season3-5:二歩後退(viewpoint満月)

「会社を辞めたあと、どうするんですか?」

 草吹主任が出社する最後の日の朝礼の挨拶でそんな質問をした勇者は、私がほとんど話したことのない先輩社員だった。

 草吹主任はかなりの天然でドジを踏むこともしばしばあった。それでも憎めないところがあって人望も厚い。私も草吹主任のせいで合宿研修ではひどい目に遭ったけれど、仕方ないなぁとしか思えなかった。草吹主任の天然は、それをカバーするために社員たちがついつい一致団結してしまう、そんな不思議なパワーがあった。

 だからみんな、草吹主任が退職することにショックを受けていたし、今後の動向を気にしていた。

 だけど草吹主任から退職後のことが語られることはなく、聞きたいけれど聞けないという状態が続いていたのだ。

 もしも草吹主任が何も考えずに退職をしてニートになるなんて聞いたら、「じゃあなんで辞めるんですか!」と言ってしまうだろう。そして草吹主任がそんな状況で辞めることになった理由を詮索したくなってしまう。

 もしもライバル会社に転職するなんて聞いたら、それこそ何と言えばいいのかわからずに気まずい雰囲気になるだろう。

 そして草吹主任の場合、突拍子もないことを言い出しそうな気がして、聞きたいのに聞けないという状態で今日まできてしまっていた。

 勇者の質問に、期待と緊張が入り混じる空気が満ちる。

 だけど質問をされた草吹主任は動じるどころか「よくぞ聞いてくれました」とでもいわんばかりに目を輝かせた。

「お花屋さんのカフェです」

 危惧していた返事ではなかったことで空気は一瞬緩むが、すぐに草吹主任の回答の意味が分からず戸惑いの空気が取って代わる。

「花屋ですか? カフェですか?」

 恐る恐る質問をしたのは砂川さんだった。

「カフェだけどお花屋さんです」

 チラリと矢沢さんの横顔を覗き見ると穏やかな表情でジッと草吹主任を見つめていた。もしかしたら矢沢さんは今後のことをすでに聞いていたのかもしれない。

 草吹主任が辞めることを知ってすぐのときにはとても落ち込んでいて、カパカパとモスコー・ミュールを飲みまくった上に酔いつぶれて我が家に泊った。

 だけどその日以降は吹っ切れた様子でいつもの矢沢さんに戻っていた。

 草吹主任の最後の日となる今日も取り乱すことはないようだ。

 砂川さんも矢沢さんに負けず劣らず落ち込んでいた一人だ。砂川さんの場合は矢沢さんとは思考のベクトルが全く違うものだったが、それでも放っておくことができずに何度も慰める羽目になった。

「基本的にはカフェです。その一角で花の販売もするそうです」

 草吹主任の足りない言葉を補足したのは用賀さんだ。

「そう! お花がいっぱいのカフェなの。素敵でしょう?」

 草吹主任は両手を組んでそれこそ花の咲いたような笑みをこぼした。

 私は入社してからからのわずかな間しか見ていないが、草吹主任と用賀さんは名コンビだったのかもしれない。みんなからの信頼は厚いけれど大らかすぎる草吹主任。その足りない部分を用賀さんがピンポイントで抑えていく。いらないお世話だろうが、用賀さんのいない状況で草吹主任がちゃんとやっていけるのかちょっと心配だ。

 用賀さんの顔を見ると、困ったように眉尻を下げて草吹主任を見つめていた。もしかしたら草吹主任の退職を一番残念に思っているのは用賀さんなのかもしれない。

「だからみんなもお休みの日には遊びに来てね」

 新しい世界にワクワクしている草吹主任の顔は見ているだけでなんだかうれしくなってしまう。矢沢さんも草吹主任につられるように少し笑みを浮かべていた。

 草吹主任は退職の挨拶や最後の手続きを終えたら昼頃には帰ってしまうらしい。そのため、朝礼が終わると部署の社員一人ひとりに声を掛けて回りはじめた。

 矢沢さんに声を掛けたときには、いつものごとく熱烈なハグをしていた。矢沢さんはいつものように少しだけ困った顔で息苦しそうに草吹主任の肩をタップする。

 砂川さんは目を細めてその様子を眺めていた。そして感極まったように目に浮かんだ涙を指先で拭っていた。

 そんな砂川さんも草吹主任にハグをされて顔を真っ赤にして喜んでいたし、日和さんはむしろ自分からハグをしにいっていた。

 そして最後に私の前に立ち「短い間だったけどお世話になりました」と丁寧に挨拶をしてくれた。その言葉に私が「お世話になりました」と返そうとすると、いきなりガバっと草吹主任に抱きすくめられてしまった。

 いつも矢沢さんがハグされているのを見て、一度は体験してみたいとは思っていたハグだ。とてもいい匂いがして、柔らかくて温かくて、想像以上に極上の感覚だった。

「陽ちゃんのこと、よろしくね」

 至福のひとときを味わっていた私の耳元で草吹主任が囁く。

 体を離してニッコリと笑った草吹主任にその言葉の意味を尋ねようとしたけれど、すぐに用賀さんに呼ばれて立ち去ってしまった。

 私は矢沢さんよりも年上だけど仕事上では後輩に過ぎない。しかもできの悪い後輩だと思う。だから「陽ちゃんをよろしく」なんて言われるような立場ではない。

 それでもそう言ったのは、草吹主任の退職を知って矢沢さんが動揺していたことを知っていて、近くにいる私にサポートしてほしいという意味だったのかもしれない。

 だけど今日の様子だと矢沢さんは落ち着いていた。私が特別何かする必要はなさそうだ。過保護な草吹主任の取り越し苦労だろう。

 それに今の私は、短い期間に色々なことが目まぐるしく起こり過ぎて思考の処理が追い付いていない状態だった。だから私にできることなんてほとんどないと思う。

 目まぐるしい出来事の中には、草吹主任の退職やそれによって矢沢さんが酔いつぶれて我が家に泊ったことも含まれている。

 だけど何よりも私の心をかき乱していたのは別のことだった。

 草吹主任が去っていく後ろ姿を見送って席に着こうと振り向いたところで日和さんの姿が視界に入った。

 その瞬間、私の視線を感じたのか、それとも偶然なのかはわからないが日和さんが私の方を見る。私は咄嗟にそれに気付かなかったフリをしてパソコンの画面に視線を移した。

 矢沢さんが酔い潰れてウチに泊った日の少し後、雅から同性の恋人がいることを教えられた。その話を聞いたとき、びっくりしたけれどちょっとうれしかった。雅は元から親友だと思っていたけれど、もっと近付けたように感じた。

 それなのになんだか変なのだ。

 つい先日、雅の恋人が日和さんだと知って私はひどく動揺してしまった。

 雅と日和さんは付き合ってもう一年になるらしい。そんなに長い間、恋人がいることを教えてもらえなかったことが悔しかった。

 世間には恋人が同性ということがネックになって友だちにも教えられないという人はいるだろう。だけど私と雅の間でそれはあり得ない。だって私が同性を好きになることを雅は知っていたのだから。

 それなのに一年もの間、雅が恋人の存在を教えてくれなかったのは、私のことを信用していなかったからだろうか。親友だと思っていたのは私だけなのだろうか。そう考えると悲しくなった。

 そして何よりもショックだったのは、雅と日和さんのことを気持ち悪いと思ってしまったことだ。

 私は同性を好きになる。だから雅が私と同じように同性を好きになっても偏見は持たない。当然受け入れることができる。そう思っていた。

 それなのに雅と日和さんのことを考えたとき気持ち悪い思うなんておかしい。そうわかっているのに、自分の感情をどうすることもできないのが嫌だった。

 私、矢沢さん、輝美ちゃん、雅、そして日和さんが顔を合わせた飲み会で、雅と日和さんは人目もはばからずにキスをしていた。一年も付き合っている恋人同士なのだ。キスくらいするだろう。それにきっとそれ以上のこともしているはずだ。

 大人の恋人同士なのだから、それは当然の行為だと頭でわかっているのに、どうしても心が拒否してしまう。

 キスやセックス自体を忌避しているわけではない。矢沢さんが泊まりに来た夜、矢沢さんの化粧を落としているとき、このままちょっとチューしちゃおうかな、なんて考えていたくらいだ。

 それなのにどうして雅と日和さんのキスを受け入れられないのだろう。

 雅の相手が日和さんだからだろうか。もしも見ず知らずの相手だったらこんな風に思わずにいられたのだろうか。だけどそれを確かめるすべはない。

 だからあの日以降、私は会社で日和さんに声を掛けるどころか、目を合わせることもできずにいた。

 一方の日和さんの様子はいつも通りのように感じたけれど、無暗に私に話し掛けてくることもなかった。

「野崎さん、一緒にランチ行かない?」

 そんな声にパソコン画面の端に表示されている時計を見ると、もう十二時を回っていた。私は手を止めて声の主の顔を見上げる。

 そこには財布を抱えて出掛ける準備万端の砂川さんが立っていた。少しだけソワソワしているように見える。

 隣の席を見ると矢沢さんの姿はなかった。

「あ、矢沢さんならさっき草吹主任と食事に行ったよ」

 聞いてもいない情報を砂川さんが教えてくれた。砂川さんがソワソワしていたのは、砂川さんの言うところの『草×陽』が最後に見られたからだろう。

「集中してたから全然時間に気付いていませんでした。切りのいいところまでやっちゃうので少しまっていただいていいですか?」

 砂川さんが頷くのを見て私はパソコン画面に向き直る。

 砂川さんは草吹主任が退職ことへのショックから立ち直り、最近はこうして元気に私をランチに誘いに来る。

 社内で堂々と『草×陽』トークをできるのが私だけだというのもあるけれど、私が日和さんを避けているせいもあるのだろう。砂川さんは日和さんが苦手なようだから日和さんが一緒だと声を掛けられない。雅とのことを知るまでは、砂川さんに絡まれるのが面倒だなと思ったときには日和さんに声を掛けるようにしていた。

 だけど今は砂川さんにこうして声を掛けてもらえるのがありがたい。くだらないと思う話でも一方的な砂川さんの話を聞いているのは気が楽だ。

 なんだか自分が最低の人間のような気がしてきた。

 勝手な都合で人を遠ざけたり利用したりしている。本当に最低で最悪の人間だ。だから雅は恋人の存在をずっと教えてくれなかったのかもしれない。

 私は作業に目処をつけて財布を持って立ち上がった。

「今日はどこに行く?」

「どうしましょうか?」

 砂川さんの声に適当に返事をしながらその後に続いて会社を出た。

 会社を出る時間も遅かったので、ランチの場所に選んだのは会社の近くのカフェレストランだった。

 砂川さんと向かい合って座り、ランチのパスタをもそもそと口に運ぶ。なんだか最近は食べるものもおいしいと感じられない。

「やっぱり野崎さんも残念だよね」

 砂川さんがしみじみと言う。

「何がですか?」

「今日で草×陽を見られるのが最後なことだよ」

「あー、私は……」

 別に興味がないと言ってしまっていいのだろうか。なぜ砂川さんが私の推しカプが草×陽だと認定しているようは話し方をするのか理解できない。

「大丈夫。わかってるから。それで最近元気がないんでしょう?」

 元気がないつもりはないのだけれど、心の内のモヤモヤが表れてしまっていたようだ。

「仕方のないことだし、私も諦めがはついたんだけどさ。あの尊い姿が見られなくなるのはやっぱり悲しいよね」

 砂川さんが詮索をすることなく、勝手に私の心情を思い込んでしまっているのが今はありがたい。

「矢沢さんの様子もおかしいしね。やっぱりショックなんだろうなぁ」

「矢沢さんが?」

 私は少し驚いて聞き返した。確かに草吹主任が会社を辞めると知った直後は取り乱していた。でその後は気持ちを持ち直して落ち着いていたはずだ。今朝の最後の挨拶のときも落ち着いているように見えた。

「気づかなかった? 矢沢さんは表情がわかりにくいタイプだから仕方ないか」

「いや、矢沢さん、ずっと普通でしたよね」

「退職を知ってからしばらくは気丈に頑張ってたんじゃないかな? でも最近は明らかに様子が違ったよ。落ち着かない感じで。退職の日が迫ってきて辛くなったんじゃないかな?」

「そうですか……気付きませんでした」

 私は雅のことで頭がいっぱいで矢沢さんのことをおざなりにしてしまっていたのかもしれない。もう大丈夫だと思い込んでいた。

 矢沢さんは草吹主任に対して特別な想いを抱いている。それは矢沢さん本人から教えてもらった。いくら気丈に振る舞っていたとしても、離れる日が近づけば心穏やかではいられないだろう。自分のことに精一杯で好きな人のことを思いやれない自分に腹が立った。



 その日の帰り、私は矢沢さんに声を掛けることにした。

 矢沢さんに声を掛ける前に周囲の様子をチラリと伺う。砂川さんはもう帰った後で、日和さんは真剣な顔でパソコンを向き合っていた。

「あの、矢沢さん」

「えっ? あ、は、はいっ」

 矢沢さんは叱られた子どものようにピンと背筋を伸ばして私の方を見る。

「よかったら今日、ご飯でもいきませんか?」

 草吹主任のことで気を落としているなら、今日一人で食事をするのは辛いはずだ。

「えっと……」

 矢沢さんは考えるような仕草をしながら辺りを見渡す。

「ごめんなさい。今日はちょっと残業があるので」

「私に手伝えることはありますか?」

「い、いえ、大丈夫です。野崎さんは帰ってください」

 私はまだ矢沢さんの仕事の全てをフォローすることはできない。手伝えないのならいつまでも残っていても矢沢さんの作業の邪魔になるだけだ。

「そうですか。あまり無理しないでくださいネ。それじゃあ、私はお先に失礼します」

「はい、お疲れ様でした」

 そうして矢沢さんに見送られて会社を出た。

 とぼとぼと駅まで歩いて電車に乗り込む。最寄り駅に着いたけれどなんとなくまっすぐ家に帰る気分になれなかった。

 私は雅にメッセージを送った。あの日から雅と二人で話していない。いつまでもモヤモヤとした気持ちでいるよりも雅と話した方がいいような気がした。

―― 仕事終わった? 今から会える?

 雅からの返事はすぐに届く。

―― 無理

 簡素な返事はこれまでの雅と同じなのに、なぜかツキリと胸が痛んだ。

―― ちょっと話したいんだけど。どうしても無理?

 こうして食い下がると、いつもの雅なら最終的に「あー、面倒だなぁ」とか「満月のおごりならね」なんて言いながら時間を作ってくれる。

―― 今日は本当に無理。

 「面倒だよ」とか「私も忙しいんだからね」などという言葉ではなくて「本当に無理」と書かれていたことで、これ以上食い下がっても無駄だと悟った。

 私はメッセージアプリの入力欄に『もしかして日和さんと約束?』と打ち込んですぐに削除する。それを確認する意味なんてない。そして新しい言葉をした。

―― わかった。じゃあまた今度。

 送ったメッセージにはすぐに既読マークが付いたけれど、雅からの返事は来なかった。

 私はスマホをバッグの中に放り込んで周囲を見渡した。家路を急ぐ人や飲みに繰り出す人たちが足早に目の前を通り過ぎていく。

 どこかのお店に入って晩酌でもしながら時間を潰してもいいのだけれど、あまり食欲もないしお酒を飲む気にもなれなかった。

 私は目的地も決めずに足を進める。そのあたりを散歩でもすれば少しは気分が晴れるのではないだろうかと思った。

 だけどどれだけ歩いても心の中のモヤモヤは消えてくれなかった。だけどクタクタになるまで歩き回ったおかげで、家に帰ったらすぐに何も考えずに眠りにつくことができた。



 日曜日の昼頃に雅から連絡が来た。雅はいつものように「面倒臭い」と渋りながらも夕食を一緒に食べようと言ってくれた。これまでと変わらない雅の態度に私は少しホッとした。

 待ち合わせの店に行くと雅は既に店内にいてビールを飲んでいた。

「ビールも飲むんだ?」

 私は席に座りながら雅に言う。

「ここまで来るのに暑くて喉が渇いてたから。こういうときのビールは最高においしい」

 大学時代からよく一緒にご飯を食べているけれど、雅がお酒を飲めると知ったのはつい最近だ。あの時はシャンディーガフを飲んでいた。次に見たときはウーロンハイで今日はビールだ。

 おいしそうにビールを飲んでいる雅を見たら私もビールを飲んでみたいと思ったけれど、苦いのは苦手だからシャンディーガフをオーダーした。

 日和さんのこともだけど、お酒を飲めることだって私は長い間知らなかった。

 私は仕事のことでも好きな人のことでも、いつも雅に相談したり愚痴を漏らしたりしてきた。だけど雅からそうした話を聞くことはあまりない。日和さんのことを教えてもらえなかったにショックを受けたけれど、実は日和さんのことだけではなかった。私の知らない雅はもっとたくさんあるのかもしれない。親友だと思っていたけれど、私は雅のことを何も知らないのではないだろうか。

「今日、大丈夫だったの?」

 私が聞くと雅は少し首を傾げた。

「日和さん」

「ああ、別にいつも一緒にいるわけじゃないから」

「だけど私と二人で会うとか、嫌がらない?」

 すると雅は「今更?」と言ってケラケラと笑う。

 そう言われればその通りだ。日和さんの存在を知ったのはついこの間だけど、二人は付き合って一年になるらしい。その間に、私は何度も雅と二人で食事をしている。

「日和は今日、大学の友だちと遊んでるしね。それに昨日はデートしたし。まあ邪魔者もいたけど……」

 なんだか雅の表情に少しだけ不機嫌さが混ざった。邪魔者とは誰のことだろうと思ったけれど、それを尋ねる前に「それで何の話がしたいの?」と雅から聞かれた。

「あ、うん……日和さんのこと、結局何も教えてもらえなかったから、ちゃんと聞きたいと思って」

「教えないよ」

「どうして? 友だちでしょう、教えてくれてもいいじゃない」

「友だちだからって全部教えなきゃいけない訳じゃないでしょう」

 雅の冷たい対応はいつもと同じのはずなのに、今日はその言葉に痛みを感じてしまう。

 雅は生ビールのジョッキを空にしてシャンディーガフをオーダーした。

「でも、そんなに隠すことでもなくない?」

「隠してもいいでしょう?」

「別に教えてくれてもいいじゃない」

「教えたくないもん」

「どうして?」

「恥ずかしいから」

 雅の答えがすごく当たり前すぎて私は何も言えなくなってしまった。雅は澄ました顔で届いたばかりのシャンディーガフを一口のむ。

 私は俯いてシャンディーガフのグラスの中でゆっくりと浮き上がる泡を見つめた。すると雅がフウと小さくため息を付くのが聞こえる。

「それで?」

「え?」

「私と日和の何が聞きたいの?」

 顔を上げると雅は頬杖をついて私の顔を見つめていた。

 雅から話が聞きたいと思っていたけれど、何が聞きたいのかと尋ねられると何を聞けばいいのか分からなくなってしまう。

 それでも何か質問をしなければ雅の気はすぐに変わってしまいそうだ。

「えっと、あの、いつ頃日和さんと知り合ったの?」

「大学四年の夏。ってそれはもう教えたよね?」

 付き合って一年になると聞いているのだから当然の答えだ。

「ああ、うん。ど、どこで知り合ったの?」

「バー」

「バー? お酒を飲む?」

「そう」

「雅、大学の頃からお酒のめたんだ」

「え? ああ、まあね」

 雅はなぜか気まずそうに目を逸らす。

「どんな風に知り合ったの?」

「日和に声を掛けられた」

「ナンパ?」

「まぁ、そんな感じかな」

「日和さんがナンパって、なんかイメージが湧かない」

「そう?」

「付き合いはじめたのはいつ頃?」

 すると雅は記憶を探るように天井を見上げた。

「最初は付き合いましょうっていうのはなかったかなぁ」

「最初は?」

「一回別れたから」

「そうなんだ……付き合おうって言ってないのにどうやって付き合ったの?」

「はじめて会った日にヤっちゃったし」

「は?」

 教えるのが恥ずかしいといいながら、結構ぶっちゃけて教えてくれる。それにはどう反応していいのか分からない。

 バーでナンパされてそのまま関係を持つなんて、聞いたことはあるけれど本当にあるなんて思わなかった。

「はじめて会った日にとか、雅ってそんなタイプじゃないよね?」

 雅のイメージとは違う。雅は頭が良くて冷静で、無謀なことはしない。日和さんはどうだろう。何を考えているのかよくわからないけどふんわりした雰囲気を持っていて、やっぱりそんな印象はない。だけどときどき突拍子もない行動をとるから、ありえなくもないのかもしれない。

「満月が私のことをどう思っているのかしらないけど、私はそんなタイプだよ」

 そう言われても信じられない。

「雅は本当に日和さんでいいの?」

 そんな風に出会って惰性で付き合っているのなら止めた方がいいと思った。もっと真剣に大切に思える人と付き合った方がいいに決まっている。日和さんが悪い人という訳ではないけれど、ちゃんと好き同志で付き合わなければきっと二人とも不幸になると思う。

 みんなで会った日、日和さんは雅の顔が好きだと言っていた。顔だけが好きだという日和さんが、雅のことを本当に好きだなんて思えない。

「何が言いたいの?」

「もっと雅のことをちゃんと好きでいてくれて、雅もちゃんと好きになれる人と……」

「日和は私のことを好きでいてくれるし、私も日和のことが好きだよ」

「だって……」

「どんなはじまり方だったとしても、大切なのは今でしょう?」

「分からないよ。どうして日和さんなの?」

「日和は、ずるい私も弱い私もそのまま受け入れて許してくれるから。まぁ、それに甘えすぎちゃった結果、一回別れちゃったんだけどね」

 雅は苦笑いを浮かべてこめかみをポリポリと掻く。

「雅は、ずるくも弱くもないでしょう?」

「満月にはそう見える?」

 そうして笑みを浮かべる雅の顔は私の知らない誰かのように見えて少し怖い。

「私のことより、満月はどうなの? 矢沢陽に告白したんでしょう?」

「へ? あー、別に何もないけど」

「何もない? どうして?」

 雅が眉根を寄せて食いついてきた。今までは私の恋愛話には興味がない感じで聞き流していたのにどういう風の吹き回しだろう。

「多分、矢沢さんには恋愛的に好きだって伝わってないと思う」

「ん?」

「それってさ、まったく私のことを恋愛対象として見てないってことだよね」

「ん?」

「それに、恋愛とは少し違うかもしれないけど、矢沢さんが好きなのは草吹主任だと思うんだ」

「ん?」

「草吹主任が退職したばっかりだし、矢沢さんも大変だろうし、私の気持ちを押し付けるのは違うかなと思うし」

「ちょっと待って。矢沢陽が満月の家に泊ったときだよね、告白したの」

「うん」

「それから何も、本当に何もアクションしてないの?」

「だって、脈ナシだよ。どうしようもないでしょう」

「脈ナシねぇ」

 雅は背もたれに背中を預けて腕を組んだ。

「矢沢さんに全くその気がないんだからしょうがないよ」

「アンタさ、最初の頃、矢沢陽がいたずらの犯人だって言い張ってたじゃない」

 雅が唐突に古い話を持ち出してきた。

「そ、それが何?」

「あれだけ力いっぱい自分の勘が頼りにならないって思い知らされたのに、まだ自分の勘を信じてるの?」

「うぅ……それは……」

「まあ、満月がそれでいいならいいんだけど、矢沢陽を狙ってる人が他にもいるのは知ってる?」

 雅の言葉に輝美ちゃんの顔が浮かんだ。輝美ちゃんの態度でなんとなくわかっていたし、雅も知っている人だというなら輝美ちゃんのことで間違いないだろう。

「それはなんとなく……」

「矢沢陽が他の人と付き合うことになってもいいの?」

 矢沢さんが輝美ちゃんと付き合っているのを想像すると当然だけど嫌な気持ちにった。

「それは、イヤ、だけど……」

 それでも矢沢さんが私と付き合ってくれるとも思えない。

 雅は深いため息をついて私を冷ややかな目で見つめた。

「私と日和のことを気にしているよりも、自分のことを考えた方がいいんじゃないの?」



 月曜日に出社するとエレベーターで日和さんと一緒になった。

 平静を装って挨拶は交わしたけれど他の言葉が浮かんでこない。

 日和さんは日曜に私が雅と会っていたことを知っているのだろうか。どんな話をしたのかも知っているのだろうか。それに対してどう思っているのだろうか。

 そう考えると胃の辺りがズンと重くなる。

 エレベーターが目的のフロアに到着する直前に日和さんが私の顔を見た。こうして目を合わせるのは久しぶりのように感じる。

「あれもこれもって欲張ると、両方なくしちゃうよ?」

「え?」

「雅は満月さんのことが大好きだから、助けてって言ったらきっと助けちゃうと思うけど……でもまずは、目を開けてちゃんと見ないと」

 そこまで言ったときエレベーターの扉が開き、日和さんはスキップするような足取りでオフィスに歩いて行った。

 しばし呆然としていた私は、エレベーターの扉が閉じる直前に慌ててフロアに降り立った。

 やはり日和さんは日曜のことを雅から聞いているのだろう。なんだかすごく恥ずかしい。

 それにしても日和さんは一体何を言いたかったのだろう。あれもこれもと欲張っているつもりなんてない。それに「目を開けてちゃんと見ないと」とはどういう意味だろうか。

 自席に行くと、矢沢さんはもう出社していて仕事の準備をはじめていた。矢沢さんのデスクには見覚えのない小さな花の鉢植えが置かれている。

「おはようございます」

 挨拶をすると矢沢さんはチラリと私の顔を見て「おはようございます」と小さく言ってプイと画面に視線を移した。

 矢沢さんは明るく笑顔で元気よく挨拶をする人ではない。だけどそれにしても少し対応が冷たいような気がした。

 草吹主任の退職が響いているのかもしれない。

 そう思ったのだが、その日から矢沢さんに避けられているような気がした。目も合わせてくれないし、仕事のことで質問をしても素っ気ない態度をされる。

 入社してすぐの頃は矢沢さんの態度が冷たいというか素っ気ないというかそんな風に感じていたけれど、研修以降は随分仲良くなれた。

 そもそも入社したばかりの頃は、私が矢沢さんのことを理解していなかったせいで、不愛想だと思ってしまっていただけで、矢沢さんなりに親身に接しようとしてくれていたのだ。

 だけど今は、明らかに拒絶されている感じがする。私の勘は当たらない。これは当たっていてほしくないけれど、気のせいだ、勘違いだと思っても否定しようがないくらい矢沢さんの態度がこれまでと違っていた。

 草吹主任が会社にいないことで寂しくてそんな態度をしているのかもと考えてみたが、それも違うように感じる。

 なぜなら月曜日には一個だった花の鉢植えが日を追うごとに増えていたからだ。

 矢沢さんはおそらく、毎日会社帰りに草吹主任のカフェ兼花屋に通っているのだろう。そしてせっせと貢いでいるから花が増えているのだ。

 つまり毎日草吹主任に会えているはずだから、草吹主任に会えないのが寂しすぎて私に冷たい態度をとっているとは考えにくい。

 もしかして私が気付かない間に気に障ることをしてしまったのだろうかと考えてみたのだけれど身に覚えがなかった。

「あの、矢沢さん?」

「はい……」

「私、何かしましたか?」

 考えても分からないのならば尋ねてみるしかない。そう思って勇気を出して聞いてみたのだけれど、矢沢さんはチラリと私の顔を見るとすぐに視線を移して「別に」と言っただけだった。それは全然「別に」じゃない言い方だ。

 酔っぱらってウチに泊ったときにちょっと下心が湧き出ていたこを気付かれたのだろうか。しかし告白をしたことだってしっかり伝わっていない。それにキスをしちゃおうと思ったけれど行動はしていない。今更それでこんな風に冷たくあしらわれるとは思えない。

 矢沢さんとランチに行かずに砂川さんとばかりランチに行っているからだろうか。だけど矢沢さんがそんな嫉妬みたいな想いを抱くとは思えない。

 だったら日和さんを意識しすぎて矢沢さんに対する私の態度が悪くなっていたのだろうか。

 日和さんが言った「あれもこれもって欲張ると」とはこのことだったのだろうか。

 そうして矢沢さんの態度の理由が分からないまま金曜日になってしまった。

 終業時間になると矢沢さんがいそいそと帰り支度をはじめる。今日も草吹主任のお店に行くのだろう。

「や~ざ~わ~さんっ」

 小学生の遊びの誘いのようなリズムで矢沢さんに声を掛けたのは日和さんだった。

「はい?」

 矢沢さんは片付けの手を止めて日和さんを見上げる。その表情も少し不機嫌そうに見えた。だけど日和さんはそんな矢沢さんの表情を気に留める様子もなく笑顔を浮かべて続ける。

「もしかして、今から草吹主任のお店に行くんですか?」

「あ、はい……」

「だったら私たちも連れて行ってくださいよ~」

「え?」

「砂川さんとも草吹主任のお祝いに行きたいねって話してたんですよ」

 視線を移すと日和さんの少し後ろに砂川さんの姿も見える。なんだか不思議な組み合わせだ。

「満月さんも行きたいでしょう?」

 日和さんに水を向けられて私はビクッと肩を震わせた。だが反射的に「うん、行きたい」と答えていた。矢沢さんの不機嫌の理由が知りたい。そのチャンスになるような気がした。

「ね、だから私たち三人も草吹主任のお店に連れて行ってくださいよ~」

 日和さんの言葉に矢沢さんは俯いて少し考える様子を見せた。私はゴクリと唾をのみ込んでその返事を待つ。

「……わかりました」

 矢沢さんは渋々といった様子で答えた。草吹主任との楽しい時間を邪魔されたくないのかもしれない。

「わーい、やった!」

 日和さんは笑顔を浮かべて手を叩く。日和さんが何を考えてこんな提案をしたのかは知らないけれど、有難くそれに便乗させてもらうことにした。

 矢沢さんの態度がおかしい理由を矢沢さん本人は教えてくれなかったとしても、草吹主任なら知っているかもしれない。

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