう称したのは用賀という人のことだろう。

「シュッとしてるだけじゃなくてピッとしてるよ」

 日和が笑顔で立花雅に教える。

「へー、そうなんだ」

 立花雅は日和の言葉に納得していた。誰かこのバカップルの意味の分からない会話をどうにかしてくれ。

「で、そのシュッでピッとしてる人と陽さんがどうして一緒にいるわけ!」

 なんだかイライラしてついつい声を荒げてしまう。

「私、知らないよ」

「くっ、役立たず」

「ひどいこと言うネ」

 日和はそう言ったけどまったく気にしている様子はない。

「で?」

 立花雅が言った。何を言っているんだろうと立花雅の顔を見ると、視線は日和に向いている。

「多分、草吹主任のところに行くんじゃないかな?」

「知ってるじゃん!」

「知らないよ。ただの予測だもん」

 本当にこの二人と話すの疲れる。

「どうしてあの二人で草吹主任とやらのところに行くの?」

「この間、草吹主任が会社を辞めたんだけど、お店を開くって言ってたからそのお祝いとかじゃないかな?」

 今度は素直に話してくれた。立花雅は日和と話をしていて疲れないんだろうか。

 とりあえず日和の説明で陽さんがデートをしているわけではなさそうだと分かって少しホッとした。

「安心していいよ」

 日和がニッコリと笑う。

「へ?」

「矢沢さんと用賀さんは何もないと思うよ」

 思わず顔が熱くなる。

「バッ、べ、別にそんなの気にしてないしっ」

「でも、草吹主任とは何かあると思うけど」

「ンガッ!」

 なんか変な音が出てしまった。日和の顔を見ると新しいおもちゃを見付けた子どもように目を輝かせて私を見ている。すごく腹が立つ。

「何かって、何があるの?」

 私は奥歯を噛みしめながら日和に問うた。腹は立つけど情報を握っているのは同じ会社の日和だけだ。

「それは知らないよ、聞いたことないもん」

 飄々と言う日和の脳天にチョップを入れたくなった。

「日和、あんまり輝美をいじめちゃだめだよ」

「いじめてるつもりはないんだけど……輝美は矢沢さんが好きなんでしょう?」

 私はギロっと立花雅を睨みつける。

「雅からも聞いたけど、この間見ただけでもわかったよ」

 そんなに分かりやすい態度をとっていたつもりはない。日和の言葉はどこまで本当なのかはわからないけれどそれはどうだっていいのだ。別に隠すつもりもない。

 そんな話をしている間にいつの間にか陽さんの姿は見えなくなっていた。

「じゃあ、カラオケに行こうか」

 どうしても諦めてくれない日和が改めて私に腕を絡めて言った。

「日和は輝美のことが気に入ったんだねぇ」

「うん」

 私はすごく面倒臭い人に好かれてしまったようだ。私が好かれたいのは陽さんだけなのに。

「輝美! 日和は渡さないからね!」

「取らないよ!」

 もう本当にこのカップルと関わり合いたくない。

 日和は人差し指を唇にチョンと当てて少し考える仕草をしてから小首をかしげて私を見た。

「もしも今日一緒に遊んでくれるなら、もう一つ耳よりな情報を教えてあげる」

 日和は思わせぶりなことを言い出した。多分、日和は悪魔か何かだと思う。だから会話が通じないのだ。どんな情報なのかは気になるが、悪魔に魂を売り渡してはいけない。

 大体、このカップルと長時間一緒に過ごすなんて考えただけでも疲労する。

「いらない。聞かない。帰る」

「えー、遊ぼうよ」

 なおも食い下がる日和の手を振りほどこうとしたとき立花雅が日和の耳元でボソリと言った。

「本当にあのこと教えちゃうつもりなの?」

 どうやら立花雅も日和が言おうとしていることを知っているようだ。

「んー、そう思ったんだけど、輝美は帰るって言うし」

「私は教えない方がいいと思うよ」

「そうかなぁ?」

「私たちには関係ないでしょう?」

「でも輝美とは友だちだし」

 二人は小声でやり取りをしているが、日和は私の腕に絡みついているのだから全部筒抜けである。

 その芝居じみた二人のやり取りに引っかかるのは癪だけど、一体何を教えようとしているのか気になってしまう。

 そうして私は悪魔に魂を売り渡してしまった。

「あー、もう、分かった。カラオケに行けばいいんでしょう!」

 日和は天使のような笑みを浮かべて、立花雅は少し眉尻を下げて困ったような顔をしていた。


+++


「あ、陽さん! こっちです」

 人波に押されながらも果敢に前に進む陽さんの姿を見付けて私は手を挙げた。陽さんは私の姿に気付いて小さく笑みを浮かべる。

 明るい太陽の元で陽さんとこうして待ち合わせるのははじめてのことだ。今日を記念日に制定することにした。

 結局昨日は、立花雅と日和に連れまわされて、映画を見てからカラオケに行き、夕食を食べるまで解放してもらえなかった。

 私のどこをそんなに気に入ったのか知らないが、日和が私の腕にずっと掴まっていたから、終盤は立花雅の機嫌が悪くなって大変だった。

 そして解放される直前に教えられたのは、野崎満月が陽さんに告白をしたという事実だった。想いを伝えただけでまだ付き合っているというわけではないらしい。ただ陽さんも真剣に野崎満月のことを考え始はじめたはずだと言っていた。

 その話を聞いて、五人で飲んだときの陽さんの様子が少しおかしかった理由が分かった。野崎満月に告白された後だったからだろう。

 悔しかった。

 二年以上もかかって、私はやっと陽さんの連絡先を知ったばかりだ。それなのに野崎満月はたった数ヶ月で告白までしている。

 同時に日和がなぜ私にそんなことを教えようと思ったのか気になった。何か魂胆があるのではないかと思った。

「野崎満月は友だちなんじゃないの? どうして私にわざわざそんなことを教えるの?」

 すると日和はチラリと不機嫌さマックスの立花雅の顔を見た。

「もちろん満月さんも友だちだし、むしろ満月さんと矢沢さんにくっついて欲しいんだけど……」

 私は日和を睨みつけるほどに凝視する。微妙な表情の揺れも見逃さないようにするためだ。ほぼ一日一緒にいても日和のことはよく分からなかった。だからどれだけ注意深く表情を伺っても日和の本心を見極めることはできないかもしれない。それでも野崎満月を応援しているのに私にその情報を伝えた真意を知りたかった。

「だって満月さんに彼女ができれば、雅がまた満月さんになびいちゃうかもって心配をすることが減るでしょう?」

 どうやら日和は立花雅が野崎満月を好きだったということまで知っているらしい。なんだか怖いカップルだと思った。立花雅は「そんなこと絶対ないから。本当にないから」なんて必死に言っていたが、私はそれを無視して日和の言葉を待つ。

「でも輝美とも友だちになったし、同じレースに出てるんだから教えてあげた方がいいかなと思って」

 そうして邪気のない笑みを浮かべて続ける。

「だからあれこれ考えてモタモタしてると置いて行かれちゃうよ?」

 日和と顔を合わせたのはたった二回だ。それなのにどこまで分かっているんだろう。立花雅はよくこんな怖い女と付き合えるものだ。

 日和とはできるだけ距離を置きたいところだけれど、その忠告はありがたく受け取ることにした。そして私はその日のうちに陽さんにメッセージを送って会う約束を取り付けたのだ。

 つまり日曜に陽さんとランチデートすることになったのである。

「遅くなってごめんなさい」

 陽さんは頭を下げたが待ち合わせの時間より五分早い。

「大丈夫です。私が早く来ちゃっただけですから」

 笑顔で言うと陽さんもホッとしたように笑った。

 そうしてあらかじめチョイスしておいたお店に陽さんをエスコートする。バイト先の居酒屋がお気に入りの陽さんはきっと堅苦しい場所よりラフなお店の方が好きだろう。だからといってラフすぎる店に連れて行くなんてできない。だからちょっとだけオシャレな雰囲気の洋食屋さんに決めた。

 少しレトロな雰囲気で騒がしすぎないのもいいだろう。

 お店に入ると陽さんは店内をキョロキョロと見回して微笑みを浮かべる。気に入ってくれたようだ。

 向かい合って座り、私はBセット、陽さんはAセットを注文する。Bセットはピラフにエビフライ、ハンバーグ、サラダが盛られていて、Aセットはオムライスとエビフライ、クリームコロッケ、サラダだ。

 たわいない話をしながら料理に舌鼓を打つ。そうしながらも私は考えていた。野崎満月が告白したと聞いて私もすぐにでも告白してしまおうと思った。

 だけどそれは少し性急かもしれない。私にとっては陽さんとの距離を縮めるために十分に時間をかけてきた。だけど陽さんにとってはついこの間まで顔を知っているだけの居酒屋店員だった。

 だからこうしてただの店員とお客様という関係ではない楽しい時間ももう少し重ねてからの方がいいような気がする。

 しかしこうしている間に野崎満月について考えはじめた陽さんは答えを出してしまうかもしれないのだ。そしてその答えは私の望まないものかもしれない。

 それがわかっているのに告白を躊躇してしまう理由は自分でもよくわかっていた。

 たった一言でこれまで築いてきた二年間が無くなってしまうことが怖いのだ。

 陽さんなら告白をしてもそれを無下にすることはないと思う。例えば告白の答えがNOだったとしても、急に冷たくしたり避けたりするようなこともないと信じている。

 それでもこれまでの関係とは違うものになってしまうだろう。それがどんな形なのか想像できないから怖い。

 これまで私に告白をしてくれた恋人たちは、本当にこんな怖い想いを乗り越えてきたのだろうか。

「あ、あの……輝美ちゃん」

 食事も終盤に差し掛かったところで陽さんがおずおずと口を開いた。

「はい、なんですか?」

 私は頭の中をグルグルと回る迷いを隠して笑顔で答える。

「えっと、あの……輝美ちゃんは、好きな人はいますか?」

「はぁっ?」

 私が思わず大きな声を上げてしまったので陽さんはビクッと体を揺らした。

「ご、ごめんなさい。あ、あの……」

「いえ、びっくりしただけで……」

 そしてそのまま沈黙が訪れる。私はどう答えていいか逡巡した。

「えっと、どうして急に好きな人のことを聞いたのか、教えてもらってもいいですか?」

「あ、そ、それは……」

 陽さんは下を向いてしまう。だけどそれは考えているだけで回答を拒否しているものではないと感じた。だから私は黙って陽さんの答えを待つ。

「私……あまりそういうことを考えたことがなくて……」

 陽さんがようやくゆっくりと口を開いた。そして顔をあげて私を見る。

「自分には無縁だと思ってて。だからよくわからなくて。他の人はどうなんだろうって……」

 野崎満月に告白されたことは教えてくれなかった。それは当然のことだろう。だけどその言葉から陽さんが野崎満月の気持ちについて真摯に考えようとしていることはわかった。

 すごく悔しい。

 私はその土俵に立つことすら躊躇しているのに、野崎満月は軽々とそこに立ってしまった。

 私が黙ってしまったことで陽さんは私が気分を害したと勘違いしたのかもしれない。

「変なことを聞いてごめんなさい。聞かなかったことにしてください」

 陽さんは弱々しい声で言って目を伏せると残っていたオムライスにスプーンを入れた。

 小さな口で必死にオムライスを咀嚼する姿は、先ほどまで目を細めて食べていたものと同じ料理だとは思えない。

「いますよ」

 私は陽さんをまっすぐに見つめて言う。陽さんはゴクリとオムライスを飲み込むとスプーンを置いた。

「好きな人、いますよ」

 私はもう一度言う。

「そうなんですね。やっぱりこれくらいの年齢なら、好きな人くらいいますよね……」

 なぜだか陽さんの作った笑みが痛々しく感じた。

 いつもの私なら、そんな陽さんの顔を見たら次の言葉を発せなくなっていたと思う。だけど勝手に口から言葉が零れ落ちていた。

「陽さんです」

「え?」

「私の好きな人は陽さんです。ずっと前から好きでした」

 ずっと言えなかった言葉を口にしたけれど、私は驚くほど冷静だった。陽さんはそんな私の顔を見つめて動かなくなってしまう。

 そのままどれくらいの時間が経ったのだろう。

「みんな……」

 絞り出すような陽さんの声が耳に届く。

「どうしてみんなでそんなこと言うんですか。どうして私がわからないことを言うんですか。一生懸命考えてるのに、私の何がだめなんですか」

「陽さん?」

「勝手に好きとか言って、なんなんですかっ。私、知りませんっ」

 陽さんは声を荒げて言うと立ち上がって店から出て行ってしまった。

 追いかけるべきだと思ったけれど、私は動けなかった。

 はじめて陽さんが怒鳴るのを聞いた。

 そして、はじめて陽さんが泣いているのを見た。

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